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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第一節第一項(035)

第二章

 星語り

 名前には呪がこもっている。
 ましてや真名で綴られた名前は。

   *

 精霊が息づき、妖魔が暗躍し、人間達がささやかに日々を営む世界。その全てを壊しかねない予言の星が、また強く輝いた。
 今回、一部を除いて人間はその輝きに気づかなかったが、魔力的なものには人間以上に鋭敏な感覚を持つ精霊と妖魔の目をかいくぐることは出来ない。彼らは息を詰めて、それぞれの長の判断を仰いだ。
 精霊の長は人間。
 妖魔の長は女王。
 両者の決定は奇しくも全く同じだった。

 1.

 暗雲たれ込める暗い空に蛍光色の蛇が走った。
 一瞬で消えた後、次に地の底から唸り響くような雷鳴が轟(とどろ)く。
「……近いな」
 窓の外を眺めていたキドラは鎧戸を閉めた。今はまだ降ってはいないが、そう遠くないうちに雷雲は雨を呼ぶだろう。部屋は唯一の明かり取りを失い、目の前が見えないほど暗くなる。だが鎧戸一枚を隔てるだけで雷鳴はぐっと小さく聞こえた。
 室内を、まるで見えているかのようにキドラは歩き、机に近寄った。そっと手をかざす。
手の内側には青い光が凝(こご)った。そこにあった室内用のランプに青い炎が灯る。
「不便はしないとはいえ……やはり長年の習慣は断ちがたいな」
 苦笑もせずに無表情でキドラはその炎……決して普通に焚いた火ではない炎を見つめた。そのまま後ろへ退き、革張りの椅子に腰掛ける。
 キドラのいる部屋は城の一室、それも城主のためにしつらえられた執務用の部屋だった。派手ではないが贅沢な造りの調度品が並んでいる。今、彼が着ている紫の部屋着も贅をこらした代物だった。天鵞絨(ビロード)で織られた部屋着はずしりと重く、銀糸の縫い取りが袖と肩に施されている。銀と紫という配色のせいか品の良ささえ感じさせるが、そこらの貧乏貴族がほいほい仕立てられるほど安価なものではない。キドラはうっとうしげに腰紐をほどくと、その部屋着を脱ぎ捨てた。その下からは白い法衣が現れる。着込んでいたのではない。現れたのだ。部屋着を身にまとっているときは、若くして一城の主となるにふさわしい貴族の威厳に満ちあふれているのだが、こうやって法衣を着ていると高位の神官のように見えた。
 キドラ自身はこの部屋着が嫌いだった。だが、紫はあの子供が喜ぶのだ。自分が好きな色だから、と。
 子供。波打つ淡い蜂蜜色の髪、大きな吊り目がちの藤色の瞳。その瞳でこの世のすべてを見通す力を持った幼女。
 その子供の前では彼はただの城主ということになっているから法衣を着ている方がおかしい。キドラの白い髪には確かに紫がよく似合っていたが、そのかわり薄い水色の瞳とはあまり調和がいいとはいえなかった。
「こんな……俗物のためのような、かりそめの城で……いつまで滑稽な茶番を続けなければならないのか」
 珍しく弱気な発言にキドラ自身が驚いた。今度こそ薄い唇を左右に引っ張って、苦笑する。そして自らに言い聞かせた。
(もう忘れたというのか? 決まっている。すべては、あの方のためだ)
 全てを失い、その果てにあの方を見つけた。

