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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第四節第六項(138)

 6.

 コゥイには分からなかった。イスカの呟きの意味が。
 一族郎党すべてを敵に回しても。
 その言葉の重みが。
 スイレンは唇を噛んだ。多少事情を知っているスイレンにとって、イスカの宣告は地竜やそのほか竜の一族を裏切って昔の主人の命令を遂行するつもりなのだと受け取れたからだ。少なくともスイレンはイスカを嫌ってはいなかった。ほかの竜も好意的にイスカのことを受け止めていた。同じ地竜の一族であればなおさらだろうし、地竜の長からの信頼も厚い。イスカが精霊として昔の主人に仕えていた時間よりもうんと長く竜たちと一緒に暮らしている。
 それなのにイスカは竜よりも、昔の主人の遺言を守るほうが大事なのだと聞こえた。
「イスカさまは、そんなに、まえの、しゅじんが大事ですか」
 青磁色の瞳に涙がにじむ。スイレンはイスカに分かってもらいたかった。けれど無理だった。イスカは始めからスイレンのいうことを聞いてくれるつもりなどなかったのだ。
「わたしたち、一族より、そんなに……」
 もしも声を封じられていなくても、あとの言葉は続かなかっただろうとスイレンは思った。裏切られたような思いと、信頼されていなかったのかと問いつめたい気持ちと、それならばどうして彼は竜に対しても誠実に接してくれるのか腹立たしい気持ちと。うるんだ瞳の中にさまざまに入り交じる色は複雑だった。
 コゥイはその様子をみて軽く肩をすくめる。
 スイレンは、世間知らずのお姫様なりに誠実で勤勉で善良な人柄なのだろう。自分はもっとも正しい選択をしたはずなのに、イスカがその逆の方向へ行くのが理解できないのだ。
「あんた、いつもそうだ。お姫さんこそ人の話なんか、はなから聞くつもりがないんだろう」 
「わ、わたくしは……!」
 さっと顔を赤くした。案外、自覚があるのかもしれない。
 イスカがそこに助け船をだした。意外なことに、彼はスイレンの肩を持ったのだ。
(あまりスイレンをいじめないであげてくださいね)
 コゥイはその真紅の瞳を竜の姿をした元・少年に向けた。
 イスカもまたスイレンの敵でもなければ味方でもなかった。予言の星を挟んだときだけスイレンと敵対、それ以外はどちらかといえばこのお姫様にとことん甘い。
 コゥイは頭の中で知っていることを素早く整理した。
 予言の星と呼ばれる、滅亡の予兆があること。それはどうやら一個人であること。
 スイレンはそれを排除したいこと。イスカはそれを守りたいと決意表明したこと。
「なぁ……予言の星ってのは何なんだ?」
 滅びの星、改革の星、異端の星。さまざまな名称があるがスイレンとイスカを隔てる理由は何なのか。そういったら、イスカは少し考えたあとのんびりといった。
(僕はスイレンより多くのことを知っていますから。よいことだけではなく、この『世界』にとってあまりよくないことも)
 気が付くとスイレンはその手を自分の膝の上に載せていた。どうやら治療は終わったらしい。イスカははるか高い天井を見上げ、まるで歌うようにつぶやいた。
(スイレンのいいたいこともよく分かります。星がこの『世界』に及ぼす影響力ははかり知れません。もし『世界』の秩序と安寧を第一とするならあの方は好ましいものではない。排除、あるいは抹消が適切でしょうね)
 この言葉にスイレンは目を輝かせ、逆にコゥイは目をむいた。
 イスカは予言の星を守りたいといった。その、守りたいといったイスカが星に対して否定的な意見を出すとは思わなかったのだ。
「ちょっと待て! テメエこそ、予言の星の敵か味方かはっきりしやがれ!」
(味方ですってば。どうしてコゥイさんが怒るんですか)
 怒りたくもなる。先ほどの言い方だとイスカはまったくスイレンの意見と同じではないか。スイレンは指を組み、何度も深く頷いた。やっと自分の説得が通じて嬉しくて仕方ないという顔である。
 実際は、イスカは説得されたわけではない。あくまでも客観的な意見をのべただけである。
(人間が星を手に入れれば地上の勢力図を書き換えるくらいたやすいでしょう。それだけで済めばいいのですけれど。竜が手に入れれば、その力を恐れるあまり生涯幽閉がいいところでしょうね。竜は変化を嫌いますから。妖魔が手に入れれば……実際サイハが色々画策しているみたいですけれど、それこそ何に利用されるか分かりません)
 声音はやはり歌うようで、まるでお伽話を語るようだった。イスカの話はすべて仮定の話である。そういう可能性が低いと考えているのか、もしかすると、そうはさせないという自分の誓いなのかもしれない。スイレンはそれまでの嬉しそうな顔から一転して紙のような顔色になった。コゥイはそこまで厄介な存在かと首を傾げた。危機感がいまひとつ、わかない。
 イスカはまったく違う表情を浮かべた二人を代わる代わる見て、吹き出した。竜が吹き出すと小さな炎がちょろりと出る。深刻な話にまったくそぐわない。
(すいません、ごめんなさい。だってあまりにも二人の表情が違うものですから)
「イスカ様? わ、私に、嘘をおしえたのですかっ?」
 冗談をいっておどかしたのかと狼狽するスイレンに、イスカはまた元の静かな口調で言い切った。
(いいえ。本当のことです。でも、あの方個人の人間性については一言も語っていません)
 地竜は目を細めた。元が少年と知っていなければ相当年月を経た竜を前にしているような気がする。
(あの方はそう簡単に他人に利用されるような方ではありませんよ。生真面目で、頑固で、一度こうと決めたらテコでも動かない。脅したって無駄です。さらにいえば自分の心身の自由を侵害する相手に対しては容赦しません。徹底的に叩きのめします)
 なんだかとても嬉しそうに怖いことをいわれてしまった。スイレンは呆れてあんぐりと口を開ける。イスカはさらに続けた。
(あくの強い人だと思っているでしょう? そうですね。あの方はご自分の望みを叶えることができる方です。望むのはささやかな幸せ。温かなスープと雨露をしのげる寝床、守りたい人の笑顔があればいい。束縛を嫌い権力を厭い、家族を愛し仲間を信じています)
 決して無分別に与えられた力を振るう人ではない、とイスカは断言する。
 コゥイにはなんとなく分かった。イスカは決して、命令だからという理由で予言の星を守ろうとしているのではない。昔はご主人様第一だったかもしれないが、今は半分自分の意志で星を守りたいと決めている。もう半分はやはりご主人様の遺言だからだろう。
 予言の星の能力だけを警戒して、頭から星の排除を決めつけているスイレンと衝突するのは当然だったのだ。

