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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第五節第四項(143)

 4.

 サイハは、回想から目の前にいる人物へと意識を移した。
 五十年ほど前に袂(たもと)を分かった男は堂々とサイハの前に進み出、立身のまま深々と頭を下げる。とても裏切り者とは思えない堂々とした態度だった。
「お久しゅうございます。我ら妖魔すべてを束ね、その頂(いただき)に立つ最も高貴な御方。ご健勝でなによりでございます。その美貌も遜色なく、いえ、以前にも増して輝くばかりにお美しい。再び御前にお目通り叶う日が来るとは夢にも思っておりませんでした」
「本当に。その歯の浮きそうな前口上も、久しぶりね」
 青い髪の妖魔は、ぐるりと顔ぶれを見回し、好奇心に輝く猫の目でサイハに向き直った。
「もしかして随分と間の悪い時に来ましたかね?」
「さあ?」
 はぐらかしてみせた。青い髪の妖魔もそれ以上深くは聞いてこない。
「尊き御方の御前で恐縮でございますが、旧知の者と砕けた挨拶を交わしても良ろしゅうございますか?」
「好きに」
 サイハは目を細めた。生意気で皮肉屋で油断できない小鬼が、目の前に舞い戻ってきた。表面上は微笑みにみせかけて、内心で彼の意図を探る。偶然か、それとも何か企んでいるのだろうか。この男にかかるとどちらもありえると思えた。
 さて、その夢見の妖魔は先ほどまでのとってつけたような態度とはうってかわって、少年のように顔を輝かせた。
「シアンのおっさん!」
 明るい声。子供のようなその声に相好を崩したのはカイマンだった。
「いよう、久しぶりだな坊主。大きくなったな。くそ生意気なところは相変わらずか」
「おっさんこそ元気そうで。何年ぶり? 百年? 二百年? もっと前?」
「もっと前だ。雷帝が亡くなる前以来だからな」
 鱗に覆われた大きな手が、くしゃくしゃと青い色の頭をなで回した。青い髪の妖魔は愛嬌のある顔でいささか乱暴な挨拶を喜ぶ。二人はかつて共に雷帝に仕えていた者同士だった。顔見知りでも不思議ではない。
「だが坊主。その名はもうやめろ。今の名はカイマンだ」
 妖魔にとって、真名が本人に与える影響は大きい。だから真名を呼ばれることを厭い、隠し名を名乗る習慣がある。青い髪の妖魔はわかったとばかりに頷いた。
「奇遇だね。俺も名を変えたんだ」
「ほう。今の名はなんという」
「セイだよ。サイハ様のところに来た頃変えたから、真名なんて久しく使ってない」
 青い髪の妖魔は無邪気そうに笑った。
「だけど、なんでおっさんがここにいるのさ。サイハ様のこと大嫌いなくせに」
「後半の一言は余計だ。前半の問いは向こうに直接聞け」
 カイマンは目だけでサイハを見た。サイハは何もしない。ただ婉然と微笑むのみ。
 夢見の妖魔は唇に笑みを貼り付けたまま、再びサイハに向き直った。
「……と、昔の知人は申しておりますが、裏切り者は聞かないほうがよろしいでしょうね。のこのこと貴女様の眼前に出てきたこの小男は、近い将来妖魔の長に弓引く予定でおりますから」
 ぬけぬけといいきる。サイハはわざと片方の眉をあげてみせた。予言の星の味方に付いた時点でセイは自分と敵対したはずだった。近い将来とはよくいったものである。
「お星様は息災?」
「さあ? 私の手に届かないところで輝いておりますゆえ、その答えを持っておりません」
 直感的に嘘だと思った。ヒスイを失ってからのセイは半ば狂っていた。今は正気を取り戻している。
