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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第一節第一項(093)

第五章

 隠者の託宣

 占い師が繰る札の中にこんな図案がある。暗闇の中、英知の灯火をかかげる老人の絵。
 その札はこう呼ばれた。「隠者」と。

 1.

 湿り気を帯びた暗闇だった。
 もし鼻の利く者であれば、この闇の中に雨に濡れた木々の香りを感じ取れただろう。あたりの空気はひんやりと冷たい。まるで濡れた体を乾かしているときのような。
 塗りつぶされたような闇の中に、ひとつ、暖かな色の炎が生まれた。
 炎に照らされ老人が浮かび上がる。
 もじゃもじゃの長い髪と、それと一体化した同じくらい長いひげ。どちらも一本残らず真っ白だった。ゆったりとした衣を着込んでいるので顔と手以外は隠されている。その顔ですら目深にかぶったフードで上半分が隠されていた。
 暗がりの中から若い男の声がした。
「じいさん」
 老人が答える。その闇に向かって。
「あんだよ」
 青年はしゃがれた老人の声が返ってきたことを確認したのだろう。
「自分一人火にあたって、ずるいぞ。こっち側は寒いんだよ」
 と文句をいった。しかし口なら老人も負けてはいない。
「馬鹿いえ。明かりに照らされて、万が一ヒスイにお前の顔を見られたら厄介なんだよ。お前は親父に似すぎてる。しばらく闇ん中に隠れてろ」
 老人は口にしなかったが心の中で語尾に「ざまあみろ」と付け足した。
 聞こえたはずはないのに、青年からの返事は言葉ではなく歯ぎしりの音だった。さすがにつきあいが長いだけはあるな、と妙に感心した老人である。
 闇の中に向かって――まるで見えているかのように正確に方向を定めて――少し声を張り上げる。
「付いていくといってきかなかったお前が悪い。邪魔しないと自分でいったろうが」
 青年の存在は正直いって、老人の邪魔にしかならなかった。
 それでも青年を振り切れずここまでの同行を許してしまったのだ。
 予想通りというか、青年の返事が返ってくる。
「だって、あの『ヒスイ』だろ? ここに来るんだろ? 一目なりとも見てみたいと思うのはしょうがないだろうが」
 やれやれと老人はため息をついた。
 そのとき、彼は年寄りとは思えない耳の良さで、おぼつかない足取りで近づいてくる足音を聞きつけた。
「静かにしろ」
 低く、だが鋭い声で老人は青年を制する。青年にも意図が伝わったのか返事はなかった。ただ、先ほどまであった青年の気配が静かに闇の中に沈んでいく。
 老人はわざとらしく焚き付けの炎をかき混ぜた。
 そして、足音の聞こえる方向に目をやる。
「おおい。こっちじゃ、こっち」

   *

 ヒスイは闇の中を歩いていた。
 風が常に周囲を取り巻いてヒスイの背中を押してくれる。何も考えられなかったし、また、何も考えたくなかった。どこまでも深く広々とした暗闇はヒスイを傷つけなかったし、その思考を邪魔することもない。そして逆にヒスイを慰めることもなかった。
 突き放したような、というのが一番正しいかも知れない。
 けれど、その突き放した優しさをヒスイは心地よいと感じていた。
 深い闇は父親に似ている。
 亡くしたばかりの父親に。

 どれくらい歩いただろう。
 ぽつりと、明かりが見えた。

「おおい。こっちじゃ、こっち」
 老人が手を振っていた。ヒスイの足が止まる。
 誰だろう。
 誰もいないと思っていた闇の中なのに。ヒスイの足は止まっただけではなく、後ろへ下がろうとしていた。今は、何より他人に会いたくないというのに。
 冷静に考えれば、炎のすぐ側にいる老人にヒスイの姿が見えているはずがなかった。ヒスイの姿を照らすものは何もないのだから。
 後ろに下がろうとして、そこでヒスイは思いとどまった。
(逃げるのか?)
 心の中で声が聞こえた。冷静な、自分の声。それが後退しかけたヒスイの足を止めた。老人は一度手を振っただけで、あとは進んで招こうとはしてこなかった。ヒスイが近づかないと分かったのか再び背を丸め、焚き付けをかきまわしている。火の粉が散った。明るい色がその一瞬だけ闇を染める。
 ヒスイは思い直して前に進んだ。
 心の中で「飛んで火に入る夏の虫」とつぶやきながら。

