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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第三節第五項(132)

 5.

 西の離れのさらに奥、コゥイが運び込まれたのは本当に寝るだけの場所だった。
 小さな部屋に不似合いなほど大きな寝台がひとつ。あとは簡素な造りの卓と椅子に、水差しが置かれている程度だった。
 たくさんの女の手で、動かないコゥイの体は寝台の上に寝かされた。それだけだった。上に掛け布をかけてやるわけでもない、靴を脱がせてやるわけでもない。侍女たちはそこから足早に立ち去っていった。まるで、いやなものから逃げるかのように。
 彼女たちに代わってこの部屋を訪れたのは、この宮の主たる水竜の姫巫女と呼ばれる本人だった。傍らに乳母を引き連れて、侍女たちが立ち去っただろう方向をみやる。
「案の定、客人を放り出していったようですわね。本当に、近頃の若い娘は礼儀というものを知らないんだから」
 と、乳母があきれかえったような声音でいった。姫巫女はそっと自分の口元に手をやる。考えていることが無意識に漏れたのかと思った。
 人間に伝わっている神話は一部、真実を物語っている。
 竜がこの「世界」を支配していたのは遙かな昔。後からやってきた神々に追い立てられ、人間がこの「世界」を支配するようになってからはまるで隠れるようにして棲んでいる竜の一族。今では人間を直に見たことのある若い竜は少ない。
 この宮にやってきた人間を、同族の血を引くと知ってさえ彼女たちは恐れて近づこうとはしない。
「嘆かわしいこと」
 乳母に相づちを打ちながら、姫巫女は顔を曇らせた。
 姫巫女もまた若い娘にほかならないが、父親が水竜の長であったことも手伝って一度だけ霧の谷という人間の国を訪れることがあった。初めて見た人間は、次の精霊の長を約束された美しい少年。その傍らには幼子の姿をした大地の精霊がいた。若い竜が人を恐れるのは未知からであり、その点においては姫巫女が人間を恐れる理由はなかった。
 寝台に寝かされた男性に視線を移す。まねかれざる客とはいえ、客をもてなすのは女主人の仕事である。客に無礼を働くなどと考えられない。
「それにしても、まぁ、いい男ですこと。この引き締まった体。お面もなかなかのようですし。ねぇ、姫様?」
 乳母は男性の靴を脱がしながら、指で上半身をなぞってみせた。胸の筋肉から割れた腹筋の上を通って腰骨へと。露骨な言い方に姫巫女はそっと額を押さえる。
「ばあや……そういう、はしたないことは……」
「はしたない? 何をおっしゃいます。齢(よわい)千を数えようと、私の心にはまだ女が残っておりますのよ。たくましい殿方をみると胸がときめくのは当然の理でございます」
 胸を張って反論されてしまった。それどころか逆に説教である。
「姫様こそなんです。二百をすぎた女盛りでいらっしゃいますのに、浮いた話ひとつございませんで。このまま一生、どなたにもお仕えせず巫女としてお暮らしあそばされるつもりですか?」
「まだ二百をすこし過ぎただけよ」
 水竜はほかの竜族と比べてもはるかに寿命が長い。水竜は千五百年、次に寿命の長い地竜で千年ほど生きる。自分はまだ若輩者だといいたい姫巫女に対し、乳母は人差し指を立てて小刻みに振ってみせた。
「年齢など関係ございませんよ。イスカ様とて年齢だけでいうならまだ百も生きていない若年でいらっしゃいます。ですが、どうです、あのご立派なご様子。それをいうなら、こちらの人間の殿方はまだ二十年前後しか生きてはいないでしょう。竜でいうなら赤子です。ですが、姫様はこの殿方が赤子にお見えですか?」
 反論はできなかった。人と竜は違う時間を生きる。違う生き物だから、それが当たり前だと思っていた。だがいざこうやって目にすると姿形以外はなんら自分たちと変わりないようにも思える。
「婆の若い頃はまだ人間と言葉を交わす者も多うございました。短い間ですが夢のような時を共有したものでございます。この殿方の遠き先祖もまたそうやって恋に落ちたのでございましょう」
 乳母の声は、昔を懐かしんでいるのか、姫巫女にいいきかせるというよりは独り言に近かった。乳母はその手でコゥイの肩掛けをはぎとり、上着を脱がせる。赤い肩掛けで隠されていた短い左腕があらわになった。
「おやま。男の勲章でございますね」
 軽くいった乳母とは逆に、姫巫女は息を呑んだ。戦いの場で手足を失うものはめずらしくない。燃えるような真紅の瞳を思い出した。あの激しさは、すべてを自分が戦って勝ち得てきたゆえ。それが突然、実感できた気がした。
「これは昨日今日で作った傷ではございませんよ。ですがこのお体に冷えは大敵でございますね。包帯を巻いておきましょう。なにをまぁ青冷めておいでです?」
 快活な乳母は力を込めて姫巫女の背中を叩いた。もういい年であるにも関わらず、いまだ衰えを見せない腕から繰り出される一撃は、かなり痛い。反動で思いっきりむせた。
 乳母に促され、姫巫女は男に手をのばし、船乗りがよく巻いている頭の布きれをはずす。下は乙女の恥じらいもあってそのままにしておいた。乳母が布きれや男の服を丁寧にたたむ間に、立ち直った姫巫女は男の全身を熱い蒸しタオルで拭く。きっちりと筋肉の鎧を身につけた体は、当然ながら女のそれとも子供のそれとも違っていた。手のひらの下からわかる血の通った熱さに、ほんのりと頬が染まる。
「ばあや、貸して。私がやるわ」
 乳母から包帯を受け取って、てきぱきと巻き付けた。竜の世界は基本的に男尊女卑。女は家にいるのが当然とされる風習から、たとえ高貴な身分であろうとも怪我人の治療程度はしつけとして仕込まれる。
「姫様、他には?」
「特に大きな外傷もないし、骨も折れていないみたいだわ。しばらくすれば目を覚ますでしょう」
 眠っている彼を起こさないように――弱い魔法なので、効果が切れるのは早い――そっと上掛けをかぶせた。伏せられたまつげはわずかたりとも動かない。
 ほっと胸をなで下ろし、姫巫女は乳母を連れて部屋をあとにした。
「あとで粥でも持ってきましょうか」
 このとき、出口に見張りをつけておかなかったことを彼女は大いに後悔することになる。