 だが今は、狂っているときよりもずっと危険。黒真珠の瞳と蒼い瞳、互いの視線が絡み合い、相手の瞳の奥から腹の内を探り合う。もちろんどちらとも、なまじ腹のさぐり合いに慣れているから読みとることは不可能だった。
 サイハは椅子の肘掛けにひじを突いて、頬杖をする。
「用向きは?」
「お聞き届けいただけるので?」
「聞くだけはね」
 セイは唇に薄い笑みを貼り付けたままだった。
「麗しき妖魔の長。人間は『魔が差す』という言葉を使うでしょう?」
 人間が使う言い回し。本当に妖魔がささやくときもあれば、人間が普段は知覚・認識していない自分の心の声に従うときにも使う。始めから自分勝手に生きている妖魔にその言い回しは適用されるのだろうか。サイハは無言を貫くことでセイに言葉の先を促した。
「邪魔な羽虫がいるんです」
 毒を含んだ声音でセイはいった。
「ちょろちょろされて、うるさくて仕方ない。遠くへ追いやってしまいたいのですが、羽虫は一度見いだした花から離れてくれるつもりはないらしい。困ったことに、花はその羽虫を気に入っているようなのです。本当に困りました」
 両手を広げて肩をすくめる。どこかその仕草は芝居がかってみえた。
「あらあら。星に例えられたり、花に例えられたり、あの子も忙しいこと」
「自分が丹精している咲きかけのつぼみに、害虫がつくのを面白くみやっている庭師はいないでしょう。せっかくきれいに咲くのを楽しみに待っているのにね?」
 二人はどちらともなく、くすくすと笑いあった。カイマンとシドは気味悪そうに二人を見る。キドラは口角を下げ不満げな態度を隠しもしない。人形はただ立っていた。
 セイはそれまで隅っこで成り行きにまかせていたシドに話をふった。
「だって、そうでしょう? よりによって駒の分際で、主人の思惑から大きくはずれた不始末をしでかしたら面白くないでしょう、死者達の昏主様?」
「ぬ!? む、むむむむむ……むう」
 屍で作った人形たちに刃向かわれたら、あるいは計画を邪魔されたらと考えて、シドは思わず納得の様相を示した。
 セイは二重三重に面白くないのである。コゥイは元はといえば自分の駒。そのくせ、主人を差しおいてヒスイの隣に居場所を作ろうとしている。どこか遠くにやっても彼は必ずヒスイを見つけだすし、いっそ殺してしまおうかと思ってもそれはヒスイが許さない。
「駒なら駒らしく主人の目障りにならないよう振る舞えばいいものを、人間であるためあれには自分が駒である自覚さえないのですよ。生きていればもうひとつ使い道がありますが、あれが『不幸にも』他の妖魔の手に掛かるならそれはそれで……ねぇ?」
 冥い笑みが広がり、この部屋の空気がその妖気に反応してゆらめく。
 サイハは赤く塗った唇に初めて皮肉以外の笑みを乗せた。心底、楽しい。
「いいの? お星様にばれたら、そりゃあ怒られるでしょうね?」
「嬉しそうにいわないでください」
 そのときになってやっとセイは渋面を作った。お星様に許してもらえない行為であるという自覚はあるらしい。
「いいわ。お前もお座り」
 円卓を指し示した。
 すでに席についていたカイマンは改めて腰を下ろし、サイハとカイマンに挟まれた位置にシドも座る。サイハの隣に、キドラが着席した。
 うさんくさげにセイが尋ねる。
「あんたも?」
「私はサイハ様の守護精霊。主の手足となるべく尽力するのは道理だろう」
 セイはひとつため息をつき、予備の椅子を手に取るとカイマンとシドの間に割り込んだ。サイハの隣もキドラの隣もごめんだということだろう。黒ずくめの姿をした人形は立っている。