   *

 イスカはうなだれているスイレンを見て、少し言い過ぎたかと心を痛めた。
 スイレンは決して悪人ではない。自分のすべきことを果たそうという、ある意味責任感の強い姫だ。イスカは精霊だったころ、どちらかというと王族や貴族という階級の人間と接する機会が多かったためにそういうスイレンの性格を嫌いにはなれなかった。庶民出身であるコゥイは完全に「予言の星」という代名詞に好意的になったようだ。ヒスイはどちらかといえば庶民の育ちだから、コゥイが共感を覚えるのも無理はないかもしれない。スイレンには、毎日一杯のスープを得るのにどれだけの労力がいるものなのか、雨露をしのげる寝床がどれだけありがたいものなのか理解しづらいに違いない。コゥイなら即、理解してくれることだろう。

 スイレンにコゥイの苦労がわからないように、コゥイにスイレンの苦労はわからない。
 竜の世界は基本的に男尊女卑だ。
 女に生まれ落ちたそのときからスイレンの将来は閉ざされていた。
 長たる父親の跡を継ぐこともできず、自ら政治に参加できるわけでもない。女に課せられた使命はより優秀な子孫をなすことだけ。巫女として頭角を現しただけでもスイレンは竜の女として、同性からはかなりうらやましがられる地位を手に入れたといえる。だがそれも独身である間だけだ。
 この宮には女しかいない。コゥイはそれに気づいただろうか。スイレンが結婚すればこの宮はすべて相手の男のものになる。この場所がそっくりそのまま後宮に変わる。侍女から下働きの娘から女兵士まで。おそらくは多くの愛妾を抱え込める階級の相手にしか、水竜の長は自分の娘を与えないだろうから。ヒスイが誰よりも自由を愛する女性だとしたら、スイレンはその対極にいた。永遠に見えない檻の中に閉じこめられている。

