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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第三節第二項(129)

 2.

 波は穏やか、風は順風。今日の海は実に優しく凪いでいた。慣れた男達にとって快適な状態である。
 が、そんな優しい海でも慣れていないイスカにとっては決して快適とはいえない。船底に近い雑魚寝部屋は特にひどく揺れた。ぺたりと座っていると尻の下が持ち上がり、かと思えば今度は尻が下がって足のあたりが持ち上がる。そうかと思えば今度は斜めに揺れる。体勢を立て直そうとすると今度は逆の方向に、急に床が持ち上がる。とうとう均衡を崩して勢いよくころりと転がった。
 船の中は個室ではない。部屋といったが、だだっ広い場所に数人がそれぞれ固まって座っている雑魚寝状態だ。これでも一応部屋といえるのだろう。満員ではないので互いに干渉しあわない場所に陣取っている。イスカが体勢を崩すのが面白いのか、周囲からは時折くすくすと控えめな忍び笑いが上がっていた。それはイスカが転がったあと、一番大きく響いた。
 本人は恥ずかしいなど思っている余裕はない。特に胃がむかついて仕方なかった。精霊だった頃と竜になった後で大きく変化したのは体の不調だ。いままでは「ひとまず」人間に見えるような形をとっていただけの精霊が、肉体を持つ存在に変化して初めて味わう船酔いである。もっとも精霊だった頃でも海が苦手なことに変わりない。海は水の精霊の影響力が強すぎるのだ。
 とうとう胃の内容物がこみあげてきた。
「ちょ……すいませ……!」
 口元を抑え、荷物をひっつかんで大慌てで部屋から飛び出し、粗末な階段を駆け上がった。後ろからどっと笑い声があがったがそんなことは気にならない。段差を踏み外しそうになりながら両足と片腕で上り、大慌てで甲板に出る。普通の状態なら夜風が心地いいと思うくらいはあったかもしれないが今は一刻を争った。船の縁(へり)に近づいてそこから顔を出す。もしも見る者がいればイスカの顔色が真っ青だったことに気づくに違いない。
 大きく口を開けると、胃袋の中身はきれいに逆流した。

 吐逆しおえたと同時に全身から力も抜けたような気がする。一度、中身をからっぽにしてしまうと気分は随分楽になった。船の縁に背中を預け、そのままずるずると体をずらした。荷袋の中から手巾(ハンカチーフ)を取り出して口元を拭う。真新しい法衣をまだ汚したくはなかった。これは大神官より手ずから渡されたものだ。もうしばらく大切にしたい。
 この時代にヒスイが現れたことは、どこかで見たことのある新星が夜空に輝いたことで知った。それからすぐに竜の里を飛び出しフォラーナ神殿へ向かい、そこで今の大神官にこの法衣と正式な任命状をもらったのだ。
 そのときの大神官の様子を思い出して、イスカは気分が悪いのも忘れて思い出し笑いを浮かべる。まさかこの時代で知っている人間に出会うとは思わなかった。
「里に籠もっているとどうしても人間の成長する速さを忘れてしまいますね」
 それでも昔と変わらず、急に怒るわ怒鳴るわ、年を取ってもかの人の活火山ぶりは変わっていなかった。
 荷物を抱きかかえ空を見上げる。星がきらめいていた。海は、都会の灯りが近いせいか星の数が少ない。星は五十年くらいではどこも変わっていないように見えるのに、人の子の変化は速すぎる。

