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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第三節第三項(130)

 3.

 海はそれまで、間違いなく静かで穏やかだった。だが大自然が牙をむくのはいつも人間が気づかないほどのひそやかさを持って行われる。いつのまにか波が高くなっていた。

「化け物だ、化け物がでた!」
 警告の声はまず甲板に出ていた人間が聞いた。次に乗組員が船長だかの幹部級の人間に伝達にいったのだろう。最後に客に知らされるはずだ。
 たまたま甲板に出ていたコゥイたち三人は真っ先に知ることになった。
 コゥイの叫び声と、レイガの小さな声がほぼ同時に起こる。
「レイガ!」
「坊や、こっち」
 レイガの手がイスカの首根っこをひっつかむ。三人はほぼ背中合わせになって一ヶ所に固まった。レイガは濃紺のスカートを身につけていたが、その下から素早く剣を引き抜く。イスカが見たとき「彼女」は左手に銀色の細剣を握っていた。精巧な透かし細工で飾られたそれを順手で握り、刃を下むけて垂直に構える。開いた右手で空中に複雑な印を描く。そして片手で垂直に構えていた剣を、今度は両手を使って水平に構えた。
 三人はその瞬間、ピンと張った琴を爪弾いたような音を聞いた気がした。
 驚きの声をあげたのはイスカである。
「不可視の物理防御結界! しかもあなた、発動呪文も範囲指定もせずに結界張りましたねっ?」
「話しかけないで、気が散る!」
 呪文なしに魔法を行うのは術者にかなりの負担を強いるのだ。今、三人の周囲にだけ、物理攻撃を跳ね返す見えない盾が作られていた。
 コゥイに魔法のことはよく分からないが、結界を張るためには呪文が必要だったり、結界が及ぶ範囲を指定する正四面体の水晶が必要だったりすることは知っている。そしてレイガがそれらを省略できることも知っていた。
 イスカは、呪文や水晶が必要なことに加え、物理的な攻撃を跳ね返す結界を透明にすることがいかに大変かということも知っていた。物理的なものを跳ね返すのだから、盾にあたる結界ももちろん「物理的に」存在しているほうが効率がよいからだ。そしてレイガがそういう難しい条件を満たすことができることを知らなかった。
「……あなた、何者なんですか?」
 話しかけるなといわれたにも関わらず、独り言のようにつぶやいていた。「彼女」が着ている服が実はどこにでもある普通のそれではなく、魔術師の長衣をかなり大胆に着崩して巻き付けたものであることにイスカは気づいた。だが通常、魔術師は剣を握らない。やはり謎の多い人だった。
 乗組員達が、どこにこれだけの人数がいたのかと思うほど次々に現れる。それぞれ手に銛(もり)を持っていたり、弓を持っていたり、あるいは篝火(かがりび)を担いでいたりとせわしない。甲板の上は一気に明るくなった。
 彼らはめいめい、手にした武器を海の中に投じていく。
「もっと灯りだ、照らせ!」
「射手をもっと集めてこい!」
「いや、あの化け物には弓矢なんてきかないぞ、もっと銛はないのか!」
「火を投げ込んでやったらどうだ? だれか油壺を持ってこい!」
 口々に叫ばれる内容に、化け物と呼ばれるものは海の中にいるのだと分かった。男達の靴音は荒々しく、船の上はますます熱気があがっていく。

