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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第五節第三項(142)

 3.

 尖った歯並びの間から、低いうなり声が漏れる。
 カイマンは人形から目を背け、吐き捨てるようにいった。
「よくも、こんな醜悪な人形を……!」
 それはサイハにとって十分に満足のいく答えで、口角を持ち上げた。
 納得しなかったのがシドだった。普通の人間らしい外見なら「顔を真っ赤にして」と表現するのが適切な様子で――骨と皮だけで出来ている骸骨はもちろん顔色を変えていない――けたたましく怒鳴りつけた。
「醜悪じゃと? 醜悪じゃと! いえるものならもう一度いうてみい! この儂の最高傑作を! 儂の造形美の粋を極めた、この世で最も美しき人形を醜悪じゃと!?」
「シド」
 サイハはやんわりと間に割って入った。しかしシドは止まらない。
「止めてくれるな、女王よ。これは儂に対する冒涜じゃ。たかが獣の出来損ないごときが、己の醜さを棚に上げて儂の『作品』にケチをつけよった! 儂が手塩にかけた可愛い可愛い人形を! 儂の、儂の……」
 シドは興奮していた。だから、サイハの笑みに怒気がはらまれていることに気づくのが遅れた。サイハの放つ空気が明確な殺意を持って膨れ上がる。
「屍土」
 微笑みは変わらぬまま、これ以上いえば殺すとばかりに。
 妖魔の長から直々に真名を告げられたことで、シドの怒りは沸点から一気に氷点下まで下がった。カイマンをののしるためぱっくりと開いていた顎は、一拍おいた後、小気味いい音を立てて閉じられた。心なしか頭蓋骨の色がより白くみえる。
 まばたきを忘れたかのような目でサイハは、やんわりと言葉を続けた。
「あなたが、この顔を創作したわけじゃないでしょう? それに、あなたの、所有権も認めていないでしょう? だからあなたが、可愛い可愛いお人形を、自慢する理由なんて、どこにもないわよねぇ?」
 一句ずつ区切って強調した。ひやりとした殺気は小さな部屋に充満し、その迫力はシドのみならずカイマンまでも圧倒する。一人静かに、何事もなかったようにたたずんでいるのは、かの人形だけだった。
 殺気を引っ込めて、今度はカイマンに目を細めて笑いかける。
「ごめんなさいね、カイマン。シドは雷帝以後に発生した妖魔だから、あの人を知らないの」
「あ? ああ……」
 カイマンは本物のホウを知っている。シドは知らない。
 どれほど姿形を似せようと、いや、下手に似ているからこそ余計に本物との差異が激しい。本物はもっとずっと美しかった。内側から放たれる繊細な魂の輝きゆえに。魂のない、器だけの人形は決してホウそのものにはなりえない。
 カイマンがいいたかったのもそういうことである。サイハもまったく同様の感想を抱いていた。
「よかった。ホウを知っている者に一度、見てもらいたかったの。同じ感想を持つかどうか。でも魂が入っていないところ以外はよく似ているでしょう?」
「滅王……あんたは、闇の精霊を作るつもりだったのか?」
 サイハとカイマンの間で交わされる会話に「そんな話は聞いていないぞ」とからっぽの眼窩だけでシドが訴えるが、先ほどの脅しが利いたのか口は閉じたままだった。
 サイハはその質問には答えない。黙って微笑むのみだ。

 白い繊手を滑らかな動きで持ち上げ、サイハはその手を人形へと向けた。
「こちらへ来て。挨拶を」
 人形はその台詞を命令と受け取ったのだろう。先ほどまでぴくりとも動かなかった彼は、主人にかしずく従僕よろしく歩み寄り、その手をとった。女王の足下に腰をおろし、両の手でサイハの手を捧げ持って、桜貝の爪に唇を落とす。とても優雅な仕草で。
「笑いなさい」
 その命令通りに顔をあげ、サイハに向かって目元と口元をほころばせた。
 さながら月の下で百合の花が咲きこぼれたかのような笑み。包み込むように優しく、それでいてなよやかではなく凛としている、そんな花が咲いたかのようだった。