   *

 甲板の上でイスカが小さくなって空を見上げていたそのとき、別の人物もまた甲板で夜風を浴びていた。コゥイとレイガである。

 最初に相手に気づいたのはコゥイだった。暗闇でコゥイの浅黒い肌はわかりにくい。白い肌に檸檬色の髪をしたレイガの姿はよく目立つが、イスカのいる位置からではコゥイの影に隠れるところにいた。イスカが二人組を見つけるよりもコゥイがイスカを見つけるほうが、たやすかったのだ。
「あれは、あのときの坊主じゃないか」
 コゥイの声に釣られてレイガも顔を向ける。
「どれどれ。あらホント。挨拶くらいしておいたほうがいいかしらねェ?」
 いうまでもなくレイガは今、女の姿をしていた。どれだけ最小の荷物でも「彼」は女装に必要なものをちゃんと持っている。コゥイにとっては何とも頭の痛い問題だ。
「この女装好きの変態が。その気色悪い姿をやめる気はないか?」
「ない」
 態度は柔和、台詞はきっぱり。細い目をさらに細めて女以上に「女らしく」笑う。それを見たくなくてコゥイはわざとレイガから視線を逸らした。
「いやん、そっぽ向かないで。冗談はさておき、アタシの顔には特徴がありすぎるもの。いつ知った顔に会ってもおかしくないから人の多いところじゃ出来るだけ女装で通したいわ」
 コゥイとはまた違った意味でレイガには特徴がある。形でいうなら極端な垂れ目。色でいうなら、その目は左右で色が違っていた。コゥイのようにはっきりと人間からはずれた容姿というわけでもないが、人捜しにはもってこいの特徴のある顔立ちをしている。
 コゥイは視線をそらしたまま素っ気なく相づちをうった。
「家出中ってのも大変だな」
「そうでもないわよ。見つかったって命とられる訳でもなし。あっちももう捜してないかもしれないしね」
 返ってきたのは明るい笑い声。あっけらかんとした声の調子に反して、そうであってくれればいいと切に願っていることをコゥイは知っている。

 二人そろって島を出た。一人の女を捜すために。
 コゥイには捜すあてなどなかった。海はコゥイの独壇場だが陸(おか)の上にあがればただの人だ。大陸出身であるレイガの知識が羅針盤となる。そのレイガが提案した。大陸でもっとも栄えている都、聖都をめざそうと。
「あそこは宗教の中心地なの。アタシたちが彼女について知っていることは『霧の谷』と『妖魔』。彼女はまだあの妖魔と行動を共にしていると思うから、聖都で妖魔の情報を得ることから始めるしかないわね」
 こつこつと情報を集め、引っかかる話があればそこに向かい、だがそこに彼女がいる可能性はおそらく低い。気の遠くなるような話だがコゥイはそれに同意した。他にいい案も浮かばなかったし、例えどんな変態だろうとレイガという人物を信頼していたから。
 そこで聖都に向かう船に乗ろうと思ったら、いつものように妖魔呼ばわりされて拒否されたのだ。もう日常茶飯事になっていていちいち傷ついてもいられない。今回は少年神官が飛び込んできて助けてくれた。むしろこちらのほうが特異な出来事だった。

