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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第五節第六項(092)

 6.

 背後で琥珀色の光がまた飴細工のようにゆがむ。しばらくして、よく知った少年の声がかけられた。
「もういいですよ」
 おそるおそる振り向いた。
 そこにいたのはいつもの、見慣れた姿をした少年の姿。短い茶色の髪、大きな琥珀色の瞳。体格もさして変わらないような気がする。とはいえ元から体格のあまりよく分からない、だぶだぶの法衣を身にまとっていたから比較ができないだけかもしれないけれど。素足も先ほどと変わらずである。額に締めていた金の環もそのままだった。違うことといえばやたらしっかりと服地の切れ目を握りしめていることだろうか。
「終わったのね」
 確認するようにトーラは口に出していた。イスカが微笑んでそれに答える。大地の精霊でも地竜でも、彼はまったく変わらない。イスカはイスカのままだった。
 アイシャも微笑んでいた。けれどイスカが浮かべている微笑みとは種類が違う。なにしろ日が暮れてからずっと緊張が続いていたのだ。これで全てが終わったのだと安心しきって笑っていた。徹夜の疲れが若干そこに残っているものの安堵のせいで晴れやかな笑みである。これでやっと、夜通し続いた重く苦しい真実の扉は完全に開け放たれたのだ。

 これで全てが終わったというのに、ひとり浮かない顔をしていたのはトーラだった。
 イスカは何も変わらない。けれど確かに「変わった」。
 トーラは本当に何一つ変わらない。人間の庇護を受けなければ生きていけない、脆弱な妖魔の小娘のまま。
 いつぞやのヒスイも同じことを感じていた。トーラから見るとヒスイはなんでもできるような気がしていたけれど、ヒスイはいつも一生懸命あがいていた。何もできない自分を嫌っていた。彼女は魂でつながった双子の姉。トーラと同じことで悩み、同じことで空回りをしていたのかもしれない。
 だけど、自分は?
 同じように何もできない自分に幻滅しているくせに、現状に甘えて、ヒスイのようにあがいたことなどない。
 欲しくても手に入りそうにないものは「欲しい」とさえいわなかった。
「……」
 両の手で拳を作る。唇を引き結んだ。
「トーラ?」
 優しい声が尋ねてくる。どうかしたのか、と。トーラは彼女に薄紫の瞳を向けた。そして、その首に腕を回す。抱きついた。
「大好きよ。愛してるわ、アイシャ」
「ちょっとちょっと、どうしたのよ」
 大好き。それは嘘ではない。だけど。
「ごめんね、アイシャ。私、セイを追いかけるわ。一緒にヒスイを探しに行く」
 トーラは告げた。気がつくと自分の表情はこれ以上ないくらい明るく輝いていたのが分かる。
 それどころではなかったのはアイシャだ。
「な……」
 開いた口がふさがらない、というのはまさにこういうことだろう。イスカはイスカで「おや」といっただけだった。
「何を考えてるの、あんたって子は!」
「大丈夫よ、心配しないで。私、これでも妖魔だもの。食べ物がなくても死にはしないし、眠らなくても生きていける。食事と宿の心配はこれでしなくていいでしょう? 私には星見があるから、そう簡単にどっかの馬鹿に騙されたりなんかしないわ」
 旅して暮らすなら人間よりずっと簡単だ。飢えも寒さも心配しなくていい。それだけで、トーラは自分が妖魔でよかったと思える。
 アイシャはまず蒼白になり、次に興奮して真っ赤な顔になった。
「簡単にいわないで! お金はどうするの。妖魔です、って申告して旅するわけにはいかないでしょう。人間のふりを貫くつもりだったらどうしてもお金は必要だわ。盗みなんて絶対に許しませんからね!」
 そのこともトーラに心配はなかった。
「あのね、流民の人たちには占いだけじゃなくて、歌や踊りも教えてもらったの。あの人たちの中に紛れ込んで旅する方法もあるわ」
 星見ではっきり見えないことでも、道具を使って占いという方法をとればかなりあいまいなことでも分かる。トーラが持つ妖魔の力はそのためのものなのだから。これなら十分、金になるはずだ。それに流民は大抵、どこへいっても迫害される。土地を追われるからこその流れる民。年を取らないため一カ所に長くとどまれない妖魔にとっては昔から紛れ込みやすい集団だった。
「私、行くわ。きっとセイに追いついてみせる」
 アイシャが一緒に来られないこともトーラはよく知っていた。二年前、ここに腰を落ち着けるまでアイシャは行商人だった。食うや食わずの生活がどれほど大変なのか身にしみているし、もう一度そんな生活をするには蓄えもない。そんな彼女一人をここに残していくのはとても心配だけれど、幸いなことにイスカがここに残るといってくれている。彼ならきっとヒスイが見つかるまでアイシャを守ってくれるはずだ。他の誰にまかせるよりも心強い。
 アイシャは涙混じりに今度はイスカの方を向いた。
「イスカもなんとかいってやってよ!」
「はい? ……ええと。お気をつけて」
 のほほん、と少年は微笑む。アイシャは頭をかきむしり、トーラは満面の笑顔で答えた。元々、追いかけないのかと聞いたのはイスカの方だ。一体いつから気づかれていたのだろうか。てっきり鈍いと思っていたが、案外あなどれない……。
「さよなら。どこにいてもずっと愛してる。イスカ、あとはよろしくっ」
 素早くアイシャの頬にキスをする。そのままトーラは窓から飛び出した。朝日の照らす方向に一気に走り出す。
 あがいてみる。自分だって。
 どこまでできるかわからないし、欲しいものはやっぱりこちらを見てくれなくて、永遠に手に入らないのかもしれないけれど。
 自分があがいた分だけ結果に納得できる気がする。
 初めての自立の旅が、始まる。