 炎の側で老人は相変わらず焚き付けをかきまわし、背を丸めていた。ゆったりとした衣が全身を覆い隠して、まるでお伽話に出てくる年老いた魔法使いのようだと思う。老人はヒスイが近づいても顔を上げなかった。
「……失礼する」
 ヒスイの方から声をかけた。
 老人は、それでやっと顔をヒスイに向ける。フードが頭全体をすっぽり覆い隠している。それでなくても、もじゃもじゃした長い白髪が顔を隠しているのだ。人相は分からない。
「ん」
 と、だけ老人は答えた。どうもとぼけた印象のある老人である。
「そっちは寒いじゃろ。お前さんは随分寒そうな格好をしておるしな」
 ヒスイはそういわれて初めて自分の姿を見直した。そういえば夜着のままである。透き通るほどの薄さではないとはいえ、薄手の上下、しかもずいぶんと丈の短いものだ。足下は裸足。
 それなのに、寒いだろうといわれるまで周囲の空気の冷たさに気づかなかった。足の裏に感じる岩場の感触さえ先ほどまで感じることはなかったのだ。
「……ここは、どこですか」
 ようやく寒さを覚えて、ヒスイは自分の体を腕で包む。また一歩、火の側に近づいた。明々とした炎は勢いよく燃えている。老人は随分近くで火に当たっていたが、熱された空気にあぶられて熱くないのだろうかと思う。
「お前さんがいるはずのない場所だ」
 老人の物言いはひねくれていた。まるでヒスイがどこから来たのかを知っているような。いるはずがない、というのは、元々いるべき場所を知っているということにならないか。
「ご老人……問答につきあうつもりはないんです。ここは、どこですか」
 ヒスイの問いに老人はちょっと首を傾げた。
「あんたが逃げてきた場所だろが」
 この返答はヒスイの勘に障った。
「……誰が、逃げてきた、と……?」
 声に自然と物騒な響きが混じる。初対面の老人相手だというのに、ヒスイの目がやや細められた。何も知らないくせに不用意なことをいう老人だ。しかし老人は重ねていった。
「だから。あんたが、逃げてきた場所だ、ヒスイ」
 ヒスイは少し驚いた。どうして見ず知らずの老人が自分の名前を知っているのか。老人は相変わらず表情の読めない顔で、確認を取るようにつぶやいた。
「ヒスイ。霧の谷の庶出の姫にして風使い。『精霊達の最後の聖域』の滅亡と、実の父親の死を呼んだ『予言の星』。ホウとサラの一人娘。そして異世界からの来訪者。……だろ?」
 ヒスイは目を丸くした。
 他のことはいい。だが、なぜ最後のそれを知っているのか。
「なぜそれを知っている!」
「……ふむ? なにか間違っとったか?」
 どこまでもとぼけた態度を崩さない老人だった。仁王立ちになるヒスイを見上げている。老人の落ち着いた態度とは正反対に、ヒスイはきりきりと眉をつり上げていた。
「お前、何者だ!」
「……それはこの際、関係がないな。わしゃ、ここでお前を待つようにいわれただけだ」
 老人の片方の眉があがった気がした。そこがわずかに動いたのだ。
「落ち着け、ヒスイ。親を亡くしたばかりで混乱しとるのは分かる。だがな、親は子より先に逝くものだ。悲しむな、とはいわん。だが、ちぃとは周りを見ろや」
 だがヒスイの柳眉はますますつり上がる一方だ。
 この老人は明らかに知りすぎていた。霧の谷が滅亡したのはすぐに近隣に広まっただろう。それは分かる。だが、その霧の谷から庶出の姫が脱出したと知っているのは、脱出に手を貸したイスカとセイだけのはずである。さらにいえば、その姫が予言の星であることを赤の他人が知っているはずがない。人間も妖魔も虎視眈々と予言の星を狙い、探し続けていたのだから。アイシャたちは知っているがそんな重大なことを吹聴する人々ではないとヒスイは信じている。
 まして……ヒスイが異世界からの来訪者であることを知っているのは父だけのはずだ。ヒスイは誰にも話さなかった。一番古い付き合いであるアイシャにも、セイにも。また魂の双子を誓ったトーラにもだ。そして父も、腹心の部下であり養い子でもあるイスカにさえ話していなかった事実をおいそれと他人に漏らしていたはずがない。
「なぜそれを知っている!」
