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翡翠抄−ひすいしょう−

第一章第五節第四項(034)

 4.

 客の前では老人の方が立場が上のように振舞っていたがセイと老人は対等の立場にいた。老人は仕事の仲介をし、セイがそれを請け負う。そういう役割だった。セイのほかにもたくさんの者が同じ仕事を老人から仲介されている。それは、その仕事をやっていると表立っていえないものだったから老人にはたくさんの「孫」や「息子」がいた。
 老人はセイを伴い、衝立(ついたて)の裏にまわった。床の木目の端をナイフでもちあげる。奈落がぱっくりと口を開けた。老人は器用に縄ばしごを使い、セイは軽やかに飛び降りる。
 入り口を塞ぐと真っ暗になった。伸びる地下道には灯りひとつない。だが二人とも不自由を感じさせない慣れた足取りで先へと進んでいった。
「灯りをつけとくれ」
 老人の声にうながされてセイの手元に光が生まれる。
 炎ではない。炎よりも明るい、白っぽい光だった。セイの手元にはランプがある。
「便利だね、光霊を利用した魔法のランプってのは」
「ここで火を燃すと入り口から煙が立ち昇るでな」
 老人の目にはそれでも光量が足りないのか、まだ辺りが見づらそうだった。セイの目は闇夜に強い。暗闇の中でランプを見つけ魔法の光を発動させられるくらいに。
 魔法のランプが置かれていたのは上の店内と同じくらいに広い部屋だった。壁面には上と同じように武器が並べて展示されてある。ただし、どうみても新品同様の曇りひとつない表の店の武器と違い、ここにあるものは皆一度は血で汚されたものばかりだった。武器のことなど何ひとつ分からない人間でさえここに並ぶものの陰惨さに気付くだろう。そこはかとなく血の匂いさえ漂ってきそうな淀んだ空気が部屋中を満たしていた。
「新しい武器が増えたぞ」
 よく見ると一般では決して使わない、いわゆる「卑怯」との呼び声があがりそうな武器がそこかしらに置いてある。
「相変わらず悪趣味で」
「お前にいわれたかないわ」
 ごもっとも、とセイは軽く首をすくめた。
 ここに入ってからセイの瞳はずっと冷酷な光をたたえていた。ヒスイの前では決して見せない顔だ。老人もまた「職人気質の武器屋の親父」の顔を脱ぎ去っていた。老人の両眼は血に飢えていることを隠そうともしていない。
 セイは手持ちのナイフを老人の前に丁寧に並べた。大きさが小さくなるにつれ、出してくる場所は複雑になってくる。靴の中、手首の服地の裏、襟の裏……。大小取り混ぜて何本あるのか分からない。
「全部、研ぐのか」
「そう。ああ、ちょっと待って」
 セイは上着を脱いだ。引き締まった細身の筋肉があらわになる。目立つ傷はひとつもない綺麗な体だった。脱いだ服の縫い目に仕込まれていたのは何本もの針。
 武器はそれだけではなかった。更に髪を結っている紐を解く。赤い猫の尻尾のような髪はほどけ落ちなかった。彼が解いたのは上に絡めた飾り紐で、その端の宝石を引っ張ると布製の紐の中から鉄線が引き抜かれた。
「端の宝石部分が分銅代わりになってるんだ。首を絞めたりするのに便利なんだけど……これも研げる?」
「針は総入れ替えじゃな。鉄線はなんとかしよう。……む、これは投げナイフか?」
「それはオレ独自の工夫。手の平に隠せるくらい短い刀身に麻紐を巻きつけて簡易の柄にしてあるんだ。隠密性が高いし不意打ちには有効だけど、いかんせん殺傷力に欠ける」
「ほう。東の地方に似た武器があるぞ。確か手裏剣とかいったかな」
 セイは顔をゆがめて苦笑した。
「手の裏の剣? これまた言い得て妙だこと」
 針も鉄線も普通の人間は武器にしない。セイの手持ちは今並べたものだけではなかった。ここに出したものはみな研ぐことを必要とする刃物ばかり。毒や、死には至らしめない薬などはまた別にある。
「ひぇっひぇっひぇ、今度の仕事はどうだったよ?」
「楽勝」
 答えてから思い出したように付け加える。
「……ああ、オレ今度の仕事で足抜けするから」
 軽く片手を上げて微笑んだ。老人がセイのナイフを研ぎながら「何?」と尋ね返してくる。
「足抜けじゃと? お前ほどの暗殺者が!」
 何を寝ぼけたことをいうか、と続くのが分かっていた。セイは静かに微笑んでいる。だが目に温かみはない。
「だって、惚れた女がオレにもう殺すなっていうんだもん」
「……お前の正体を知らないまま、か?」
「ああ、絶対知らない。だから本当に驚いた。で、約束しちゃった」
 最後の一言だけうきうきした高い声で答えた。老人はこんなセイの顔など見たことがない。鳩が豆鉄砲を食らったような顔を返してきた。当然だ。セイのこの顔はヒスイにしか向けられていない。
「まあ、安心しなよ。裏の世界のこと全部ばらすような馬鹿な真似なんてしないし。それに足抜けするとき追っ手がかかっても全員返り討ちにする自信だってあることだし?」
 老人はヒキガエルを踏み潰したときのような喉に絡んだ声を上げた。セイのいうことが決して吹いているのではないことを彼はよく知っていたのだ。上着を脱いで惜し気もなく晒している上半身を見てもそのことが分かる。目立つ傷はやはり、どこにもない。その体は暗殺業を続けながら一度も大きな傷を負うことがなかったことを……つまり、敵に反撃ひとつ許さずに片付けてきたことを雄弁に物語っているではないか。
 追っ手には手練(てだれ)の暗殺者が差し向けられるとはいえ今のこの男にかなうものは一人もいない。老人は確信した。
「完全にこっちの世界と切れるわけではないんじゃろう?」
 だったら勘弁してやらなくもない、と匂わせる。苦し紛れの言い訳だった。セイはにやにやと笑っている。
「そうだね。……利用価値もあることだし」
 老人はほっと息をついた。互いに相手が何を考えているかぐらい手に取るように分かっている。馬鹿馬鹿しい猿芝居だったが、それでも演じないわけにはいかなかった。特に老人にとっては。
 裏社会といえども全くの無秩序というわけではない。裏には裏のれっきとした組合(ギルド)がある。老人の店は組合から紹介された暗殺者に武器と仕事を仲介する役割を持っていた。だから足抜けする暗殺者を組合に密告する義務がある。
 だがセイの場合、老人が密告してなんの得があるというのか。むしろ追っ手はみな返り討ちにされ、かえって得意客を減らすだけである。だがそれは組合の規律に反する。規律に反したものは、死だ。
 だから一応は組合に対し体裁(ていさい)というものを整えねばならなかった。セイは暗殺業は廃業するが完全に裏組合から抜けるわけではない、だから老人は密告する義務はない、たったそれだけのことをもったいぶって演じる必要があったというわけだ。
「そうそう、偽造手形が欲しいんだけど、最近はどこに行けばあるかな?」
 上着を着込みながらセイは尋ねる。
「酒屋はまずい。……トンボ玉を売っておる露天商に聞け。いい場所を教えてくれる」
「了解。今度はオレ、何の職業になりすまそうかなぁ」
 セイは立ち上がり武器のほとんどを老人に預けたまま出て行った。
 トンボ玉を売っている露天商とは先ほどすれ違っていた。その男のいうところに行き、さらに別の場所へ、次もまた別にと、たらいまわしにされてからやっと目的のものを手に入れてセイは悠々と武器屋へ戻ってきた。研いだばかりのナイフやその他のものを全身にしまいこんで、「ついでに」と表の武器をいくつか買いこむ。その帰りにヒスイを預けた服地屋へ顔を出した。セイの大事な大事なヒスイはもう帰宅した後だという。
「たいしたもんだな、お前の連れは?」
 店主の意味ありげな微笑みにセイはちょっと首を傾げたが口調からそう大事(おおごと)でもないと判断して宿に戻った。日はすでに暮れていた。

