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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第四節第一項(133)

 脱出劇

 1.

 もう、ずっと昔の話だ。初めて会った日のことをイスカは覚えている。

 かつて霧の谷と呼ばれていた国がまだあったころの話だ。幼かったイスカは名目上ホウの養い子ということになっていたが実質は地竜を祭る神殿に預けられていた。たまにホウが立ち寄ってくれて遊んでくれる。それ以外は神殿で人間の子に混じって学ぶ。そんな日々を送っていた。
 あるとき、いつものようにホウが立ち寄ってくれた。あの頃のホウはまだ艶やかな黒髪を肩口ほどまでしか伸ばしてなかった。
「おいで。今日は、とても美しいお姫様がいらっしゃっているからね」
 そういって、重いだろうに、華奢な両の腕でイスカを抱き上げてくれた。のちに「お前で慣れていたから、生まれたてのヒスイをうまく抱くことができたよ」と語ってくれたこともある。
 地竜を祭る神殿からでて、普段はめったに立ち寄らせてもらえない王の宮殿へ向かう。ホウが普段暮らしている宮よりもずっと立派な場所だった。建物もずっと立派だったけれど、それが大地の精霊の習性なのか整えられた庭ばかりよく覚えている。葉っぱは意図的に丸く刈り込まれ、一見無造作に配置されている木々も、枝振りひとつまで計算しつくされている感があった。人間というものは自然美よりもこういうものを好むのかなとイスカは抱っこされながら庭を観察していた。
 記憶の中で八重のクチナシが強い香りを放っていた。ということは、季節は夏だったのだろう。そのクチナシの植え込みを通り過ぎて宮の一室が見えてくると、ホウが一体誰に会わせたかったのかイスカは理解した。風通しの良さを第一とした壁のない部屋の造りで、室内に座っている人物がすぐに目に入る。そこにいたのは、光沢のある水色の髪を背中に流したホウより少し年上の少女。こんな髪の色は人間には現れない。
「お待たせいたしました、スイレン姫」
 水色の髪の少女は、ホウの声に促されて顔をこちらに向けた。白い肌に水色の髪、瞳は淡い碧。いや、青磁色というべきだろうか。彼女の瞳の色にあわせたのか調度品の中に見事な青磁の花瓶があって、大振りの枝が生けてあった。花は覚えていないが、もしかするとクチナシだったかもしれない。
 スイレンと呼ばれた少女は、姫君と呼ばれるにふさわしい物腰で瞳に笑みを浮かべた。
「いいえ、ホウ様。お気遣いなく。あの、そちらの方が……?」
 言葉の後半はイスカに向けられたものらしい。ホウは幼いイスカを床におろした。両足できちんと立つ。イスカの体はちっとも精霊らしくない。人間の子らしい成長を待つかのように、つい数ヶ月前にやっと歩けるようになったばかりだった。
「ええ。地竜様が見つけてきた、成長する精霊です。私のところに来たばかりの頃はまだ歩けなかったんですよ」
「まぁ」
 姫君は両手を頬にあてた。瞳は輝いている。水色の髪をしたお姫様が誰なのか、説明はされなかったけれどイスカは気づいていた。おそらく、水竜の姫君。竜は人から隠れて暮らしている。いかに霧の谷とはいえ直接の来訪は滅多にあることではない。イスカは丁寧に頭をさげた。
「初めまして。次期精霊の長の養い子にして地竜の眷属たる大地の精霊、交喙と申します」
 失礼のないよう言葉を選んだ。頭をあげるとき、ちゃんとできたかどうか思わずホウの目を見てしまった。深い森の色した瞳は「よくできました」といっていたのでイスカは安心する。
 一方、水竜の姫君もまた、外見は幼いながらもきちんと挨拶のできるイスカに感心したようだった。彼女は立ち上がり、そして正規の淑女の礼をとった。
「お初にお目にかかります。水竜の一族の長が娘、また巫女をつとめます、水蓮と申します。こたびは父の付き添いで参りました」
 膝を折り、柔らかな服の裾を広げ頭を下げる。イスカを子供だと思ってあなどらなかった。理を知らない子供に対して大人はつい手加減をした対応をしなくてはならないが、イスカにはその手加減はいらないと判断されたらしい。嬉しいことだった。
「父から聞いておりましたの。地竜様のお膝元にて、新しく我らの眷属に迎えられた者がいると。一度、お会いしたいと思っておりましたのよ」
 柔らかく微笑む。ちょうど新芽が膨らみ若葉が生まれいでたばかりの萌木をみているような春の雰囲気だった。「お人形のような」という形容詞も似合うかもしれない。スイレンは、それから、と付け足してホウに話を振る。
「精霊の長からも聞き及んでおりますわ。よき跡継ぎに恵まれたと」
「義父上がそうおっしゃいましたか? 話半分とお聞き流しください。不肖の息子はまだ修行中の身です」
「そのようなことはございませんわ」
 イスカの目から見てもホウのそれは過ぎた謙遜にしか聞こえなかった。己に厳しく、常に正しくあろうとする心優しい少年を、イスカだけではなく精霊はみな愛していた。きっと誰よりも素晴らしい精霊の長になるだろうと期待を込めているのだ。まるで自分が褒められているような気持ちになって、イスカは心持ち胸を張った。このときにはもう、自分はいつかホウに仕えるつもりだと決めていたような気がする。大好きなご主人様が、敬愛している竜に褒められているのを見るのはとても誇らしかった。

