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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第五節第二項(141)

 2.

 ところ変わって、ここは妖魔の城。
 麗しの妖魔の長は長椅子に寝そべって、遠い日の夢を見ていた。
 胸の奥が痛くなるほど幸せな幸せな。

 その人はいった。
 お前、私が分かるかい、と。
 生まれたばかりのサイハは、分かると頷いた。
 目を開けると辺りはあふれんばかりの金色の光。それが、サイハが最初に見たもの。輝く太陽の光。力強く、暖かく、まぶしかった。

 妖魔は神の足下、その影から生まれたという。
 サイハはその最初の妖魔だった。輝く金色の光を身にまとった太陽神が、自分の影から生み出した「自分たちに似た、強く美しい生き物」。それがサイハ。
 輝く光があまりにも強かったから、それに呼応するように影は色濃くなった。だからサイハは誰よりも強い。もっとも輝くものが生み出した、もっとも色濃い影だから。神々に匹敵する力を生まれながらにその身に宿していた。
 美しくという思いも具現化された。太陽神は、自分が知る限りの美しいものをサイハに与えた。その顔も、その体も。宝石の色を映した髪と瞳も、そう。蛋白石(オパール)の髪、黒真珠の瞳。どちらの宝石も光の加減によってくるくる表情を変える。光なくして色はありえない。色があるということは光があるということ。色は光、光は色。サイハが幻を操るのは、光を操ることができるから。
 影から生まれながら、光を司ることを許された。
 光り輝く神々が、自分たちを模倣して作った生き物ゆえに。

『強く美しい私の創作物。お前に名前を与えよう』
 最後の贈り物は、うんと綺麗な名前だった。
 まだサイハが砕破と名乗る前の、大切な真名。あまりに大切だから、のちに誰にも呼ばれないよう、宝物を隠すように名前を隠した。
 太陽神の隣には、寄り添うようにして銀色の光を身にまとった月がいた。あの頃はまだ、あの女を嫌いではなかったのだ。
 無条件に微笑んでいられた。
 神話の時代が終わりを告げる、そのときまで。

 愛しい創造主。幸せな、幸せな思い出。
 まだ太陽と月が空に輝く天体ではなく、神話が息づいていた遠い日のお伽話。

   *

「サイハ様」
 従僕の呼ぶ声が聞こえて、サイハは美しい夢から覚めた。
 黒真珠の瞳を開けると、辺りは金色の光の代わりにどこまでも広がる闇があった。
「おやすみのところ申し訳ありません。お言いつけのお時間でしたので声をかけさせていただきました」
 サイハの足下には、白い髪をした忠実な精霊が跪いていた。サイハはゆっくりと起きあがり、微笑んでみせる。
「いいのよ。おかげで、いい夢で終わった」
 もしも、続きを見るようなことになったなら、歴史のまま悪夢に突入していっただろうから。
「素敵な夢だったの」
 夢というのは甘美な響きをもつ。過ぎ去った遠い日を、そしてまだ見ぬ薔薇色の未来を噛みしめることができる唯一の手段。
 白い髪の従僕こと氷の精霊キドラは顔をあげる。そして、何か一大事があったように困惑した鋭い声をあげた。
「サイハ様……っ」
「え?」
 なんだろう、とサイハが首をめぐらせる。そのはずみで、水が一滴頬をつたって落ちていった。
 サイハは自分の頬に手をやり、濡れていることを確かめた。顎のあたりを指ですくって指先に水をひっかける。サイハはそれを自分の目線のあたりまで持ち上げて、じっくりと見た。
「まだ私に涙なんてあったのね」
 言葉にすると、妙に淡々とした響きしか出なかった。
 一粒の涙。それは、なんの涙なのか。夢とはいえ懐かしい顔に会えた嬉し涙か、それとも、遠い昔に失ったことへの悲しみの涙か。どちらでもありえそうな気がしたし、また、どちらでもないような気もした。
 サイハは涙ごと手を握りしめる。そっと手の甲で頬をなでると、涙のあとはすぐになくなってしまった。
「キドラ。お客様はまだいらしていないわね?」
「はい。円卓の準備はできましたが、移動なさいますか?」
「そうするわ」
 腕をのばす。キドラはその手をうやうやしくとり、貴人を招き寄せる動作でサイハを円卓へと促した。