 花街は、そろそろ明かりを灯そうかどうか、という微妙な時間帯だった。
 愛の女神の神殿が絡んでいる宿に一直線に向かって、そろそろ商売支度を始めている姐さん達を邪魔しないように軽やかな足取りで階段を上がっていった。アイシャが転がり込んだのは屋根裏である。
「きゃあああああ」
 アイシャの悲鳴が聞こえた。恐怖による悲鳴というよりは落胆と悲しいのが混ざったような声である。アイシャが絡んでいるとすれば事はヒスイのことと決まっている。セイは駆け上がった。
「どうしたの?」
 勢いよく扉を開ける。床にへたりこんでいるアイシャの姿より先にヒスイの姿が目に入った。
「あらま」
 わりに冷静な声を出した。驚いたことは驚いたが、衝撃は常識人であるアイシャの方が上だったようだ。頭をかかえて空色の目を大きく瞠(みは)っている。
 ヒスイはどうしてそこまで驚かれるのか分からない、というような顔をしていた。セイと目が合うと
「おかえり」
 といってかすかに微笑む。嬉しそうだというのは見てとれた。セイは苦笑する。
 ヒスイの髪は無残にも(アイシャの言葉を借りるとするならこうなる)肩よりも短い長さにぷっつりと切り取られていたのだ――。
 それに着ている衣装も奇抜なものだった。襟は高くなっていて首が詰まる形、上着丈は短く、胸から腰にかけて前身頃(まえみごろ)と後ろ身頃(うしろみごろ)に計四本のつまみ縫いが入っていた。体にぴったりと密着して女性らしい線が強調される形になっている。そして下にはなんと、男物の下衣を着ていた。何とも勇ましい男装の美女である。
「無理に頼んで、男物を女物に仕立て直してもらったんだ。これで大分動きやすくなった」
「うん、似合ってるよ。……似合ってるけど……何も髪まで切ることなかったのに」
 苦笑交じりにセイは短くなった黒髪に触れた。切りそろえられたばかりの髪はさらりと滑って指からすり抜ける。彼には切った理由もなんとなしに分かる気がしたが、アイシャはそうはいかなかった。
「そうよ!! 髪をっ、髪を切るなんて……長く伸ばした髪は女の命じゃないの!」
 半泣き状態である。
 アイシャの言い分も分からないではない。そう、それが普通なのだ。他にも髪は魔力を蓄えるから魔法使いは伸ばす傾向がある。昨今、男女とも長い髪は珍しくないが逆に短い髪は珍しい。セイは無意識に自分の長い髪に指を絡めていた。
 ヒスイはというと、何しろ自分がそんなにおかしなことをしているという自覚がないものだから首をひねるばかりである。
「そういうが、アイシャ。長い髪は動き回るのに邪魔だし……私は二人のように髪を器用に結べないし。それに旅が長くなるとろくに風呂にも入れないじゃないか。短い方が手入れが楽……」
「あんたって子は! 女の命を合理的に説明するんじゃないわよぉっ!」
 アイシャが床にへたりこみながら頭をかかえた。二人の意見はどこまでも平行線で、このままではらちがあかない。セイは微笑みながらヒスイに話しかけた。
「で? これからどうするの? アイシャは隊商を抜けた。行き先に義務はないよ。オレはヒスイの行くところならどこだってついていくけど、ヒスイはどこに行きたい?」
 アイシャをなだめるのに困っていたヒスイが、助かったとばかりに翠の目を向けてきた。
「……考えたんだが……父の国を探そうと思う」
「お父さん?」
「ああ。私は父の顔を知らずに育った。……『最後の聖域』という場所を知っているか?」

