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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第五節第五項(074)

 5.

 濡れた草の匂い。
 ヒスイが目を開けて、最初に見たのは広がる星空だった。
「え……?」
 ここはどこだろう。

 自分は地面に寝かされているのだと気付いた。そっと首をめぐらす。体の下には覚えのあるマントが敷かれていた。
「あ。気付いた?」
 側にいたのはセイ。顔を覗き込んでくる。赤い髪が彼の肩から滑り落ちた。
「……セイ?」
 どうして自分は寝かされているんだろう。目だけで問いかけた。分かっているよとばかりにセイは視線を合わせてにっこり笑う。愛嬌のある人懐っこい笑顔だった。ヒスイのよく知っているセイの顔だ。
「ちょっとね、気絶してもらってたの。どこも痛くない? なにしろ担ぎ上げて走り回ってたからねぇ」
 と、セイの手がヒスイの額に滑り込む。ひんやりとして気持ちのいい手だった。なんだか妙に安心して、気がゆるむと同時に眠気を誘われる。誘われるままにもう一度目を閉じた。
「もう少し休んでてもいいよ。全部終わったから」
 耳に優しい声。幼児のように頷こうとした。だが、できなかった。
 すべて終わった?
 意識が落ちる寸前で、ヒスイは今度こそはっきりと目を覚ました。翠の瞳を見開く。
「谷は!?」
 どうなったのか。父は。そして、炎上した谷は。
 セイは苦笑するだけだった。その苦笑は何に対してなのかヒスイには分からない。相変わらずセイの心遣いを無にするヒスイの態度へのそれか、それとも……谷の現状になのか。
「セイ!」
「……あっちから見えるよ。見る?」
 親指で方向を指し示す。セイの背中の方面だった。ヒスイは跳ね起きて、そちらに向かった。

 ヒスイが駆け寄る目の前にイスカが立ちつくしていた。ヒスイに背中を向けるようにしてじっと谷を見ている。
 空は赤く燃えていた。
 夕日が落ちるときの空を真っ赤に燃えていると表現することがあるが、まさにそれだった。ヒスイが寝かされていたのは木々の生い茂る山の中。木々が開けた場所から谷が一望できた。「谷」とは山間に挟まれてくぼんでいる場所を指す。小高い山の上から見下ろすような形で霧の谷の中心が……王宮が燃えているのが残酷なほどはっきりと見えた。
「イスカ!」
 背後から、肩に手を掛けた。それでも少年は振り向かない。じっとその場から動かなかった。
「……イスカ?」
 前に回り込む。少年の琥珀色の瞳はまばたきを忘れていた。ヒスイが声をかけたのも、この分だと聞こえているのかいないのか。それくらい彼は動きを止めていた。放心している、というのが一番あっているのかもしれない。
 そのイスカが熱に浮かされるように唇を動かした。
「……さま、が……」
 蚊のなくような声はかすれている。彼は相変わらずヒスイを見てはいない。ただただ、透き通った琥珀色の瞳に炎を映すのみ。続く声もやはりかすれていた。
「ホウ様が……みまかられました」
 なぜかはっきりとヒスイの耳に届いた。

 瞬きひとつ。
 つぶやかれた言葉の意味が、体中に染み通るまでに要した時間はそれだけで充分だった。

 どうして、と少年は繰り返す。
「……どうして? レンカは連れていったのに、どうして……」
 その先の台詞が喉を震わせることはなかったが、分かった。なぜ自分だけ置いていったのかと問うていた。その台詞が意味するのはレンカも逝ったということ。
 ヒスイは思わず燃える谷を見下ろす。赤い色が一面に広がっていた。燃える、命を奪っていく色。所々から黒煙が舞い上がる。
 王宮の形をした建物はもはや往時の名残を残さず、赤と黒に彩られて凄まじい勢いで炎を吐いていた。その建物の一部が崩れる。
 知っていた場所が、瞬く間に知らない風景へと変わる。心臓の音がやけに耳に付いた。音は段々と大きくなる。大きく、早く。段々と。
 掌は汗ばんでいた。
 握りしめ、爪が食い込むほどに強く拳を作る。腹を括った。