 円卓というのは上座と下座がない。今日サイハが招いた客人たちはうっかりするとそういう細かいことで喧嘩を始めそうな顔ぶればかりなので、円卓というのは実に便利だった。特に上座にいなくてもサイハが一番強いことは周知である。あとは、その他大勢といっても差し支えないのだ。
 招く客は多くない。円卓もそれほど大きくはなかった。だから小さな部屋で十分だった。薄く軽やかな絹の幕が幾重にもおろされ、壁代わりの仕切になっている。
 サイハが腰掛けて水晶の杯に満たした美酒を楽しみながら待っていると、最初の客が現れた。正確には、乱暴な足音で客が誰なのかあたりをつける。幕の向こうから現れる顔を予想しながらサイハは微笑みを浮かべた。
「ようこそ、四海将軍」
 現れたのは巨漢だった。大きな足音を立てる太い足、丸太のように太い腕。そして尖った鱗に覆われた太い尻尾。年季の入った傷だらけの鎧の上には、鰐(わに)そっくりの顔が乗っていた。
「いよう、滅王」
 開けた口の奥には鋭い牙が並んでいる。ちょうど鰐が人のように二本足で立ち上がって、鎧を身につけたらこんな風になるだろうという個性的な外見の持ち主だった。
 サイハはこの巨漢にも自分と同じ酒を勧める。
「久しぶりね、カイマン。懐かしい名で呼んでくれること」
 好きなところに座れと、口でいう代わりに白い腕をまわして円卓を指し示した。円卓の周囲には椅子が四脚あり、そのうちのひとつにサイハが座る。予備の椅子がひとつ別に用意されていた。
 カイマンはサイハの隣を避けて椅子に手をかけた。女王が腰掛けるのにふさわしいほっそりした形の椅子は、すぐ巨漢の体にあった大きく頑丈なものへと変化する。彼は遠慮なしに体重をかけてその椅子へ座った。
「ああ、久しぶりだ。雷帝が死んで以来だからな」
「数百年ぶりということね」
 ぶっきらぼうな物言いを軽く受け流す。
 四海将軍という異名を持つこの巨漢は、下級妖魔として生まれ落ちながら将軍と呼ばれるまでに成り上がった、その筋では有名な妖魔だった。恵まれた体格を活かした、見た目通り力押しで相手を屠る型の妖魔である。
 かつての雷帝の部下であり、今もサイハに頭を下げることはなかった。一対一でやりあっても勝てないから喧嘩を売ってこないだけだ。
 そのカイマンは水晶の杯に目を落として舌打ちを漏らした。
「雷帝とは飲む約束をしていたが、よもやあんたと酒を飲むはめになるとはな」
 その約束は果たされなかった。雷帝が命を落としたゆえに。
 それを知っているサイハは何もいわない。
 雷帝に心酔していた元部下たちは、そのほとんどがサイハを快く思っていない。それは致し方ないといえる。求められるものが違いすぎるからだ。少なくともカイマンは、サイハがよくやる戦法――体を使って懐柔する方法や、騙したり罠を仕掛けたり同士討ちさせたりする方法を好まなかった。
 両隣にある空(から)の椅子の数を見て、カイマンはややとまどったようにいう。
「少ないな」
「ええ。少数精鋭でね。ほら、私ったら、人見知りしやすいでしょう?」
 いけしゃあしゃあと言ってみた。カイマンは鼻筋にしわを寄せる。
「だったら俺なんぞ呼び出す理由がないだろうが」
「あなたが私を嫌いなのは知っているわ。でも人選を考えたら、私に好意的な妖魔の中には目的にふさわしい存在がいなかったのよ」
 サイハは妖魔の長だが、好意的でない妖魔も大勢いる。だが誰もサイハには逆らわない。妖魔の集団に求められるのは純粋に強さだけで、好きか嫌いかは関係ない。そしてその強さがサイハにはある。最も強い者が他を支配する構図は神話の時代よりずっと変わっていない。余談ではあるが、雷帝支配時代だけは若干異なっていた。当時を知る妖魔や精霊はこの時代を「妖魔には表の長と、裏の長がいた」という。雷帝と滅王、どちらが長になってもおかしくなかった。強さが同じ程度であればあるほど相手を蹴落としたいと思うのが妖魔。だが雷帝はサイハを支配することはなく、むしろ尊重し、まるで友のように接した。サイハもまた自ら雷帝の一歩後ろにさがり裏に徹した。とても珍しい間柄だったかもしれない。
「あの時代、妖魔は最強だったかもしれんな」
「最強なのはむしろ精霊だったでしょう。こっちは二人がかりで妖魔をまとめていたのに、あちらは一人で全精霊を統率していたのですもの。特に雷帝は、当時の精霊の長とよくぶつかっていたわね」
 私は表に出なかったけれど、とサイハは付け加える。今でこそ精霊は妖魔の手足となるが、当時は敵同士だった。宿敵といってもいい。まだ霧の谷ができる前、人間の中から精霊の長を選ぶ前の話だ。闇の精霊がすべての精霊を束ねていた時代の話である。
 カイマンは水晶の杯を手に取り、匂いを嗅ぎ、少しなめてみて毒が入っていないことを確認してから一口、口に含んだ。
「話がそれたな。それで? さっきあんたがいった『目的にふさわしい存在』ってのは何だ? 今度は何をおっぱじめようってんだ?」
 俺に何をやらせるつもりだ?
 爬虫類の表情のわかりにくい目が、ぎょろりと動いてサイハをにらみつける。
 麗しき妖魔の女王は花が咲きこぼれるような笑みをたたえた。もちろん、カイマンがいわなかった言外のことも含めた上で。
「ふふ。『予言の星』を迎えるにあたって、ちょっと余興をね」
 カイマンの肉厚なまぶたがぴくりと動いた。

