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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第五節第一項(140)

 女郎蜘蛛の罠

 木々のそばで、とりわけ美しい大きな蜘蛛の巣をみかけたら。
 それはおそらく女郎蜘蛛の巣だろう。
 その網の精巧さ、見事さときたら自然界の不思議に思わず感嘆しようというものだ。雨や朝露に濡れでもすれば、水が玉となり連なって、まるで真珠粒を編みこんだ繊細なレース細工である。
 女郎蜘蛛は雌が大きく雄が小さい。巣の中心にいるのは必ずといっていいほど雌。美しい天然素材のレースを編んだ女主人は、まがまがしささえ感じさせる色鮮やかな衣装をまとって中央に座る。じっと獲物がかかるのを待ちながら。
 そう、彼女のレース細工は美しさによって誰かの目を和ませるものではなく、獲物を捕らえるための透明な罠。粘着性のある糸はしっかりと相手に絡みつき、また細い糸は見かけよりはるかに丈夫だから簡単には引きちぎれない。自由を奪われ、羽を奪われ、呼吸さえ封じられて、獲物はおいしく女主人の腹の中。
 森の暗がりで、風の通り道で。
 油断して通り過ぎていきそうな場所に、二重三重に仕掛けられた罠。

 暗がりの中で、女郎蜘蛛は今日も糸を張り巡らせる。
 獲物が罠にかかるのをゆっくり待ちながら。

 くすくす、くすくす。

 闇の中でサイハが笑った。

 1.

 聖都の町並みは中央広場から放射状にのびている道に沿って作られている。
 それらの主要な通りと通りを、細い路地が繋ぐ。その様子は、大通りを縦糸、路地を横糸に見立てるとまるで巨大な蜘蛛の巣のようだった。