 船の側面からまた何かにぶつかられたような衝撃が走った。
 高波が生まれてそれが船に覆い被さり、甲板の上を濡らす。レイガの張った防御結界は水の圧力から三人を守った。対し、結界に守られていない他の乗組員は水に足を取られて均衡を崩した。船縁に近いところにいた人間はもろに頭から水を被った者もいる。縁につかまり、かろうじて船の下を見ることができた船員の一人が野太い声を張り上げた。
「おい、船底に穴が開きそうだぞ!」
 三人もぎょっとする。船乗りの何人かが修復のため下に走った。濡れた甲板に足を取られながら一人が滑って転ぶ。その人の手を踏むようにして誰かが走っていった。上へ、下へまさに戦場さながらである。
「もしかして沈むんですかっ?」
 イスカには船の知識がない。どうすれば船底に穴の開いた船から脱出できるのか考えもつかなかった。コゥイとレイガは相変わらず背中合わせになったままで視線も交わさない。
「さぁ、どうしましょ?」
 非常事態でもレイガの人を食ったような口調は変わらなかった。
 もちろんその台詞は相棒に向けて放たれたもので、コゥイは真紅の目をぎらぎらさせて薄く笑った。
「どうしようもねぇなぁ」
 台詞とは裏腹に、彼はまだ諦めてはいなかった。
「この結界、あとどれくらい持つ」
「あれ以上の高波をあと二、三度浴びるのは勘弁して欲しい。アタシの腕が折れる」
 結界が耐えきれない負荷は全部、術者の負担となる。つまり術者の体力の限界が結界の限界強度でもあるのだ。さらにいうなら、結界の強度を上げると持続時間は短くなる。もしも予想以上の負荷がかかるならあと一回防ぐのが限界だ。
「腕が折れるまで大丈夫ってこったな」
 コゥイはそう解釈したらしい。レイガは小さな声で「アタシをなんだと思ってる」とぼやきながら、それでも正面切って反論することはなかった。赤い瞳は次に鋭くイスカを見た。反射的にイスカは身をすくませる。
「お前になんとかできる範囲か、神官見習い?」
 イスカは、どう答えるべきかためらった。多分なんとかできる。もっともそれはこの姿のイスカではなく、本来の姿に戻ってからである。しかし水の精霊の力が強い海ではきちんと元に戻れるかどうかも分からない。迷ったが、イスカは首を振ることに決めた。ついでに、見習いではなくて正規の神官だと言い訳するのも諦めた。
「大地の神が与えてくださる力は屍(しかばね)返しです。海の死霊ならともかく化け物の相手はできません。この海域に海魔はいないはずなんですが……」
 ここは聖都に近い。聖都は、仕組みこそ違うが霧の谷と同じく、古い結界で守られているはずだ。妖魔にしてみればあまり近づきたくない場所だろう。もしも本当に海の妖魔がいるとしたら聖都の結界が機能していないことになる。
 三人の周囲にはまだ無事だった乗組員たちがいて、彼らは彼らなりにお互いに助け合ったり、化け物がどこかと灯りを持ってきて海を照らしたりしている。イスカはそちらも気になっているのだが、コゥイもレイガも他の人間には見向きもしない。自分たちのことだけで手一杯なのか、それとも始めから他者などどうでもいいと思っているのか意見の分かれるところである。だがイスカはあまりにさっぱりした二人の態度に、ほんの少し眉をひそめた。
 海の下で、正体不明の「化け物」とやらは、ぐるぐると船の周りを回っていた。不自然な波の音でそれが分かる。
 コゥイは海の下をのぞき込んでいる男達に向かって叫んだ。
「おい、いったい何がいるんだ!」
 彼らの中で一番体格に恵まれていない、ひょろりとした少年が振り向いた。
「島が泳いできて、体当たりしてくるんだよ」
 イスカが目を丸くした。

