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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第五節第五項(054)

 5.

「……後で殴られてやるといったな?」
 ヒスイの声はやはり感情がこめられてはいない。
「はい、いいました……」
 殴られた頬を押さえ、情けない顔で笑う。心の底では安堵した。妖魔である自分を知られたら、嫌いになるかもしれないと怯えていたから。これではまるで元通り。前進もしないが後退もしていないことに、セイは嬉しくなった。
 しかし、やはりヒスイは忘れてくれたわけでもなかったのだ。
「妖魔だったんだな」
 触れていた手を引っ込めて、ヒスイはまっすぐに見つめてくる。頷くしか出来なかった。騙したくて騙していたわけではない。愛しているのも本当。だが、妖魔の自分をヒスイが快く思わないのも知っていて、それでも自分は決して人間にはなれない生き物で。伝えたいことはたくさんあった。それなのに、何一つ、伝えることは出来ない。人間は嘘を付く生き物だから、百万回同じ言葉を繰り返しても心に響くとは限らないのだ。
 ヒスイは再び手を伸ばしてセイの髪に触れた。長い赤毛を指に絡ませる。
「赤い髪の方が、いい」
 言葉少なに告げられたことは、セイの全てを否定するものではなかった。それだけで救われる。
「でも、青い髪のオレが本当」
 真実だ。ヒスイがとまどうのが手に取るように分かった。ごめんね、と続ける。他にどういえばいいのか分からなかった。
「本当をいえば気付いてた。ヒスイは、人殺しをするオレはかろうじて許せても、人の心を好き勝手に弄ぶ妖魔のオレは許せないほど嫌いなんだってこと。嫌われたくないから、隠してた」
 ヒスイがもし来なければ、イスカなんかに頼らずとも神殿の地下にいた雑魚妖魔くらい簡単に消せた。自分はそれだけの力のある妖魔だから。
「霧の谷には妖魔は入れないから、行くの嫌だった。……いったでしょう。お別れだって」
 その時にヒスイが一瞬見せた、捨てられた子犬のような目も覚えている。ちょっとでも頼りにされていたのだと、うぬぼれた。あまりに嬉しくて、つい冗談で紛らわしてしまったけれど。
「魔力を押さえてる赤い髪のときと、本性で性格が違うように見えるんだってね。でも、根本的には一緒だよ。ただね、赤い髪のときの方が情動が烈しいのは確か。本性に戻ると、人間が持つ動物的な部分が冷めちゃうからね」
 妖魔は根本的に本能が希薄な生き物だ。人間ではないから触れあわなくても満足できた。
 トーラはアイシャが引き取ってくれることも、ついでに伝える。もし上手く行けば、アイシャは人間だから霧の谷に入れるかもしれない。けれどトーラを置いてゆけないから、アイシャも谷には行けなくなった。
「あのね、アイシャは向こうに荷物があるから、一度アリアナ神殿に戻るって。オレが送っていく。トーラは空間移動も出来ないからね」
 セイはわざと明るく微笑む。神殿で起こった出来事はそのうちイスカが報告書をだすだろう。
「ヒスイは、イスカと一緒に谷に向かうんだ。ここの謁見の間は、御簾の奥をサイハ様が使ってたから、移動できるくらいの魔力が残留してるんだよね。ここならイスカだって移動の魔法が使えるってさ」
 起きあがることさえできれば、傷はあちらで治せばいい。治癒の魔法が使えるのは愛の女神の巫女か、あるいは水の精霊を使う精霊使いに限られていた。向こうには水の精霊もたくさんいる。
 精霊の長がヒスイをどう扱うか分からないが、もしもヒスイが「居たくない」と思えばそれはトーラに伝わるはずだ。彼女達は魂の双子なのだから。取り戻すのはそれからでもいい。霧の谷に向かわせるのは、ヒスイが行きたいと望んでいるからだ。父親に会いたい、と。
 最初から分かっていたことだ。霧の谷が近づけばヒスイと別れることになる。その日が予定よりも早くやってきただけで。
 ヒスイの顔は、泣きそうになっていたが、涙はこぼれてはいなかった。それでいいと思う。泣かれるとこちらが辛くなってしまうから。
 愛してる。愛してる、愛してる。
「さようなら」

