[←back][home][next→]

翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第一節第一項(075)

第四章

 消失

 1.

 季節はずれの優しい雨。
 辺りが薄暗いのは雨のせいだけではない。夕闇が迫っているのだ。山肌にある一軒家からは夕食の煙が細く登っていた。とろ火で煮込まれたスープの匂いが外まで漏れ出る。その家の前、雨の掛かる軒先でじっと立ちつくしているのはトーラ。
 アイシャは暖炉にかけた鍋の前にしゃがみこんだまま、外にいる少女に声を掛けた。
「そんなところで待っていないで中に入りなさい。ヒスイが来るまでにあなたが風邪をひいてしまうわ」
「だって……」
 返ってきた声はか細く、かすれていた。先ほどまで泣いていたのだ。無理もない。
 二人とももう霧の谷で何があったのかを知っていた。そしてヒスイがこちらにやってくることも。彼女の星見はこういうとき便利だ、と思わず考えてしまい、アイシャは首を思いっきり振る。よりによって「便利」とは、なんて浅ましい発想。これでは星見を利用しようとしている妖魔たちと変わりないではないか。
「……」
 考えに一区切りつけるかのように、アイシャは鍋にさじを突っ込むと底からひっくり返すようにして一回、混ぜた。とろけるまでに煮込まれた野菜はほろほろと形を崩していく。ふくいくとした匂いが食欲をそそった。これなら今のヒスイでも食べられるかもしれない。
 もうすぐヒスイが来る。親を亡くしたばかりの子供が。
 ヒスイの年齢からするともう子供という年ではないが、アイシャは二年前の頼りなげなヒスイしか知らない。あの娘が今、どんな状態なのか考えるだに胸が潰れる思いである。と、物思いに耽っているとトーラの高い声が扉の外から聞こえた。
「ヒスイ!」
 来た。思わずアイシャも背筋を正す。慌てて立ち上がるとアイシャも扉の外へと駆け寄った。

 坂になった山裾、雨にけぶる視界の向こうに三人の姿が見える。
 青い髪を垂らしたセイが腕にヒスイを抱きかかえていた。それに駆け寄るトーラの姿。アイシャもすぐさまトーラの後を追って駆け寄ろうとする。が、セイの姿を認めたとき、足が戸口に縫いつけられてしまった。
 そこにいたのは見たこともない、恐ろしい「生き物」だった。
 例えるなら恐怖という名の感情が人間の形をとったような。
(セイ、なの? ……あれが?)
 ぞくりと寒いものが背筋をなでていった。
 二年前、トーラとイスカが口を揃えていったことがある。青い髪したセイを、普通の神経をした人間は見ない方がいいと。正確にいうと青い髪のセイを見たのはこれが初めてではない。けれど前に青い色した髪を見たのはほんの一瞬で、怖いと感じる前にすぐ見慣れた赤毛に戻っていた。だから、知らなかった。純粋な妖魔は側にいるだけでこんなに恐ろしいものなのだということ。今、初めてその意味が分かった。
(……なんなの? あれは、本当に、セイなの……?)
 かちかちと歯が鳴るのをアイシャは自分で気付いてはいなかった。震える体を包むように両腕で自分を抱きかかえる。トーラを前にしたときは感じたこともない、妖魔に対する恐怖。悪夢、といいなおすべきか。たかが髪の色が違うだけなのに、とアイシャは自分に言い聞かせる。
 アイシャが知っているセイは陽気で、いつもふざけていて、その実、腹の中に黒いものを抱えているような男だった。目の前にいる妖魔は違う。隠していた黒いものが表面化したとでもいうのだろうか。鋭い刃物のような、氷の張った湖のような、それでいて全てを焼き尽くす青い炎のような雰囲気。黒というよりは底冷えする蒼。以前よりずっと怜悧な気配。
 アイシャは知らない。セイは普段、妖魔の気配を完全に断ちきって人間になりすましていたことを。変化は髪の色だけではなく気配そのものが違っているのだということを、不思議な力を持たないアイシャが知ることはできなかった。
 その青い髪の妖魔はというと、近づいてきたトーラと、それから腕に抱いたヒスイを交えて二、三、言葉を交わす。
 ふっ、とセイの髪の色が変わった。
 まるで蝋燭が急に消えたような印象。アイシャの知っている赤毛だ。身に纏う雰囲気だけではなく体そのものさえ、ひとまわり小さくなったような感じがする。その彼はというと、雨の向こうから初めてアイシャを見、愛嬌のある顔で笑った。
 アイシャの肩に掛かった無意味な力も軽くなる。……もう怖くない。
「あ……」
 ヒスイが何かいってくれたのだ、と悟った。今度こそアイシャの足は軽やかに前に出る。雨の中、濡れるのもかまわずにヒスイ達の元へと走り出した。