 全員の顔ぶれをみてサイハは誰よりも魅惑的に微笑んだ。赤く塗った唇は、血の色に見えたに違いない。

   ***

 カイマンは隣に座った青年を横目で見やり、遠い日を振り返った。
 遠い遠い昔、まだ雷帝が存命だった頃へと。

 雷帝の城への入城は許されていた。たまたまその日は不慣れな衛視であったらしく、門の前で止められたのだ。カイマンは眉間にしわを寄せた。
「雷帝に目通り願う」
 だが衛視は鼻で笑った。
「何を世迷い事を。貴様ごときと逐一お会いできるような、お暇な方ではないわ。さあ、行った行った」
 妖魔の世界では神々の姿を真似た者ほど格が上となる。獣の姿を持つカイマンが格下に見られることは日常茶飯事だった。
 下級妖魔に生まれついたものの、今や力ではそこらの妖魔には負けない。
 このまま力ずくで通ってやろうかと物騒な考えが脳裏によぎる。だが、それを吹き飛ばしたのは城の中から響いた明るい少年の声だった。青い髪が目に入ってくる。雷帝の側で従僕のような仕事をしている夢見の少年である。
「四海将軍! いらっしゃいませ。お城にこられるの、珍しいですね?」
 目をむいたのは衛視である。名声は聞き及んでいたものの、それが目の前の下級妖魔とは結びつかなかったらしい。
 夢見は足取りも軽やかにカイマンに近づき、衛視を軽くにらみつけた後ゆがんだ笑みを貼り付けた。
「よりによって将軍のお姿を知らない、無知な衛視で失礼いたしました。ご気分を害されましたでしょう。心よりお詫び申し上げます」
 どちらかというとカイマンに対しての謝罪の言葉ではなく、衛視に対する嫌味である。皮肉めいた視線がなにより雄弁に物語っていた。この程度の常識も知らなかったのか、と。
「あ、もしかして今からご自分で始末なさるおつもりでした? ごめんなさい、邪魔しちゃいましたね。どうぞどうぞ、遠慮なさらず、すぱっとやっちゃってください。もう邪魔しませんから」
 にこやかに、物騒な台詞を吐いて少年は衛視の袖を引いてカイマンに差し出そうとした。衛視は慌てて腕を振り払う。
「お前、何を……!」
「決まってるでしょ? このお城の衛視に、雷帝の上客を知らない無能なんていらないの。名高い四海将軍に屠られるなら本望でしょ? それとも雷帝に報告して、直接雷帝のお怒りを買ってあげようか。どちらに転んでも名誉でしょ!」
 あくまでもにこやかに告げた後、表情が一変した。怜悧な刃物のような目へと変わる。
「衛視の首のすげ替えくらいオレには簡単なんだよ。とっとと非礼を詫びて、お通ししてさしあげるほうが先じゃない?」
 まさにぐうの音もでないといった様子で、衛視が少年に気圧されていた。
 あっけにとられたのはカイマンである。
 衛視は慌てて、深々と頭を下げた。ここで一度見逃されたとしても彼に雷帝の怒りが直撃することは間違いない。優秀な従僕たる少年が報告を怠ることなど考えられないのだから。雷帝の性格だからこの愚かなる衛視にも慈悲をかけて、跡形もなく消滅させてくれるだろう。もう一人の長ともいえる滅王は、生かさず殺さず寸前までいたぶって「消えたほうがマシだった」というような目にあわせるのが好きな性格だった。

 前を歩く少年は先ほどより人懐っこい口調でカイマンに話しかけてきた。
「さっきは本当にごめんなさい、シアン様」
「敬語はいい」
「んじゃ、遠慮なく。ごめんね、おっさん」
 この少年は自分より目上の妖魔でもよく名前で呼んだ。妖魔は真名を呼ばれることに多少不快感が伴う生き物であるため、本当ならこの少年のような態度は責められてしかるべきである。目下、この愛嬌の良さのため一部の妖魔には黙認されていた。
「……それよりお前、いつのまにか、また偉くなったか?」
「まぁね。努力の賜ってやつかな」
 この少年には似つかわしくない台詞が返ってきた。
 妖魔にはほとんど成長というものがない。生まれつきの力が即、実力となる。雷帝や滅王もそうだ。下級妖魔からの叩き上げであるカイマンのような妖魔のほうが珍しい。
 振り向かず、背中を見せたまま少年は続ける。
「これでも人並み以上に努力してますよ? オレ、片親が下級妖魔だもん」
「初耳だな。お前、親持ちか」
 妖魔は大半が自然発生だ。
「うん。男親は滅王の片腕、女親は雷帝側の下っ端。おっさんほど人型から離れちゃいなかったけど、角と尻尾と長い爪を持つ、自意識過剰で権力志向の強かった女。己の力を過信して身の程知らずにも夢見なんか生むから、自分自身を支えきれなくなって破裂して消えちゃったよ」
 妖魔は動物のように肉体を持たない。魂の力が本人の器を作る。だから自分の魂の力よりも大きなものを己の内側で育てようとすると負荷がかかって、器を維持できなくなる。少年を生んだ女はまさにその典型だった。それは同時に、少年は母親の力とほぼ同等まで成長した時点でこの世に放り出されたということになる。
「そんなわけで、オレは姿こそ上級のそれだけど中身ときたら下級妖魔程度の力しかなかったんだもの。そりゃあ努力くらいしますともさ。それで強くなれるなら、いくらでも。少なくとも、オレを見下す相手がいなくなるくらいには偉くなりたいじゃない?」
 こちらを向いて口元に笑みを乗せる。三日月に細められた目は笑っていなかった。
 例えば姿を消したり、空を飛んだり、何かを操ったり。そういう力を、下級妖魔に生まれついたカイマンはほとんど持っていない。あったのは並みはずれた腕力だけ。だから、のし上がるためにそのひとつの特技を伸ばし続けた。
 少年には夢見という力があった。固有の特別な力は持つものの、本来その能力にともなうべき力の絶対量は与えられずに生まれた。ならばのし上がるためには、その絶対量を増やすしかない。
「単純に妖力を増やせばいいというものでもないだろう。魂がそれに見合う強さでなければ母親同様、器に負荷がかかって破裂する」
「おっさんもね。だからオレ、おっさんのことすごいと思ってるよ。オレの場合は子供の姿で発生したからある程度、器の成長が見込める。おっさんはそうじゃなかったでしょ? あ、それとね。それを認めてくれる雷帝も好き」
 今度こそ本当に、嬉しそうに少年は笑った。
 カイマンも自然と口元がゆるむ。雷帝の重用がなければカイマンもここまで登り詰めることはできなかった。