   *

 アイシャはトーラを最後まで見送ることさえできず、その場に座り込んでしまった。ヒスイは行方不明、妹分として可愛がっていたトーラさえ手元から巣立っていって、一気に力が抜けたのかもしれない。
「あの、大丈夫ですか……?」
 おそるおそる少年は声をかけた。言葉は悪いがトーラをけしかけた責任の一端は自分にある。その結果としてアイシャがこうなったとしたらその責任もあるかもしれない。
 いつかトーラがいっていた言葉を思い出した。アイシャは一人にされると駄目になる。誰かを支えているようで実は自分が相手に支えられているのだと。今のアイシャを見て、イスカは改めてそれを実感する。足手まといにしかならないと思われていたトーラだが、実はそのトーラを世話することによってアイシャが支えられていたとは。
「元気を出してください、アイシャさん」
 床にへたりこんだアイシャと視線を同じくするためにしゃがみこむ。
「……ごめん。ちょっと……衝撃が大きくて」
 額に手を当て、くらくらと頭を振った。アイシャといえばいつも元気に笑っている印象があって、こうも元気がない彼女を見ていると本当に切なくなる。
 しかし。そこはそれ、やはりアイシャだった。うつろだった視線が急にしっかりする。かと思うと、いきなりイスカの胸ぐらをつかんで噛みつきかねない勢いで怒鳴った。
「って、どーしてトーラまで出て行かなきゃならないのよ、ええ? 何か知ってるの? 知ってるのねーッ!」
「お願いですから服を引っ張らないでくださいぃぃぃぃぃッ」
 だぶだぶの法衣一枚以外は何も身につけていない。ひんむかれるかと思うような勢いだった。しっかと握りしめてなんとか一枚きりの法衣を死守する。
「何も知りません! 本当です!」
「じゃあどうしてトーラを引き留めてくれなかったのよ!」
 会話にまったく整合性がなかった。イスカは必死になってなだめたが、それでもアイシャはまだ興奮状態のままだ。根気よく会話を紡いでいく。
「……でもね、子供はいつまでも子供でいてくれませんよ。アイシャさんは彼女たちの保護者かもしれませんけれど僕は赤の他人ですし、それに、本人もいっていたでしょう。そう簡単に妖魔は死にませんよ」
 アイシャはそれでもまだ不満顔だ。自分のことになるとたくましいのに、彼女は可愛い妹分のことになると心配でたまらないらしい。
「トーラ嬢はアイシャさんを見捨てたわけではありません。ずっと愛しているといっていたでしょう? きっと『ただいま』といって帰ってきますよ。出来るだけアイシャさんが生きているうちにヒスイ様を見つけるつもりかもしれませんしね」
「……」
「セイを追いかけるといっていましたし……」
 そこまでいったとき、アイシャはまた興奮した様子でイスカの台詞をさえぎった。
「あの人間の皮をかぶった極悪非道はヒスイしか見えてないのよ! トーラの面倒まで見てくれるはずがないじゃない!」
 もっともな話である。おおいに頷きたかったが今それをするわけにはいかなかった。
「大丈夫ですよ」
 多分。きっと。おそらくは。
 冷や汗をかきながら、付け足したかった言葉の数々を頑張って飲み込む。
「ご自分にもっと自信を持ってください。彼女は妖魔とはいえアイシャさんが育てた方なんですから。今はそう思えなくてもきっと強い女性になられますよ。ね?」
 小さい子供をあやすような口調になってしまったのは仕方ない。
 だんだんとアイシャも落ち着きが見えてきた。まだトーラを心配していたが、興奮状態からは脱したようだ。
「……。ごめんなさいね、イスカ。あなたの責任じゃないのに……」
 小さく鼻を鳴らして泣くのをこらえていた。大人の女性として実年齢以上にしっかりしている彼女だが、こんなときになってやっと本当の年齢を思い出す。可愛いなと思ってイスカは微笑んで見ていた。
「怒っていませんよ。アイシャさんはちょっと疲れているだけなんです」
「なんだかいつもと立場逆転ね。イスカの方が年上みたい」
「あれ? いってませんでしたっけ?」
 アイシャの目が丸くなった。その表情を見、やっぱり話してなかったなと納得する。そういえばヒスイに実年齢を教えたのも最近だった。
「僕は二十八ですよ。アイシャさんは確か二十一でしたから、ななつ年上ということになりますね。精霊の年齢ですから一概に人間と同じということにはなりませんけど」