「ヒスイっ!?」
 セイの悲愴な悲鳴があがる。ヒスイは夢中で駆けだしていた。燃えさかるあの場所に行く。じっとなんかしていられなかった。
 必死になって山を駆け下りる。土砂に足をとられそうになりながら、夜の闇の中を。しかし後ろから追いかけてきたセイの足の方が早かった。あっという間に追いつかれて腕をとられる。
「駄目だったら。折角助かったのに」
「放せ!」
 強引にふりほどこうとしたがそうはさせてはくれなかった。
「気配なんか知らない、この目で見るまで信じない! 谷が襲われたのも、元を正せば私のせいじゃないか!!」
 しかしセイはゆるく首を振る。
「だからって、戻って何になるのさ。ヒスイがいてもどうにもならないところまで事態は進んでるんだってば」
「うるさい、放せ!」
 生まれてからずっと父親などいないものだと思っていた。母が懐かしそうに語るその出来事だけが父親のすべて。それは、ヒスイが決して共有できない時間の話。いつかお父さんに会えたら、というのが母の口癖だった。そんな日が来るなんて思いもよらなかった。
 だから、本当に実在しているのだと実感できた年月は本当に短い。
 お父さんと呼びかけることさえ躊躇していた昔。
 彼は誰よりも美しかった。優しかった。儚げで、けれど芯の通った人。足りなかった時間を埋めるように親子の時間を取り戻した。紛れもなく親子なのだと、血の繋がった父親なのだと、実感するだけで終わった二年。出ていってもまた戻ってこられると思っていた。いつかまた谷に帰ったら、おかえりと迎えてもらうはずだった。……たった二年。
「放せ、セイ!」
 優しい父。いつか、また母と会わせてやりたいと思っていた。
 いつの日か父と母が並んだ姿を見るのが夢だった。そんな日は二度とこないと思っていたけれど……こんな終わり方はあまりにも悲しすぎる。
 自分のせいで死んだ。
 そんなこと信じない。この目で見るまで認めない。いつか年老いて穏やかに逝くのが似合いの人だった。あの人は不死鳥の名を持つ人だから、こんなところで簡単に終わるはずがない。
 それでも、この場で一番冷静な男は重ねていうのだ。
「他の誰でもない、守護についた精霊が『主の気配が消えた』っていったんだ。これ以上の確証なんてないってば。相手は幻を使うのに、人間の目なんてあてになるもんか。あいつがご主人様は死んだっていったんだから、ほぼ間違いな……」
「聞きたくない!!」
 無理矢理ふりほどいた。
 また炎に巻かれた谷に足を向ける。
 セイもまた易々と逃がしてはくれない。またヒスイを捕らえた。今度は腕だけを取るなどという生易しいものではなくて、体ごと抱きすくめられる。
「だめだ。行かせない」
 煩わしかった。どうしてこんなに止めるのか。
 それがヒスイに対しての心配から来ているのだと分かっていても。
「はな……っ」
 放せ、と。
 そういうつもりだった。だが、結局、最後まで言い放つことはできなかった。
 電光石火の早業で無理矢理、口を塞がれる。
 ――その唇を持って。
「……!?」
 翠の瞳が、これ以上ないほど見開いた。
 覆い被さった唇だけではすまなかった。抉るように内側に浸食してくる。
 息が苦しかった。放せ、と言葉にする代わりに抵抗してみせる。けれど、肩を叩いても、強く押しても、セイの体はびくともしなかった。更に深く踏み込んでくるばかり。叩き付ける手首をすぐに取られて固定され、抵抗も出来なくなった。
「……っ」
 鋭く、またはゆるやかに、緩急をつけてヒスイの中に立ち入ってくる。この男がヒスイの意志をここまで無視して行動に移るのは初めてだった。
 真っ先に感じたのは怒り。電流のように怒りが走る。許さない。自分を力で征服する者は絶対に許さない、と。
 けれどヒスイの体はそんな理性を裏切る。
 足に、力が入らなくなった。目尻に涙がにじむ。
「……ん……」
 体がじんわりと熱を持ち、中心で何かが溶けはじめる。動物の本能が受け入れようと準備を始める。理性などおかまいなしに。いや、頭の中までだんだん煮えてきた。これまでどんな馬鹿に押し倒されても相手の存在を冷たく切り捨てることができた。それが、この男相手だとそれができない。頭のどこかでこの行為を許している自分がいる。それが何より驚きで……何より腹が立った。
 力の入らなくなった膝がまるで自分のものではないかのようだった。落ちるまい、と自らを支えるためにセイにすがりつく形になる。体中の筋肉が弛緩する。
 意識が飛ぶのを必死になってこらえていた。

