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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第四節第二項(134)

 2.

 見た目、蛮族が可憐な淑女の首を絞めているようだった。
 だがそれに騙されてはいけない。ここにいる女はすべて水竜の一族。人間にどうにかできる女ではない。スイレンは目尻をつり上げながら、青磁色の瞳でコゥイをにらみつけた。瞳孔が細く尖った真紅の瞳に変化していないところをみると、まだ真剣に怒ってはいないらしい。
「おっと。いらんことは考えるなよ」
 コゥイは腕一本しかないというのに、器用に手に隠し持った小さな刃物をスイレンにちらつかせる。刃先が軽くスイレンの肌に触れたとき、彼女の表情から初めて余裕が消えた。
 その隙をイスカは見逃さなかった。
 二人のところに駆け寄るべく、卓に片手をつくと同時にひらりとそれを飛び越える。着地と同時に片足はさらに一歩踏み出した。スイレンの青磁色の瞳と、イスカの琥珀色の瞳が一瞬互いを映しあう。
「ごめんなさい、スイレン」
 跳びはねるような勢いで背伸びして、片手で軽く彼女の口を手で塞いだ。
「僕の名において、水蓮の声を封じます。しばらく黙っていてください」
 それはよく人間が行う、名前を用いての呪文のようなものだった。地竜の力は封じたり閉じこめたりするのが得意である。そしてなによりイスカがスイレンの真名を知っていたことが大きかった。
 イスカがそっと手を放すと、スイレンはせわしなく口を動かして何かを訴えようとしていた。その咽からは呼吸音すら聞こえない。うまく力が働いたことにほっとした。
「便利だな」
 褐色の肌の男が、イスカの頭の上から声を降らせた。顔をあげる。あの真紅の瞳と目があった。コゥイの瞳が目だけで笑う。
「よう、坊主。無事だったみたいだな」
「あなたこそ! ここで出会えるとは思ってもいませんでした!」
 なんとか西の棟までいって助け出さなくてはと思っていたのだ。ここで合流できるとは思ってもいなかったが、それが逆にありがたい。イスカは素直に大喜びしたが、コゥイの瞳は一瞬すうっと細められた。なぜか値踏みされているような感じの視線だ。そういう視線を受ける理由がわからないのでイスカはとまどってしまった。
 だがそれは本当に一瞬のことで、彼はすぐに普段と同じ調子に戻った。
「テメエにはここがどういう造りになってるか分かってるんだな? とっとと逃げ出すぞ、ここから」
 台詞はイスカに対してだが、見下す視線はスイレンに向けて。スイレンもその視線を受けて、こちらもさらに強くにらみ返す。ふと、先ほどスイレンがみせた隙が気になった。いかに見た目がたおやかな淑女めいていようと水竜の姫が人間の使う刃物程度であそこまで余裕を失うはずがない。
「その刃物、何です? まさか普通の刃物で竜の鱗が傷つくなんて思っていませんよね?」
「ご明察」
 コゥイは指だけを動かしてスイレンの肌から刃物を遠ざけた。首を絞めていた力は緩めてはいないようで、スイレンは必死になって抵抗している。
「相棒の魔法がかかった特別製だよ。ちゃちな刃物だが、こいつにかかったら何でも切れる。なんてったっけな、えんちゃんと……?」
「ああ、知っています。武器強化の呪文ですね」
 普通の武器では切れないものを切れるようにする呪文だ。しかし運ばれていったとき、コゥイは武器らしいものは帯びていなかった。現在も下衣以外は身ぐるみはがされている状態なのに、よくそんなものを隠し持っていられたものである。
 と、それをいったらコゥイは説明してくれた。

   *

 コゥイが寝かされてあった部屋を出たとき、人通りはまるでなかった。
「久しぶりだな、盗っ人の真似は。ええ、おい?」
 足音を忍ばせながら、前後を確認しつつ進んでいく。少し進んだ後、思い出したようにコゥイは壁に背をつけながら腰を下ろした。誰かに捕まるのはなにもこれが初めてではない。海賊家業の長いコゥイは、そうなったときのための用意もちゃんとしてあった。
 細鎖が仕込んであった薄い上衣ははがされてしまったけれど、さいわい靴はそのままあった。紐を利用して首にひっかけていたそれを、両足を器用に使って顔の前にもってくる。そのまま靴のかかとに歯を立てた。ちょうどかじりついたような形になる。両足で挟んで支えながら歯でかかとに隙間を作り、そして自由な右手でその隙間に指をつっこんだ。ナイフとも呼べないようなちゃちな刃物をひっぱりだす。柄まで金属製のそれは、持ち手の部分が長くて刃渡りが小さいという不格好な様相をしていた。
 盗賊と違って、露出の多い軽装が基本の海賊は獲物を隠せる場所も少ない。いざとなったら素手で戦うしかないと思っていたが、こんな小さなものでも魔法のかかった武器が手元にあるのはありがたかった。
 コゥイはそのまま足音を忍ばせながら明るい方向へと歩き出した。普段は大きな靴音をさせてはいるけれど、いざとなれば猫が忍び寄るほどの足音しか立てずに歩くことができる。その昔、なんの後ろ盾もない無力な子供が生き残るには他人のものをかすめ取って生きるしかなかった。そんな子供時代に身につけた技がいまだに生きているのだから人生、わからないものである。
 誰かを見つけるのにそれほど時間はかからなかったが、ひとりきりで歩いている娘を捜すのは骨が折れた。
 辺りに人の流れがなくなったとき、その娘の背後につく。
 あとは首もとに冷たい金属をあてて、脅せばよかった。相手が人間に不慣れな若い竜だったから成功したともいえる。方角と道を聞くと当て身をくらわせて空いている部屋に放り込んだ。
 あとは人に注意しながらなんとかここまでたどり着いたのだ。入り口を固めていた女兵士二人を当て身を食らわせて沈める。室内を覗き込むと、ちょうど真紅の瞳をしたイスカと目があった。