 ヒスイは糾弾をやめなかった。
 老人は、諦めたのだろう。ヒスイに見えるように大きく肩を落とした。
「あのな。その前に、今が『いつ』だか説明しちゃるから、座ってくれ」
「それこそ関係ないだろう!」
「……『今』は、お前さんが知っているよりうんと未来だ。アイシャも死んだ。トーラも死んだ。セイも死んだ。イスカも……んにゃ、イスカだけはかろうじて生きておったかな? つまりそれくらい遠い未来だ」
 老人は静かにいった。
 あまりに静かすぎて、ヒスイが一瞬罵声を浴びせかけるのを忘れたくらいに。
「……なに?」
 ヒスイの喉に絡んだ言葉は、単純な問いかけとなって外に出た。老人の言葉を、ヒスイは頭の中でゆっくりと繰り返した。また、老人もわざとヒスイにそのための時間を与えているようだった。
(セイが、死んだ?)
 殺しても絶対にただでは死なないだろうと思われる男なのに。セイまでもがこの世にいない世界。あの男は妖魔だ。それが死んだということは……どれほどに遠い時間が経過しているのか考えたくもない。
「ヒスイ。わしは、それをお前さんに伝えに来た。妖魔の長が『予言の星』をつけねらう理由がそれだ。お前さんは時空間移動能力者なんだよ」
「……な……?」
 聞き慣れない言葉。
 意味が分からないわけではない。むしろ分かりたくないのに分かってしまった。だが、その言葉と自分がどうしても頭の中で結びつかなかった。自分が、なんだと。
 老人は一呼吸置くとさらに続けた。
「お前さんにこの『世界』の不文律はほとんど意味をなさない。時間と異空間を移動できるってのはそういうことだ。自分、異世界を飛んだのは記憶にあるだろ? それと同じ要領で時間を飛ぶことが出来る。そしてな、父親の死が引き金となって、暴走しとる真っ最中が『今』というわけだ」
 分かるか、と老人はだぶだぶの袖からやせた指をつきだし、ヒスイの目の前で円く振ってみせた。
 喉をならす。口の中はちっとも湿ってはこなかった。
 遠い遠い時間の果てに自分がいる、ということだけはかろうじて頭の中に入る。ヒスイが異世界を飛んだことも老人は知っていた。が。それと同じ要領でといわれても、困る。
「そんなこと、知らない……」
「本当に?」
「……あれは……偶然、落ちたんだ。やろうとしてやったわけじゃない……」
 しどろもどろになりながら、ヒスイはうつむきかげんになっていく。望んで異世界に飛んだわけではない。こちらの「世界」にいると聞かされ続けていた父親だって本当に生きているかさえ疑わしかったというのに。
 しかし老人はあっさりといった。
「タイマーが設定されてたんだ。十六になったらこっちの『世界』に飛ぶように」
 あっけらかんといわれた言葉にヒスイは眉宇を寄せた。聞き間違いかもしれないが、なんだか、こちらの「世界」に着いてから一番そぐわない言葉を聞いた気がする。
「……何、だって……?」
「時限装置(タイマー)。あらかじめ設定された時間がくると、自動的に特定の装置が作動する仕掛け」
「……」
 やはり聞き間違いではなかった……ような気がする。
 ヒスイは今、自分が非常に複雑な顔をしている自信があった。老人はそんなヒスイを見上げながらちょっと首をかしげる。
「そう驚くこともなかろう? わしは、お前さんが知っているよりうんと未来の人間だ」
 だから気にすることはない、と言い切った。
 そして、と老人はさらに続ける。
「わしから見るとあんたは過去の人間だ。セイたちだけじゃない。この時代、あんたもとうに死んでいる。この意味が分かるか? あんたはこの時間に永住しない。これから過去に戻って自分の人生を生きる。ここへは一時の寄り道でしかない。が、そのためにわしはあんたを待ち続けたんだ」
 ヒスイのために。
 どこまでもとぼけた声音とは裏腹に、その意味は重かった。

 ヒスイは、この時やっと腰を下ろした。老人の言葉に耳を貸すために。
 闇の中はどこまでも静かで、ただ焚き付けのはぜる音だけが小さく木霊していた。

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