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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第三節第四項(131)

 4.

 コゥイの意識は沈んでいた。
 水の中で気を失ったらしい。ゆっくりとコゥイは思い出す。最後に見た光景は、こちらに手を伸ばして自分を呼んでいたレイガの姿。結果的に相棒と離れることになってしまったが、確信があった。あの男なら心配ない。自分がいなくなっても自力で聖都にたどり着くだろう。ただヒスイを探してくれるかどうかは分からないが。それともおせっかいなあの男のことだから、コゥイのためにヒスイを探してくれるかもしれない。そして「本人がいなきゃ意味がねぇだろうが」と、後でぼやくのだ。
 そこまで考えて、コゥイはあることに気づいた。
 レイガがあの船の上で魔法を使ったところを誰かが覚えていたかもしれない。
 魔法使いと呼ばれる者は、普通はできないようなことをやってのけるから、畏怖もされるが時と場合によっては迫害もされる。
 レイガはそれも仕方がないと割り切っていた。が、コゥイはそう考えることはできなかった。どうして何もしていないのにひどい目に遭わされなければならないのか、分からなかった。もっと怒れといったら、あの男はのほほんとして答える。お前が代わりに怒ってくれるからいいよ、と。
 もしあの船が沈みでもしたら、生き残った人間は「魔法使いのせいだ」という発想にはならないだろうか。そうなった場合レイガはどうするのだろう。おとなしく捕まって自分が海に投げ込まれるのを他人事のような顔で甘受するのだろうか。だとしたらあまりに寝覚めが悪い。
 だから出来るだけ他人と関わらずに来たのに。
 揉め事はいつでもお互い様だった。真紅の瞳をした化け物の連れだということでレイガがいやな思いをしたこともあるし、魔法使いの連れだということでコゥイがとばっちりを受けたこともある。迷惑をかけるのも、かけられるのも五分五分。ただ下手に第三者と一緒にいるとその人物まで巻き込んでしまう。今回もあの神官の格好をした少年を巻き込んだかもしれないのに。
 帰らなくては。相棒のところに戻らなくては。
 そう強く思ったのに体はまだ動かない。まぶたが重い。目を開ける前に、近くではっきりとした音を拾った。
「あなた方は何を考えているんですか!?」
 あの少年神官の声だった。
 少年の声に圧されて周囲のどよめきが一歩さがる。声は一定の方向から聞こえただけではなかった。周囲から。それはつまり、自分とあの少年は大勢に囲まれているということだ。
 ここはどこだろうか。コゥイは、しばらく目をつむったまま全神経を耳に集中させた。

 凛とした声が反響した。
「用があったのは僕一人のはずでしょう。あなたがしたことは何ですか。僕一人のため、船をひとつ沈めたというんですか」
 詰問口調というやつだ。おとなしそうな普段のイスカからは考えにくい。
 それに対して、かぼそい女の声が応じる。
「イスカ様……」
 船の上でイスカはいった。自分を様付けで呼ぶ者は限られていると。では彼女がその限られた存在なのだろう。女はイスカの強い態度にうろたえている。口元を布で覆ったような、くぐもった声が次に発された。
「では私自らが赴いた方がよろしゅうございましたか。あの海域、沿岸の町がすべて大津波に飲み込まれても。それはイスカ様の本意ではないはずです」
 布越しでも分かる美しい声で、女はさらりと恐ろしいことをいう。イスカが息を呑んだ。
「物には限度というものが……!」
 そこまで言いかけたが、あとに続くはずの言葉は出てこなかったのだろう。中途半端なところで切って、代わりに深いため息をついた。
「配慮は、認めます。……あなた本人ではなく、あの大亀を遣いに寄越したことで。津波なんか起こされたら一時のことではなく、復興にどれだけかかるか考えたくもありません。あなた方は人間の脆弱さを軽く見すぎています」
 奇妙な会話だった。二人とも癖なのか、どちらも丁寧語で会話している。あえていうなら、女がイスカを呼ぶとき必ず様付けで呼ぶのに対し、イスカは相手を呼ぶとき「あなた」だけで済ませている。イスカの方が、立場が上だろうと思う。
「そして、呼ばれていることにすぐ気づけなかった僕も同罪でしょうね。……本当に『あの方』が絡むと僕の周囲まで騒がしくなりますね。ここ五十年の変化のない日々が嘘のようですよ」
 その台詞を待ってましたとばかりに、女は声の調子をあげた。
「そうですわ。すべては『予言の星』が元凶なのです。あの星が現れたとき申し上げたはずです、あれは異端の星だと。忘れもしません、初めてあの星に遠見を試みたときのこと。占いの水盤が割れましたのよ。選りすぐられた巫女が四人がかりで事に当たりましたのに。あの星はこの『世界』から爪弾かれた存在なのですわ」
 それに対してイスカはぴしゃりと言い切った。
「あの方はホウ様のご息女です!」
 あの温厚そうな少年のどこにそんな一面があったのか、叩きつけるような口調で言い放つ。
「ホウ様はこの『世界』において認められた存在です。でなければ精霊の長にはなりえない。その一粒種を、それも最愛の方との間に設けられた掌中の珠を、この『世界』に属さないものといいますか。いくら水竜の姫巫女でもそれ以上の侮辱は許しません!」
「ですが! 水竜の一族を代表して、イスカ様をあの星に近づけるわけには参りません!」