 すべてを話し終えたあと、イスカは感嘆とも呆れ声ともつかない声をあげた。
「よくご無事で……」
 それ以上は言葉が続かないといった様子だ。コゥイがどれほど無茶なことをしたか、その判断はイスカとコゥイでは随分認識に差があった。コゥイにはそれが分からない。
「俺を見くびるからさ」
 コゥイは鼻で笑った。その台詞はもちろん、腕に捕まえているお姫様にわざと聞かせるためだった。鼻で笑ったのもちょっと目端の利く人間なら芝居がかっていることに気が付いただろう。だがこのお姫様は自分が挑発されたことすらわかっていないらしい。スイレンは過剰に反応し、暴れはじめた。コゥイは眉間にしわを作って舌打ちをする。
「坊主、なんか縛るもの! ところで竜の爪には毒なんてねぇだろうな?」
 コゥイの褐色の腕には、スイレンが作ったひっかき傷でいくつかみみず腫れが出来ていた。イスカはのんきに答える。
「はい、水竜にはありません。でも他の竜相手にはやらないでくださいね。なかには爪に致死量の毒を分泌する種もいますから」
 そういう大切なことを、今晩のおかずの献立を告げるような声音でいわないで欲しいと思う。
「かがんでください。靴の紐を一本お借りします」
 イスカにいわれるがままにコゥイは少し腰を落とした。どのみち、暴れるスイレンを押さえるためにコゥイは一度しゃがみたいと思っていたところである。
 動けないコゥイに変わってイスカが靴から紐を一本抜き取った。もう一方の紐はあいかわらずコゥイの首にぶらさげるのに使われる。
 どうみてもそれ一本では長さがたりないと思っていたが、イスカはスイレンの腕を後ろ手に組ませると、親指同士の第一関節から第二関節までを厳重にくくりつけた。ほかの指四本ずつが動くので自由度は高いと普通は思う。が、人間の手がものを持ったり、道具を使ったりできるのはこの離れた親指の働きが大きい。親指を使えないと「紐をつまみあげる」といったことも出来ないのだ。うまく考えたものである。
 イスカは苦笑した。
「あんまり自慢にもなりませんけどね。知り合いにちょっと盗賊めいたことをする人がいまして。こんなときに役に立つとは思いませんでしたし、思いたくもなかったんですけれど」
 あまり思い出したくない人物なのか琥珀色の目はどこか遠かった。
 スイレンはその間も、おそらくありったけの抗議の台詞を吐いているのだろう、ぱくぱくと声のでない口を動かしていた。もちろん誰もそれを気にとめない。
 コゥイは、すぐ側に寄った少年に強い酒の匂いを感じて鼻を動かした。
「お前、飲んでるか?」
「え? ああ、はい。ちょっとばかり多めに。酔っぱらっていると思ってもらえたら油断してくれるかと思いまして」
 イスカは次の台詞をスイレンに向けていった。
「でも僕、酔っぱらいの演技ってできなくて。あんまりうまくいきませんでしたね」
 イスカは嫌味でも皮肉でもなく本心からそう思っているらしいが、スイレンは目をつりあげていた。どれくらい飲んだか知らないが、しっかりした目、しっかりした口調、しっかりした態度をみるととても酔っぱらいとは思えない。これではどう考えても作戦は失敗するはずである。
 イスカはスイレンに優しく語りかけた。
「すいません、僕らがここから脱出するまでもうちょっと人質になっていただけますか? ご不便をおかけします。あなたは、あなたの名にかけて彼を地上に送り返してくれるとお約束していただけましたよね。それにおすがりするわけにはいきませんか?」
 コゥイはその様子を観察していて思ったのだが、イスカがお願いする様子はどことなく小動物を連想させるのである。赤ん坊がその弱々しさゆえ庇護欲をかきたてて己を守るように、イスカも芯はしっかりしているのだがどことなく保護欲をかきたてるような部分があった。これではお姫様はいやとはいえまい。
 スイレンは、本当にしぶしぶといった様子で口を真一文字に結んでいた。このまま首を縦に振って是というのは時間の問題かと思われたとき。
 突然、彼女は入り口付近にむかって、声なき声をあげた。
 コゥイとイスカは同時にその方向に首を向ける。
 入り口を固めていた女兵士のうち一人が、頭をおさえながら部屋の中に入ってきていた。
「姫様!」
 相手が女ということで無意識に手加減していたのかもしれない。コゥイは臨戦態勢に入る。
「ちッ、当て身が弱すぎたか!?」