 上級妖魔と下級妖魔、どこでその差がでるのかははっきりしない。
 ただその始まりはかろうじて伝わっている。大昔、妖魔は太陽神の影から作られた。強い光が作り出す色濃い影から生まれた命。驚いたことにこの最初の妖魔はまだ存命で、今の名を滅王サイハという。今はもうサイハくらいしか生き残りはいないが、ほかにも太陽神の影から生まれた妖魔は全員、完全に神の姿を写し取っていた。そしてどの妖魔も、とても強かったという。
 あるとき、月の女神もそれを真似て自分の影から命を作り出した。月は太陽ほどまぶしくはない。もちろん影も薄く、できあがった妖魔は神々の姿を完全に写し取っていなかった。獣の姿も混ぜて生まれた不完全な姿、脆弱な力しか持たない命が、のちに下級妖魔と呼ばれるようになったという。
 今は上級妖魔も下級妖魔も、同じく闇の中から生まれる。そこに差はない。それでも最初に命を作り出した神々の影響はまだ残っているのか、今でも上級と下級の二種類は確実に存在している。強い妖魔ほど完全に神々の姿……今では「人間と同じ姿」と表現する姿で生まれてくるのだ。
 時代がくだるにつれ、神々がいた頃の話を知る者も少なくなってきた。おそらく少年くらいに生まれた妖魔はもう知らないだろう。

「待っててね、雷帝にお目通りを願ってくるから」
 控えの間に通されたあと、カイマンは部屋の中央にぽつんと置かれた椅子に腰掛けた。
 別段、急ぐ用事でもない。ただ耳に入れておいたほうがいいかと思ったから来ただけだった。
 砂漠ワニの連中が知らせてきた。
 探していた人物を見つけた、と。
 雷帝の周囲にはよく女がいたが、女たちの誰かに執心するということはなかった。唯一の例外はある妖魔の娘で、雷帝はその娘だけは誰の目にも触れないよう大切に大切に隠していた。
 その娘はちっとも妖魔らしくない妖魔だった。ちょうど夢見の少年と逆だ。妖力だけは有り余るほど持ちながら、力の使い道を知らなかった。妖魔特有の残忍さも持ち合わせていない。それだけなら星見によく似ているが、星を読むことも出来ない。出来ることといったら、ただ人間の娘のように微笑み、泣くだけ。
 それでも娘は雷帝の庇護の元におかれた。なにせ娘が持つ力の量ときたら、瀕死状態まで力が枯渇した雷帝をも即座に回復させることができたのだから。いざというときの妖力の倉庫代わり。娘の分の妖力を使えば、雷帝は滅王より遙かに強くなった。
 だが雷帝がその力を頼みにしたところを見た者はほとんどいない。
 あるとき、雷帝はカイマンの前でぽつりと漏らした。あの娘がいなくなった、と。
 元々そんな娘がいなくても雷帝が一番強いことには変わりない。何も慌てることはないのかもしれない。
 しかし、あれほど目をかけていた娘がいなくなったにしては随分冷静だと思った。妖魔の長に匹敵するほどの妖力を持つ無能な存在を野放しにしておけない。ほとんど存在が知られていない娘とはいえ、いつ誰がその娘を悪用するか分かったものではない。だから探していた。
 報告によると、かの娘は人間に紛れて一人で暮らしているらしい。心配することもなかったのかもしれない。部下にまかせず直接報告に来ることにしたのは、目の前で雷帝が喜ぶ顔が見たかったからだ。居場所を知らせたら、きっと喜ぶ。

