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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第四節第七項(139)

 7.

 ここを城とするならば、この乳母殿、間違いなく城代家老の位置にいるだろう。
 それくらいの地位と権力と、また胆力をもった女傑であった。実力行使も厭わないという意味もこめて、本体でこの場所に体当たりをかましたのだ。
 青くなったのはスイレンである。
「ばあや!」
 スイレンが扉の側に走り寄る。巨大な扉は、真ん中から左右に開く形で、鉄でできているものだ。外からは人の形をしているとおぼしき何人かの娘の声もする。
「姫様、ご無事ですか!」
「今、そちらに参ります。ここを開けてくださいませ」
 口調は丁寧だが、そこには軍人にありがちな固い響きが感じられた。彼女たちはおそらく普通の侍女などではない。こんな秘密の場所にも連れてこられるくらい信頼のある女兵士であることが安易に想像できた。
 彼女たちはスイレンが助けを求めて涙する捕らわれの姫君であることを疑いもしない。だが、乳母を含めた彼女たちをきつく叱責したのは他ならぬスイレンだった。
「あなたたち、なんということをしてくれたのです!」
 命令することに慣れた、厳しい声だった。
 スイレンは地位だけの飾り物ではなく実質ここの司令官である。上官の命令は絶対服従が原則だ。骨の髄までそれが染み込んでいる女兵士たちは扉の向こうで息を呑んだ。スイレンは叱責の声をまだやめない。
「あなたたち、自分が誰に牙をむいているのか分かっているのですか! かつては一精霊でありながら諸手をあげて一族に迎えられ、今は次期地竜の長のご養育までまかされている御方ですよ! 水竜と地竜の間に大きな戦でも起こそうというのですか!?」
 扉の向こうから明らかに動揺した空気が流れた。
 コゥイはちょっと眉をあげる。
 会話の内容からして、それはどうやらコゥイの後ろでごそごそ着替えをしている地竜のことを指しているらしいのだが、聞いていると随分なお偉いさんのようである。もう何がきても驚かないつもりでいたが、びっくり箱のようにいくらでも出てくるものだ。
「おい。お前、そんなに偉い奴だったのか?」
 答えはコゥイの身長よりやや下から聞こえた。
「どうもそういうことになっているみたいです。まったくもって柄じゃないんですけれどね」
 肉声だった。いつのまにか地竜の姿から人の姿へ、変化を終えていたらしい。
「あ、まだ後ろ向かないでくださいね。あんまり気分がいいものではありませんので。最後、どうしても尻尾がひっかかってしまうんですよ」
 コゥイは意図的に自分の想像力を殺した。あののんきそうな少年に、爬虫類の尻尾が生えている姿などあまり想像したくない。
 今、明かり取りになるようなものは天井近くの壁の穴からもれる光のみだった。自分たちが穴を開けて落ちてきたところだ。ろうそくの炎がすべて消えている薄暗いこの部屋で、コゥイの目に映っているのはスイレンの背中に流れる淡い色の髪くらいだった。位置関係からいうとその向こうに扉があったはずである。
 スイレンの叱りとばす声に萎縮したかと思いきや、乳母殿は負けてはいなかった。
(最初に非礼な真似をしたのはそちらのほうです。その程度のこと、この婆が想定していないとでもお思いですか!)
 地竜との戦になっても結構だといわんばかりである。
 スイレンは肩を震わせた。
 実際にそこまでするつもりはなく、あくまでも威嚇のためだろう。分かっているけれど、乳母にここまでいわせてしまったのはスイレンの責任だ。監督不行届といってもいい。
(もう一度いいます。姫君を解放なさいませ、イスカ様!)