   *

 イスカは整えられた部屋に通された。広くて明るい。調度品はそれほど高価ではないものの――王侯貴族の基準で「高価ではない」というだけで、もしも基準をアイシャのような一般庶民の目でみるなら一生かかっても手が届かないような品である――頑丈そうなものがそろえられている。
 そんな部屋の内部をぐるりと見渡して、イスカは手近にある椅子に腰掛けた。ふかふかとした椅子はイスカの体重を受け止めて軽く沈む。小柄なイスカにはもてあますくらい大きい。座り心地のよすぎる椅子は、自分にふさわしいとは思えなかった。
 部屋には女性が二人ほど控えていた。召使いに使えという意味だろう。
「僕は、自分のことは自分でできますよ。あなた方の手を煩わせるほどのものではありません」
 ひとりが控えめに答える。
「いいえ、姫君に命じられておりますので」
「そうですか」
 召使いは二人とも笑顔。イスカも笑顔。もちろん心からの笑みなどではない。イスカは子供の頃から霧の谷の王宮付きである。素直さが美徳とされているイスカだが、これくらいの腹芸が使えなくてはとても王宮勤めはつとまらない。彼女たちの本音は、イスカが逃げ出さないための監視なのだ。
 監視が付いていようがいまいが、どのみちイスカはすぐにここから逃げ出せない。あの青年を助けるためにはどうしても西の棟に行かなくてはならないからだ。
「どうぞなんなりとお命じください」
 召使い二人はそろって頭を下げる。苦笑するしかなかった。
「スイレンに伝えてください。一刻ほどのちにまた話し合いをしましょうと。もちろん彼女の都合がよければですが」
 姫巫女の名を呼び捨てで伝えると、召使いのうち若いほうがかすかに眉をひそめた。不謹慎だということだろう。どうやら、イスカがどうしてここの姫巫女にあがめられるのか知っている者は少なそうだった。

 竜の間では今、イスカは「えらいひと」のくくりに入る。入れられている。ほかの竜の長ともすぐに目通り叶う立場である。しかし、生来のものか環境ゆえか、どこまでいってもイスカは腰が低い。だから見ず知らずの竜には「どうしてこんな従者の少年が、お仕えすべき姫君に無礼な口をきくのだろう」と訝られる。
 誰にもいえないが、竜はもう絶滅に向かっている種族だった。
 生まれてくる子供が極端に少ない。これからはさらに少なくなっていくだろう。子孫が増えないということは、ゆるやかに滅亡へと歩みを進めていることになる。
 新しく生まれる子供がどれほど尊ばれているか、それはもう、人間の比ではない。長く人間と共に暮らしてきたイスカは、人の子供がどれほどたやすく生まれてくるか知っている。赤ん坊という存在が普通だったイスカにとってこれは軽い驚きだった。
 竜の一族はイスカを「新しく加わった子供」と認定した。滅亡までの歩みを少しでも遅らせてくれる存在として、年若いイスカはすべての竜族から尊ばれている。
 ただし、だ。地竜の間では知らぬものはいないが、ほかの一族ではさすがに顔と名前が一致しているものはまだまだ少ない。ここの姫巫女はたまたま霧の谷で出会っていたから知っていただけだった。地竜になってから会っていなかったから召使いまでは知らないらしい。