 ちまたでは「神々の膝元」とも呼ばれる聖都だが、聖人君子ばかりが住んでいるわけではない。治安のよい高級住宅地もあれば、もちろん治安のよろしくない一角があったりもする。そういう場所が乞食や盗人などの吹き溜まりとなるのもまた自然の理だろう。
 そんな場所の、春をひさぐ宿のひとつに子供が入り込んだ。
 古びた衣服を着た少年である。彼は腐りかけた木の階段を軽快に駆け上がる。
「ちょいと、こんな場所に出入りするには早すぎるよ!」
 小太りの娼婦が少年に注意すると、
「ただの使いっ走りだい!」
 と、生意気な口が返ってきた。
 宿は増築に増築を重ねてかなり複雑な造りになっていたが、少年は迷いもせずにある一室を目指す。その部屋の扉を前にして、少年の足はためらいがちに止まった。時刻はもうすぐ夜明けという時間。しかも場所が場所である。寝入ったばかりかもしれないという危惧があったが、意を決して粗末な木の扉を乱暴に叩いた。
「ごめんよ。おい、兄ちゃん。青い兄ちゃん」
 どんどんどん。
 部屋の中で、女が身を起こした。
「お呼びよ。どうする?」
 寝台の上には男と女が一人ずつ。女は傍らに寝そべる男に声をかけた。男のまぶたが開いて、青い瞳が現れる。部屋は真っ暗だった。一切の光が入らないよう、窓は釘で打ち付けてある。
 前髪をかきあげて、二、三度、まばたきをする。セイは体を起こした。
「出るの?」
「ああ」
 寝しなを叩き起こされた形になったが、声の主に聞き覚えがあった。用件はだいたい予想できる。セイは寝台から降り、明かりひとつない暗闇をものともせずに数歩歩いて部屋の扉を開けてやった。
 扉の前にいたのは、聖都初日にセイの懐から財布をすりとったあの少年だった。例の一件以来、小さな盗賊団はすっかりセイの子飼いである。
 ここのところずっとセイは同じ女のところで寝泊まりしている。少年には用事を言いつけた際、二、三ヶ所宿泊先を指定しておいた。どれもこれも安い娼館ばかりで、ヒスイたちが泊っている宿はその中に含まれていなかった。もっともヒスイたちが泊まっているところは立地条件からして高級な部類に含まれ、すりの少年程度の身なりでは正面から入らせてはくれない。
 なにより、彼らにヒスイたちの側をうろつかせたくなかった。それが一番の理由かもしれない。
 さて肝心の少年はというと、セイ本人よりその後ろに見える部屋の奥に興味がわいたようだ。これくらいの年頃の少年にとっては、寝台の上に半裸で座る女は十分刺激がある存在だろう。
「やれやれ。なりは小さくても男だねぇ」
「……って、そんなことやってる場合じゃないんだよ。兄ちゃん、ちょっと」
 指で手前に来るよう指示される。
 セイは少し眉を寄せた後、一歩前に出て扉を閉めた。部屋の中にいる女に会話を聞かれたくないためである。廊下のほうが危険性は高く思えるが、隣は向こう二部屋ほど空室なのをセイは知っていた。ついでに気配を探って、聞き耳をたてている者がいないことも確認する。
「いいぞ。話せ」
 少年は頷いた。
「あのさ。兄ちゃんに、海の方向を見張ってろといわれたろ? はっきりした情報が入ってくるのはこれからだけど、第一報だ。連絡船が一隻、沖で壊れた」
 セイは片方の眉じりをあげた。事故か、それとも事件か。どういうことかと続きをうながす。
「沖で大破したんだとさ。船底に穴を開けられて。なんでも、生き残った人の話によると、動く小島がぶつかってきた、って。にわかに信じられないのは分かるけどさ」
 セイはますます柳眉を険しくした。
 イスカが船で来ることが分かっていたから、彼の到着を知るためにも海を見張っていろといったのだが思わぬ方向へ事態が転がっている。
 妖魔の仕業かとセイは首をひねった。この辺りに出没しそうな妖魔の顔をいくつか思い浮かべてみる。だがどの顔も、小島を動かして船にぶつけるなどという回りくどい手段をとるとは思えない。
 そうでなければ精霊かと思ったが、こちらは完全にセイには手に負えない範疇だ。
「動く小島……自然界のものだとアカウミガメか、オサガメか……いや、生息域をはずれるな……」
 人間が島と間違えそうなくらい巨大な亀の種類をいくつか思い浮かべ、そして首をふる。動物はよほど大きく環境が変わらない限り、生息域から出るとは考えにくい。
 そこでふと、セイの脳裏に疑問が浮かんだ。
 上記の亀の生息域にいる人間、特に船を寝床としている人間なら、例えどんなに巨大でも海亀を見誤るとは考えにくい。
 逆だったら? 初めてそれらをみる人々だったら?
 ここが生息域からはずれるから、彼らは初めて巨大な海亀を見たとは考えられないか?
 そして、未知のものだったからこそそれを「動く小島」と称した……。
 頭の中でくるくるまわるセイの思考を断ち切ったのは、少年が差し出した右手だった。手のひらを上に向けている。
「ん」
 催促の声。口を真一文字に結んでいる。
 セイは自分の後ろにある扉を開け、中にいる女に声をかけた。
「オレの上着」
 女は無言で上着を投げてよこす。セイはそれを受け取ると、懐から財布を出してきて何枚かの銅貨を少年に握らせてやった。少年はその一瞬だけ満足げな表情になる。だがすぐに引き締めた。
「まいどあり。それからさ、続けて調べるんだろ?」
 右手をしっかり握りしめて、今度は左手を差し出してくる。引き続き調査するなら前金をよこせということである。しかしセイは首を振った。
「いや、もういい。ご苦労だったな」
「いいのか?」
「ああ。それだけ分かればあとは自分で調べられる。足りない駄賃は、裏組合にでも売って補え。それなりの値で買ってもらえるだろう」
 裏組合とは、盗賊やら浮浪児やらを束ねている表沙汰にできない集団の通称である。セイが売れといったのは情報そのもののこと。個人の情報屋として動いているときに組合に情報をもらすのは一応、規約違反だ。少年ももちろん最初はそのつもりであったのだが、雇い主に承諾を得たのなら話は別である。
「兄ちゃん、話がわかるね。それじゃ、おいら、もう行くから」
 組合に行って「いいネタあるんだけど、買わないか?」と交渉にもちこめば収入になる。長居は無用とばかりに少年は、来たときと同じように軽快な足取りで階段を駆け下りていった。

