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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第五節第四項(073)

 4.

 すべてを終わらせる。ここで。

 ホウもまたキドラを追いつめるのは一瞬だった。この二年、忙しい執務の間を縫うようにして娘の稽古に付き合ったのが幸いしたかもしれない。すでに現役を退いて久しいが往時のように体は滑らかに動き、剣そのものが生きているかのような動きを可能にした。太刀はキドラの足に狙いを定める。
「させるか!」
 相手も、付け焼き刃の剣だけでホウを追いつめることができないことなど百も承知している。武器と氷を巧みに織り交ぜる。ホウの視界の外から氷の礫(つぶて)が襲いかかってきた。
 しかしホウはまっすぐに太刀の刃を繰り出す。氷の礫はホウの体を傷つけたが、握った太刀はキドラの大腿部を貫いてその動きを封じるのに成功したのである。
 低くくぐもった音が氷の精霊から漏れた。太刀を力任せに抜く。今度こそキドラは叫んだ。
 刃こぼれを起こしていた。滑らかな切れ味はもう期待できないものの、まだ人一人をあやめることくらいできる。それに目の前にいるのは人間ではない。
 キドラはひきつれた、笑顔の出来損ないのような邪悪な顔で悪態をつく。
「もう一度、私を殺すか。お前は絶対後悔するぞ。絶対だ」
 それはホウの性格を知り抜いているからこそ出る言葉。そしてそれは多分、当たっている。きっと後で深い後悔に襲われるだろう。……過去のように。
「それでも私は自分が正しいと思うことを成す。お前を生かしておくわけにはいかない」
「正しいことがすべてとは限らん!」
 沈黙が落ちる。そこで、初めてホウの表情が軟らかくなった。
 キドラは訝しがる。無理もない。戦いの最中で、それも罵声を浴びせかけられて微笑む馬鹿はいないだろう。けれど、ホウにとってこのキドラの言葉は何より懐かしい記憶を呼び覚ますものだった。
「……そうだな。やり直しができるとしても、やはりこうやって同じ事を繰り返している」
 あの人はいった。信念を持って裁いたのだろうと。正しいと思ったことをしたのだろう、と力強い紫の瞳で見つめながら。
 微笑みを浮かべたまま、ホウはキドラに向かう。
「昔、私もそれと同じ言葉を口にしたことを思い出したのだ。正しいことがすべてとは限らない、と。そういったら相手は悲しげに眉をよせて涙をこらえていた。あの人は私を哀れんだのではない。何も聞こうとしない私に対して、何もできない自分自身に怒りを覚えていた。あの瞬間に私の中の何かは変わったのだよ」
 太刀の切っ先を氷の精霊に向ける。憎々しげな目を向けたキドラがこちらを見ていた。後悔するかもしれない。けれど、それを恐れてはならない。それがあの人が教えてくれたこと。
「終わりだ」
 これで最後にする。