 その時、扉の近くで柔らかな青い燐光が生まれた。キドラが腰を浮かす。青い燐光は蝶々の形を取った。それは、見間違うはずのない「あの方」から合図だ。蝶々はひらひらと、キドラを誘うように飛んでいた。
 室内の灯りを、再び手をかざすことだけで消す。そして彼は部屋を出た。薄暗い城内をキドラは足取りも軽やかに赤絨毯(じゅうたん)の上を進む。蝶の導きに従って。その間、彼は誰ともすれ違わなかった。むろん、わざとだ。「あの方」に会いに行くときに人間に出会いたくはなかった。
 廊下の突き当たり、高い天井まである大きな扉が立ちふさがっていた。蝶はその中央で止まり、その場でひらひらと……立ちつくすといった状態だろうか、同じ場所で飛んでいた。自然界の蝶にこんな真似はできない。キドラが扉に手を掛けると、さして大きな力をいれずとも扉はきしんだ音を立てて両側に開いた。蝶はキドラに先んじて奥へと飛ぶ。足下にはもう赤絨毯は敷かれていない。代わりに磨き上げられた黒硝子の床材が白いキドラの全身を映した。そのまま、まっすぐに前に進んでいく。彼が完全に部屋の中に入った後、それを確認したかのように扉は独りでに閉まった。再び、重くきしんだ音をさせて。
 蝶は一匹ではなかった。元から部屋にいた蝶に紛れて、先ほど使いにやってきた蝶はもうどれだか分からなくなる。光源は蝶の青い燐光だけ。それなのにこの部屋はおよそ暗いという印象はなかった。
 部屋の奥、御簾(みす)の向こう側にはまだ気配はない。それよりもキドラはこの場に自分以外の気配を感じて不快げに眉をひそめた。ここは仮宿とはいえキドラの城の、謁見の間である。自分と「あの方」以外が知るはずのない場所だ。その場所に他者が入り込むとは……今まで、こんなことはただの一度もなかった。
 御簾の前にその他者は立っていた。一見しただけでは若い人間の男。だが一目見て人間ではないと分かる、青い髪が背に流れていた。向こうも気付いたのか蒼の瞳がこちらを見る。形のいい唇の両端はやや上がっていた。人を馬鹿にするとき特有の笑みに近いものが形作られている。それを見てキドラは、同類か、と興味を失った。
 蝶が動きを止めた。一斉に両端に集まり、その場にとどまる。御簾の向こうにキドラが敬愛してやまない、麗しの「あの方」の気配が生じた。
「揃っているわね」
 鈴を転がしたような澄んだ声。キドラはその場で膝を折る。黒硝子の床にキドラの白い髪が鮮明に映り込んだ。跪(ひざまず)いた彼の目の端に、当然見えるはずのものが見えなかった。代わりにあったのは二本の足。青い髪をした妖魔の青年は、畏れ多くも自分達を束ねる女王の眼前で、立って礼をするだけにすませたのである。
「貴様……!」
 女王を侮辱されたと憤(いきどお)るキドラに、当の彼女が待ったをかけた。
「おやめ。私に時間の無駄をさせる気なの?」
 やんわりとした口調で諫(いさ)められ、キドラは深々と頭を下げて非礼を詫びる。穏やかな声の裏にあるものを推し量るだに……恐ろしくて顔が上げられない。
「キドラ、お前。あの子供はお星様について何といったか聞いている?」
「はい」
 お星様。それは俗に予言の星といわれる。登場は人間にさえ分かるほど強い輝きを持って落ちたくせに、その後きれいに紛れ込んでしまって一向に尻尾を表さなかった星。その予言の星が森の国、石の町で強く輝いたことをキドラも知っていた。
 彼の抱える占い師の幼女はいった。
 あれを今、追いかけても無駄だ、と。あれは一瞬の残像。今、あの場所を襲撃しても、あの星はきっともう移動してしまったあとだろう、といった。なぜ分かるのかと問えば、輝きの強さのわりには輪郭がぼやけてしまっているからだ、と説明をくれた。キドラにはさっぱり理解できない。
「つまり、あのお星様がどこにいるのか、やはり分からないままだということね」
「御意」
 かしこまって返事をするキドラを、青い髪の妖魔はくすくすと笑った。その挑発に乗るような真似はしない。ただ、視線を彼の方向に流して小馬鹿にした笑みを作っただけにとどまった。お前など眼中にないのだよ、と。妖魔の青年はとたんに不機嫌になる。
 反対に、かの女王は御簾の向こうで嬉しそうに声を上げて笑った。少女のような可憐な声である。どうやらキドラの報告は彼女を立腹させるどころか、逆に喜ばせたようだ。
「さすが、幼いながら『星見』の少女ね。ちょうどあの近くにいた妖魔の一人が人間にちょっかいをかけたそうよ。誰が予言の星か分からなかった、と、まぬけな報告を通しに来たわ」
 おそらくそのまぬけとやらは女王の指示で、今頃もはや息をすることもできない身の上に貶められているのだろう。彼女は最初に、星には手を出すな、と命じたのだから。
「命令は変わらないわ。あの星に関して、すべての妖魔は事態を静観するように。何かあれば私が直々に動きます。詳しい指示はその時に」
