[←back][home][next→]

翡翠抄−ひすいしょう−

第一章第五節第三項(033)

 3.

 目覚めたヒスイに最初に朝の挨拶をしたのはアイシャだった。
「よかった! 本当に、ほんっとうに、よかったこと!」
 てきぱきと額に手を当て、脈を診ると喜び勇んで抱きついてきた。倒れたときのシチュエーションによく似ている。と、いうことは、セイはアイシャに何も伝えなかったらしい。
 けれど血の匂いはもうなかったし、アイシャは泣いていなかった。むしろ嬉しそうに笑っていたので今回は胸が潰れるような苦しい思いはしなくてすんだ。ヒスイも微笑む。やっぱり笑っていてくれる方がいい。
 また扉を叩く音がした。
「目ぇ覚めたって?」
 顔を出したのはセイ。アイシャと同じように抱きつこうとしてきたのでヒスイは無意識で拳を前に突き出していた。見事に顔の真ん中に命中する。
「鼻が引っ込んだらどうしてくれるのっ?」
 あわれっぽい声を上げたが無視した。
「あらあら。ヒスイを口説き落とすまでにその鼻がめり込んでいたらどうするのかしらね」
「大丈夫。オレの高い鼻はこれっくらいじゃ負けないから」
 赤くなった鼻をなでながらセイはアイシャと顔を合わせてにっこりと自信ありげに笑う。
 ふと、その二人の様子を見ながらヒスイは聞いた。
「……いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」
 ヒスイの認識では二人が顔をあわせたのは初めてである。セイとアイシャは両者ともヒスイに全開の笑顔を向けた。
「あのねぇ、アイシャはオレ達の仲を応援してくれるんだって」
 セイはそういってアイシャを指差した。
 ぎょっとしながらアイシャに向き直ると、彼女もまたセイの方を指差して――ヒスイはアイシャがこんなことをいう人だとは思いもしなかった――笑顔で、
「だってヒスイがやらなきゃ誰が彼の手綱を取るっていうの。この人間の皮を被った妖魔を野放しにする方がよっぽど怖いと思わない?」
 と、本人を目の前にしてのたまった。
 ヒスイは真っ青になる。
 セイが微笑みながらも、ピクッとこめかみの筋肉を硬直させた。
「やだなぁ、アイシャってば正直者さんっ。だけど、もうちょっと言動には注意しないと闇夜は背後が危ないかもしれないよ?」
「まあ、心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。セイが守ってくれるから。私に何かあったらヒスイが怒るでしょうねぇ?」
「それはそうだね!」
 あっはっはっはっは。
 顔だけを見れば二人とも実に楽しそうに微笑みあっている。ヒスイは自問自答した。これは、笑っていていい状況なのか、と。両者が実になごやかで朗(ほが)らかな雰囲気を醸(かも)し出しているにも関わらず、ヒスイは極寒地獄のまっただ中にいるような寒気を覚えた。
「さて。……ヒスイ、明日出立するから後で必要な物を買いそろえに行きましょう」
「え? 今日、出立するんじゃないのか?」
「でも今日は土曜日だから」
 何をいわれたのか分からなくて瞬きを繰り返す。横からセイが補足してくれた。
「ほら、土曜日は豊穣(ほうじょう)と冥府の神様の日でしょ。何かを始めるには不向きだっていわれてるから。アイシャは縁起を担ぎたいんだって」
「せめて大地の神っていって!」
 アイシャが噛みつく。
 まだ理解できなくてヒスイはとまどっていたが、そのヒスイの腕をセイが素早く取った。
「市場に行こうよ。色々見て回ろう」
 反論する隙も与えずヒスイを引っ張って階下へと駆け出した。アイシャが後ろから「そんな格好で!」と大声を張り上げる。ヒスイが着ていたのは薄い生地の寝間着だったがセイは気にしない。手早くマントを羽織らせた。ヒスイの靴もちゃんと持っている。いくつかの階段を下りていくと肌を露出した女達が、はやしたてるように声をかけてきた。その彼女達の様子からようやく自分達のいる場所がまっとうな宿ではなかったことに気付く。
 そのままセイに引っ張られる格好で町へと出た。
 ちゃんと靴を履き、きっちりとマントの前を合わせてしまえばヒスイの格好はそれほど目立つものではなかった。広がった裾しか見えないのだから分かりようがない。
 セイは先ほどの会話を筋道だてて説明してくれた。
「大地の神ってのはね。土に関連して作物の実りを願う神様でもあり、土の下のことを司る意味から冥府の神でもあるんだよ。普通、役割を神様の呼称に使うから本当は『豊穣と冥府の神』と呼ぶべきなんだろうけれど、ほら、冥府っていうと聞こえが悪いじゃない。いつの間にか大地の神って呼称が定着してる。土に関係する神様だから土曜日にお祭りするってわけ」
 そこでようやく理解がいき、頷く。ひょっとして強引に連れ出したのはアイシャの前で説明したくなかったからかもしれないと思った。曜日の感覚はこっちの世界の人間なら誰でも知っている当たり前のことだろうから。
「と、いうことは明日は日曜日……」
「そう、太陽神の日。太陽が昇ることに感謝して休日にするところが多いけど、何かを始めるには最適だといわれてる。アイシャは愛の女神の巫女だったらしいから縁起を担ぐのが習慣になってるんだろうね」
 盗賊という、最も縁起を担いでもおかしくない職業の男はあっさりといった。
「お前は?」
 運まかせの盗賊として何かに祈ることはないのかと尋ねると
「ヒスイがオレの無事を祈っていてくれればこれほど強力な加護はないよ」
 と、返ってきた。はぐらかすのが上手い男である。