 そのお姫様と話ができたのはほんの少しの時間で、どうやら四竜が集まる会議が行われるまでの空き時間をホウとイスカでもてなせということだったらしい。スイレンは父たる水竜の長に連れられて共に会議の席へと消えていった。
 その日の昼食は、ホウの親友と共に三人でとった。ホウよりもやや年かさのその少年をセツロという。
「それで? 美人だったか、例の水竜の姫は」
 と、尋ねてくる。
「お綺麗な方だったよ。一緒に来ればよかったのに」
「……あのな。私の暮らしている場所をどこだと思ってる? 水竜を祭る神殿だぞ? 水竜様のお渡りだけでも神殿中が緊張して夕べからばたばたしていたってのに、このたびは姫君までご来訪だ。朝から大変だったんだ、こっちは。第一、下っ端がおいそれとご尊顔を拝見できる立場にあると思ってるのか」
 立場が違う。イスカには奇異に聞こえた台詞だ。二番目に立場が上のはずのホウが一番親しく声をかけあっているのは、どんなに立場が上の人間でもなくて、この白い髪の少年だった。
「イスカも見たんだろう、その姫君。どうだった?」
 今度は自分に対して聞かれたので、自分が感じたありのままをいった。
「ホウ様のほうが美人でした」
 そのままをいったのだが、ホウは固まり、反対にセツロは膝を叩いて大爆笑した。どうしてそういう反応をされるのか分からず、イスカはきょとんとするばかり。
 生け垣に八重のクチナシが咲いていた。白い花は、甘い香りをいっそう強く放っていた。

   *

「……懐かしいことまでついでに思い出してしまいましたね」
 ぽつりとイスカは口に出していた。
 大爆笑の顛末は、ふざけたセツロがホウを押し倒し、さらにその上にイスカが飛び乗って、華奢なホウは二人分の体重に潰されかけた。あとでセツロは水竜の神殿に、イスカは地竜の神殿にこってりとしぼられたのだった。
 もうホウはいない。セツロという名の人間も、この世にはいない。どこかで狂ってしまった歯車、もう二度と取り返せない懐かしい日々。ヒスイとも共有できないイスカだけの大切な思い出だ。

