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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第一節第一項(055)

第三章

 聖域の扉

 この「世界」は竜が作ったといわれている。
 土が支え、水が包みこみ、火は命を吹き込んだ。最後に風がそれらを育てた。こうして「世界」に海と、大地と、命が生まれた。竜はそれらを心から慈しんだ。ここまでを竜の時代という。

 やがて、この「世界」には神々が降り立った。神々は地上で暮らしていたが、そのうちに天上には神々が放つ光が集まり、地上には色濃い影が落ちた。神はこの影から妖魔を作った。神が最初に創造したのはこの妖魔だった。
 この時から妖魔は闇の中で生きることを運命づけられる。
 その次に神が生み出したのは精霊。竜が作ったこの「世界」に宿る力を具現化したもの。神々はやがて竜に成り代わり、この「世界」を支配した。神の時代の幕開けである。
 さて、竜の作った命のうち、神々が最も愛したのが自分達と似た姿をした人間という生き物だった。
 竜が作ったはずの人間は、神を信仰した。
 一方、神の作った妖魔は人間の敵にまわった。
 同じく神の作った精霊は、人間を愛おしく思いながらも神から離れて竜を信仰した。

 ……やがて、神々は「世界」から消える。そのとき何があったのか、記録は何も語らない。
 神の時代を引き継いだのは精霊でも妖魔でも、まして竜でもなかった。それは最も数多く、最も弱い、人間という種族。新たに始まったこの時代を、人間の時代と呼ぶ。

 竜はその姿を隠し、妖魔は人間とは違う場所に住まうことで領域を得る。
 精霊は次第に人間に追われていった。
 皮肉なことに、追い立てられた彼ら精霊を受け入れ、守護したのもまた人間であった。精霊達の最後の聖域「霧の谷」の歴史はここから始まる。

  ***

 1.

 そこは深い渓谷だった。
 名前の通り、霧が立ちこめていた。濃い霧の中を、大地の精霊に導かれてヒスイは歩く。
「一種の結界なんですよ。この谷は大地の結界、霧は水の結界です」
 湿った空気が、ヒスイに育った場所を思い起こさせた。湿度が高く、温暖な地。ヒスイはその空気の中で、長いこと思い出しもしなかった母親の言葉を回想する。記憶の奥底から言葉が浮かび上がってきた。
 ――お前のお父さんは、それはそれは綺麗な人だよ――
 そういった母の横顔はどんなときよりも一番綺麗だった。
 イスカが立ち止まる。ヒスイもそれに倣って立ち止まった。足元に、赤い光が生まれる。赤い色は筋となって幾重もの円を描き、複雑怪奇な文字や幾何学模様を描き、やがてそれは魔法陣の形になっていった。方陣の内側にあたる大地が、琥珀色の輝きを帯びる。イスカが声を張り上げた。
「開門」
 目の前はそれまで確かに白い霧だけだった。正面の霧に、まっすぐな切れ込みが入る。観音開きに、霧が開かれていった。溢れるのは光、光、光。
 イスカが微笑んだ。そして、手をさしのべてくる。
「ようこそ、姫君。我らの霧の谷へ」
 聖域の扉は開かれた。

   *

 霧の谷の王はれっきとした人間である。だが、彼は同時に精霊の長でもあった。歴代の王は一人残らず、全ての精霊の頂に立ってきた。だが、精霊達は口を揃えていう。今上の長が一番好きだ、と。

 その精霊の長は、日頃の沈着冷静な態度はどこへやら、そわそわと何かを待っていた。彼の守護精霊たるイスカから報告を受けてから、ずっとである。
「落ち着いてはどうだ、長よ?」
 やんわりとたしなめる女の声が空から降ってきた。長と呼ばれた男、ホウは顔を上げる。
「これが落ち着いていられるものか。あの子が来るのだ……!」
 ホウは瞳を輝かせた。
 あの子。そう呼ぶのは生まれたときに会ったきりの、一人娘である。事情があって手放していたが、その娘が会いに来るという。落ち着けという方が無理だった。
 そのホウの顔を覗き込んできたのは、真紅の瞳をした女性だ。これは人間の持つ色ではない。縮れた巻き毛は、赤毛にしては輝きすぎ、金髪にしては赤すぎる、華やかなオレンジ色。その色といい形といい、まるで燃えさかる炎を身に纏っているようである。他に身を飾るものはなにもない。濃い色の髪は腰まで広がって、それだけで充分白磁の肌を引き立てていた。色の白い体は、だが決して深窓の令嬢のそれではない。全体的に筋肉質で引き締まった体つき。その中で、釣り鐘型の双丘だけが妙に浮き上がっていた。体の線を強調するように、纏う衣服は赤い布を巻き付けただけの簡素なもの。その布は限りなく薄く織られていた。肌の白が下から透けて見えるように、わざと。
 唇に引いた緋色が笑みを形作る。腰に手をやって、大胆にももう一方の手でホウの頭を撫でた。
「何の真似だ、レンカ」
 彼女の手つきは、子供をあやすような、それ。子供扱いされてホウは彼女を見上げる。
 真紅の瞳を細めて、レンカは声を上げて笑った。
「いいや? 長にも人の子らしいところがあるものだと、微笑ましく思うてな」
「失礼な。私は生まれたときから人間だが?」
 またレンカは豪快に笑う。見えないからいっているのだ、と。

 そうこうしているうちに従者が報告に来た。彼は、長に絡む女性には特に目もくれず、頭を深々と下げて大地の精霊が帰ってきたことを伝える。ホウは落ち着いた声でそれに応じた。もしも、体裁などというくだらないものを脱ぎ捨てることができたなら、ホウはそれこそ飛び上がらんばかりに顔を喜色に染め上げただろうに。
「イスカ、只今帰りました」
 明るさのある声が響いた。従者に少し頭を下げつつ、朽葉色の法衣を纏った少年が入室してくる。少年は決まり事に乗っ取って正式な神官の礼をした。茶色の髪の下には金色の環、見慣れた琥珀色の瞳がホウに向けられる。今度こそホウは、その喜びを隠すことはしなかった。従者に下がるように指示すると、両手を広げて大地の精霊を迎える。
「お帰り、イスカ」
「ホウ様!」
 正式な礼を放り出して、イスカはホウに駆け寄った。親に巡り会えた子供のように。が、ホウの背後で微笑む炎の化身のような美女を見ると、その足が止まった。
「……レンカ……」
 うわずった声で彼女の名前をつぶやいて、足はじりっと半歩後退する。顔は硬直していた。いつもの光景が戻ってきたことに、ホウはかすかに微笑む。レンカはというと、楽しそうな笑みを浮かべてイスカを出迎えた。
「相も変わらず、そなたは妾(わらわ)が苦手と見えるな」
「あなたが人のことをおもちゃにして遊ぶからでしょう!?」
 半泣きになってイスカは後退を続ける。すぐに行動に移すというよりは、徐々に体が逃げているといったような様子だ。ホウは、いつもなら一歩下がったところでその様子を眺めているだけなのだが、今日は一刻も早くイスカに聞きたいことがあった。だから早めに助け船を出す。
「いいよ、レンカ。お下がり」
 苦笑しながらホウは手で合図をした。助かったとばかりに、イスカは感謝の目でホウを見る。レンカの方はというと、つまらなそうにイスカをみやった。レンカにしてみればしばし離れていた弟分をもう少しからかって遊びたかったのだが、長の命令とあらば下がる他ない。
 レンカは纏った赤い布を翻すと、その身をたちまち炎へと変えた。赤い炎は吸い込まれるようにホウの右腕に宿る。消える瞬間に声だけを残していった。
 ――あとでたっぷりと可愛がってやろう――
 もちろんそれは誰に向けて放たれた言葉かは明白で。ホウはただ苦笑するしかない。イスカは蒼白になってホウの右腕を凝視した。
 その苦笑を引っ込めて、ホウは顔色を失ったイスカに現実に戻ってもらうような問いを向けた。
「それで……あのこ、は……?」
 抑えているはずなのに喜びが隠しきれない。かすかに滲む不安と、それよりもさらに大きな喜びが声に表れていた。イスカもその一言で正気に戻ったようで、ホウを安心させるかのように大きく頷いた。
「はい、ヒスイ様……姫君と一緒です。帰って参りました」
 この少年がこれほど頼もしく映ったことはかつてない。
 どこにいる、と問いかけた矢先に、少年は今度は困ったような表情を作った。
「申し訳ありません。ヒスイ様は現在治療中ですゆえ、お会いにはなれません」
 意表を突く回答だった。
 イスカは居住まいを正して、ヒスイと出会ったときからのことを事務的な顔で報告し始めた。ホウもまた、子供の帰りを心待ちにする親の顔から、精霊の長としての顔に戻る。母親似であろうヒスイのこと、そしてその周囲を支えた妖魔二人と人間一人のこと、雑魚ではあったが神殿の地下で妖魔に襲われたこと。そして……。
「妖魔の長がヒスイ様を狙っております。途中、かの者を守護するという守護精霊に襲われました。ヒスイ様の傷はその時負われたものです」
 イスカは、淡々とそれを語った。全く知らないことを語るときと、その口調は変わることがない。
「……精霊が……、属性は分かるか?」
「はい。氷、でした」
 そのとき初めて、イスカの瞳に痛々しい何かが浮かぶ。ホウはそれに気が付いた。が、それよりも氷の属性という事実の方に意識が動いてしまう。
 精霊使いには、自分と最も相性のいい精霊がいると同時に、最も相性の悪い精霊も存在するものだ。例えば炎の精霊を使うものは水の精霊を苦手とするものが多いし、風の精霊を使うものは反対属性の大地の精霊が苦手なことが多い。精霊に愛される性質を持つことが前提条件なのだから、大抵、反対属性の精霊にはあまりいい顔をされない。その精霊が好む性質の違いゆえだ。だが、必ず反対属性の精霊が苦手かというと、例外もある。
 ホウは炎の属性を持つが、穏和な性格ゆえか反対属性である水の精霊にも愛されていた。彼が最も苦手とするのは氷の属性である。
「よりによって、また、氷か」
 苦いものがこみ上げた。きっと何年経っても、身をさいなむ痛み。ホウは無意識に右手で左手を握りしめた。その手、薬指には銀色の指輪がある。ホウの悲壮感が少し和らいだ。目を瞑り深くうつむいた後、彼はまた長としての顔でイスカに向かう。
「それで、傷の具合は」
「普通なら重体でした。ですが応急処置が早かったのと、その後も適切な治療を受けましたので『体に傷が残ることはない』とのことです。現在、水の精霊が総出で当たっております。ですが、どうやらヒスイ様の苦手とする属性は水であるらしくて……手こずりそうだということです」
 重体の一語に心が凍る。そして台詞の後半に、ホウは少し首を捻った。以前、風竜から聞いたことがある。予言の星、すなわちヒスイは風の属性を持っていると。それを聞いたとき少し後悔したものだ。すでにイスカを遣わした後だったから。イスカは大地の精霊である。まともに考えれば風の反対属性だ。
「お前は、あの娘が平気だったのか?」
 その問いに、イスカはそれこそ嬉しそうに頷いた。
「はい。ヒスイ様は風使いでいらっしゃいますが、決して浮ついた方ではございません。一度こうと決めたら何があっても曲げない強さをお持ちです」
 大地の精霊というのは得てして、動かないものを尊ぶ。揺るぎない心、別の言い方をすれば頑固な性質を好む傾向がある。ホウは脳裏に懐かしい女性の姿を思い浮かべた。彼女に似ているならば強固な意志を持つことも無理なく想像がつく。
 会いたいと願う。誰よりも愛しい娘。誰よりも愛した「妻」の血を引く、たった一人の。
「大きくなったろうに……」
 我が子といっても出会ったのはただ一度だけだ。母親の腕に抱かれた生まれたばかりの赤ん坊。後日、銀の天使が伝えに来た。大人になったらあの子供は帰ってくる、と。そして娘の十六の誕生日に星が落ちた。すぐにわかった。それが我が子だと。

 ホウがしばらく思い出に耽っている間に、城内が騒がしくなった。
 何かを抑える声と、喧噪。何かが近づいてきている様子が窺えた。人間は必死にそれを押しとどめようとし、精霊はどうやら侵入者の味方らしい。
「ヒスイ様!」
 ホウの心臓がひとつ、大きく跳ねた。目の前で、大地の精霊は一番大事な人の名前を呼ぶ。そう叫んだ根拠はホウには分からない。けれど、イスカは礼もせずにホウの元から飛び出していった。規則正しい鼓動は今、だんだんと大きく早くなっていく。喧噪が近づいてくる。イスカの声も。
「ちょっ……怪我が治ったばかりなんですよ。あまり無理なさらないでください! 聞いておられますか、ヒスイ様!」
 やっぱり、近づいてきているのはヒスイだった。確信を持つと、ホウはイスカを追うようにして部屋を飛び出していた。
 心臓が盛大に鼓動を打つ。
 そこには。
 黒髪の妻がいた。
「……!」
 正確に言えば、髪と瞳の色を除いて妻に瓜二つの女性。もっと小柄で幼くみえるけれど。大きな瞳は自分を映していた。妻の紫ではない。ホウのものよりも明るく鮮やかな翠。夏の気配を感じた葉っぱの色。次に目に入ったのは女性にしては珍しい、ぷっつりと切り取られた黒髪。けれどそれは不格好というよりも凛々しさを醸し出していた。それ以外は、顎も、首も、鼻筋も唇も瞳の形も、何から何まで母親そっくりで。
「サラ?」
 思わず、娘の名前ではなく、妻の名前を呼んだ。翠の瞳が揺れた。その唇が声を紡ぐ。
「……ホウ?」
 サラとよく似た声。けれど、彼女とは違う声。それに彼女はいつも自信に満ちあふれた声をしていた。娘は、少し引っ込み思案の、自信のなさそうな声。こんなところは自分に似たのかと、ホウは花がほころぶように笑った。
 そして駆け寄り、我が子を抱きしめた。
 この日をどれほど夢見たことだろうか。
「会いたかった、私のヒスイ……」
 泣けるものなら泣いてしまいたかった。それでも外聞も体裁も脱ぎ捨てて、ホウは娘を抱きしめる。イスカがもらい泣きをしていた。他の者はただ呆然と、遠巻きに二人をみつめる。
 腕の中で、子供が小さな声をあげた。消え入りそうな声で、おそるおそる、「父さん」と呼ぶのをホウは聞いた。涙が出るほど嬉しかった。


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