 町の屋台では色々な食べ物が売っていた。珍しい物もあればどこかで見たことのある物もあってヒスイは、セイが買ってくれたそれらで簡単に空腹を満たした。玉ねぎを間に挟み込んだ獣肉の串焼きを食べつつ髪の毛を振り払う。結ばずに飛び出してきたからだ。その様子があまりに不格好だったのか、セイが笑いながら、簡単に結んで上げるといってくれた。出来上がってみれば簡単どころではなくて複雑に編み込まれ、きっちりと結い上げてくれた。
「これで邪魔にはならないでしょ」
「……ありがとう。邪魔にはならないが、自分では出来ないな」
 ヒスイはここでもひとつ現実にぶちあたった。普通の紐では髪がすべって結べないのだ。アイシャもセイも慣れているのか――そういえば二人とも髪を結っている――器用に結んでくれるのだが人の手を煩わすことに慣れていないヒスイは申し訳ない気がした。
 食べながら市場の中を移動する。肉屋の軒下に猫が陣取って、おこぼれを狙っていた。見たことのない果物が単品でうずたかく積み重なっている店もある。トンボ玉のアクセサリーを並べてある露天商の側を通り抜け、セイは色とりどりの布が洪水のように広げられた店に飛び込んだ。
 物珍しさにきょろきょろと辺りを見回すが、そんな暇もなく異国情緒あふれた色彩の布がヒスイの目の前に次々と並べられる。
「こんなのはどう? こんなのは?」
 店主らしき男が営業用の愛想笑いをする傍らでセイは男を無視して布地を広げ、一人で納得していた。
「……あの……何を?」
「ヒスイの服を買いに来たんだってば」
 そうだった。だが広げられた布はどう見ても薄物で、色鮮やかで、旅に向く生地ではない。
「……?」
 訝しげに目を向けると、この男はぬけぬけと「ただの趣味」といいきった。思わず眉の間に縦じわを作って、すうっと目を細める。睨むヒスイと笑いながらおどけるセイをよそに、先ほどまで揉み手をしながらつったっていた店主がようやくまともな布地を奥から出してきて広げてくれた。
「お客様、ご婦人の旅装はこのようなものを取りそろえておりますが」
 出された布はくすんだ色ばかり。生地は厚く丈夫そうではある。型紙も見せてもらった。(型紙の書き方が違っていたので見るのに随分、骨が折れた)だがやはりスカートとは縁が切れないらしい。
「……もっと、こう、動きやすい物がいいんだが……それに明日出発するんだ。ゆっくり仮縫いからしている暇はないが?」
「ご安心下さい。すでに仕立ててあるものがございます。ただし、少しお客様にあうように調節せねばなりませんが」
「ああ」
 大きな町だから大丈夫、といっていたセイの言葉を思い出していた。そのままサイズを測るために奥の部屋に通された。奥といっても小綺麗にしてあるわけではなく、外から見えないように生活空間の一部に通されただけだった。巻き尺らしきものを持っていた人が女性でほっとする。が、その彼女はこちらの顔色を窺いながらおそるおそる「そちらは?」と聞いてきた。首をひねりながら振り向くと……ここまでセイが付いてきていた……。
「覗くな!」
 本日二度目の拳が飛んだ。
 そしてセイは店主によってゴミのように、ぽい、と店の外に捨てられてしまった。
「ヒスイー! オレに一人、外で待ってろっていうのーっ!?」
「とっとと帰れ! 待ってなくても一人で帰れる!」
 セイの声が遠くで聞こえるようになるまでヒスイは裏で待った。正直いえば、店が分かった段階でセイは余計だったのだ。ようやく邪魔者がいなくなった時点でヒスイは珍しく笑う。そして体を計ってくれている女性に
「すまないが頼まれてくれないか?」
 と、この世界の女なら普通、考えもしないことを彼女に頼み込んだ……。