 小さな物音がした。カイマンは顔を上げる。
 扉がそっと開いて、その隙間から少年が滑り込んできた。こっそりと隠れるように。
「おっさん。雷帝個人に用件があるなら今日は帰ったほうがいい」
「どうした?」
 少年はカイマンの側に近寄ると、声をひそめた。
「今玉座に座っているのは影武者だ。雷帝、お忍びでどこかに出かけてるんだよ」
 カイマンは爬虫類の目を丸くした。少年はさらに続ける。
「妖魔の長に用事があるならこのまま通すけれど。どうする?」
「どうするといっても、雷帝がいないのでは……」
「大丈夫。影武者になっているのは滅王だから」
 けろりと少年はいってのけた。
「さすが幻惑の魔女の異名を持つだけあるよね。オレでも分からなかったもん。どこからどうみても雷帝ご本人。だけどさぁ。隠れてるけど、どうも性悪親父の気配がするんだよね。まるで玉座を守るかのように。あいつが雷帝を守るはずがないもん。だからあれは滅王なんだよ」
「お前の父……?」
 さきほど滅王の片腕だといった。カイマンはその男を思い浮かべて、納得した。狡猾で、陰険で、そういうところが雷帝と相容れない。あの男が隠れて守っているというなら玉座に座っているのは滅王なのだろう。
「そうか、お前、あいつの息子だったのか……気の毒に」
「わかってもらえた?」
 眉間に縦皺を刻んで、夢見の少年は冷笑を浮かべる。
 だがその表情は一瞬で、次にはもう心配そうな目で虚空を見つめる。
「ここのところ雷帝がおかしいんだ。お忍びはずっと続いてるし、それだって最近様子が変わってきているし。……以前はね、日を追う事に不機嫌になっていって、それが頂点になった辺りでふと姿を消すんだ。戻ってきたときは放心してるというか、心ここにあらずというか。それが最近は、日を追う事にそわそわしてるというか、浮かれた気持ちをギリギリで我慢してるみたいな気配になってきて、それから姿が消えて……戻ってきたときは、ふさぎ込んでるんだよ」
 訳が分からない、とばかりに夢見の少年はうなだれた。
 カイマンは少年を慰めるすべを知らず、ただ黙ってそこにいた。
 もしかしたら雷帝はこっそり娘を探していたのかもしれない。今は見つけていて、彼女と会っているのかもしれない。ふとそんな想像をして自分を慰める。それを少年に伝えてやればよかったのかもしれないがあいにくカイマンは流暢に舌先が動くほうではなかった。それにあくまで想像で、確証はない。
 カイマンはしょぼくれる少年を見ないようにつぶやいた。
「……そうだな、お前のいうように一応報告しておくか」
 少年はそれを聞くと顔をあげ、本来の職務を全うすべくカイマンを謁見の間へと導いた。

 それから半月と経たなかった。
 雷帝が死んだとの知らせが全ての妖魔に広まったのは。

   ***

 人間の子供そのもののような明るい少年は、長じて多少面影が残っているもののまったく別人のように変わっていた。
 それを少しだけ寂しく思うのは、カイマンが獣に近い妖魔だからだろうか。

 夢見の妖魔は自分を裏切り者だといった。
 カイマンは拳を握りしめる。
 残酷なる滅王サイハは、自分にこの青年を殺させるつもりだと悟った。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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