 思い出話から意識を現実に移し、イスカは目の前を見た。ベールをとった美しい姫君がそこに座っている。あの思い出の中での顔がそっくりそのまま成長した顔立ち。あの頃はまだ少女だった水竜の姫君は、次に会ったときには妙齢の淑女となっていた。以来、地竜の長の名代として何度か会っている。
「イスカ様? 大丈夫でいらっしゃいますか?」
 ぼんやりしていたイスカに、心配そうに問いかけてくる。変わったといえば、彼女が自分を様付けで呼んでくることだろうか。敬う側から敬われる側へ。それはイスカの望んだ変化ではなかった。
「大丈夫ですよ」
「……お酒をお召しになりすぎたのではありません?」
 イスカは一刻ほど後に、といったのに、この会見までずいぶん待たされた。竜は人のそれよりうんとゆっくりした時間を生きる。ほかにすることのないイスカは、その間に一樽きれいに飲み干してしまった。
「まだ酔ってはいませんよ?」
 といってみるけれど、スイレンは疑り深げに視線を寄越してくる。酔っぱらいのたわごとをまともに取り合っていては話が進まないことを、彼女もよく知っているのだろう。苦笑した。
「僕は、早くあの方にお会いしたいと考えていただけですよ」
 この会見の場をすぐに飛び出して。ヒスイも、その周囲の人間や妖魔も、きっとあきれるくらい昔のままに違いない。
「イスカ様もたいがい粘りますわね」
「地竜は頑固なのが多いんです。あなたもご存じでしょう?」
 イスカは椅子の背もたれに体重をあずける。背もたれのある椅子というのがすでに珍しいものだった。
「あなたも僕に負けず劣らず頑固ですね。そこまでして予言の星を目の敵にしますか?」
 スイレンも椅子の背もたれにもたれかかった。
「巌(いわお)のように動かない頑固さとは違いますわ。水の性質は粘り強いんです。イスカ様もよくご存じでしょう?」
 同じような言葉がそっくり返ってくる。正直、初めて会ったときの印象はたおやかで優しげな印象しかなかった。こうもしっかりした姫だと知ったのは地竜として何度か会ってからだ。それをいえば向こうもイスカを見て、こんな性格だとは思ってもみなかったと思っていることだろう。
 こんなやりとりが先ほどから双方にこやかな笑顔で行われていた。人払いをしたのは会見からかなり経ってからだったが、その前から侍女たちはここから早く逃げ出したいと思っていたらしい。部屋の入り口は武装した女兵士が守っているが、イスカたち二人の周りには誰もいなかった。
 スイレンは指を組み、身を乗り出した。
「イスカ様がかつての精霊の長を大切になさっていることは存じております。ならばご存じですわね。前(さき)の四竜会議での決定は精霊の長が覆(くつがえ)しなさいました。あれはご自分の姫君を守るためだったのですね? あの方は知っておられたのでしょう、星がご自分の娘御であることを。私は申し上げたはずです。あれは異端の星、一刻も早く排除が望ましいと。我が子可愛さで『世界』に関する重大事項を決定なさったとは正直落胆しております。……イスカ様、聞いておられますか?」
 彼女の姿といい、台詞といい、さきほどからスイレンが連想させてくれるのはいずれもイスカが心にしまっておいた大切な思い出ばかり。
 火竜・風竜・地竜・水竜の長たちが集まって重大事項を決する会議がある。有事の際は「世界」をゆるがす決定さえ行われ、平時はただの同窓会と化すそれを四竜会議というのだが、例年そこには精霊の長が同席することが決まっていた。ここ五十年ほどその座は空席であり、文字通り四竜だけで行われている。
 予言の星が落ちたとき、たしかにホウは星に関する決定に一人異を唱えたことがある。その後一人娘のヒスイを手元に迎え、傍目にもはっきりとわかるほどホウは幸せそうだったことも事実だ。
「スイレン」
 温厚なイスカを怒らせるのは簡単である。ある人をけなせばいい。
 微笑んだままイスカは、椅子にもたれかかっていた背筋をぴんと伸ばした。
「思い出話を楽しんでいるわけではありませんから、僕の思い出を――娘を慈しんでいたホウ様の幸せを――土足で踏みにじってくれたことは水に流しましょう。……ですけれど、あの方の政治手腕まで侮辱されたのはいただけませんね」
 イスカは瞳を開いた。常に琥珀色をたたえているその瞳は今、血のように赤く変化している。竜の攻撃色。誰の目にもはっきりと分かる、イスカを怒らせた証。スイレンはわずかに身をこわばらせた。
「たしかに僕はかつてホウ様の守護精霊で、ひいき目抜きであの方を見るのは難しいかもしれません。もしも本当に、我が子可愛さのあまり『世界』を天秤にかけたとしたらそれは問題ですね。ですが、ちょうど星が落ちたとき、妖魔の長も精霊の長と同じ決定を下していたと情報が入っています。これはどういう符号でしょうか?」
 情報元はセイだ。妖魔側の情報など竜にはほとんど入ってこない。スイレンにとって初耳だろうということをイスカは確信していた。水竜の姫はわずかに表情を動かしただけで、うまく狼狽を隠したものだとイスカは逆に感心する。
「では、スイレン。逆にお聞きします。異端とされている『予言の星』は見つかりましたか? あなたがいうように排除されるべき存在ならば、とっくに『世界』は弾きだしていると考えるのが自然ではないのでしょうか。そうでなくても『世界』が星の存在をいつまでも隠しているなんてありえないはずでは?」
 スイレンは続く言葉を飲み込んだ。
 それは、きっと竜の世界でさんざん会議の議題になったはずのこと。そのたびに答えのでない議論がなされたはずだ。

 さて、イスカは上座に座っていた。真向かいにスイレンが座っており、そのスイレンの肩越しには部屋の入り口が見える。
 赤い瞳をしたイスカは、その入り口付近に、のぞきこんでくる赤い瞳と目があった。
 褐色の肌、短い黒髪の男。
 イスカの瞳から怒りの赤い色は失せ、思わず元の琥珀色に戻る。どうしてここにいるのだろう。
 褐色の肌を背景にして、とっさに色が分かりづらいその瞳はまるで悪ガキのように笑った。

「……イスカ様?」
 琥珀色の瞳に戻ったイスカに、スイレンが不信感をあらわにした。
 部屋の中に黒い獣が飛び込んできたのはちょうどそのとき。
 人間という生き物は、一説によると神と同じ姿をしていたから神々をあがめるようになったのだという。竜も精霊も妖魔も皆人間に似た姿を取るのは、人間を真似ているのではなく神々の姿を真似ているだけなのだとも。
 それでも、人間は神ではない。精霊とも妖魔とも違う。どちらかというと竜に近い。人間という生き物もまた獣だったのだと思った瞬間だった。獲物を捕らえる肉食獣のように、コゥイの褐色の体が飛び出してきてスイレンの細い首を捕らえた。
 一本きりの太い腕が水竜の姫の首を絞める。それまでイスカは、コゥイが隻腕であることに気づかなかった。
「……!」
「よぉ。また会ったな、お姫さん」

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