 セイはその背を見送った後、上着を着込んで再び真っ暗な部屋に戻った。
 寝台の上には女がまだ半裸のまま座っている。
「行くの?」
 女は、いくつかの荷物を身につけるセイの手に絡みついてくる。それをうっとうしげに払いのけた。
「邪魔」
「つれないのね」
 一筋の光すら射さない闇の中、二人とも明かりなど必要としなかった。セイの身支度はほどなく終わり、女はこびるように絡みついてくる。
「また来て」
「オレはそれでもいいけれど。ほかのお客とらないと、収入にならないんじゃないの?」
 セイは薄く笑って女を見下ろした。
「そんなに同族喰いが楽しいか?」
 女はにたりと笑った。次の瞬間、口角が耳の近くまで裂け、伸びた白い牙がのぞく。潤んだ瞳は黄色く濁っていた。
 聖都がいかに結界で守られているとはいえ、かつての霧の谷に比べると劣るのはこういう部分だ。力の強い妖魔は入れない。だが力の弱い妖魔なら聖都でも生きてゆける。霧の谷では、かろうじて侵入できたとしても完璧に妖魔の力を押さえ込まれた。
 この女も妖魔だった。元は人間だったという。力ある妖魔に血を吸われ、弱い下級妖魔に堕ちた。以来、日の光を閉め出して、男をあさって生きている。
「あなたみたいに力があふれた妖魔、ここじゃ難しいのよ。人間の男をいくら食べてもこんなに満ち足りない。高位の妖魔がこんなにおいしいなんて……!」
 舌なめずりの音が静かな部屋の中に響く。この分だと彼女は当分、人間の血では満足できるまい。聖都に散っている下級妖魔たちは、裏組合とはまた異なるセイの情報源でもあった。
「ま、オレも助かるけどね。ここに泊まると宿代、いらないから」
 セイは血の一滴と引き替えに一夜の宿を得る。女は金の代わりに食欲を満たす。互いに利益がなければ、妖魔同士はつるまない。
「放せ。いつまでも化け物顔につきまとわれたくない」
 女はあっさりと引いた。顔も人間らしいそれに戻す。
「いいわ。また来てくれたら。なんなら、あなたの可愛い彼女も一緒でいいわよ」
 とんでもないことをいう。セイは一瞬その様子を想像して、げんなりした。
 相手はあのヒスイである。断言してもいいが、やきもちなど焼いてくれるはずがない。それどころか下手すると「なんだ、ちゃんと恋人がいるじゃないか」と、祝福されてしまうかもしれないのである。考えるだに恐ろしい。
「オレのいない間に、あの人にちょっかいかけたら本気で塵にするからね」
「会わせてくれたこともないくせに。あなたの可愛い彼女って、あの子でしょう。ほら、最近広場で注目を集めてる、ちょっとおいしそうな妖魔の女の子」
 女に悪気があったわけではないのだが、口走った内容がまずかった。
 セイはその場で窓を蹴りとばした。木の鎧戸でふさがれた窓はあっさりと破られる。さびた釘でしっかり打ち付けてあったが、材質の木は随分古くなっていたようだ。
「何すんのよ! 日光が入るじゃないの!」
 夜明けはもうすぐである。東の空が白々と明けてくるまで時間がない。
「うるさい、とっとと塵になれ」
 憎まれ口を叩きながら、セイはひらりと窓から出ていった。

 日の出が近づいているのが空模様からわかった。あたりは仄かに明るい。星が西へ西へと追われていく。
 セイは身の軽さを活かして屋根の上へ飛び上がった。南の方角を見る。聖都から見て南には、海が広がっているはずだ。
 そよぐ風に髪をなびかせ、セイは意識を集中させた。
「さあて。海で何があったのかな?」
 彼の髪の毛一本が青く染まったのを、誰が気づいただろうか。
 夢を操る妖魔がセイの本当の姿。人の心を覗くなど造作もないこと。
 海辺の町はここほど人が多くない。聖都へ向かうため一時的にいる外部の人間を含めても三千を少し過ぎるくらいだろう。三千人くらいの数なら、セイの本体が遠く聖都にあっても間違わずに一人一人の心を識別できる。そう難しいことではない。
 人々の心がセイに流れ込んでくる。
 恐怖。恐慌。怯え。驚き。好奇心。不安。心配。
 一人一人の感情をたぐり、その記憶をさかのぼり、色んな角度から何が起こったのかをおおよそ知ることができた。
 海から現れた未知の化け物、襲い来る高波、船底に開けられた穴。水が凶器になる。波にさらわれた人に手を伸ばし、甲板に木霊する叫び声。
 ――コゥイ! コゥイ、コゥイ、コゥイ!
 反射的に、セイは眉間に縦皺を刻んだ。
 ひどく縁起が悪い名前が聞こえた気がする。
 勘違いだと思いこみたくて、声の主を捜した。あの海賊の名前を手がかりに、その名を一番多く呼ぶ人間の意識を拾い上げる。
 海を見ながら、コゥイを呼ぶ心の声を見つけた。
 帰ってこい、と。
 知性と分別のある若い男。呼ぶ声は切ない。心を占めるのは不安と焦燥。どうか無事でいてほしいという願いと祈り。脳裏に浮かぶのは様々な表情をした海賊の姿。それと同時に、茶色の頭をした大地の神の神官もちらりと浮かんだ。
 思ってもいなかった展開に、セイは大きく慌てた。
 その一瞬の動揺が悪かったらしい。
「――おれ様の頭の中にいるのは誰だ!?」
 青年が叫んだ。気づかれたのだ。それまでコゥイを心配していた意識がすぐに頭の中にいる「他人」に向く。
 セイは慌てて意識の糸を断ち切って逃げた。

