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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第五節第五項(091)

 5.

 少年は素足のまま地面に降り立った。家に残された二人の女は窓辺からその背中を見守るしかない。
 彼は山の斜面を少し下る。太陽が昇る方向に顔を向けた。

   *

 イスカは、もうすぐ朝日が昇るだろう山の端を見据えた。
 ちょうどいい時間帯だ。新しく命が生まれるのにふさわしい時間。
 素足の裏から感じる大地の鼓動が心地よかった。この場所はどこよりも血脈の安定した土地。だから大地を司る神を崇める場所になった。どこよりも心地よいのはもっともだ。そして、今のイスカは大地の精霊。なによりも大地そのものと近い存在なのだから。
 足を踏みしめる大地を見下ろす。
 このまま一生、精霊のままでいたかった。できることなら。
 地竜の方々を愛しているし慕いもしている。それでもやはり彼らと自分は別の生き物なのだ。どれほどに竜が優れていようとも、そして自分がその一端に籍を置くことができるとしても、イスカは自分が精霊であることに自負を持っていた。大地の精霊は土くれの中から生まれ出て、そして精霊の宿命に従って自然の輪を回し、人間を静かに見守る。精霊が回すのが自然の輪なら人間が回すのは時間の輪。彼らがせわしなく生きる事そのものが時間の流れになり、積もり積もって歴史という名に変わる。生涯それを見つめ、守っていくのだと信じてやまなかった。
「見守るのは竜になっても出来ますね」
 独りごちた。
 アイシャにまた叱りつけられるかもしれないが、精霊にとって主人を守って消えることはそれほどつらいことではない。むしろ幸いなことなのだ。自分で主を見つけられた精霊は幸せ。それは、人間でいうならば一生をかけて愛せる伴侶を見つけたのと同じことだから。
 そして大抵の場合、最愛の主人が息を引き取る瞬間を守護精霊は見送らなければならない。人間は精霊よりもずっと短い命しか持っていないから。
 主を守って先に消えることは幸せ。それは主の死を見なくてすむということ。身を引き裂かれるような慟哭(どうこく)を知らずにすむということだから。
「それでも……あの方は逝ってしまわれましたから……僕はホウ様の最後のご命令をまっとうしなければいけませんね……」
 一生いってはいけない言葉だけれど。本当は、消えてしまえた方がずっとましだった。
 けれど、自分はここにいる。
 死ぬよりつらい運命だって受け入れてみせる。誰よりも大切だったあの方の願いだから。精霊として主たるホウの死を嘆いているよりも、竜として何より強い守護の力でヒスイを守ること。
 強い光が山の陰から走った。太陽の最初の輝き。それと同時に、全身に大地の力が巡った。イスカの足下から全身にかけて琥珀色の光が包んでいく。
 イスカは天を見上げた。朝日の光を受け、東の空は明るい色に変わっている。その淡い薔薇色と空色が混ざり合った空気はどこまでも清(すが)しかった。
「さようなら、ホウ様」
 懸命に主を慕った精霊は、今日を境にいなくなる。
 変化が始まった。

   *

 少年の体が膨れ上がった。
 息を詰めてトーラとアイシャはそれを見守る。
 背中が小山のように盛り上がっていく。遠く離れていても骨の砕けるような音が聞こえた。その姿はもう人の形をしていない。
「ちょ……っ。あれ、大丈夫なの?」
「さぁ?」
 トーラは気のない返事を返し、アイシャをみる。アイシャの顔色からはすっかり血の気がひいていた。
 背中と尻の服地を破って爬虫類の羽と尻尾が突き出した。イスカの体は丸太のような太い尻尾に持ち上げられ、コウモリのような巨大な羽がさらにその体を上空に引っ張り上げていく。皮膚はひび割れ、その一枚一枚がささくれ立っていた。小さかった少年の体は更に膨れ上がり、まとっていた服はただの布きれとなって散っていく。その間も骨の砕ける音、それに、全身のけいれんは続いていた。
「トーラ!」
「……なんだと思ってたの? 体組織を一から作っているのよ。あれくらい荒療治でも仕方ないと思うわ。骨も、血も、肉も、精霊のような精神体は何も持っていない。何もかも最初から、太陽の熱と大地の血脈の力だけで構成していくんだもの。そこに無理が生じても仕方ないと思うわ」
 トーラは妖魔で、自身も精神体であるからその困難さがよく分かる。
 アイシャは人間で、最初から骨も、血も、肉も持ち合わせているからそれが分からない。側で見ていて気の毒になるくらい青ざめていた。気を失わないだけましかとトーラは結論づける。
 それでも、トーラはその変化を綺麗だと思って見ていた。肉のきしむ音と骨の砕けるような音さえなければ、それはまるで飴細工か金細工のように見えたからだ。イスカの全身は金色よりも甘く透明な琥珀色の光に包まれていた。ぐにゃぐにゃと変化して、より美しい形で固まろうと模索しているように見える。
 イスカの頭の形まで変化を始めた。竜の神官である証、額に締めていた金色の環が空を飛ぶ。いや、環が完全に空を飛ぶ前に、角がそれをしっかりと捕まえた。