 三度(みたび)衝撃が走った。今度はぶつかった程度ではなく、えぐられるかというような強い衝撃。
「あんたら、ふんばれ!」
 レイガが力を込めて叫んだ。
 目の前が真っ白になって甲板の上を一掃した。衝撃で大波が生まれて、それがまともに船を飲み込んだのだ。甲板にいた人間はまるで船の真下から波が空に向かって生まれたように感じられた。白く砕ける波頭は純粋な力となってちっぽけなごみを流す。三人は防御結界のおかげで負担を軽減できたが、他の者はそうもいかなかった。波が作り出した純粋な力に圧され、その勢いのままに何人かが落ちた。落ちる、というより飛ばされていったというべきか。例のひょろりとした少年も目の前で流されていった。水しぶきを浴びて篝火は減り、辺りは一気に暗くなった。船の上のほうに吊されていた炎がまだかろうじて消えずに景色を映し出していた。
 完全に白い驚異が引くまでやや時間があったが、そのわずかな時間、結界を維持するのでやっとだったらしい。レイガが悲鳴に近い声を張り上げた。
「限界ッ!」
 水平に構えられていた細剣は右の支えを失い、刃を下にして甲板に突き刺さった。あとにはかろうじて左手で剣の柄を握りながら、肩で息をするレイガの姿がある。不可視の結界は力を失った。コゥイはそんなレイガを見下ろしながら
「腕、折れたか?」
 と軽く聞いてくる。イスカにはひどく無神経に聞こえたが、答えるレイガは呼吸が荒いにもかかわらず笑みを浮かべていた。
「あいにくと、ね、骨は丈夫みたい、よ……?」
 どうやらこれが彼らなりの、いつものやりとりのようだ。骨の代わりに、媒体にした細剣には縦にひびが入っていた。レイガが思ったよりもひどい状態にないことを確認したあと、イスカは二人から離れて船縁に駆け寄り、身を乗り出した。
「坊主、離れるな!」
 まだ船は波の影響でひどく揺れているのだ。そのコゥイの忠告を背にして、海の下をのぞき込む。先ほどから気になっていることがあった。二度の波しぶき、あれに、まったく妖魔の力の残滓を感じることができなかったのだ。最初は魔法に阻まれたせいかと思ってみたが、こうやって結界がなくなっても妖魔の力を感じ取ることができない。むしろ、きわめて自然現象に近い。
 化け物の正体がなんなのか。島が泳いでいるといった一言に、ひとつの可能性を感じていた。水音がどんどん近づいてくる。やっぱり船を取り囲むようにして泳いでいたのだ。
 暗い海、それでも残った篝火ではっきりと目に入ってくる。小島の背中が見えた。イスカは生唾を飲む。
「これは……たしかに、島に見えるかもしれませんね……」
 そこにあったのは巨大な亀の背中だった。下手な小舟など丸飲みできそうなくらい大きい。
 海には浮力がある。陸地で生きるとその体の重さを支えられないような巨大な生き物が海では普通に生きることができる。だから海洋生物はときに信じられないくらい大きなものがいる。この亀もそうだった。この海を生業としている船乗り達が知らないということは、普段はこの海域には生息しない種類の亀なのだ。
 大亀は速度をゆるめて、また船をぐるりと一周した。イスカのちょうど真正面で停止する。
 目が合った。こちらを見つめていた。
 イスカの脳裏にだけはっきりと、呼ぶ声が聞こえた。