 盗み聞きしていたコゥイは混乱していた。
 女は、水竜の姫巫女らしいこと。
 お伽話にすぎないと思っていた竜とやらは、どうやらイスカが大事らしいこと。
 それからそのイスカも、見た目通りの年齢ではなさそうだということ。
 コゥイは捨て子だったのでたいした学はなかったが、馬鹿ではなかったので少し角度をかえて状況を検討することができた。予言の星のことは前にレイガがいっていた。レイガの話だと、星は五十年くらい前に現れて滅びを司るといわれていて、女の話では異端の星で、イスカの話だと精霊の長の娘で。精霊の長とは霧の谷の王のことだ。「五十年前の霧の谷」は……目覚めたヒスイが真っ先に口にのぼらせた疑問だった。
 見えない糸が繋がりかけた気がする。想像の範疇を越えるような結論に導かれるような気がするが。

 コゥイに意識が戻っているとは知らないイスカが、それまでの興奮した声音を落として淡々と告げる。
「ともかく、この青年だけは地上に返してやってくれませんか? 人間と偽っていた僕を助けてくれようとしただけなのです」
 イスカがかばうようにしてコゥイの前に立つ。女はまた口元を布で覆ったのか、くぐもった声になった。
「その方……いくら気を失って渦に乗ったとはいえ、どうしてここに来られたのでしょう。人間には入れぬよう入り口に結界を敷いておりますのに?」
 イスカはほがらかに応じる。
「同族です」
 にこりと微笑んだと、聞いただけで分かる明るい声だった。
「わかりませんか? ごく薄くですが、我らの同族の血を引いているようです。随分と目立つ目印を付けていましたので、もしかすると隔世遺伝で特徴が色濃く出たのかもしれませんね」
 周囲の小さくどよめく声が少し遠くなった。イスカと自分を取り囲む輪が一歩さがったことで遠巻きになった感じだ。女はすぐには何もいわなかった。彼女にとってコゥイは見知らぬ闖入者でしかない。どういう扱いをしていいのか迷ったのだろう。沈黙のあと、ぼそぼそと誰かに指示する声がした。
 何人かの手がコゥイに触れた。
「彼をどこへ連れていくんですか!」
 というイスカの声と、コゥイが伸ばしてきた手を力一杯払いのけたのは同時だった。
 コゥイがまだ気を失ったままだと思っていた連中は一斉に引いた。その間に、コゥイはばね仕掛けのような動きで体を起こし立ち上がる。まだ少しふらつくが、両足でしっかりと床を踏みしめた。鏡のようにつるつると磨き上げられた床だった。
 真紅の瞳が情景を映す。白い大理石で作られた柱が何本も立っている神殿のような場所。天井ははるか高く、まるで天井の素材に海水を張ったような明るい青が揺らめいていた。そして自分とイスカを取り囲んでいたのは、頭からすっぽりと布をかぶった女達だった。イスカが琥珀色の瞳を丸くしてコゥイを見ている。その向こうに、薄い青色したベールをかぶった女がいた。
 目が吸い寄せられる。物腰からか、それとも育ちの良さそうな雰囲気のせいか、顔を隠している今でも気品が目に見えるような女。何人もの女達がいるなかで、もしもたった一人を選べといわれたら迷わず選んでしまうような上等の女だった。先ほどイスカと話していたのは間違いなくこの女だと確信した。
「貴様、俺をどうするつもりだ!」
 怒号を放つ。空気がびりびりと震えた。恐れおののく他の女達はまた数歩下がったが、薄青のベールをまとう女だけはその場を動かなかった。背筋を伸ばして、胸を張ったままだ。
「同族……?」
 ぽつりとつぶやいて女はベールに白い手をかける。青白いといっていいほどの肌の色だった。するりと音を立ててベールが落ちる。コゥイは、イスカのどんぐりまなこに負けないくらい、目を丸くした。
 毛先に行くに従ってゆるやかに波打つ髪は、水色をしていた。光沢があるので髪に銀がまざっているようにも見える。魚が体をくねらせて泳ぐとき鱗に光が反射して銀色に見えることもあるが、それに一番近いような輝きの髪だった。瞳は南の海の色。それも沖合いの色ではなく、白い砂浜の上に横たわる碧(みどり)。手を伸ばせば触れられそうな場所にあるのに、すくうととたんに透明になって逃げてしまう色だ。
 物珍しい髪と瞳の色を除いても文句なしの美女だった。その美女は、コゥイを認めるとすうっと目を細くした。碧色の瞳は瞬時に血の色に変化する。
「その男を捕らえなさい!」
 女は、たぐいまれなる美声で高らかに命令した。
 その両眼は鮮血のような真紅。人間には決して現れない赤い色。この世でコゥイだけが持っているはずだったもの。生まれて初めて、自分以外に赤い瞳をした存在を目にした瞬間だった。
 脳裏にイスカの声が木霊する。同族だから。竜。
 たしかに真紅の瞳をしたこの女は、妖魔と呼ぶにはあまりに清浄な空気を持っていた。
 女に目を奪われていた一瞬の隙をついて、コゥイは女達に羽交い締めにされた。普段なら女のやわな腕など一振りで払いのけてしまうのに、魔法にかかったように体が動かなくなった。
「こら、女! 俺に何をした!」
 真紅の瞳で女をにらみつける。女も真紅の瞳でコゥイを見据えていた。よくみるとその瞳孔はトカゲか何かのように縦に細く伸びている。まるで爬虫類のような、それでも美しさを損なうことのない良い女だった。
 その彼女に近づいていったのは、朽葉色の法衣を身にまとった小さな影だ。イスカがちょうどコゥイをかばうように美女の前に立ちふさがる。女と対峙する少年神官の後ろ姿は、見た目よりも大きく見えた。
「およしなさい。あなたまで興奮してどうするんですか。彼は怒っているわけではありません。感情の高ぶりによって瞳の色が変化する純血種の竜と違い、彼は平時からあの色の瞳をしているんです」
 真紅の瞳は竜の攻撃色だといっていた。女はコゥイの真紅の瞳を見て、ありたいていにいうと喧嘩を売られているものと判断したらしい。たしかに瞳の色がなくともコゥイの態度は褒められたものではなかった。
 彼女は、しばらく血のように赤い瞳でイスカを見ていたが不承不承といった様子で目を伏せた。とたんに真紅の瞳は元の色に戻る。碧というよりもっと明るい緑が強い感じの、とろりと甘い青磁のような淡緑色の瞳になった。
「イスカ様がそうおっしゃるのでしたら」
 この女はヒスイと違い、敵と認めた相手にはとことん屈しないという性格ではないらしい。イスカもそれを知っているのだろう。笑顔を浮かべているような柔らかい雰囲気を背中が発していた。
 そして振り向く。今度は、琥珀色の瞳は微笑んではいなかった。
「聞きましたか、皆さん。交喙(イスカ)の名において、彼の命は僕が預かります。不服を唱えるものがあれば僕を敵に回す覚悟でいらっしゃい」
 誰も逆らえないような雰囲気で、張りのある力強い声が宣言する。
 すかさず女が、薄青のベールをまとい直しながら応えた。
「私の宮にそのような不心得者はおりません」
 絶妙な間だった。
 この場所の主人であろう女にこう言い切られてしまっては、不満を持つ下っ端がいても誰もイスカのいうことには逆らえない。それはつまり誰もコゥイの命を脅かすものが出ないということだ。
 そしてイスカはぺこりとコゥイに頭をさげた。
「すいません、僕のせいで厄介なことに巻き込みました。僕が責任を持って地上にお帰しします。彼女たちはあなたの動きを封じただけです。そのうち強烈な眠気に襲われると思いますが、目覚めたら体は動くようになっていますから」
 その台詞は本当だった。イスカの台詞の後半から、コゥイは急速に意識が遠ざかっていくのを感じた。イスカが心配そうにこちらを見る。そこで景色は大きくゆがんだ。