 セイとアイシャの顔がそろって蒼白になった。

「『最後の聖域』!? ヒスイ、何考えてるの。あそこは人間が簡単に行ける場所じゃないんだよ!?」
「そうよっ! 一年中、霧に覆われてどこにあるか分からないともいわれてるのよ。そんなところに……」
 ヒスイは、きょとん、と二人に目を向けた。
「けれどセイなら知っているだろう? それにアイシャ、親に会いに行くのがそんなに悪いことか?」
 この台詞はそれぞれ二人の弱点を突いた。セイには頼りにされていることに加え「知っている」という自負が首をもたげたし、アイシャに家族がらみの願いを粗末に出来るはずがなかった。
「……セイ、本当に知ってるの?」
「かろうじて場所だけは。でも土地勘のある案内人が必要だけど……」
 お互いに顔を見合わせた。両者とも、そっちがヒスイを止めてくれと顔に書いてあったが出来るはずもない。
「どうしますかね、アイシャさん?」
「……どうもこうも……行くしかないじゃないの」
 ためいきをついたアイシャの目の前に、セイは懐から出した二枚の木札を見せた。
「これね、通行手形。まさか手形もなしに国境越えするわけにはいかんでしょう」
「ヒスイの分とあなたの分……まさか。あなた何者なの?」
 セイは答えなかった。ただ、これから大変な道のりになりそうだと密かに肩を落とした。

  *

 二人が、がっくりと肩を落として部屋を出た後、ヒスイは窓を開けた。石の町が一望できる。そのまま窓辺に足をかけ、思うところあって屋根へとよじ登り始めた。
 屋根の上に立つと西の空は茜色で、東の空からは夜がすぐ側まで忍び寄ってきている。風がヒスイの周りを取り囲んだ。
 その風に向かって口を開く。
「……我が名は翡翠。翡翠と名付けられた者」
 試してみたかったのだ。この名がどんな魔力を秘めているのか。ハーン文字で綴られた名前の効果は強力だった。風の勢いが一気に強まる。まるで生き物のようにうなり声をあげた。
 ――我……を、呼びしか、あるじ……よ――
 声。人ならざる者の。
 耳元に風がびゅうびゅうと吹きすさぶ。切りそろえたばかりの髪が風と戯れた。
 ――おかえり。 おかえり、翡翠。 翡翠、我らの……――
 喜んでいる。風に感情があるとするなら確かにそれは喜んでいた。まるでしばらく留守にしていた家に帰ってきたときのような感覚が全身に突き抜ける。
 ヒスイは忘れていた。この世界は確かに、自分の生きる世界だということ。自分の半分には確かにこの世界の物で作られているのだ。
「……そうだな。生きてみようか、この世界で」
 風がまた高い音を立てて吹いた。間違いなく自分はこの世界の人間なのだということに確信を持つ。ヒスイは翠の目を輝かせた。……まずは父に会おう。会って、色々話そう。
 ヒスイの決意に呼応して風が更に強く、そして遠くまで広がっていった。

 この世界の王を父に持つ異世界育ちの少女は、そして自分の原点を探す旅に出る――。

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