 直々のご指名である。コゥイの後ろで法衣を着ているだろう衣擦れの音が聞こえて、靴をならす音が続く。金色の環を締めた少年の姿が隣に現れたのはすぐだった。
 少年は少し声を大きくした。
「おっしゃられている意味がわかりかねます。僕を拘束しようとなさったのはそちらが先でしょう?」
 いきりたつ乳母の声とは対照的に、どこまでも穏やかだった。ひとつ間違えれば慇懃無礼(いんぎんぶれい)となるような返答だったが、性格を反映しているのか人を食ったような響きは欠片もない。誠実な声音だった。
 イスカは次にコゥイに聞こえるかどうかほど小さな声で囁く。
「今のうちに靴を履いていてください。三十六計逃げるにしかず、です」
 どうやって、とはコゥイは聞かなかった。いわれるがまま靴を履く。脱出したがっていたイスカがここを目指してやってきた。ということは、ここという場所に魔法かなにかがかかっていて外に出られるのかもしれないと考えたからだ。
 スイレンはこわごわとイスカを振り向いた。琥珀色の瞳と青磁色の瞳が、視線をあわせただけで合図を交わす。竜である彼らは、この程度の暗闇なら目で合図を送るくらいお手の物である。スイレンは扉の前から退いた。ちょうど、扉をコゥイの正面にあると仮定するならその九十度左へと動いたのだ。
 不思議な声がスイレンから発される。呪文の詠唱に似ているが人語ではない。
 そのとたんに、コゥイとイスカのまわりに光が生まれた。目を射るほどでもない淡く優しい光。青白い光は一定の法則で二人を取り巻くように動き、円形魔法陣を描く。始めからこの場所に描かれてあったのか、それともスイレンがわざとコゥイたちを中心にして発動させたのかはわからない。分かっているのは、それがスイレンの詠唱によるものだということだけだ。
「乳母殿、僕は水竜の一族にたてつくつもりはありません。スイレンのことにしても危害を加えるつもりなどまったくありませんでした」
 青白い魔法陣など目に入っていないかのようにイスカはとうとうと言葉を続ける。扉の向こうから伺い知れる水竜の威圧感は、残念ながらゆるむことはなかった。イスカは乳母が何もいってこないのを確かめたあと更に続ける。
「あなた方が僕を止めようとなさったお気持ちも理解できるつもりです。それはスイレンと話していても痛いほど伝わってきました。予言の星は異端。その結論を否定するつもりはありませんし、また、僕本人も大いに納得できる部分があるのも確かです。――ですが、僕はどうしても確かめなければいけないことがある」
(確かめる? 星が、まことに異端な存在であることを、ですか?)
「いいえ」
 そこでイスカは唇を一度しめらせる。
 何を、と、はっきりいうまで少し時間がかかった。本気で躊躇しているのか、それともスイレンの詠唱の時間稼ぎをしているのかは分からない。
 はっきりしないイスカに、乳母が牙をむいたような威嚇音で続きを促してきた。イスカは一拍置いて、きっぱりとした固い声で答えを返した。
「予言の星がこの『世界』における『何』であるかを、です」
 扉の向こうの水竜が、一度大きく息を吸い込んだのが聞き取れた。
 スイレンも驚きのあまり詠唱をやや乱した。しかし、さすがといおうか、魔法陣に乱れはない。その間も青白い光は幾重にも重なり、新しい魔法陣が同心円上に広がり、イスカとコゥイを包み込んでいく。
 魔法の知識がないコゥイにとって、大がかりな移動の魔法をかけているだろうことしか推察できない。ここにレイガがいたならもう少し詳しいことをコゥイに教えてくれただろう。この魔法陣の意味と、それから今のイスカの台詞の意味も。
 少年は言葉を続けた。
「自分が存在している意味など知ろうと思っても、きっと一生知り得ないでしょう。普通なら、です。ですが、予言の星の場合は違います。始めから……それこそご両親の出逢いから、そこに他者の意図がありました。詳しくは述べられませんが……」