 セイの意識は再び聖都の、本体へと戻った。
「気づくか、普通!」
 屋根の上で、思わず毒づいた。それから慌てて口を押さえる。時刻は日の出前。朝の早い労働者たちはすでに活動を始めていて、聖都の人通りはかなり多くなっている。大声を出して気づかれでもしたらただの不審者だ。
 気を落ち着けて、セイはさきほど見たものをもう一度思い返した。
「なんなんだ、あれは」
 普通の人間は自分が心を読まれていると自覚しない。できない、といったほうが正しい。その前に心の中を覗かれることはないと思っているから防犯意識さえない。
 ところがあの青年は違った。いかにセイが動揺したからとはいえ、頭の中にいる第三者に気が付いた。そんな芸当ができる人間は「普通」ではない。
「まさか、魔術師? ちょっと待て。あの気配、覚えがあるぞ。たしかヒスイをかっさらってくるときに一緒にいたはずだ。冗談じゃない!」
 コゥイ一人くらい、どうとでも手のひらの上で転がすことができる。相手はただの人間なのだから。しかし、これに魔術師が付いているとなれば話は別である。魔術師はささやかながら妖魔に対抗できる手段を持っているのだから。
 正確にいうと魔術師には二通りある。きちんと物見の塔で学んだ正規の魔術師と、それ以外の自称魔術師、いわゆるモグリだ。モグリならたかが知れているのだが、もしも正規の魔術師ならば相手にするのは少々面倒になる。今度会うことがあったらその辺りを確認しなければならない。目印は、紋章入りの留め具である。物見の塔を卒業するとき与えられるもので、それが正規の魔術師の証明書代わりとなる。
 おまけにどんな強運が働いたか、彼らはイスカと接触しているらしい。あの青年の頭の中から探り出せた情報によると、イスカは襲ってきた海亀に「呼ばれて」コゥイと一緒に海に落ちた。わざわざ呼び出すくらいだからイスカを傷つけるものではあるまい。だとしたら同行していると思われるあの海賊も、残念ながら無事だ。
 しかも、だ。あのお人好し神官のことである。のこのこと彼らを連れて聖都にやってくる可能性もある。
 忌々しげに舌を打った。
「いずれヒスイにたどり着くだろうとは思っていたけど、こんなに早いなんて計算外だ。このままだと聖都で鉢合わせするかもしれないじゃないか。それでなくても、ヒスイさんのあいつに対する反応、そんなに悪くないってのに。おまけに魔術師を連れてるなんて聞いてないぞ?」
 計算外だ、ともう一度つぶやいた。
 すうっと目が細められる。青い瞳が氷のように冷たい色を跳ね返した。
「魔が差す瞬間ってこういうことをいうのかなぁ?」
 朝日が横から射し込んだ。あふれる金色の光は今日も清々しい朝を提供する。
 その光の中、あまり清々しいとはいえない思想を抱いた妖魔が一人、屋根の上で物騒なことをつぶやいていたことを知る者は誰もいなかった。

 セイはその足で聖都の城壁を越えた――聖都の結界の外へ出た。
 そのころヒスイたちはまだ夢の中だった。夢見の妖魔から、一時的な眠りの呪縛を与えられたことなど知るよしもなく。

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