 ――イスカ様。

 後ろからコゥイの声が、今度はずっと近い位置から飛んでくる。
「こら、波にさらわれるぞ!」
 だからあまり身を乗り出すなと、そういいたかったのだろう。浅黒い腕が伸びてイスカは首根っこをつかまれる。琥珀色の瞳と真紅の瞳がかちあった。コゥイの片眉が不思議そうにゆがむ。
「おい……なんて顔してやがるんだ?」
 そういわれてイスカは自分の顔に手をやった。
「どんな顔してますか?」
「いや、血の気が引いてるというか」
 自覚がなかったのでイスカはもういちど顔をなでさすってみた。口元の表情筋がこわばっている。沈黙のあと、イスカは顔をあげて真正面からコゥイの顔を見据えた。
「すいません、コゥイさん。急いでロープか何かで体を固定してください。ええと、レイガさん、でしたっけ? 防御結界の反動でしばらく腕に力が入らないはずですから彼女を守ってあげてください。お願いします」
 即座に反論が来た。ただしイスカが意図しなかった部分の反論が。
「誰がだ、こら。訂正しろ」
「訂正ですか? そんなこといってる場合じゃ……」
「『彼女』じゃない、あれは『彼』だ」
「……」
 目をしばたたいた。
 台詞の意図に気づいて、イスカは几帳面に頭を下げる。
「失礼いたしました」
「分かればいいんだ」
 なぜかコゥイに胸を張って威張られてしまった。
 しかし、男が女の姿をしていようが、またその逆であろうが男女差のない精霊出身であるイスカにとってさしたる問題はない。あるのは相手の性別を間違って失礼なことをいってしまったという念だけである。
 イスカはコゥイの手をふりほどいた。とたんに足下が沈んで転びそうになる。皮肉なもので、コゥイに首根っこをつかまれて支えられているほうが自力で立つよりも安定していた。波の影響で上下左右する甲板を、再びしっかりと踏みしめる。
「急いでください。体を固定して。また高波が来ます」
 高波が来るといわれてコゥイの表情が引き締まる。
「今、波の下にいるあれは化け物ではありません。ただの亀です。あれは、この船を沈めたいのではありません。欲しいものがこの船の上にあったのでそこから振り落としたいだけだったんです」
 コゥイの目が丸くなった。
 彼にはイスカがどうやったらそう結論づけたのか分からない。イスカの台詞はそばにいるレイガにも聞こえていた。荒い息をしながら、やはりコゥイと同じ疑問を抱く。ひとまず体を起こし、レイガはいわれたように手近なところの帆綱に体を絡めた。はたして波間に放り出されるのと帆綱につなぎ止められたまま船と心中するの、どちらがましだろうと考えて自嘲する。次にコゥイに手を伸ばした。
「早く、コゥイ!」
 真紅の瞳はちらとその手を見た後、イスカに向き直る。
「お前は?」
 首を振った。
 海面近くではまだ不自然な波の音がしていた。大亀がぐるぐると船の周りを回っている。
 そうやってイスカを呼んでいる。
「船が襲われたのは、おそらく僕のせいです。これ以上なんの関係もないあなた方を巻き込むわけにはいきません。……自分でいうのも何ですが、僕のことを様付けで呼ぶ人は限られているんです」
「何をいっているんだ?」
 それ以上説明はできなかった。コゥイにはわけがわからないだろう。
 イスカの認識ではコゥイはあくまで一般人で、この先一生、竜や精霊や妖魔と関わり合いにならずに生きていける人間だった。たとえ彼が同族の証である真紅の瞳を持っていても、だ。だからイスカは自分が竜であることを告白する気にはなれなかった。その大前提を無視して状況を説明しろというのは、ひどく難しい。
 コゥイたちがすでに夢見の妖魔と、それどころか肝心要のヒスイと関わり合いがあるなどイスカが知るはずがなかった。
 イスカやコゥイのやりとりの間にも、船の上では無事だった船員たちがまた忙しく動いている。さらに、どんどん新しい人員が船の中からあふれてきていた。
「そこの、何をしている!?」
「早く船室に戻れ、早く!」
「ぐずぐずするな!」
 コゥイは、余計なお世話だと彼らを振り払いたかった。イスカは、彼らが巻き込まれ再び波にさらわれることを恐れた。
 来るな、とか、来てはいけません、という台詞がかぶったのはそのせいだ。二人してそうやって無力で優しい人間達の手を拒否したとき、船は新しい波を頭からざぶりとかぶった。
 レイガが鋭い声で相棒を呼んだ。

 新たに生まれた波は、先ほどまでそうしたようにたくさんの人々を甲板から洗い流して海に放り込んだ。もみくちゃに流されていく中、レイガの伸ばした手がコゥイの左腕をかすめる。赤い肩掛けをしっかり握りしめたが無情にもそれは引きちぎれて、コゥイからはずれた。仮にコゥイの左腕が健在だったとしても、ただでさえ握力が弱まっている今のレイガでは支えきれなかっただろう。
 真紅の瞳と、色違いの垂れ目は一瞬交差した。
 赤い瞳は口でいうよりも雄弁に命令していた。先に行け、と。先に聖都に行って待っていろ、と。
 無意識だったのかもしれないが、コゥイのたった一本残された右手はイスカの法衣を握りしめていた。二人一緒に波に飲まれたのだ。
「コゥイ! コゥイ、コゥイ、コゥイ! 紅衣!!」
 もう届くはずのない人の影に、レイガは名を呼び続けた。その声に応える人間はいない。レイガの声がもう作った裏声ではなく、地声に戻っていることに気づく者は誰もいなかった。

 化け物と呼ばれた大亀はすぐに波間の向こうへと去っていった。もう用はないといわんばかりに。
 波が落ち着いてからも二人は浮かび上がってこなかった。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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