 コゥイの視線の先で、何を思っているのか少年は座り込み一人で夜空を見上げていた。一人旅をする年齢には早すぎるように思ったので、助けてもらった感謝と砂一粒ほどのわずかな同情を込めてコゥイは彼に歩み寄り、声をかけた。
「よぉ。さっきはありがとな」
 物思いにふけっていたらしいイスカが我に返り、コゥイに視線を向けてくる。
「あなたは先ほどの」
「コゥイだ」
 今日の風は穏やかとはいえ、走る船の上にいるのだから無風というわけにはいかない。コゥイの左肩にかけた赤い布が夜風をはらんで大きくはためいていた。それがいっそうコゥイを大きくみせる。イスカは、ちんまり座っていることも手伝って随分と小さくみえた。
「隣、いいか?」
 コゥイの問いかけに、イスカは愛想良く笑う。
「ええ、どうぞ。僕はイスカと申します。大地の神にお仕えする神官です」
 と、そこまでいったところでイスカは顔色を変えた。突然口元を抑える。船での生活が長いコゥイはこの少年が今、何に苦しめられているかピンときた。
「し、失礼しま……」
 彼は足でしっかり荷物の紐を踏んで――旅人には当たり前の盗難防止策だ――船の縁から顔を突き出す。コゥイにとっては見慣れた、そして陸の人間にはあまり歓迎されないだろう光景が繰り広げられた。
「船酔いか。……おい、レイガ」
 側にいると思っていた。予想に違わずレイガは滑るような動作で当たり前のようにコゥイの左隣に立つ。左右色違いの瞳を向けて、紅を刷いた唇が優雅に微笑んだ。
「酔い止めの薬ね? ちょっと待って」
 レイガの右目はちょうど今の夜空のような色をしている。その瞳を穏やかにきらめかせてそっと船室に戻っていった。
「ご、ご迷惑をかけるわけには……うっぷ」
「何、いってやがるんだ。青い顔しやがって。あいつの薬は怪しいがよく効く」
 趣味だからな、と腹の中で付け加えた。
 いつぞやヒスイに対する自己紹介で研究が趣味といったが十分実益を兼ねている。元々レイガ自身が船酔い体質で、酔い止めなど作り慣れたものである。コゥイが引っ張り回すうちに慣れてきただけだ。台所で怪しげな材料の数々を調合して、そのうち湯と一緒に現れるだろう。
 急に黙りこくったコゥイを不思議に思ったのか、イスカ少年は心配そうな顔で下からのぞき込んでくる。
「コゥイさん?」
「いや、何でもねぇ」
 そういえば薬の被験者はいつもレイガ本人だったよな、などとちょっぴり恐ろしいことを考えながらコゥイは右手でイスカの肩を叩き、座らせた。
 それならいいとイスカは微笑んだ。視線をそらさずに。そういえば最初からイスカはコゥイを怖がらなかったと、今更そのことに気づいた。初対面の人間がコゥイの赤い瞳に驚かないのは稀だ。過去に例をみても、まったく平気な顔をしていたのはヒスイくらいなものである。レイガさえ最初は驚いた――恐怖からというよりはむしろ知識欲からの興味津々な態度を取られたのだが。
「驚かないのか、この目の色を見て?」
 ヒスイのときは何と答えたかコゥイは思い出していた。たしか、怖がる理由がないとか、そんなことをいった。さて目の前の少年はというと
「はい。別段、驚きませんよ」
 と、わずかなためらいもなく返ってきた。逆に、どうしてそんな質問をされたのかも分かっていないようだった。これにはコゥイのほうが驚かされた。イスカはむしろその表情をみて驚きを返してくる。
「ああ、そうですね。普通、人間には出ない色ですもんね。驚くのが普通なんですよね」
 一人で疑問点を洗い出し、一人で納得していた。開いた口が塞がらないとはこのことである。コゥイはイスカの隣に腰を下ろした。少年の琥珀色の瞳は、やっぱりまっすぐコゥイの真紅の瞳を見つめてくる。珍しさからでもなく、恐怖ゆえでもなく、むしろなぜか懐かしいものを見るような視線である。
「驚きませんけれど、確かに珍しいです。遠い血のせいなんでしょうが、ここまではっきりした紅玉(ルビー)みたいな色が瞳に出るなんて」
 遠い血、とイスカがいったのをコゥイは妖魔の血が入っているという意味に解釈した。赤い瞳は、人間には現れない。一番信じたくなくて、一番その可能性が高いと思っていた現実を突きつけられた気がした。しかし穏やかな性質らしい少年神官は、想像とは全く別の答えをくれたのだった。
「真紅の瞳は、竜の攻撃色です」
 告げられたことはコゥイの想像力の範疇を軽々と上回った。思考が停止する。最初の衝撃が大きすぎてそのあとのイスカの台詞はほとんど耳に入ってこなかった。
「幻獣をご存じですか? 瞳に赤がでるのは竜に限ったことじゃないんですけどね。鳳凰とか火蜥蜴とか炎の属性を持つ者に出やすいです。けれど、人と混血という条件を考えると鳳凰には生まれつき伴侶がいますし、トカゲは燃えさかってますから人間は触れただけでやけどしますし。竜はすべての獣の長ですから人との混血も可能です。昔から、竜は英雄を愛す、と……」