「二人とも下がっていてください」
 コゥイはいわれるがままに一歩引いた。女兵士は腰に吊した長剣を抜き、走り寄ってくる。こちらは丸腰だ。コゥイとは逆に前に出たイスカは手首から何かを取り出した。手に握り込んだ小さなそれが何か一瞬コゥイには分からない。が、次の瞬間イスカの手の中に突然杖が現れた。コゥイは目を見張る。あの小さな固まりが杖に化けたとしか思えない。
 ちょうどイスカの瞳から透明感だけを取り除いたような黄土色の杖。丸く、長さはちょうどイスカの身長と同じくらい。彼はそれの真ん中よりやや下を握って、向かってくる長剣を横にはらった。
「させません!」
 相手の武器は落ちない。だが無駄のない動きは次の動作に移るまでが早かった。腰を落とし、足で杖の先端を踏む。てこの原理で、支点となる持ち手より先が勢いよく跳ね上がる。相手の剣は横からの第一撃は耐えたものの、その直後に襲いかかった真下からの衝撃は耐えきれなかったようだ。杖は剣本体ではなく、したたかに相手の手首を襲う。長剣は女兵士の手をはなれ、車輪のように美しい軌跡を描きながら遠くへ飛んでいった。
 その隙を逃がさず、すかさず第三撃。イスカが足を持ち上げると杖は水平になった。
「はッ」
 軽く左手をそえ、右手で一気に突きを放つ。渾身の力をこめた杖の一撃は女兵士の喉笛を強襲した。身を固めた鎧は喉笛だけむき出しだったのだ。衝撃を弱めるものは何もなく、力がまっすぐに入る。
「……!」
 女兵士の体は後方へ跳んだ。
 スイレンは目を丸くしていた。あの少年がこんな荒っぽい真似をするはずがないという目である。たんにおとなしいだけの少年という認識は、本当にそろそろ訂正したほうがよさそうだった。ついでに酔っぱらいの動きとはとても思えない。
 コゥイは口笛を吹いた。力だけが信じられるものとして育ってきたコゥイにとって、戦える者はそうでない者よりも信じられる。コゥイのなかでイスカの株が少しあがった。
「死んでるんじゃねぇか?」
 あれをまともにくらっては、女兵士はしばらく立ち上がれないだろう。軽口を叩くコゥイにイスカは笑って応じた。
「竜がこの程度では死にませんよ。普通の人間なら駄目だったでしょうね」
 杖をかまえて、振り返る。
「信じられないって顔ですよ、スイレン? 僕はかつて精霊の長の盾でした。長の剣と称えられた同僚が厳しくてね。随分しごかれたものです。コゥイさんの台詞ではありませんが、見くびられたものですね」
 台詞の意味をコゥイが完全に理解できたかというと、すこし無理だった。だが彼が以前誰かの護衛役についていて、そこそこ使える手練れであるのは確からしい。
「それだけ動けりゃ、酔ってねぇな」
「あはは、たかが樽一杯で酔いませんよ」
 樽の一語に、今度はコゥイが軽く驚く。
「……ああ、酒場にある、あれか?」
 大の男が肩に担いで運ぶ大きさのもので、栓がついていてそこから杯にワインを注ぐ。あれ一樽くらいならコゥイにも飲み干せる。
 捕らえられているスイレンが、それに対して首を振った。
「? じゃあ、もっと小さい……」
 今度はさらに強く首を振る。コゥイは眉間に縦皺を一本刻んだ。
「まさか……醸造所に置いてある仕込み樽か?」
 樽の直径だけで、人間の身長の二倍くらいはあるやつだ。スイレンはやっと頷いた。
 コゥイはイスカに視線をむける。少年はそれがどうかしたかというような顔でこちらを向いて、微笑みながら首をかしげているだけだ。
「……。化け物」
 スイレンが同意するように二度ばかり強く頷いた。
 それだけ飲めば、酔っぱらったかと思わせるにはたしかに十分だ。
「地竜には酒豪が多いんです。酔わないからほとんど水代わりですね。でも普段はそんなにがぶ飲みしませんよ。お腹いっぱいになっちゃうじゃないですか」
 くすくすと笑いながらイスカは顔の前で手を振った。

 そんな冗談に対して、コゥイはそれを冗談とは流さずに目を細めた。ふうん、といったあと腕を組む。正確には左腕がないので、右腕で左の二の腕を持つ。
「テメエ、やっぱり人間じゃねぇんだな」
 疑問形ではなく断定として言葉を投げつけた。イスカが動きを止める。視線だけ、コゥイに向けた。
 この時点まで、イスカはコゥイに自分の正体を告げていなかったのだ。

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