   *

 イスカは、廊下でしばらく行ったり来たりを繰り返していた。
 やがて意を決したように深呼吸をする。息を止めてアイシャの部屋の扉を叩いた。応じる声が聞こえて、扉がわずかに隙間を作る。
「あら」
 誰かと思った、とその声音は告げていた。
 開かれた扉から現れたアイシャは、服こそ普段と変わらねど亜麻色の髪はおろされていた。
「すいません、お休みだったでしょうか」
「いいのよ。まだ眠る前だったし」
 苦笑したアイシャだが、髪をほどいているせいだろうか、いつもよりその微笑みは愛らしいものに映った。就寝前の女性を訪ねることはあまり褒められたことではないが、セイにも釘をさされたことだし、アイシャは明日には行ってしまう。
「あの、すいません。どうしてもお伝えしておかなくてはならないと思いまして……」
「長くなる?」
 室内に入るかと聞くアイシャに、首を振った。さすがにそれは憚られる。アイシャも少しほっとしたようだった。かくして二人で、当てもなく城中を散歩することになった。
 使用人の姿は見かけなかった。それでも、廊下には松明が規則正しい配置に従って灯されている。矢をつがえるための細く狭い窓からは月の光も射し込んでいて、歩く程度には不自由をしない。石造りの廊下は神殿の方が広かった。城の廊下は狭く、二人は肩を並べるようにして歩く。身長はイスカの方が少し低いのに、歩幅や歩く速さは変わりなかった。
「……まず、何から話せばいいのか……。ええと、守護精霊の話はしましたよね」
「トーラの保護者さんのことでしょう?」
 間違ってはいない。イスカは、額の金の環に触れながら静かに微笑む。
「僕もそうなんです」
 アイシャの足が止まった。
「僕は、精霊の長の守護精霊です。属性は大地。……あの方はなかなか僕が仕えることを許してはくれなくて」
 キドラが昔、セツロという名前の人間として死を迎えたのは、ヒスイが生まれる前の話だ。十八年も谷に足を向けなかった男がイスカを知っているということは、どういうことか。イスカは最低、ヒスイより年上なのである。
 イスカは大地の精霊だった。重ねてきた年月はまだ人間の寿命のうちしかないが、彼はそのわずかな期間に主を定めた。一生に一度しか選ぶことの出来ない主を。だから、ホウは彼を自分の守護精霊とすることに躊躇したのだ。自分が死んだ後、長すぎる年月をイスカは自分だけを思って一人で生きなくてはならないから。
 さすがにアイシャにとっても、許容範囲外だったらしい。止まった足は縫いつけられてしまったように動かなかった。
「すいません、驚かせちゃいましたね。ヒスイ様は僕の主のお嬢様、つまりは霧の谷のれっきとした姫君にあたります」
「あなたの、婚約者……?」
 前に一度雑談として語ったことを覚えていてくれたらしい。イスカは苦笑した。そして、ふとあることに思い当たってアイシャに迫る。
「お願いです。それ、彼にはいわないでくださいね。冗談抜きで殺されますから」
 そのことをすっかり失念していた。慌てふためくイスカに、アイシャの神経も少し落ち着きを取り戻したようだった。名前を出さなくても誰を指しているのか分かる、彼。確かにばれたらただではすまない。
「それ……ヒスイには?」
 胸を押さえつつ、アイシャは聞いてくる。セイには内緒にしても、ヒスイにはいつか話さなくてはならない。だがイスカは人差し指を唇に当てた。
「必要ありません。この話は、ヒスイ様の知らないところで『なかったこと』になるんです。ホウ様ご自身、押しつけられた政略結婚でお辛い目に遭われました。ご自分の娘御にそれを強制する真似はなさらないでしょう」
 そういえば、その主に一番最初に結婚話を教えたのはイスカだった。ヒスイとのこと、全く考えたことがないといえば嘘になる。だが、会ってわかった。ヒスイの放つ魂の輝きは、自分一人で抱え込むには大きすぎるものだ。短い間だったが、共にいてより強くそう思った。
 アイシャはイスカの言葉を聞くと、肩の力を抜いた。よっぽどヒスイが大事だと見える。
「ああ、よかった。ごめんなさいね、あなたが大地の精霊だってことよりも、政略結婚が破棄されたことの方が印象的だわ」
 アイシャの、釘付けになっていた足が再び動く。表情は明るく輝いていた。
「やっぱり愛の女神の巫女だった方だけはありますね。やはり結婚には恋愛感情が最優先ですか?」
「そうね、考え方が一緒っていうのは腹が立つけど、そうだわね」
 楽しそうに小さく微笑む。前から思っていたのだが、アイシャは愛の女神をあまり快くは思っていないらしい。
「出会い方はそれぞれよ。恋愛の果てに結婚してもうまくいかないことだってあるわね。でも政略結婚って本人を無視して、周りが全部決めるじゃない。それが嫌なのよね。私のときもそうだったわぁ」
 今度はイスカの足が止まった。
 アイシャはというと、狙いどおりとばかりに会心の笑みを浮かべている。
「なぁに? 折角みんなで暴露大会をやっちゃったんですもの。私も混ぜて頂戴な」
 妖魔や精霊は、人間もその存在を知ってはいるが、言葉を交わすほど近くに存在しないのが普通だ。その妖魔やら精霊やらが突如身近に現れたというのに、アイシャが驚いたのは最初だけ。あとは柔軟な精神で適応してしまった。この適応力だけは妖魔も精霊も、人間には敵わない。
 その上、こんな隠し玉までちゃんと持っている。
 敵わないなぁ、と「年下」の女性を見つめた。精霊や妖魔が人間の成長に追いつけるのは一体どれほどの歳月が必要なのだろうか。黙り込んだイスカに、アイシャが今度は少し心配そうな顔で覗き込んできた。
「あ、でも、私が持ってる隠し事なんてそれくらいよ? いっておくけれど、私はあなた達とは違って至って平凡な人生しか歩んできてないんですからね」
「本当にそれだけですか?」
 くすっと小さく笑って、イスカは上目遣いでアイシャを見た。慈母のごとき微笑みを、アイシャは返してくる。
「詳細は次に会ったときに話すわ」
 次に。
 イスカは琥珀色の瞳を丸くした。次だなんて考えもしなかった。これで最後なのだと。けれど、アイシャはこれで終わりにはしないという。終わりにしなくてもいいのだと。イスカは頷いた。
「落ち着き先が決まったら住所を教えて下さいね。立ち寄らせていただきます」
「ええ、待ってるわ。その時は思い出話でも聞いて頂戴」
 おやすみなさい、と、どちらからともなく別れる。月光の青い光と、松明の炎だけが二人の背中を見送った。