 ヒスイは思った以上に衰弱していた。ぐったりと力無い様子で、少し火照ったような顔色は熱があるせいかもしれない。なにしろ、セイに大人しく抱かれているということ自体、アイシャには信じられない。トーラはというと、やっと泣きやんだと思ったのにまた顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。雨だか涙だか分からなくなっている。慌ててヒスイに問いかけた。
「大丈夫なの?」
「心配ない。ちょっと、体が動かないだけだから」
 そうして彼女はやや意味ありげな目をセイに向ける。唇は笑みを形作るが、その目は冷ややかだ。ヒスイの眉がつり上がるのをアイシャは見逃さなかった。
「誰かのせいでな」
「ま、まだお怒りでしょーか、ヒスイさん……」
 セイの顔には冗談半分、本気半分のとまどった微笑が貼り付いていた。何をしたのやら想像すると怖いので、それ以上考えるのを意図的にやめる。
 見上げた首の角度が二年前より急なのに気付いた。
「……あなたも、背が伸びた?」
「うん。ヒスイが身長、伸びたからね。前と同じだけの身長差に調節してある」
 にこっと青い目が微笑んだ。顔立ちもわずかに大人びたかもしれない。
 年齢差も同じだけ空けているそうだ。人間の成長にあわせて今は二十歳だという。調節、の一語に先ほどの青い髪した姿が思い起こされた。人間は成長の微調節などできない。
 やっぱり人間ではないのだなという意識を改めて強くするのだが、目の前で微笑を貼り付けている彼はどこからどう見ても人間だった。目の前にある事実と、本当の姿との落差が激しすぎる。ひとつだけ信じられることがあるとするならば、どちらのセイもヒスイにだけは誠実であるということだ。ヒスイが否ということを無理強いなどしない。それだけは信じられた。
「事情は聞いてるわ。とにかく中に入って。こんなところにいたんじゃ体が冷え切る一方だもの。お床を用意してあるから……」
 先に家に戻って支度を整えようときびすを返す。
 それを止める手があった。
「……?」
 力のないそれは、ヒスイの手。弱々しいながらもアイシャの手を取って、引き留めようとしていた。振り払うことは簡単だけれど今はその手を振り払うことはできない。
「ヒスイ?」
 一体どうしたのかと、言葉にするよりも先に目が問うていたらしい。ヒスイは真面目な顔でまっすぐに見つめてきた。
「イスカを頼まれて欲しいんだ」
「え、イスカ? いるの?」
 先ほど目に入った影はトーラを含めて三人しかいなかったはずだ。慌ててセイの体をのけるようにし、その後ろを見やる。
 ぎょっとした。
 そこに、イスカは確かにいた。雨に打たれてうなだれて、まるで幽鬼のような様になったイスカが。日頃の彼を知っている身としてはとても声をかけられないくらいに。
 いつものイスカは、日溜まりのように暖かく微笑んで、派手ではないけれど明るくて。一緒にいるとほっとする空気を作る少年だった。それが今は見る影もなく暗くなっている。それは雨のせいだけではない。決して、ない。
 ヒスイがぽつりと漏らす。アイシャに聞こえるように。
「無理もない。『親』も『国』も、『生き甲斐』も全部失ったんだ。……本来なら私が支えるべきなんだろうが……あいにくと私も自分のことだけで手一杯でな。頼めるのはアイシャしかいないんだ」
「で、でも。あなただって……!」
 そこから先はいえなかった。親を亡くしたのだ、ヒスイは。親を知らない自分が慰められることではないけれど。それも充分大きな損失ではないのか。
 ヒスイは翠の瞳で、やはりまっすぐに視線を合わせてくる。
「ごめん。決してアイシャのことを軽んじている訳ではないんだ。でも……。今、イスカにまで気を配れるのはアイシャだけだろう? 私にはまだトーラもいて、それにセイもいるから」
 だから、イスカのところに行ってほしい。
 それはお願いだった。自分のするべきことなのに自分はできそうにないから代わりにお願いする、と。信頼してくれているからこその頼み。
 確かに残る二人がイスカにまで気を配るとは……厳密にいえばヒスイ以外の者に心を砕くことがあるとは考えにくい。
 自分だけで手一杯だといったわりには、ヒスイはちゃんとイスカのことまで目を向けられる。それがどうしようもなく哀れだと思った。アイシャは反射的に怒鳴りつけてやりたい気がした。自分がないがしろにされたとかそういうことを思ったのではなくて。自分のことだけを考えなさいと怒鳴りたくなったのだ。
 唇を引き結ぶ。怒鳴る代わりに胸を張った。
「わかったわ。まかせて」
 セイの腕の中で、ヒスイはやっと穏やかに笑った。降り続く雨が微笑みに彩りを添えていく。しばらく見ないうちに少女はいつの間にか大人になってしまった。やや寂しく思うのは保護者の我が儘だろうか。
「トーラ、先に行って部屋を整えて。セイ、後はお願いね。お湯が必要だったら沸かしてあるから、トーラが体を拭いてあげて頂戴。セイはヒスイの玉の肌、見るんじゃないわよ」
「けちぃ」
「『けちぃ』じゃない!」
 一喝した。