 イスカが生まれて九年目の年、ホウは謹慎処分を解かれて長として復帰した。だからヒスイとは十違い。アイシャはたしかそのヒスイよりみっつ違いのはず。
 アイシャの目がさらに丸くなった。
「年上……」
「種族としての成熟度からいくとアイシャさんには及びませんよ」
 竜となった今ではなおさらだ。だから気にしなくていいと言葉を重ねる。アイシャの顔に現れる表情はなにやら複雑だった。笑っているような困惑しているような、どことなくそわそわしているような。感情の複雑さでいうなら人間が一番、色んなものを一度に抱えることができるかもしれない。
 そんなアイシャに向かって、イスカはさらに唐突なことを切り出した。
「犬を一匹飼いませんか?」
 と、自分を指さす。
 アイシャは驚いたようだが、そこに非難の色はなかった。それに気をよくしてさらに続ける。
「自分でいうのは何ですが、番犬くらいの役には立ちますよ。霧の谷がなくなって帰る場所がないんです。おまけに神殿にも戻れない。地竜になったとばれたら一生閉じこめられるのは目に見えていますからね。守り神にはなっても神殿に飼い殺しにされるのはぞっとしませんし。今日中に退職届を出して還俗します。……で、ものは相談なのですが、僕をこの家に置いてくれませんか」
 アイシャはきょとんとしてイスカを見ていた。
 その表情に、「駄目かな」と冷や汗が流れた。唐突な申し出だというのはイスカ本人がよく分かっている。だが本当に、今のイスカにとって今のアイシャだけが頼みの綱なのである。
 独身女性の一人暮らしのところに転がりこむのは非常識だと思うが背に腹は代えられない。正確に言うと竜の集落に向かえば居場所くらい確保できるのだが、そうなると逆にアイシャに何かあったときすぐに駆けつけられない。そんなことになったら……鬼のような形相をしたヒスイとトーラが目に浮かぶ。何より、生き甲斐に立ち去られた今のアイシャが心配だ。犬の一匹でもいるほうが気が紛れていいかもしれない。
 長い沈黙の後、アイシャがつぶやいた。
「……犬、ね。犬に化けるの?」
 瞳になにかいたずらっぽい輝きがうつっていることにイスカは気づかなかった。
「やったことはありませんけれど化けられないことはないはずです。竜は全ての動物の長ですから」
 質量保存の法則はこの場合、無視される。
 アイシャはにっこりと笑った。
「茶色の犬は魅力的だけど、どうせなら私は今のままのイスカがいいわ」
「いいんですか? その……お嫁入りのとき、誤解されますよ?」
 それが一番の難関だろう、とイスカは首を傾げる。アイシャはまだこれから幸せをつかめる年頃の娘である。結婚もしてない男と一緒に暮らしていたなどという噂が立つと嫁入りのときにはいらぬ苦労するはずだ。
 しかし、アイシャは今までより増してにこにこと微笑んだ。
「どうせ二度の結婚という前歴と、あまり若くない年齢の時点で条件はかなり厳しいのよ。だけどね。私は、私が好きになれる相手としか結婚したくないの。その結果、一生独り者でいることになってもね」
 アイシャはやはりにこにこ笑っている。イスカにその真意はつかめない。
「好きでもない人間のところに嫁に行くのはもういやよ。好きな竜と一緒に暮らす方がいいの。私にとってはね。分かった?」
 イスカはやっと頷いた。
「じゃ、よろしくお願いします」

 かくして共同生活が始まることになった。
 空は青く、太陽はさらに高くのぼる。昨日の雨が嘘のようだ。今日は一日、いい天気になりそうである。

   ***

 霧の谷滅亡の記録の後、予言の星、またの名を滅びの星について憶測は山のように広がった。
 肝心の「星」はまた消息を絶つ。予言者はそろっていつか再び輝くだろうといったが例によって誰もその時期を占うことは出来なかった。
 豊穣と冥府の神を祭るフォラーナ神殿にだけは、そのころ別の記録が付け足されていた。
『神殿付近の農家にて地竜、降臨す』
 その後、地竜がどうなったのかなどの追加事項はない。予言の星を探しに出た妖魔の記録などいうにおよばずである。

 これより、しばらくは予言の星に関する記述はない。
 再び「星」の記録が表に出るのは五十年後になる。
第四章終了
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