   *

 ヒスイの体が完全に崩れ落ちたのを見計らって、ようやくセイは唇を放す。銀の糸が引いた。
 荒い息を吐き、涙で縁取られた翠の瞳がこちらを睨み付けていた。
「おや? ……これでも結構、本気だしたんだけどな?」
 思わず笑みが漏れた。きつい眼光。まだ理性を維持しているとは思わなかったから。このまま乱れる彼女の続きを見てみたい気もするが、そこはぐっと我慢である。
 もったいない。
 思わず本音がこぼれそうになった。
「さぁ。帰ろう、ヒスイ」
 ヒスイを待ち望む人は、帰る場所は、谷だけではないのだから。
 崩れ落ちたヒスイに触れると一瞬、彼女の体が逃げる。その反応があまりに素直で可愛くて、おかげでこれ以上理性を維持できる自信がなくなり、セイは青い髪に戻した。
 壊れ物を扱う以上に優しく彼女を抱き上げる。ヒスイの体は弛緩しきっており、自力で動くのは困難だと思われた。そのための行動だったのだから目的は達したといえるのだが。
「……妖魔の長の狙いはヒスイなんだ。命がけで逃がしてもらったんだから……無駄死にだけはしちゃいけない」
 期待はしなかったが、ちゃんと聞こえているようだった。もの言いたげな瞳だけがセイに向けられる。
 抱きかかえた彼女の髪に口づける。甘い匂いが鼻を突いた。

 大きな炎が膨らんで、王宮だったはずの建物を完全に飲み込む。建物だったそれは形を失い瓦解した。
 その炎の中に幻が浮かぶ。
 向こう側が透き通って見える、誰が見ても幻だと思うもの。それは虹色に輝いた妖魔の女王の姿だった。
 高笑いが聞こえた。誰の耳にもはっきりと。精霊達の「最後の聖域」を滅したのは自分であるといわんばかりに華やかな幕切れだった。ヒスイはこのとき初めて、妖魔の長である女性の姿をその目に焼き付けたのである。
「……」
 何もいわず、食い入るように女王の幻を見つめるヒスイに、セイもまた何もいわなかった。
 突風が吹いた。

   ***

 霧の谷、またの名を精霊達の最後の聖域は地上から姿を消した。

 これ以降、精霊の目撃数は急激に減少。人間は神に次いで再び不思議の力の加護を失ったと魔法学研究者は嘆くことになる。
 国が亡くなった直接の原因は「不明」。後年の歴史書によると大地震による出火が原因ではないかと記されることになるが、霧の谷周辺の村などで地震の被害があったなどという当時の記録は一切残されていない。しかし跡地の調査によると大規模な火災があったことはほぼ間違いないとされる。
 人間の歴史の表に妖魔の名が現れることはない。
 ただ、謎の炎上のあと風が急な動きを見せ周囲の雨雲を押し集めた。一帯を集中豪雨が襲い、そのため比較的早く鎮火したという話はあちこちに記録が残っている。
 このとき風を操った精霊使いがいたとされるが、術者の名は不明のままである。

 この滅亡の原因は「予言の星」とされる。
 予言の星の解釈はそれまで各国さまざまな憶測が飛び交っていたが、この夜を境に滅びを司る星と確定されることになった。

『滅びの星を、殺せ』

第三章終了
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