 その時だ。レンカの気配が消えたのは。
 何があった、とホウの注意が逸れた一瞬のうちにキドラはまたしても冷気の煙幕を張って白い靄の中に逃げ込んだ。傷ついた体でよくもそこまで力を発揮できたものだと思う。
 その靄の中から衣擦れの音をさせてホウの目の前に立ちふさがった者がいた。床を覆っていた炎はいつの間にか、なりを潜めている。
 キドラの代わりにホウの前に立ったのは衣擦れの音の主(ぬし)。黒真珠の瞳、長い虹色の髪を肩から流した麗しの女王だった。
「今度は妖魔の長の番ですか?」
 丁寧語でそう相手に切り出した。太刀の切っ先を前にしても彼女は怯えないし、ひるまない。そうでなくては妖魔の頂点に君臨することなどできない。姿勢のいい立ち姿で対峙する彼女に敵意はなかった。
「あなたの相手は私ではないわ。約束をしているの。あなたを傷つけない、と」
 ホウは片方の眉をわずかに跳ね上げた。それはほんのわずかで、きっと最も側に仕えたイスカかレンカくらいしか気付かないような。
「誰との約束です?」
「あら。どうしてそう思うの?」
 くすっと微笑んだ瞳は上目遣いにホウを見る。少女がふざけているような愛らしい表情。その顔に似合わぬ赤い唇が妙に扇情的だった。しかしホウはそれに心躍らされるようなことはない。「男」という生き物としては欠陥品なのかもしれないが、そういう自分に不満はなかった。少なくともたった一人の女性とだけは思いを通わせ合うことができる。それで充分。
「あなたがセ……いえ、キドラとの約束を守るとは思えないからです。配下との口約束なんて、あなたにどんな影響があります?」
 何もないはずだと太刀を構えたままサイハのいう約束を問いつめる。
 サイハはくすくすと鈴の鳴るような愛らしい笑い声を上げた。
「素敵ね。あなた、私のことはすっかりすっかり忘れているくせに性格だけは覚えているんですもの」
 ホウは言葉の意味が理解できなかった。忘れている、とはどういうことなのか。
「まるで会ったことのあるような口振りですが……どこかでお会いしましたか?」
 あくまで初対面として丁寧な言葉で接するホウに、サイハは唇の笑みを変えないまま首を横に振った。会ったことはないということか。もちろんホウにもそんな覚えはない。
 それにしては会ってもいない相手に「忘れている」とは、謎かけのような言動だ。しかしサイハに対して「こんな性格ではなかったはず」と確信のようなものを覚えたのも確かだった。分からない。そして今度はサイハが口を開いた。
「こちらもひとつ聞きたいことがあるの」
 表面上は冷静を装いながら、何を聞かれるのかとホウは警戒した。サイハは微笑みを消して瞳を横に走らせる。
「私、炎の彼女が好きな花を聞きそびれてしまったの。……花を手向(たむ)けたいのだけれど、どんな花がいいのかしら?」
「花は詳しくないんです」
 にべもなく言い返す。手向け、の一言にレンカは死んだのだと分かった。いや、気配が消えたときに確信していた。サイハは、自分も花には詳しくないので困った、という。敵に花を送るというその行為に少し慰められる。少なくともレンカは戦って逝けたのだと信じられた。
「……ストレリチア」
「あら、何?」
「極楽鳥花(ストレリチア)を一輪、手向けていただけますか。オレンジ色の」
 オレンジの羽を冠した鳥の横顔のような花。レンカには似合いのように思えた。南国の花だから霧の谷では咲かないが。
「嘘つきね。本当に花に詳しくない人はそんな名前、すらすらと出てこないわ」
 サイハはまたくすくすと笑い出した。そういって彼女は右手に幻を生み出す。ほどなくして手に握られたのは極楽鳥花。南国の花らしく厚ぼったい深緑とオレンジと鮮やかな紫の彩り。目の前で見ていなければ幻で作られたとは思えない出来映えだ。
「どちらが嘘つきなんです?」
 失笑する。花の名前だけならおぼろげな記憶でもいえる。が、誰が見ても本物のような幻を作ることは、細部にわたって現物を詳しく知らなければかなわない。目の前に現物がない状態で正確な写実画を描け、といわれても実行できる人間が何人いるだろう?
 サイハの手の中から花は独りでに動き出した。空気に運ばれるようにして飛ぶ。ホウがそちらに視線を移すことはなかった。目の前のサイハだけに視線を注ぐ。
 サイハは極楽鳥花を見送った後、ホウの瞳をひたと見据える。
「あなたが死んだ暁には両手いっぱいの白い百合の花を捧げてあげる。その黒髪に映えて似合うと思うわ」
「申し訳ありませんが、こんなところで死ぬつもりはないんです」
 視界を覆う白い靄が消え始めた。それでも辺りはまだ寒い。結界越しに冷気が肌を突き刺した。レンカの炎が消えたせいでさらに寒さが厳しくなっている。白い靄に紛れてどこからキドラが現れるか分からない。もしかすると妖魔の長は、キドラが受けた傷を回復するまでの時間稼ぎを買って出ているのかも。早くこの会話を終わらせてキドラをしとめなければ。あの男だけはここで決着を付けておかなければならない。同じ事を繰り返さないために。
「妖魔の長。何のために霧の谷を襲ったのです? 予言の星はここにはいませんよ」
「……。欲しいものが手に入りそうになったから、かしら」
 またも謎めいた言い回し。予言の星が欲しかったはずだ。なのに逃げられたと分かった後も、「欲しいもの」が手に入りそうだという。
「私はね。人間の国である『霧の谷』には用はなかった。私が消してしまおうと思ったのは精霊の『最後の聖域』の方。跡を継ぐ男子が全員いなくなり、あなたが消えてしまえばもう誰も精霊の長にはなれない。それだけの能力のある人間がいないのですもの。まして竜の守護を失った今の谷にはね」
 赤い唇が笑みの形を作る。
 そのためにシキを騙して、人間が竜を裏切ったという既成事実を作り上げたのか。
「人間の国である『霧の谷』はいつか再建されるかもしれない。けれど精霊は確実に故郷を失う。もう精霊を人間側に繋ぎ止めておく存在がいなくなるのですもの」
 そうして彼女は恋人でも見るような甘い視線をホウに送った。いや、その瞳はホウの顔を見ているようで実は別のものを見ている。夢見る少女の表情というべきか。
 心のどこかが警鐘を鳴らす。危険。
 冷や汗がこめかみを伝い、首から背中へと流れ落ちた。氷の粒が滑り落ちたように冷たい。その様子をみて楽しそうにサイハは極上の笑みをこぼした。
「それとも、あなたの血の繋がった娘御が次に精霊を束ねるのかしら……?」
 一気に血の気が下がった。サイハは、予言の星がホウの娘であることを知っている!
「娘だと!?」
 キドラの声だけが響いた。冷気が一気に渦まく。一番知られたくない相手に知られてしまった。
 虹色の髪の美女はそよ風の中に立っているほどの動きしかさせずに虚空を見上げる。
「そうよ、キドラ。ホウにはね、最愛の女性との間に娘が一人いるの。お前が人としての運命を終えた後に」
 なぜ妖魔の長がそれを知っている。ホウは無意識に彼女に対して太刀を繰り出していた。これ以上喋らせてはならない。こうなってはきっとキドラは娘を捜し出して殺す。ホウに対する歪んだ憎しみ故に。そんなことだけはさせてはいけない。
 サイハはよけようとはしなかった。赤い唇に微笑みだけを貼り付かせてそこに立ったままだった。