 太陽は完全に山から顔を出した。
 朝日の金色の光は山をくまなく照らし尽くす。
 そして、その場所で変化を始めた大地の精霊はいまや完全な地竜と化してそこにいた。
 小さな少年だった姿はそこにはない。全身を包んでいた琥珀色の光もすっかり消えていた。アイシャの小さな家と同じくらいの背丈をもった、巨大な獣の姿。首から背中にかけて分厚い岩のような鱗が覆っていた。丸太のような太い尻尾と、鳥の骨に皮革を張っただけのコウモリのような羽が妙に生々しい。体色は黄土色。大地の色だった。
 その地竜は、そのとき初めてアイシャたちの方を振り向く。
 当たり前だけれど竜の顔だった。額から真上に突き出た二本の角。その片方に見慣れた金色の環がしっかりはまっているのが見て取れる。突き出た鼻先で、鼻の穴がかすかに広がった。閉ざされた口の中には爬虫類特有のぬるりとした舌と、二重三重(ふたえみえ)に重なった白い牙が隠されているのだろう。
 体に比べて思ったより小さな前足と、とがった爪。後ろ足は重い全身を支えるべく大きく太くなっており、これまた青黒い爪がはえている。腹のあたりは背中よりも色の淡い、細かい鱗がびっしりと覆っている。つい先ほどまであった少年とはほど遠い姿。杏仁型の二つの目がこちらを見ていた。
 その琥珀色の瞳に浮かぶ表情は精霊の頃と同じだった。
 きゅる、と鳴き声をあげてイスカは首を傾げる。彼にとってはほんの少し傾げただけだろうが、大きさが大きさなので随分と傾いで見えた。まるで大きな子供が母親に伺いをたてているような仕草だ。
「イスカ?」
 名前を呼んだのはアイシャ。
 地竜は何もいわない。名前を呼ばれて嬉しいのが半分、そして、もしかしたらこの姿でおびえさせるかもしれないという不安が半分。もう一度アイシャは彼の名を呼んだ。心配いらない、と返事をするように。
 竜は二人の待つ窓辺へと近づいてくる。変化したてで、まだ体の大きさや重さに慣れていないのだろう。体を引きずるようにしていた。側に近づくとその大きさがよりいっそうはっきりしてくる。山ほどの大きさとまではいかないが、それでもこの小屋くらいはある。地竜という種族からするとこれでも小さい方なのかも。トーラが大きさに気圧されているというのに、アイシャは逆にそんなことはまったく気にならないようだった。窓から手を伸ばす。竜の鼻先を両腕で抱きしめた。
「お疲れさま。大丈夫? どこも痛くはない?」
 問いかけるアイシャに、竜は目を細めてそれに答える。照れて笑っているようだ。
 もう大地の精霊はどこにもいない。ここにいるのは古い種族の一員。
 トーラは聞いてみた。
「気分はどう?」
 竜は窓辺に鼻先をつっこんでいるため、トーラはあまり大きく見上げずにすんだ。琥珀の目がトーラを見る。口を開けるかわりに頭の中に直接言葉を流してきた。
(あまり大きく変わった気はしませんね。ええと……聞こえます?)
 トーラは頷いた。アイシャは、きょとん、と空色の瞳をイスカに向ける。
「私にも聞こえたけど?」
(ああ、よかった)
 イスカはほっと一息ついた。竜の姿で本当に一息ついたわけではない。そんなことをすれば鼻先にいるアイシャが危険だ。けれど、わずかに変化する表情がかつての茶色の髪の少年の姿をすぐに連想させる。
 頭の中に直接話しかける方法では、感度のあまり鋭くない人間に言葉を伝えるのは難しい。イスカはそれを心配していたのだ。こういう感度は妖魔の方が鋭い。いかにトーラが妖魔として出来ることが少なかろうと、そこはやはり妖魔なのである。
(トーラ嬢が限りなく人間に近い心を持った妖魔であるように、僕も限りなく精霊に近い竜ということみたいです。もっとも僕は精霊といっても、人間に近いところで育っただけあって人間くさいといわれることもありましたけど)
 よく分かりませんね、とイスカはまた目だけで笑った。
 限りなく人間に近い妖魔。それは、トーラをよく表している言葉だと自分のことながら思った。人間に近かろうと決して人間ではない。人間そのものにもなれない。妖魔なのに、妖魔として当然のこともできない。
 むくむくとトーラの中の劣等感が大きくなっていく。
 自分は妖魔に生まれているのに人間の庇護がないと何もできない。
(すいません、アイシャさん。預けた僕の法衣を頭にかぶせてもらえます?)
「? ええ」
(夜が明けましたからね。いつまでもこの格好だと、神殿の人間に気づかれてしまいます)
 アイシャは急いで、すり切れた法衣を広げて竜の頭にかぶせた。トーラはひとまず自分の中の気持ちを脇に置く。アイシャの肩をたたいた。
「悪いこといわないから後ろを向いておいた方がいいわよ」
(僕としてはトーラ嬢にも後ろを向いていて欲しいんですけどねぇ……)
「気にしなくていいのに」
 と、言い返しはしたが一応トーラも後ろを向く。
 イスカがこれから何をするか、だいたいの想像はついていた。巨大な竜の姿を再び人間の形に変化させるつもりだ。竜が人間の姿にも変化できることくらい知っていた。
 アイシャが小声でぽつりとこぼす。
「……深く考えてなかったけど、今、イスカってば服を着てないわけよね?」
 同じく小声で答えた。
「うん。全裸なの」
 竜の耳が常人よりよく聞こえる耳でないといいなと軽く思った。

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