(僕は、スイレンはスイレンなりに好きにしたらいいと思いますよ)
 本音だった。敵対するのは寂しくなるが。
 巫女としての能力に間違いはない。予言の星が落ちたとき、スイレンはそれを異端の星と読んだ。檻の中で生きる彼女を不幸だというつもりもない。檻の中には檻の中の生き方がある。ただ、そこから先はまた別の問題だ。
 悲しそうな瞳でこちらを見上げてくるスイレンを正面から見据える。
(竜の一族に恩は忘れていません。ですが、そうなったとき僕は全力で立ち向かわせていただくだけです。その結果、裏切り者の烙印を押されるのならばそれでも結構)
 万が一竜社会から弾きだされても、人に慣れているイスカなら人間社会で生きていける。どうやらイスカも随分ヒスイに感化されたようだ。一昔前ならともかく、今のイスカにとって檻の中は少々狭すぎた。
 今は一刻も早く皆に会いたい。

   *

 混乱と狼狽。今のスイレンを表現するにはそんな言葉がふさわしいだろうとコゥイは観察する。彼女はすっかりしょげていた。何が正しいのか分からなくなったのだろう。
 女が沈んでいる顔を見るのは、好きではない。
 彼女の頭に手をやった。幼子にしてやるように、くしゃくしゃと頭をなでる。
「……な!?」
「うるせぇな。他に慰め方なんか知らねぇよ。その口、口で塞いでやろうか?」
 スイレンは真っ赤になりながらコゥイの手を振り払った。純粋培養のお姫様には刺激が強かったらしい。自然と笑みがでた。最初は鼻持ちならない女だと思っていたが、ただ世間知らずなだけの、いい女である。
「あんた、飯作れるか?」
 からかい半分に聞いてみる。
「? できますわ。牡蠣の天火焼きとか、スズキのパイ包み焼き、仔牛のロースト……」
「そういう豪華な飯じゃなくて。残酷焼きとか」
 魚介類を生きたまま焼くという調理法である。あまりお姫様が好む料理とも思えないが鮮度は抜群。かなりうまい。漁師の好物だ。スイレンは胸を張った。
「できますわ。残酷焼きでも磯汁でも。猫鮫、五枚におろしましょうか?」
 猫鮫は肉が臭いが、油で揚げて濃い味付けで煮込むと食える。コゥイは本気でお姫様を見直した。こんな宮殿の奥底にいるのはもったいない。どうせこういう場所では料理人が腕を振るうのだ。姫君のお料理など教養程度でしかないのである。
「あんたなら海賊の妻にもなれるぜ」
 コゥイは目を細めて歯を見せた。他意はない。いつも酒場の女相手にささやくような、どうでもいい軽口だ。
 とりあえずその軽口は失敗したといえよう。コゥイが気づいていたようにスイレンは純粋培養なのである。当然、殿方に口説かれたことなど一度もない。スイレンは赤くなっていた顔を、さらに真っ赤に染めた。免疫がない彼女の頭の中で、さて、コゥイの台詞はどういう意味合いに変換されたのだろう。
 頃合いを見計らっていたのか、地竜が立ち上がる。
(さて、一段落したところでそろそろ本気で脱出しましょうか。ちょっと後ろを向いててくださいね)
 脱出と聞いてコゥイは腰を浮かした。スイレンは素直に後ろを向く。竜の姿で服は必要ないが、人の姿をしたときに丸裸はちょっと具合が悪い。イスカが少年の姿に戻る準備を始めたのだ。
 地竜が青黒い爪で自分の服と靴を持ち上げたちょうどそのとき、部屋全体が横に揺れた。
 天井から粉が落ちた。部屋の四隅におかれたろうそくが衝撃で消える。部屋は再び暗黒にとざされた。
「地震か!?」
「違います! 誰かが部屋に体当たりをしているんですわ!」
 スイレンの言葉はいつのまにかすっかり元に戻っていた。

(――姫君をお返し!)

 脳裏に響く女傑の声。スイレンは頬に両手を当てた。
「ばあや!?」
 コゥイは舌打ちする。どうやって脱出するかしらないが、せっかくここまで来たのについに真打ち登場だ。

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