 走り寄るホウの太刀が彼女の心臓部を貫いた。が。
「!?」
 手応えはなかった。なさすぎた。
 心臓部に太刀の刃を受けながら、サイハはにっこりと笑って……痛みを覚えた顔もせずに、ホウに語りかける。
「まさか私が、幻を使うということを忘れたわけではないでしょう?」
 虹色の髪に縁取られた白い顔が満面の笑みを作り上げていた。その輪郭が形を崩す。幻。一体、いつから彼女は「幻」の産物であったのか。
(……極楽鳥花を作り出したとき……?)
 幻は幻を作れない。しかし視線はサイハから外さなかったはずだ。それでもあれを境にキドラの白い靄は晴れた。今にして思えば、彼が守るべき妖魔の長が前戦から離れたからではなかったのか。

 ホウが、頭の中で情報を整理し分析しているその最中。
 次の刹那。 
 突如現れたキドラの大剣がホウの左胸を貫通した。


 唇から赤い花が噴き出した。
 冷たい氷の精霊の体がぴったりと密着している。この冷たさ。いつかの月の夜を思い出した。既視感。そう、確かあの時は立場が逆であったはずだ。剣の柄尻を握っていたのは自分。刺し貫かれたのは当時セツロという名前だった、彼。
 体の真ん中を冷たくて固いものが貫いている。ホウの手から太刀が滑り落ちた。

 氷の剣を通じて体の中にキドラを感じる。憎しみの感情が流れ込んできた。
 深く歪んだ憎しみ。もはや始まりなどどうでもよかった。どんな原因だったのか分からないほど彼の心は憎しみだけに支配されている。深淵を覗き込むようだった。そこにあるのは妬(ねた)みと嫉(そね)み。
 すでにキドラの中にホウへの愛情は欠片も見いだせない。同じようにして育ち、一時は愛し合い、死によって分かたれた後も別々の場所でやはり同じようにして一生愛する人を見つけていた。キドラは愛する人の下僕に落ちることで側にいることが叶ったが、ホウはそのキドラが願っても願っても成しえないことを叶えていた。愛する人から愛されること。娘はその象徴。なぜホウだけが幸せになれる、とその思念は責めていた。
 ホウは知った。キドラは自分を貶めることでしか己の優位さを確認できない。
 彼の中でサイハへの愛情が募れば募るほどホウへの憎しみも肥大する。そしてそれを爆発させたのが「娘」の存在。サイハが明らかにしたこと。キドラの中でサイハの一言は絶大だ。愛した人の言葉でなくても、精霊にとって主(あるじ)は絶対である。
 これを計算に入れていたのだとしたら、妖魔の長も随分と意地が悪い。

 すでに体を支えることもできず、そのままホウは床に崩れ落ちる。随分と色んな事を一瞬で考えていたらしい。呼吸をしようとしてその困難さにまた赤い水を吐いた。口からも、鼻からも。どうやら一瞬で絶命させてもくれなかったらしい。つくづく優しくない男だとホウは思う。
「お前の大事なものはみんな壊してやる」
 見下ろすキドラの顔を見ることももう出来ない。目が霞む。
「お前の娘も、お前の愛したという女も、探し出して必ず殺してやる。お前の望むものなど何一つ手に入らないものだと思えと昔いっただろうが」
 不愉快な笑い声。キドラはこんな声だっただろうか。もう耳まで遠い。
 ぼんやりとした五感の中で、まだ口だけはかろうじて動いた。
「……あなたに……あの人は殺せない……」
 自分はもしかして笑っているのだろうか? あの人はキドラには絶対に見つけだせない。時間も空間も、神さえも超越した場所にいるのだから。
「それに……あの子、も……あのひとが、まもって、くれる。私、なんか、が、いなくても……だから、だいじょう、ぶ」
 娘はきっとサラが守ってくれる。例え側にいなくても。自分が側にいるよりもずっとずっと頼りになる。
「そうでしょう、サイハ……?」
 大事な主の名前を口に出されたことでキドラが怒っている空気が伝わってきた。何か怒鳴っている。もう、聞こえない。サイハの姿だけが霞んだ視界の中で妙に鮮やかだった。
 それが最後。

 意識が飛んだ。
 時間も空間も、神さえも超越した場所に。

   ***

「……ホウ?」
 サラは空を見上げた。ネオンに照らされた都会の夜は明るい。星さえ見えないほどに。
「どうかなさいましたか、サラ」
「いや」
 きっちりと束ねられた金髪を振って答える。
「会いに来てくれたみたいだ」
「は?」
 それ以上サラは答えない。ただ、星も見えない闇夜を見上げていた。

   *

 愛してる。永遠に愛してる。永遠に……。


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