   *

 朝。
「本当によかったの?」
 再びアリアナ神殿に帰ってきたアイシャは、送ってくれたセイにそういった。赤かった髪が一瞬にして青い色に変色したのを見て、初めてセイが妖魔だと実感が湧く。その青い色が人目に付く前に、長い髪はすばやく赤毛に色を変えた。
 ヒスイとの別れの朝だというのに、セイの態度はいつもと変わりがない。それがかえって不気味だった。
「甘いね、アイシャ。オレが惚れた女を諦めるとでも思ってんの?」
 にっこり、と毒を含んだ最高の笑顔。アイシャは眉間にしわを作って、一歩退いた。思わない。だから不気味なのだ、と口に出すには尋常ではない勇気が必要だった。セイは人差し指の先を湿らせて、風向きを調べる。
「ヒスイはね、風だから。ひとつの場所に、そう長い間じっとしてなんていられないの。そういう属性の持ち主だからね。だから、そのうち堪えきれなくなって霧の谷から出てくるってば。そしたらまた一緒にくっついていくしィ」
 アイシャが顔をしかめた。……この男の性格の悪さは知っているつもりだったが、ここまで周到だとヒスイに同情したくなる。
 背中では、トーラがひょっこりと顔を出した。大きな藤色の瞳が輝く。それに合わせたように、額の紫水晶の飾りもきらめいた。
「大丈夫よ。また会えるわ」
 それは予言ではなく単なる希望的観測でしかなかったが、星見の少女の口からこぼれると本当になりそうな予感がする。アイシャはこの新しい妹分を抱きしめた。

 風が吹く。
 新しい風がよどんだ空気を吹き飛ばしていく。

   ***

 出会いがあれば別れがある。
 生きる限り出会いと別れは繰り返される。

 トーラはキドラに一度殺されることによって決別し、セイはサイハから離反した。
 そのセイは愛するヒスイと別れることになる。ヒスイはアイシャとも、トーラとも、別れなければならない。
 彼らは今、三叉路の中央に位置していた。
 道は三つ。ヒスイはイスカと、トーラはアイシャと、セイはただ一人どこかに消える。
 分かれた道はそのまま別れる道。その先がどこかで繋がっていることを信じて。

第二章終了
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