 シドは人形が設定通りに動いたことに安堵する。カイマンは苦いものを飲み下した。ホウがこんな風にサイハに微笑みかけるなど、天地がひっくり返ってもあり得なかった。サイハが皮肉混じりの笑みを浮かべ、ホウが拒絶の意味を含んだ笑みを作ることはあっても。花のように微笑む人形を目の当たりにすると本当に闇の精霊が生き返ったかのように見えた。
 生前のホウを知らないはずのシドが作り上げたのは、まさしくホウそのもののような「人形」。性格にはかなり問題があるが、人形職人としては大変よい腕をしていると認めざるを得ない。
 続いてカイマンは理不尽な怒りを覚えた。とうに消えたはずの闇の精霊がこうやって目の前にいるのに、自分の主人たる雷帝はいない。そのことにとても腹を立てた。カイマンの中では、闇の精霊で思い出すのはいつも雷帝と刃を交わす姿であったからだ。
 サイハはじっくりと人形の微笑みを検分したあと、眉をよせて追い払うように手を動かした。人形はこれにも素直に反応し、一歩下がって礼をした後、また頭巾で顔を隠す。しつけのよい従僕が下がったときの仕草に似ていた。
「笑顔はだいぶ本物に近づいたわね。泣き顔はどうかしら。あの顔がなければ、お星様は騙されてくれないと思うのよ」
 まばたきをしない黒真珠の瞳は、隅っこで小さくなっているシドをみやった。顔色を変えない骸骨は、冷や汗を滝のようにかいていると思われる表情豊かな声音でおそるおそる女王に尋ねる。
「か、改良の余地ありと?」
「早急にね」
 シドはがっくりと肩を落としたが、改良点があるということは職人根性をくすぐることでもあるらしく、すぐに立ち直る。からっぽの眼窩は妙に嬉々とし始めたように見えた。
 先ほどからずっと難しい顔をしていたカイマンは腕を組んで低い声を漏らす。
「闇の精霊そっくりの人形を用意してまで何をやろうとしている? いいかげん教えろ。具体的に、俺は何をすればいい?」
 サイハは小さく笑った。
「おもてなしの余興には少々の驚きが必要だわ。お星様はね、あの顔を知っているのよ」
「何だと?」
 カイマンがやや前のめりになったが、詳細を聞かれる前にサイハは自分の唇に人差し指を当てた。詳細は語れない、と態度で示す。カイマンは眉間に縦皺を刻んだ後、諦めたように深く椅子に座りなおした。ふん、と鼻を鳴らす。
「おびき寄せられるのか」
「必ず」
 サイハが必ずといえば、それは絶対だ。鍵はこちらの手中にある。
「予言の星は混沌を司る。人間や妖魔、精霊も味方に付けたと聞いているわ。ちょっと手強いのが二人ばかり……その時あなたと、この人形には、星を守る双璧を壊してもらいたいの。そうすれば星はいずれ手中に」
 少し嘘をついた。予言の星はそう簡単にサイハの手の中に落ちてはくれないだろう。たとえ彼女を守る騎士をすべて取り上げても、あの娘はきっと一人でだって最後まで戦う。そういう娘だ。
 父親と同じ顔相手に、あの娘はどこまで本気で戦えるだろう?
 魂が手に入るならそちらを人質にするという手もあったのだけど、残念ながら逃げられてしまった。人間は魂と器を分けて考えられない。からっぽの人形とはいえ同じ顔をしているものが敵対するのだから、少しくらい躊躇(ちゅうちょ)してくれなくては困る。
 星は必ず飛び込んでくる。否、飛び込んでこさせる。女朗蜘蛛の巣の中に。
 カイマンはため息をついた。
「どうせ拒否権はないんだろう。何か策があるようだな。怖い女だ」
「褒め言葉と受けとっておくわ」
 赤い唇の口角があがって、薄い三日月を形作った。

 話がまとまりそうなところへ、紗幕の外側から声が割り込んだ。
「お話中失礼いたします」
 キドラの声だ。
「呼んでいないわ」
 とっさにサイハは、人形がちゃんと顔を隠したかを確認した。キドラには呼ぶまで入るなといってある。何かあったのか。
 返ってきたキドラの声はひどく固かった。
「申し訳ありません。取り急ぎご報告いたします。――青い夢見が参りました」
 サイハの形の良い柳眉が持ち上がった。
「通しなさい」

 偶然とは恐ろしいものだ。それとも偶然を装った必然か。よもや夢見が今日この時、この顔ぶれの中に顔を出すとは思ってもいなかった。
 不機嫌な顔をした氷の精霊が入室し、そのあとに続いて青い髪をした青年が入ってきた。