 そのとき。絹の帳の向こうから突如、涼やかな声音が割り込んだ。
「失礼いたします。死者達の昏主様が参られました」
 サイハとカイマンは同時に口をつぐんだ。
 カイマンは目だけで「そんな名前の妖魔がいたか」と問いかけ、サイハはそれをやはり目だけで受けて苦笑してみせた。昏主(こんしゅ)というのは馬鹿な王という意味だ。
 やや強い匂いが近づいてきた。サイハはその匂いで来訪者が間違いなく招待客だとわかる。カイマンは不快げに鼻をこすった。鱗に覆われたその手は武器を握りやすいようにか、人と似た形をしている。
「なんだ、この匂い。乾燥した腐肉……それに、香辛料……?」
「優秀な鼻ね。本当、この匂いだけどうにかならないかしら」
 いうほどサイハは困っていなかった。くすくすと笑う。
 絹の帳を払い、最初にキドラが入室してきた。その後ろから小柄な人物が軽やかな足取りで入ってくる。これが匂いの大元だった。
「ひょひょひょ。待たせたかの、麗しき女王」
 カタカタと歯を鳴らして、金メッキの王冠を被った骸骨が片手をあげた。だぶだぶの長衣からは骨に皮だけを張ったような細い手首が覗く。それを見たカイマンが、思わず椅子から腰を浮かした。
「なっ……しゃべる骸骨まで呼んだのか!」
「ぬぬ! そういうお主は、出来損ないの鰐将軍ではないか!」
 サイハは目を細めて二人を見つめた。
「ようこそ、冥土の人形職人。来てくれて嬉しいわ」
 自称「死者達の昏主」、妖魔一般に知られた異名でいうと「冥土の人形職人」「しゃべる骸骨」。彼は死者を操ることを得意とする妖魔である。あまりにたくさんの人間を殺し、あまりにたくさんの死体で人形を造り、その行き着く果てとして自分の体さえ死人のそれに変えてしまった。骸骨に若干の肉と乾燥しきった表皮一枚が貼り付いた外見へと。あたりに漂う匂いの正体は、本当に乾燥した骨と皮と肉の匂い、それと防腐剤として使用される香辛料の匂いが入り交じったものだった。
 生きた人間は減るが、死んだ人間は減らない。魂を浄化されるまで術者の操る通り動き続ける。自らを「死者達の王」と名乗っておかしくないほど彼の配下は増えている。だが彼は賢王になるつもりなど更々ない。お気楽な昏主で十分だ。そして実際、彼は作った死体人形をよく使い捨てのおもちゃとして遊んでいた。
 猛々しき戦士であるカイマンは、こういう性格を一番嫌っていた。
「冗談じゃない、俺はおりる! こんな根性のねじ曲がった奴まで引っ張り込むたぁ、どうせろくな話じゃない!」
 ろくな話ではないのは当たっている。サイハは困ったように頬に白い手を添えた。
「でもね、シドは、それはそれは腕のいい職人なのよ」
 どうあっても彼、シドの協力は必要なのだ。正確には、彼が作った人形が。
「それに、私はあなたほど強い斬撃を繰り出す妖魔を知らないの」
 それもまた必要なのだ。サイハが練る「余興」には。
 だがカイマンとシド、双方ともに納得していないのは明らかだった。
「俺はごめんだ」
「のう、女王よ。悪いが儂(わし)も、こやつと一緒はごめんじゃあ。こやつ、死体の損壊、大きいんじゃもん。ばらばらな手足を繋いだり、傷口を洗い流したり皮をなめして貼り付けたり、手間なんじゃよ」
「俺が屠った人間を、勝手に人形にするな!」
「やかましいわ、不細工な出来損ないが。ただ死体を操るだけなら手間はかからん。それを美しく、かつ機能的に仕上げるのが職人としての意地と腕の見せ所なんじゃ!」