 イスカの口から飛び出す竜や鳳凰などの単語は、コゥイにとって現実に生きている種族という認識はなかった。それらは、お伽話の中だけに生息している恐ろしい生き物だ。なのに、この少年はコゥイを前にしてなんといったか。真紅の瞳が竜の攻撃色。遠い血。竜の血を引く。
「俺が……」
 完全に理性は吹っ飛んでいた。万力のような腕で法衣の胸ぐらをひっつかむ。イスカの琥珀色の瞳が大きく見開かれた。
「俺が、化け物の血を引いてるってのか!?」
 コゥイにとって幻獣の認識とは、その程度のものしかないのである。
 このとき、甲板に他の客は誰もいなかった。完全に頭に血がのぼっているコゥイと、「はて、何か怒らせるようなことをいっただろうか」とかなり本気で考え込んでいるイスカを止めるものは誰もいない。いないはずだった。
「コゥイ」
 止めに入る声が彼ら二人の背後から聞こえた。はげしく怒鳴りつけるような声音でもなく、かといってコゥイをなじるような批判がましい声音でもない。
 振り向くと、そこにはレイガが薬湯を手にして立っていた。軽い足音をさせながら近づいてきて、赤い肩掛けのかかった左肩に手を置かれる。
「何やってんのよ、アホンダラ」
 軽く力を込められた。イスカの胸ぐらをつかんでいるのはコゥイの一本きりの右手だ。だがレイガは失った左に触れてくる。暴力に訴えかけるのではなく、まなざしと手だけで雄弁に制止してきた。レイガは絶対、真紅の瞳を怖がらない。短い左腕にも平気で触れてくる。それ以上に、頭に血がのぼったとき冷水を浴びせかけてくれるのはいつもこの「男」である。
「……」
 コゥイは手を放した。いきなり解放されてイスカは反動で尻餅をつく。むせながら小さくうずくまった。レイガはその隣にしゃがみこむ。
「連れが失礼なことをしてごめんなさい。はい、酔い止め。楽になるわ」
 何事もなかったように、作った笑顔を向けた。女装中のレイガはよくこういう嘘臭い笑顔を貼り付けている。そもそも男が女のふりをしていることが「嘘」なので無理はない。イスカは礼をいいながら薬を口に含んだ。一口飲んだあと彼の顔色が変わったような気がしたが、続けて一気に飲み干した。レイガは相変わらず本心の読めない作り笑いを貼り付けているだけだ。見ているコゥイは、相当まずいのだろうなと予想して眉根を寄せていたのだがイスカは結局味について何もいわなかった。
「ありがとうございます」
 そういったイスカの表情は、少々無理があるようにみえたが笑っていた。感謝しているのは本当らしい。
 コゥイはレイガを上目遣いに睨んだ。
「こらテメエ、えらくいいときに止めにきたじゃねーか」
「そりゃそうよ。途中から立ち聞きしてたもの」
 そんなことだろうと思っていた。
「お話を中断させてしまってごめんなさいね。ええと、どこまで? 赤が攻撃色とかどうたらこうたら……ねぇ、攻撃色ってことは、竜の目は普通何色をしているの? というか、竜って本当にいたのね! 体長は? 体色は? 確認できている頭数とか生息地とかも分かっているのかしら? ねぇねぇ!」
 イスカが目を丸くする。コゥイは、顔を覆ってうつむいた。「出た」と思った。レイガの悪癖である。気になったことはなんでもとことん追求だ。それが物珍しいものならなおさらである。男の姿をしているときも女の姿を作っているときも、彼の本質は変わらないから知的好奇心も変わらない。
 質問責めにされてイスカは目を白黒させている。こうなったらもうレイガは自分が口を差し挟む隙など与えてはくれない。

 赤い瞳。今まで、自分と同じ瞳をした人間を見たことがなかった。イスカと名乗った少年は真紅の瞳に驚くどころか、懐かしい人に会ったかのように気さくに接してくる。
 ……どこかに自分と同族がいるかもしれない。
 頭に血を上らせたことを、今更ながら軽く後悔した。レイガの質問責めから少年が解放されたら聞いてみたい。どこかで、これと同じ目をした人間か、その幻獣とやらに会ったことがあるのかと。

 と、突然、船に強い衝撃が襲いかかった。
 イスカとレイガが不細工な格好で体勢を崩す。こんなときでさえ、きゃあと女らしく叫び声があがる。ここまで徹底していると立派だと変なところで感心しながら、コゥイはとっさに右手をついて大声をあげた。
「なんだ? 何かにぶつかったのか!」
 座礁に乗り上げたかのような衝撃だった。だがそれにしてはわずかに違和感がある。こっちからぶつかっていったというより、何かにぶつかられたような。
 マストの上、見張り台から大きな声が降ってきた。
「大変だ! 化け物だ、化け物が襲ってきたぞ――!」

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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