 言葉を濁す。
 その言い方はまるで、予言の星が「何か」によって「作られたもの」のようだ。
 しかしそれは、コゥイにとって驚くに値しないことだった。優秀な性質を受け継いだ馬や牛を「作り出す」ためには考えて二親を掛け合わせるし、人間でも王侯貴族などは血筋を次代に伝えるための牧場のようなものである。もっとも、よい親同士を掛け合わせてもよい子ができるとは限らない。
 だが、竜たちには血筋を残すための「掛け合わせ」という概念がないのか、イスカもスイレンも扉の向こうの水竜も、本気でそれを嫌がっているように思えた。
「だから僕はそれを知りたい。あの方……予言の星がこの『世界』でどういう役目を負わされているのか。それも妖魔の長だけではなく、滅亡したはずの神まで関わっているようですからね。与えられた運命の重さも半端ではないかもしれません」
 だから知りにゆくのだ、と少年神官は告げた。
 沈黙が場を支配する。
 扉の向こうからは異論も反論もあがらなかった。
 魔法陣はすっかり部屋中に広がっており、コゥイも靴を履きおえていた。靴紐を失った片方はぶかぶかのままである。
 それから、イスカの琥珀色の瞳がきらめく。
「スイレン、今のうちです。転移の詠唱を始めてください」
 小声で囁いた。スイレンが頷き、今度は先ほどとはまた別の響きの詠唱が始まった。
 かなり小さな声だったのだが、なんと乳母殿にも聞こえていたらしい。扉の向こうが騒がしくなった。
(姑息な! 時間稼ぎですか!)
「嘘は申し上げていませんよ。ですが、一千年近く生きたあなたと、たかが八十年弱しか生きてない僕では勝ち目なんかないじゃないですか」
 イスカが両手をかまえる。その手の中にはまた、琥珀色に輝く杖が現れた。
「コゥイさん。僕の後ろに!」
 詠唱が続く。魔法陣からの青白い光は天高くそびえ立っていき、すっぽりとコゥイたち二人を覆い隠した。
 同時にイスカが何に警戒しているのかも、見えた。
 明かりのないこの場所で、魔法陣の光だけが視界を照らすものだったはずなのに、真っ赤に燃えた扉が視界に入ってきたのだ。
「ちょっと待て。おい、あれは炎か!」
 竜の姿をしていたときのイスカが炎を吹いたのを見ている。しかし、水竜という名前から、炎という単語は連想できなかった。
「そうです。あの扉には僕が物理的な力が利かないよう、封印を施してあります。体当たりくらいじゃ破れないと判断したんでしょう。炎で焼き切るつもりのようです」
 さらに付け加えた。どうやら竜の吐く炎というものは一般のそれよりも高温なのだと。それに時には魔法さえ形骸化するほど魔力的なものも高いという。竜の炎の前で、イスカのかけた封印など役には立たないということだ。
「てことは? あの扉が焼き切られたら、俺たちは丸焼けかよ!」
「正確にはコゥイさんだけが丸焼けですねぇ。僕は平気ですから」
 恐ろしいことを随分簡単にいってくれるものである。
 こうなってしまっては賭だ。あの乳母が扉を焼き切るのが早いか、それとも魔法陣による地上への転移が早いか。
「……ああ、そうだ。申し訳ありません、スイレン。僕の荷物はあとで近くの港町に届けてもらえるでしょうか。中に、とってもとっても大切なものが入っているんです」
 こんな状況にあってもイスカはいつもと変わらなかった。
 変わらないことが頼もしくさえ思える。行きがかっただけとはいえ、随分この少年には世話になってしまった。思わぬところで自分の出生の片鱗も分かった。妙な縁である。コゥイは唇に笑みを乗せた。ついでに自分も頼み事をする。
「どうせなら、俺の荷物もな。服と剣くらいしかねぇだろうけどよ」
 スイレンの唇は相変わらず詠唱を紡いでいたが、魔法陣で照らし出されている今は顎が小さく下に動いたのが見てとれた。