   ***

 闇の精霊ホウが精霊の長で、雷帝が妖魔の長だった遠い昔。

 本物はもっともっと美しかった。
 涙が誰よりもよく似合っていた。
 遠い日、砂漠の小さな村の片隅で、闇の精霊はただただ悲しみを浮かべてサイハを見上げていた。

 ――ひとごろし。

 潤んだ瞳に憎しみの色は欠片も見いだせなかった。ただ絶望と喪失の痛みを訴える。
 砂塵を含んだ風は艶やかな黒髪を乱暴になぶり、涙に濡れた頬にも砂塵が貼り付いていた。しゃがみこみ、血染めの女物の服を抱きしめて、その両手は服と同じく赤い色に染まっている。真に美しいものはそんな状況下にあっても、やはり美しかった。
 白い砂漠の村はおびただしい量の赤に染まっていた。
 サイハは立ったホウの頭より上の位置に浮かび、その光景を見下ろしていた。容赦ない熱砂の風塵の中に浮かびながら、サイハの髪はそよ風になびかせている程度しかそよがなかった。
 辺りに人が生きている気配はなかった。
「私がやったのではないわ」
 事実のみをサイハは告げる。
 が、ホウはそれでもひるまなかった。
「それでも、あなたが……あなたがやらせたのでしょう? 自分は手を下さずに、あなたが、村の人たちを操って……」
 この人を殺したのでしょう、と手の中にある血染めの服を強く握りしめる。
 サイハはにっこりと毒花のごとく笑った。
「失礼な」
 まるで精神に介入して操作したかのようにいわれたが、それは誤解だ。
 村を雑魚妖魔の集団に襲わせただけである。適当に人間側に被害をもたらしたあと、その女に向かって深々と頭を下げさせただけ。そして撤退させる。そのあとはサイハのあずかり知らぬことだ。脅えきった村人達が「お前が仕組んだことなのか」と、女を血祭りにあげるだろうことは高い確率で予想できたことだけれど。
 あとは簡単なこと。女を殺し、興奮と安堵に満たされていた村人たちは、撤退したと思っていた妖魔の集団に再び襲撃された。ホウが駆けつけた頃には妖魔たちが血の祝宴に酔っていた。彼は間に合わなかったのだ。
 妖魔たちは、嘆き悲しんだホウの手によって一人残らず塵に返された。その展開もサイハにとっては好都合。彼らに口止めする手間が省けた。
「可哀想に。彼女は最後まであなたの名を呼んで助けを求めていたわ」
 くすくす、くすくす。
 ホウの顔がゆがんだ。小刻みに震え始める。
「ただひとりの闇の精霊。唯一にして孤高の精霊の長。あなたが信じて守ろうとしていた人間に、あなたが大切にしていた妻を殺されたのはどんな気持ち?」
 それを告げたときのホウの顔ときたら見物(みもの)だった。
 絶望と後悔と自責に彩られ、かの人の顔は白く凍り付いた。星をも凍らせる砂漠の夜のまっただ中にあってもこんな顔は出来ないに違いない。その悲壮な顔はゾクゾクするほど美しかった。
 亡くなった女は、ホウに妻と呼ばれていた。
 本来、精霊に定まった性別はない。彼女がホウを望み、ホウも彼女を望んだときから闇の精霊は男性へと変化した。
 それはまるで物語にでもなりそうな禁断の恋だった。決して許されない想いだったから、ホウは精霊からも人間からも隠すように彼女をこの辺境の村に隠した。
 結果、それがあだとなった。誰一人護衛のない中、無力な妻は人間に殺された。
 ホウは視線をサイハからはずし、手元を見た。見ているのは彼女の形見の衣服か、守りきれなかった自分の両手か。彼女は「亡骸さえ残さず」「消えた」。森の色した瞳から涙があとからあとから真珠のようにこぼれ落ちる。乾ききった砂地はそれを全部受け止めて、跡が残らぬくらい素早く地中へ取り込んだ。
 泣きながら、魂から絞り出すように彼は妻の名を呼んだ。
「――ソウジュ……」
 最愛の妖魔(ひと)の名を。
 月の光を思わせる女性だった。もう、かのひとの紫の瞳が開くことはなく、銀の髪に指を滑らせることもない。

 彼女の魂が月の女神として生まれ変わったのは、それからまもなくのことだった。

   *

 闇の精霊と光の妖魔の間に生まれるはずだった子供は、その可能性を摘まれた。
 光と闇の間から混沌が生まれる。
 あのとき一度阻止したはずなのに、闇の精霊の生まれ変わりは、今度こそ混沌の種を芽吹かせることに成功した。

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