   *

「嫌われたな」
 服地を売っていた店主は笑いながらセイを放り出した。
「いっておくけど彼女、大事に扱えよ?」
「お前さんの紹介で下手な真似はせんよ。明日には首がなくなっちまう」
 店主はおどけて首をすくめ、そのまま奥に引っ込んでいった。
 さて、セイは自業自得な仕打ちに懲りた様子もなく元気である。おとなしく宿に帰るつもりなどない。実は彼には彼なりの理由があって一人で行きたいところがあった。そのため安心できる人物にヒスイを預けて、わざと追い出される真似をしたのだ。セイはそのまま足音もたてずに石畳の通りを歩いていった。

 軽やかな足取りで通りを抜け、そのうちのひとつ、武器屋の看板のぶら下がった扉の前に立った。足音から店内には店の親父と客が一人、客は素人のようだと判断し、勢いよく扉を開ける。
「じいさん、いる?」
 店内には二人の男がいた。一人は小柄なぎょろ目の老人。生え際の後退した白髪が年令を感じさせる。その側にいた恰幅のよい男は商人風の衣装をまとって、剣を手にしていた。
 老人はただでさえ飛び出し気味の目玉をぎょろりと向けて
「何しに来やがった」
 と、いった。側の男が、まあまあと老人をなだめる。老人が武器屋の親父で、商人が客の立場だった。セイは恰幅のよい男に深々と頭を下げる。
「ごめんなさい、接客中だとは気付かなくて」
 大嘘だ。客の気配があるのを知ってから扉を開けたのだから。客は人のよさそうな顔で首を振った。
「や、お気になさらず……親父さん、また違うお孫さんかね?」
 セイと老人は目配せをしあった。ほんの一瞬の出来事なので客は気付かない。
「わしの親友の孫でな」
「うちのおじいちゃんとは親友同士で、子供の頃からずっとこづかれてきたんです」
 老人とセイが同時に口を開いたので客は表情をほころばせた。
「親父さん、いいご友人を持っておられますな」
「はん。たまにこうやって小遣いをせびりに来やがる。ちっともよかない」
「じいさん、そういう台詞は一度でも小遣いをくれてからいうもんだと思うんだけどな?」
 客は、偏屈な老人と、おそらくは彼を思ってやってきただろう親友の孫たる青年を見比べた。老人は元々職人だったせいか不良品を売ったことがない、信用の置ける人物だった。今でも職人気質で偏屈なこの老人が今日はめずらしく穏やかな空気を漂わせている。
 自分はこの場にふさわしくないと悟った客は、買い渋りをしていた剣を言い値で買うと早めに店を出た。積もる話もあろう。自分も孫の代まで仲のよい、ああいう友を得たいものだと心を暖かくして宿へと戻っていった。
 さて、客がはけてから武器屋の扉にはすぐ閉店の札が下げられた。まだ日も高いというのにである。

「オレのほかに誰か孫だって名乗って来た?」
 薄暗い店内でセイは青い目を細めた。
「ああ。間が悪かったな。あの客はその時、居合わせたんだ」
 老人は扉を閉めて中からしっかりと鍵をかける。先ほどまでにじませていた気安い雰囲気はすでに払拭されていた。
「今回えらく時間がかかったじゃないか。とうとうくたばっちまったかと噂してたところじゃよ」
「ああ。行きの路銀しか用意されてなくてさ。山賊やりながら帰ってきた」
「ひぇっひぇっひぇ。今度はもっとましな仕事を紹介してやるよ」
 老人は気味悪く笑い、セイは口元に薄い微笑みを浮かべて更に目を細めた。


+感想フォームを利用してくれる?+(作者が喜びます)
[<<前]
[次>>>]
[目次]
翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada.