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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第五節第四項(053)

 4.

 キドラの城の侍女が温かい飲み物を運んでやってきた。アイシャが自分で給仕しようとしたのをセイが止めて、持ってこさせたものである。侍女は無言でレースを敷いた銀の盆を卓の上に置く。一夜にして幼な子から少女に成長したトーラを見ても、侍女は顔色ひとつ変えなかった。操られているのかもしれない、とトーラはセイを見る。彼は、表情を読み取ることは出来ない、作り物めいた微笑みを浮かべていた。
 トーラには蜂蜜入りのミルク、アイシャとイスカには香草と香辛料で風味付けしたホットワイン。同じものに見えて、ふたつは微妙に香辛料の配合を変えてあるようだった。別室で眠っているヒスイには紅茶。疲労回復と体を暖めるために、木苺を砂糖でとろとろに煮詰めたものをブランデーで伸ばして加えられている。侍女がそれを持って奥の部屋に消えた後、セイは自分で銀のポットを手に取り茶器に中身を注いだ。芳しい香りがふんわりと漂う。彼もまたヒスイと同じく紅茶だったが、部屋に広がった香りは紅茶そのもののそれではなかった。柑橘類特有の、爽やかな独特の香り。東では花や果物で茶に香りを付ける習慣がある。北で育ったアイシャには分からなかったが、それは仏手柑(ベルガモット)という紅茶の着香にはよく使われる果物の香りだった。側につけられた白砂糖の壺には目もくれない。それは茶葉が一級品だからこそ他に味を付けなくてもいい、特別の贅沢ともとれた。侍女は最後にセイに向かってお辞儀をする。そして何事もなかったように出ていった。
 陶器で作られた杯の肌を撫でつつ、アイシャは感嘆の声をあげる。底の深い杯の中で、濃く透明な赤は更に深い色合いを奏でていた。肉桂(シナモン)の粉末が砂金のように水面に揺らめいている。奥から立ち上るのは嗅ぎ慣れた香草の香り。なんという贅沢なのか。
 茶も砂糖も熱帯産のものだ。輸入でしか手に入らない。香辛料も同じ。アイシャは商売上、南で取れる香辛料も少し持っているが、これらは通常、高値で取り引きされて庶民の口には入らない。甘味料は蜂蜜に頼るしかないのだが、その蜂蜜も採取に危険がともなうので地元ですべてまかなってしまう。まして精製された白砂糖など夢のまた夢だ。
 このささやかな喫茶にかけられた金だけで、アイシャのような庶民なら一年、仕事もしないで遊んで暮らせるだろう。トーラはそれを聞いて軽く首を傾げる。彼女にとっては、これが当たり前の生活だったからだ。
 アイシャは顔を上げる。まるで違和感なく、この光景に溶け込んでいる少女。いや、妖魔である、目の前の二人。アイシャは、手にした杯に口づけると勢いよくあおった。その勢いのまま、大きな音を立てて杯を卓の上に置く。置くというより拳をふり下ろしたような強い調子だった。中身は、一気に半分に減っている。
「おかわりは?」
 青い目の男は微笑みを崩すことなく、明るい声で尋ねてくる。先ほど、自分が妖魔だと告白したのと同じ口で。
「……いただくわ」
 できるだけ自然な笑顔を作ることを試みた。微笑みはおそらく引きつっているだろうが分かっていても直るものではない。一気にあおった酒のせいで、胃から立ち上った酒気が鼻の粘膜を焼く。そっと手を添えて空気を抜いた。気付け薬の代わりにワインとは気が利いていると褒めるべきか。それほど彼の「説明」は衝撃的だった。
「冗談も大概にしてほしいといいたいところだけれど……あなたがヒスイ絡みのことで嘘をつくはずがないのよね。それもこんな、利点のない嘘を」
 利点があれば別だが。いいたいことは察してくれたようで、さすがアイシャさんだね、とふざけた態度でセイは笑った。話を総合するとセイの本当の姿は青い髪をしているらしいが、アイシャがそれを見ることはなかった。というよりも、イスカと、トーラと名乗った妖魔の少女が揃って止めたからだ。恐ろしすぎるから普通の神経をした人間は見ない方がいい、と。そこまでいわれてしまった凶悪な妖魔本人はというと、皆ひどい、とアイシャの目の前で泣き真似をしてみせる。
 妖魔の少女はアイシャの目から見ると、外見上は少しも人間と変わったところは見られなかった。教えられなければ妖魔とは気付かなかっただろう。そういったら、セイはトーラを例外だといった。妖魔の本来の姿は、大抵派手な色使いの髪と瞳をしているからすぐに分かる、と。
「妖魔は、人間らしく見える平凡な色をあまり好まないからね」
「そこでどうして僕を指差すんですか」
 イスカの髪と瞳は茶色と琥珀色。茶色の髪に茶系の瞳もよくある組み合わせだが、アイシャは首を傾げた。平凡な色というが、イスカの瞳のような澄んだ琥珀色は珍しい色だ。逆に自分のように金の髪に青い目の組み合わせは本当に多い。アイシャは同じ金の髪でも、トーラの蜂蜜色の髪に比べるとうんと薄い亜麻色。瞳もセイのような青玉(サファイア)の深い青色ではなく、晴れた北国の空の色をしている。一番平凡なのは自分のように思えた。
「紫の瞳も人間にまったく出ない色ではないけれど、あなたのような綺麗な藤色は珍しいわよね。ええと、トーラ?」
 呼びかけると何やら緊張した面もちでこちらを見た。信頼していた人に裏切られたばかりだというから、警戒されているのかもしれないと思う。ワイン壺から杯に酒を移して、アイシャは気を落ち着けるためにもう一口もらった。今度は素直に温かさだけが体を包む。
「……ええと。あなたとそこのお嬢ちゃんが妖魔で、お嬢ちゃんはヒスイと双子で、そのヒスイは予言の星で。よく分からないけれど、とにかく厄介なのに目をつけられているわけね」
 回想しながら自分なりにまとめる。正しいか、そっと顔色を窺うと、三者とも頷いた。
「これからどうなるの?」
 アイシャが問うと、セイは天井を仰ぎ見、イスカは対称的にうつむいて手元の杯を見た。トーラだけは藤色の瞳をまっすぐにアイシャに向ける。口を開いたのは、そのトーラだった。
「何も変わらないわ。ヒスイは霧の谷に行くの。精霊の長がきっと離さないわ」
 アイシャの中で、トーラは占い師みたいなものだと理解されていた。その星見の少女がいうならそれが一番なのだろう。しかし、引っかかるものがあった。妖魔の長さえも狙う予言の星。精霊の長がヒスイを利用しないという保証はない。きっと離さない、というトーラの台詞に、アイシャは眉をひそめた。そして、トーラの言葉はまだ続く。
「霧の谷は精霊達の聖域よ。四種の精霊魔法と、神話の時代にあった古い呪文で、妖魔封じの結界が張り巡らされているの。……だから、私達はヒスイと共には行けない」
 トーラの藤色の瞳が陰った。セイの青い目は皮肉げな表情で笑っている。例えるならば水底からわき上がる仄暗い感情が、さざなみを作ってゆっくりと広がっているような。口元に形作られている笑みは見る者を薄ら寒い思いにさせる。セイには最初から分かっていた。霧の谷についたら別れが待っているだけだと。
 だから望んでいたのだ。彼女が、谷の人間でないことを。
 アイシャは、わざとセイから視線を外してトーラに向かった。
「それで、あなたはどうするの?」
 妖魔だろうと、人間だろうと、セイがヒスイを愛していることをアイシャは知っている。愛する人との別れ。身をさいなまれるまでの痛みを、なまじ知っている身であるゆえに、今のセイは見ていられなかった。
 トーラもまた瞳に自嘲的な光を宿した。
「キドラに捨てられちゃったから、行くところがないの」
 騙されて、利用されて、あげくに殺されたと聞く。だが、それでも彼女はキドラが好きだといった。それを馬鹿にしたような目で睨むのはセイ。その目に少女はやや怯えながらも反論する。
「キドラは、キドラの名の定めに乗っ取って動いただけだもの。サイハ様がそう名付けたんだもの」
 首を捻るアイシャに、イスカが補足してくれた。
「精霊はね、人間や妖魔のように固有の名前を持たないんです。名前を呼んでお互いを識別する必要がありませんから。草木が、土が、風が、名前を持って呼び合いますか? 名前を持つのは、誰かにそれを必要とされる者だけ。ほとんどが守護精霊ですね。守護精霊の名前は、主が付けるのが普通です」
 精霊関係の知識は、おそらく彼が一番詳しい。さすがは霧の谷の出身といったところか。
「じゃあ、キドラというのは……」
 アイシャは疑問に思うことがあった。アイシャの住んでいた地方では、末尾に「ラ」が付くのは女性の名前だ。名前に濁音が入るのは逆に男性に多い。地方によって名前の付け方は異なるので一概にはいえないが、一瞬性別が分からなかった。
「サイハ様が名付けたのよ。強い負の力が込められているからアイシャは口にしないでね。キドラは、鬼怒良と書くの。その字の現す通り『鬼が怒って良い』って意味になるのよ」
 音の響きではなく、意味を優先して付けられた名前らしい。トーラは苦笑した。名前の文字に気付いたのは、よりによって刺された最中だったという。
 アイシャは思わず、トーラを強く抱きしめた。
 おそらくはそういう愛情表現に慣れていないのだろう。腕の中で心持ち緊張しながら、藤色の大きな目で見上げてくる。そして、一瞬の間を空けた後、嬉しそうに頬を上気させて微笑んだ。それはまるで、愛してくれることを全身で欲している飢えた子供。外見はそろそろ大人になりかけているというのに、その幼い態度に胸が痛んだ。
 アイシャは、アイシャなりの感性で気付いた。この子もヒスイと同じなのだと。魂の双子とか、説明されてもよく分からなかったけれど、確かに二人はよく似ていると思った。寂しん坊で、それでも、誰かに感謝することを知っている優しい子。今はまだ心に負った傷が大きすぎて、誰かを愛することまでは出来ないけれど。