 サイハは、シドのこういう妙なこだわりには好感を覚えていた。ただ人形職人としての美意識が強すぎ、彼の基準でいう美しくないものに対してはひどく辛辣なところが目に余る。
 王冠を被ったしゃべる骸骨は急に何かを思いだしたか、ぽんと手を打った。サイハに向かう。
「おお、美しく機能的といえば、ご所望の人形が九割方できあがったぞい」
 眼球のない真っ黒な眼窩が、生き生きと輝いているようにみえた。骨のこすれる軽い足音を立てながらシドは絹の幕の向こうへ消える。
 キドラが補足した。
「死者達の昏主様は、顔を隠した背の高い従者をお連れになっていました。ここに通すべきだったでしょうか?」
「あなたに不備はないわ」
 杯を持ち上げて少し唇を湿らせた。キドラの仕事はサイハに不審者を近づけないこと。だから彼の判断は正しい。シドが「人形」を連れてくるかどうか分からなかったから、一応予備の椅子を用意していたのだ。
「キドラ。悪いけれど少しの間、席をはずしてくれる?」
 白い髪をした氷の精霊はうやうやしく頭(こうべ)を垂れた。
 白い精霊が下がるのとすれ違いに、シドが絹の幕から入室してきた。その後ろには黒い長衣に身を包んだ「人形」が付き従っている。体全体を包み込む魔術師の長衣のようなその衣服は、人形の体格をしっかり覆い隠していた。付属の頭巾を目深に被り、顔がまったく分からない。背の高さから男だろうと予測をつける程度だ。真横を通るときキドラは少しその人形に視線をやった。サイハはそれを見つめながら、気づかれただろうかと目を細める。
「女王、これじゃこれじゃ! ここしばらくで一番の出来じゃぞ!」
 子供のようにはしゃぎながら、シドは自慢げに黒い長衣の人形をサイハの前に立たせた。 
 キドラの姿が完全に見えなくなった後、シドに命じられると人形は自分で動いた。その動きは滑らかで、分かっていてもそれが人形だとは信じがたい。生きている人間と同じくらい健康的な色をした手が頭巾を払いのけた。顔があらわになる。

 カイマンはこれ以上ないほど目を見開いた。うろたえたはずみで水晶の杯を倒してしまい、赤い酒が円卓の上からしたたり落ちる。
 雷帝の隣にいた時代、いやというほど見た顔だった。

 長い黒髪が肩より滑り落ちる。
 硝子玉の瞳は森の色をしていた。
 滑らかな白い肌、すっきりと通った鼻梁、整った形の眉。やや伏せられた目は、長いまつげで縁取られていた。真一文字につぐまれている薄い唇は冷たい印象で、だが微笑みを浮かべたときはどれほど優しく見えるのだろう。穏やかな光源の中、まっすぐな黒髪はどこまでも深い漆黒をたたえていた。
 誰もがうっとりと見ほれてしまう繊細にして優雅な顔立ちは、人形になっても変わらない。サイハもよく知っている絶世の佳人の顔。

 サイハは赤い唇に満足げな笑みを乗せた。
 かつて闇の精霊として人間に殺され、人間として生まれ変わったあとは親友に殺された、懐かしいホウの顔をひたと見つめながら。
「キドラが見たら何というかしらね?」
 半世紀ほど前に切り落とした首が、まさかこんなことに使われるとは思っていなかったに違いない。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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