 これは、それまでは絶対に動くな、と厳命している。
「キドラには引き続き、あの子供の養育を。……ああ、そうだわ。呼びつけておいて紹介もしなかったわね?」
 青い髪の妖魔が、やはり立ったまま礼をした。
「彼は?」
 短く問うたキドラに、これまた短い答えが返ってくる。
「『夢見』よ」
 妖魔にはさまざまな力を持つ者がいる。過去・現在・未来を見通す力を「星見」と呼び、これは滅多に出ない。それと同じくらい希有な力が「夢見」である。これは人の心に入り込み、他者の夢の中を渡る力であった。使いようによっては、絶対数の少ない「星見」の代わりになる。
 どれほど離れたところにいる人間でも、眠ってさえいればその夢の中に入り込み、状況を読むことが出来る。記憶の根底に潜り込めば、その人間を通して過去を見ることも。遠くの出来事と過去の出来事、さらにいえば予想の出来る範囲で未来も読むことだって可能だ。例えば戦争中、敵の出方を窺いたいときは敵の軍師の心を読めばいいだけの話である。
 ただし、「星見」が客観的に状況を見るに対し「夢見」は、あくまで個人の心を通して把握するため人選は慎重にしなければならない。逆に、個人を監視するには「夢見」の力はうってつけといえる。
「彼には予言の星を探す役目を。……今、どこにいるか分からなくても、その夢の軌跡をたどることはできるでしょう?」
「まるっきり会ったことのない、それも人間かどうかも分からない者の夢をたどれ、とおっしゃる。それも相当、無茶だと思いますが?」
 買いかぶりすぎですよ、と付け加えたが、「夢見」の台詞は明らかに女王を非難していた。
こんな妖魔があってもいいものかとキドラは目を丸くする……露骨に表情に表すことはしなかったが。
「頼みにしていてよ」
 それでも女王の声は揺るぎない。「夢見」は右手を左胸に当て、初めて恭(うやうや)しく頭を下げた。そして顔だけを持ち上げ、正面を……女王を見る。
「申し訳ありませんが、予言の星を見つけたあとのことはお約束しかねますので重々ご承知願います」
「……何故?」
 優位を保っていた女王の声に初めてピリッとしたものが混じった。青い髪の妖魔は下げていた頭を元の位置に戻して、「これは異なことを」と女王の英知をまず褒め称える。キドラは苦々しげにそれを見ていた。嫌なやり方をする、と。
「我ら妖魔すべてを束ね、その頂(いただき)に立つ最も高貴な御方が、よもや、お忘れとは思いませんが。私は『夢見』。より精神力の強い方に引きずられる習性がございます。ですから念を押しているのですよ。もし予言の星があなた様……サイハ様よりも強い支配力を持って私を魅了したとすれば、私はサイハ様のご命令を全うできる自信がありませんから」
 あいての方が強ければそちらに寝返ると、堂々といってのけた。
 剣呑な空気が御簾の奥から漂い始める。それより先にキドラが声を荒らげ、立ち上がった。
「貴様、畏れ多くも妖魔の長の名を口にするか!」
 名前には呪がこもっている。相手を支配するときに名前を呼ぶなどの使い方もされるほどに。大切な主を侮辱されたことに関してキドラが憤るのも当然のことだった。
「あいにくと、オレは相手を名前で呼ぶ質なんでね。……さすがにサイハ様ほどの御方を真名で呼ぶほど不遜でもありませんよ。私だって命が惜しい」
 台詞の後半を御簾の向こうの女王に向けて、青い髪の妖魔はにっこりと微笑んだ。その微笑みがいかにも作り物のような精巧さを持っていたため、更にキドラは柳眉をつり上げる。ご丁寧に、キドラに対しての言葉は丁寧語を払拭していたこともまた気にさわった。
 青い髪の彼はまだ言い足りないらしい。
「私は元々、自分からあなたに下った妖魔じゃない。この方ならと頭を下げた相手が私をあなたに預けた。それだけでしょう、サイハ様?」
「……ええ、そうね」
 妖魔の女王、サイハは――御簾に隠れていても分かる――唇の端をくっと曲げて妙に余裕のある声音で答えたのだ。自分に逆らうものが面白くて仕方ないといったようだ。普段は少女のような愛らしさと大人の女性の艶(つや)を併せ持った女王であるが、こんなときだけは重ねてきた年月の厚みを思わせる。老獪(ろうかい)、とでもいうのだろうか。むろん実際の見た目はとてもそうは思えず、その老獪さを前にしてもコロリと騙されてしまうこともキドラは知っていた。
 男は女王に礼をして退室する。
 だが、彼の底意地の悪さはそれで収まったわけではなかった。夢見の妖魔はキドラに向かうと
「惚れた相手に尻尾を振るってのはどんな気持ちだ、え?」
 と、暴言を吐いた。


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