 アイシャの温かさに触れて、トーラは心の温度まであがった気がした。それを微笑ましく思うイスカ。セイは、ひとつ片づいた、と薄く笑う。アイシャの性格を考慮にいれて、同情して、厄介者であるトーラを引き取ってくれないかと内心で計算していた。
 そんなこととは露知らず、アイシャはトーラに向かって微笑みかける。
「うちにいらっしゃい。一人分くらい面倒見てあげる」
 思惑通りに。
「それにしても、色んなことがごちゃごちゃありすぎたわね。これでヒスイやイスカまで人間じゃない、なんてことになったら私、ついていけないわよ」
 アイシャの笑い話に乗ってくる者はいなかった。
 セイとトーラは揃ってイスカを見る。そのイスカはというと、心持ち表情を固くして笑った。アイシャは三者の心の機微に気付かない。
「後で説明しておけよ。でないと、自分だけ仲間はずれにしたってアイシャが怒るぞ」
 冷たい青の瞳が、小声でイスカにいう。大地の神の神官は、ぎこちなく無言で頷いた。

  *

 ヒスイが横たえられている部屋には大きな露台がついていた。月の光が青く射し込む。その部屋に、足音も立てずに入ってくる人影があった。元からあまり音を立てずに歩くが、今は特に毛足の長い絨毯のせいで音が殺されていた。
 眠るヒスイの傍らに立つ。掛け布団は規則正しく上下していた。その律動的な動きに微妙な変化が一瞬生まれる。
「起こした?」
 静かにセイは聞いた。まぶたがゆっくりと持ち上がる。翠の輝きが、いつもの強い輝きをひそめてセイを見つめた。
 椅子も使わず、セイはそこにしゃがみこんだ。寝台のへりに両腕を引っかけ、その上に顎を乗せる。横になったヒスイと目線がほぼ同じになる高さで、にっこりと笑った。ヒスイの、周囲の闇に溶け込む黒髪が白い敷布の上に広がっている。ふたつの翠の光が、夜空に星を浮かべたように夜の中で浮いていた。その瞳には怒りの色も恐れの色も浮かんではいない。普段よりも弱い眼光でじっとセイの瞳を見ていた。……泣きたくなるほど綺麗で、切ない。
「やっぱり、そういう風に笑うんだな」
 ヒスイに見入っていたときに、急に声をかけられてセイは目で問い返す。どういう意味だろうか。
「前もこんなことがあった」
「ああ、宿で」
 気を失ったヒスイの側についていたときだ。あの時も真っ暗な室内で、月の青い光だけが周囲を青く染めていた。で、忘れもしない。悪さをしようとしたら殴られたのだ。
 ヒスイは、セイと話しやすい位置に寝返りを打つ。やはりまだ起きあがるのは辛いと見えた。掛け布団がずれて、鎖骨と丸い肩が露わになる。よく見える位置に包帯が巻かれていた。左手ですぐに布団のずれは直される。
「……包帯だけ?」
 返事は返ってこなかった。
 ヒスイの口が少し尖った。鎖骨の真上あたりで、しっかりと布団が握りしめられる。沈黙は肯定。セイは寝台に顔を埋めた。狼になりたい、と願うのは健康な成人男子なら誰でも持っている一般的な衝動だと思う。不信感いっぱいの視線が突き刺さってくるが、顔をあげることは出来なかった。
 ふいに、空気が動いた。ヒスイの手がセイの髪に触れる。手はゆっくりと動いて耳の辺りまで下りてきた。セイは顔を上げる。ヒスイの瞳はやはり無表情のままだ。手首から先だけを出して、セイに触れていた。彼女の手はまた移動して、今度は頬に当てられる。血の気を失った冷たい指先だった。穏やかな翠の瞳から目が離せなくなる。
 いけるかも。
 俗物的なことを考えた矢先に、まるで計ったかのような絶妙の間で、手は横っ面を張り飛ばしてくれた。


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