   *

「あの、大丈夫ですか?」
 イスカは真紅の瞳をしたコゥイという青年に声をかける。
 コゥイは、おそらく眠気を覚えているのだろう。閉じるまぶたを、抵抗しながらすがめてイスカを見ていた。ただでさえコゥイは眼光が鋭い。まして竜が過剰に反応する攻撃色で見つめられて、本当に怒りが煮えたぎっているようにイスカには見えた。
 赤い色が閉じられたまぶたによって遮られる。ほとんど抵抗らしい抵抗もできず、コゥイの体はその場に崩れ落ちた。誇り高い彼のことだ。目覚めたら暴れ出すくらいやるかもしれない。女達――姫巫女に使える他の巫女や侍女――が動かない彼の体を複数で抱え上げ、イスカの知らないどこかへと運んでいった。
「彼はどこへ?」
「西の離れへ。イスカ様には東の客室を用意いたしました」
 わざと離されたとみるべきだろう。水竜の姫巫女はどうあってもイスカをここにとどめておきたいと見える。さて彼をどうやって逃がそうかと思案気味に顔を伏せて眉根を寄せたイスカを、姫巫女は別の心配をしていると思ったのだろう。本来の優しげな雰囲気に戻って小声でイスカをなだめてくれた。
「ご安心くださいな。イスカ様のお怒りを進んで買うような肝の据わった侍女はここにはおりません。私も私の名にかけて、かの人間を無事に地上に送り届けますことをお約束いたします」
 元々彼女は、たおやかで穏やかな心優しい女性だ。イスカは昔から彼女を知っている。彼女もまた昔から――イスカがまだ大地の精霊としてホウの側にいたころから、イスカを知っていた。
「お互い、偉い人ぶりっこは疲れますね。まして僕はずっと命ずる側ではなく従う側で生きてきたんですから」
 同じく小声で返して、ほかの女達には気づかれぬよう、こっそり二人して苦笑しあった。人格は互いに認めあえる。違うのは双方が立っている立場というやつだった。

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