 イスカは召使いのひとりに微笑んだ。
「それでは、どちらかお酒を持ってきていただけますか?」
 仕える立場からすると、何かを命じられたほうがありがたい。そのことをイスカは経験上よく知っていた。
 かしこまりましたと退室しかける一人の女性に、後ろから追加注文をつける。
「あ。酒がめでは足りませんから、樽ごと持ってきていただけますか」
 部屋に残った召使いが目を丸くした。
 部屋を出ようとした召使いは足をとめる。何かいいたそうではあったが、無言で頭を下げて出ていった。
 普通、目上の相手との会見前に酔いつぶれる馬鹿はいない。イスカはしれっとした顔で次に自分の荷物を確認しはじめた。
 袋の口はしっかりと縛ってあるが、海の中に潜ったのだから中身が多少濡れているのは仕方ない。多少ですんだことを感謝したいくらいだ。
「ええと、非常食は……やっぱり全滅ですね。着替えは防水した外套を一番上に持ってきておいてよかった。水袋も無事、と。それから聖典……うわ、これ紙の本じゃないですか」
 水を吸い込んだ紙の本はふにゃふにゃになって、乾かしてもこのゆがみは取れそうにない。イスカは涙を呑んだ。せめて羊皮紙だったら、との恨み言はいわない。羊皮紙よりも紙のほうがはるかに高価な品である。紙の本のほうが軽くて旅に適していると判断して、荷物の中に入れてくれたのだろう。もったいないことをしてしまった。
「それから一番大事な、神官任命書と全権委任状。よかった、油紙に包んでいたから濡れずにすみましたね。あとは聖印と……薬瓶のたぐいは割れてませんね。中に水が入っていないか確認しなきゃ」
 ためしに塗り薬のふたを開けてみる。かたく練った油の上に水の層ができていた。この分だと他の薬も全滅だろう。
 イスカはそこで顔をあげた。
「すいません。いらなくなった荷物を処分したいんですが、どこへ行けばいいですか?」
 召使いは物腰柔らかに応えてくれる。
「私があとでお運びいたします」
「ついでに、予備の水袋もくださいますか。お酒を詰めて旅立ちたいので」
 図々しいことを願い出てみる。召使いは「少々お待ちください」といった。イスカを一人きりにするなといわれているのだろう。廊下に顔を出して人を呼ぶ。イスカにはそれだけの隙でよかった。召使いが背中を向けている間に、荷物の中からあるものを手首にすべりこませた。
 これがセイだったならば監視の中でも堂々と仕込むことができるのだろうが、イスカにその器用さを求められるのは酷である。あとは袖口に作った隠しから「あるもの」が落ちないことを祈るのみである。

 イスカは、大地の精霊だった。それを知る誰もが頭から思いこんでいた。これは、ご主人様第一の従順でおとなしいだけの少年だと。竜という生身の肉体を得て、かの少年がほんの少しだけ人間くさくなっていることに、気づくものはまだいなかった。

   *

 コゥイが目を開けると、真っ先に目に入ってきたのは見知らぬ天井だった。
「なんだ、これは?」
 彼の環境では寝床といえば吊された網か、天蓋などない粗末な寝台しかなかった。天蓋がついていて天幕が下りている寝台など聞いたこともなければ、見るのも初めてである。
 右手を持ち上げる。動いた。握って、開いて、握って、開いて、ちゃんと動くことを確認する。次に上半身を起こした。右手を振ってみる。右腕を肩から回してみる。短くなった左腕も回してみる。これもちゃんと動く。
 寝ている間に上半身を裸にされたことは気にくわないが、左腕から胸にかけて包帯が巻いてあった。怪我の治療のためというよりは、短い左腕を冷やさないためらしい。包帯は何で作られているのか伸縮自在で、大きく動きをさまたげない。
 コゥイは、奇々怪々な寝台から下りた。彼にとっては、贅を尽くした寝台であろうが絹の敷布だろうがたいした価値はない。ふかふかとした寝心地はよかったが、それだけである。両足をそろえて、高く跳んでみる。どこも痛みはないし、引きつったりしたところもない。全身くまなく無事を確認したあと、コゥイはにやりと笑った。
「俺は西へ、といっていたな」
 そこまではかろうじて聞こえていたのだった。
 善良そうな茶色の頭の少年を思い出す。絶対に助けると約束してくれたが、あの女が少年を「約束を果たせない状態」にしてしまえば、そんな約束などなんの意味もなさないものになってしまう。
 コゥイは壁にへばりつくようにして廊下を覗き込んだ。
 誰もいない。離れだといっていた気がする。普段は誰も通らないような場所なのかもしれない。好都合だ。
「さぁて。久しぶりだな、盗っ人の真似は。ええ、おい?」
 ぺろりと親指の先をなめた。
 屈伸運動をする。服は見あたらない。荷物も。あるのは靴だけ。コゥイは船の甲板で滑らないための靴を、紐を引っかけて首にかける。素足のまま、冷たい廊下をひたひたと進んでいった。

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