 体が少し浮く。コゥイは慌てて、一本きりの右手で自分より小さいイスカの首根っこをつかんだ。
 もう少しだった。もう少し。
 扉を焼く炎は熱気はすでにコゥイたちをあぶっていた。それでもまだ耐えられる熱さだったのは、もしかしたらイスカが結界のひとつでも張っているのかもしれない。
 足が完全に浮かび上がった。今だ、と思ったそのとき。
 無情にも真っ赤に焼けた鉄の扉は最後の悲鳴をあげた。
「しまっ……」
 圧倒的な炎の固まりがたたきつけられ、コゥイは反射的に目をかばった。

「転移!」
 涼やかなスイレンの声が最後に聞こえた。

   ***

 乳母は、扉が破れそうになっているのを見ると無理矢理入り口に竜の頭をつっこんだ。
 最後に見たのは魔法陣の光の中にいる少年と青年の二人。
 間違いなく自分の吐いた炎は二人を飲み込んだ、と見えたところで二人は転移の青白い光に包まれ上昇するようにして消えていった。

 転移そのものは成功した。二人の姿は、今はない。もっともどういう状態になって地上に戻ったかは乳母にもわからない。
 四角い部屋にはスイレンひとりが残されているだけだ。いや、残されているというのもおかしな表現かもしれない。彼女はこの宮の女主人であるのだから。
 ちょうど乳母の炎を避けたような位置に立っており、天井を見上げていた。本当に見ていたのは天井でなく、地上だろう。
(――姫君、ご無事で)
 水竜の姿をとった乳母は、ちょうど首しか部屋に入れない。とぐろを巻くほどの自分の体は通路に長々とのばされたままだった。頭をさげたくてもさげられず、瞳だけを女主人に向ける。
 スイレンはゆっくりとした動作で乳母を見た。
「ばあや……」
 すすだらけの顔だった。ひどく疲れたような様子をみせる。そのまま腰を下ろした。地べたに直接座り込むなどはしたない、と言いかけて、今日だけはその台詞をいうのはやめた。
「イスカ様は私に危害を加えようとはなさいませんでした。私は自分の意志でここまで来たのです。宮の者全員に、今回のことをよく口止めなさい。地竜と水竜の間でいさかいが起きるようなことはなにもなく、私が客分としてお招きし、帰っていただいたのです」
 いいですね、ともう一度念を押される。つまり、イスカがスイレンを人質まがいの方法で連れ出したことをなかったことにしろというのだ。それはスイレンがイスカを強引な方法で連れてきた事実もなかったことにしてしまおうという作戦でもある。それが女主人の命令ならば従うほかあるまい。乳母はその通りにすることにした。
 それでも、手塩にかけた我が子のような姫君はまだ放心したままだ。心配がちに声をかける乳母を、スイレンは見ようとはしなかった。
「あの人はご無事でしょうか。私は……間に合ったのでしょうか?」
(……姫様?)
 女主人はまだ放心している。いや、心ここにあらずといった状態で、あの青年を心配しているのだ。
 しかし、乳母の視線に気づくと彼女は気丈さを発揮した。
 すっくと立ち上がる。
「いいえ。きっとご無事ですわね。イスカ様がついておられるのですもの」
 それからやっと正面から乳母を見据えた。瞳に宿る光が、放心していた先ほどとは別人のようにしっかりしている。
「イスカ様とコゥイ様のお荷物を、あの海域から一番近い港町に送りなさい。おそらくは河口付近にある……名をなんといったかしら? あそこが一番聖都に近い海辺の町ですから、そちらに滞在されるご予定なのでしょう。それから、あなたもその姿をもっと小さくして早速お父様に連絡をつけてくださいな」
 乳母は黙ってその命令に従う意を示した。
 さりげなく、青年に対する呼称に「様」がついているのを聞き逃しはしない。
「今回のお招きはイスカ様に改心していただくためでしたが、芳しくない結果しか導きだせませんでした。ですがすべて失敗したわけではありません。イスカ様は気を付けていらっしゃったようですが我々は予言の星についてかなりの情報を得ました。これを黙っている手はありませんよ。さぁ、会議の支度を。お父様を通じて四竜に働きかけていただきましょう」
 長らく停滞していた竜の世界に、新たな一石を投じるべく。
「もっとも、あれは排除すべきだという私の意見は変わりませんけれどね……?」
 ぽつりとつぶやく。水竜の姫は自嘲気味の笑みを唇に乗せていた。
 台詞とは裏腹に、揺るぎなかったはずの信念には迷いが生まれていた。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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