   *

 さて。
 お荷物は「お母さん」にまかせて、セイはすたすたとアイシャの家へと向かった。霧の谷から……そう呼ばれていた国から一気にここまで移動して来たはいいが、雨が降っているとは思わなかった。青い髪を赤毛に変えたので雨よけの結界を張ることもできない。ヒスイがそうしろというのなら多少雨に打たれることも仕方なしといえるか。
「いつの間に見た目を変えたんだ?」
 腕の中でヒスイが呟いた。青から赤毛へ変えたことかと思ったが、すぐ先ほどいった調節のことだと分かる。
「ん? そうだねぇ、ヒスイと別れてから人間と同じ速度で成長するように自分の体内時計を変えたかな。ヒスイが十七になったらオレが十九、ヒスイが十八になったらオレが二十歳くらいに見えるように」
 いつ再会してもヒスイの隣に立って釣り合う姿でいられるように。
 反論するように声を上げたのはトーラ。
「私は二年前から変わらないわよ?」
「お前の中身が二年前から成長してないからだろ。ただでさえ分相応に成長した体を手に入れたんだから。今くらいでちょうど精神年齢と見た目が釣り合ってるんじゃないか? ああ、まだ中身の方が幼いか」
「あんたはそういう一言が多いのよッ」
 幼いと断言された彼女は腹が立ったことを隠しもせずに表情に出した。こういうところが「幼い」というのだ。ただ、同じ妖魔同士こういうときに本性を隠す必要がないのはありがたい。
 ヒスイが小さく笑った。再会してから初めての、心からの笑みだった。

+感想フォームを利用してくれる?+(作者が喜びます)
[<<前]
[次>>>]
[目次]
翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada