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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第三節第一項(128)

 呼ぶ者

 1.

 大地の神の神殿、総本山フォラーナ神殿にて。
 現在の大神官は御年九十を越える老人だった。大抵の人間は五十ほどで人生を終える。それを考えるといかに彼が並はずれた長寿であるか多少はうかがえるだろう。
 大神官という肩書きを背負った白髪頭の老人は、もう遅い時間だというのにろうそくを灯しながら書き付けをしたためていた。側には中年の巫女が控えている。おもむろにその巫女が口を開いた。
「おじいさま」
 老人があまりに長寿なので、孫娘もすでに「娘」とは呼べない年になっている。老人にはすでに曾孫までいるのだ。
 老人は孫の物言いが気に入らなかったらしい。
「公私を混同するべきではない。勤務中は大神官と呼びなさい」
 と、いかめしい顔をしていった。彼は何より「威厳」「冷静」という言葉を愛しているのである。齢九十を越えても彼は年の割にしっかりした言葉遣いを使った。背筋もぴんと伸びている。
 さて、孫にあたる中年巫女はというと口調を改める気はまったくない。
「いいえ、私事ですのでおじいさまとお呼びいたします、おじいさま」
 祖父に話しかける孫という立場を言葉で強調する。老人も負けじと言い返した。
「何かね、巫女マリー」
 わざと役職名を頭につけて応じる。老人は老人で、あくまで公の立場を崩さない構えをとった。マリーと呼ばれた巫女は息をひとつ吐く。老人のこんな意固地な面に慣れていたのでそのまま自分の話を続けることにした。
「おじいさま。数日前にやってきた、茶色の髪に琥珀色の瞳の少年は何者ですか?」
 老人はその台詞を聞いたと同時にペンの動きをとめる。次の瞬間、手にしていた羽根ペンを勢いよくへし折った。大切な書類とおぼしき羊皮紙の上に青インクが飛び散る。マリーは書類の心配をしたが、老人にはマリーの台詞の方が重要であったらしい。
「……あれが、どうか、したかね、巫女マリー?」
 ことさら言い含めるように区切って話すのは、激高したときの老人の癖だ。折れたペン軸を握る手が小刻みに震えている。それほど興奮させるようなことをいった覚えはないのでマリーは気にすることなく、さらりといなした。
「あまりお怒りになると血圧があがりますわよ、おじいさま。それはさておき」
 彼女の言い分もかなりひどい。
 いわれなくとも老人の血圧は急上昇していた。しかしそんなことはおくびにもださず、表面上は冷静さを取り戻してみせる。机の引き出しから新しい羽根ペンを取りだし、ペン先にインクを付ける。何事もなかったかのように自分の作業を進めようと振る舞った。
 彼女も、老人が怒りに打ち震えているのを知っていながらしれっと言葉を続ける。
「おじいさまのところに少年を案内したのは私です。彼、私を見てなんといったと思います? 最初は不思議そうな顔をして、すぐに笑顔になって『巫女マリー?』と、私の名を呼びましたのよ。もちろん私に面識はありません」
 老人は二本目の羽根ペンも勢いよくへし折った。白髪に隠れたこめかみに太い血管が浮かぶのが見える。しかし彼女はそれが目に入っていないかのように淡々と続けた。
「どこかで会ったかと聞くと急にばつが悪そうな顔になりました。それから、『お母様の名をいただいたのですか』ですって。私はいいえとだけ答えました。おかしいでしょう? 私が名をもらった祖母は、どう見ても少年が生まれる前に亡くなっていますのに」
 このまま話を「少年と祖母は、もしかして知り合いですか」という流れにもっていきたかったのだが、残念ながらそうはならなかった。怒りをあらわにして老人が叫んだのである。
「マリー!」
 とうとう頭に「巫女」をつけて呼ばなくなった。
 叱られるかとマリーは身を固くする。老人はしわだらけの顔を怒りで真っ赤にしながら孫をにらみつけたが、突然一息つくと、それまでの怒りはどこにいったのか急に静かにいった。
「もう、よい。さがりなさい、巫女マリー」
「……失礼いたしました、大神官様」
 マリーは老人の孫という私の立場ではなく、公の立場である巫女として深々と大神官に頭をさげた。自分の疑問に答えをもらっていないことが不満ではあったが、大神官という役職上、秘密が多いことも理解している。どうやら自分は秘密の一端に触れたらしい。なにせ老人とは文字通り生まれたときからの長い付き合いだ。多分そうだろうと推測くらいできる。
 これ以上深入りしてはいけないとマリーは判断した。いいたいことは遠慮なくいうが、秘密の確信が近づくと引いてしまう。そういう性格は老人譲りだった。

   *

 孫のマリーが退室したあと、老人はため息と同時に椅子の背もたれに背中をあずけた。しわだらけの手で髪をつまんでしげしげと見る。若いときは濃い色の髪をしていたが今は雪のように真っ白になっていた。
「まさか、この年になって……」
 自分しかいないはずの書斎、誰も聞いていないとわかっていても後半の台詞を口にするのははばかられた。
 まさかこの年になって、五十年前とほとんど変わらないイスカと再会するはめになろうとは。
 老人の名をクロードという。五十年以上前、神官クロードと神官イスカは同じ時期にフォラーナ神殿に在籍していた。

 目をつむると、まぶたの裏に鮮やかに蘇るのは過ぎ去った日々の残映。 
 イスカが消えてからクロードは順調に出世し、貴族の娘を妻にめとり――それが昔からイスカびいきの巫女マリーだったのは偶然だが――妻の実家の地位と財産と発言力を後ろ盾にさらに出世を続けて大神官にまでのぼりつめた。そこに至るまでクロード自身の野心はもちろんのこと几帳面で丁寧な勤務態度が高く評価されていた。その間に子供も生まれ、その子供が子供を生んで、さらに孫にも子供ができて最近は曾孫が結婚の準備をしはじめている。とほうもない長い時間が経っていた。
 老いて目も利かなくなり、耳も遠くなった。寒い日や湿度の高い日は体の節々が痛む。生きることに疲れてきたときに、いつもクロードの脳裏をよぎるのは先代の大神官から譲られた大きな秘密だった。
 地竜と交わした契約。
 破壊を司るという予言の星と「世界」の均衡を保つため、少年の姿をした地竜に協力せよと代々口伝で伝えられてきた。クロードも死ぬ前にこの秘密を次の大神官に伝えなくてはいけない。だが思ったよりもクロードは長生きし、そうこうしているうちに約束の今年を迎えた。
 ついにこの日が来た、と思ったら、現れたのはなぜか少年の姿をしたイスカであった。

 会った瞬間、本人だと確信した。イスカの息子や孫だとはなぜか思わなかった。イスカもまたこちらが誰であるか一瞬で分かったらしい。彼は昔とまったく変わらない調子で口を開いた。
「クロード様! お懐かしゅうございます。まだ生きておられたのですね!」
 最後の一言が余計である。さりげなく失礼なところまで記憶にある通りだ。
 台詞の意図は、理性では分かっている。イスカは変わりなかったがクロードは見る影もなく老いていた。同じ時代を生きていた妻はもう鬼籍の人だ。一般的な寿命から考えるとクロードは明らかに長生きしすぎている。だから余計イスカは喜んだのだ。まだ生きていてくれた、と。
 対しクロードは腰が砕けないようしっかり足を踏みしめているのがやっとだった。クロードの覚えているイスカといえば童顔でいつまでたっても背が伸びず、優秀で素直で当時の大神官のお気に入り。さらにいえば、やることなすこと悪気なくクロードの神経を逆撫でしてくれた少年で。
 それでも彼が人間以外の生き物だと疑ったことは、一度もなかった。
 その彼が当時と変わらない姿で目の前にいる。
「し……」
「し?」
 小刻みに震えるクロードの声に、小動物のような仕草でイスカが小首を傾げる。クロードは、九十を越えた人間のどこにこんな力があるのかというほど張りのある声で叫んでいた。
「神官イスカ! この年になって再び貴公と出くわすとは思ってもみなんだわぁッ!」
 一気に血圧が上昇したらしい。イスカに対して抱く理不尽な怒りで目の前は真っ赤になった。彼に恐縮した様子はない。イスカ少年は小さく微笑む。心底嬉しそうなのが見てとれた。
「本当にクロード様なんですね。その呼称で呼ばれるのは久しぶりです。そう呼んでくださった方はあなたが最後でした」
 昔を懐かしんでいる声だった。姿といい台詞といい態度といい、何一つ変わらないと思っていたら、そんなところだけ変わっていた。どうみても少年にしかみえない目の前の「生き物」は、たしかに自分と同じだけの年数を過ごしてきた存在だと感じる。違うのは老化の速度。イスカはやはり人間ではなかったのだと実感する。実感した後、ふと胸をよぎった感情は寂しさと名付けるべきだろうか。
 クロードもすっかり年を取った。外見だけではなく心も。昔ならいざしらず、今はいちいち突っかかっていく元気もなかった。
「クロード様?」
「……大神官と呼べ」
 ふらつきながらも愛用の椅子に近づき腰をおろす。室内は人払いを済ませていた。クロードを支えてくれる人間は誰もいない。イスカの手を借りるなど絶対にいやだった。その傍らには小さな円卓を持ってきており、鏡のように磨かれた卓の上には円い銀の盆が置いてある。盆の上にはきちんと畳まれた新しい法衣と外套、その他の荷物が乗せられていた。地竜に渡すはずの品物だ。それにちらと視線を送ったあと、クロードはうつむいて深いため息をついた。
「神官イスカ。いや、地竜様とお呼びすべきか?」
「できればやめてください、大神官様。お願いいたします」
「そうだな。貴公が地竜だと? 冗談にもほどがある」
 年を取るとおおむね意固地になるものだ。元々意固地だったせいもあって、クロードの性格はもう修正がきかない。反対にイスカはいつも素直だった。
 再びイスカに目をやると、相変わらず琥珀色の瞳は穏やかな光をたたえていた。
「あなたの存在を今ほどありがたいと思ったことはありませんよ。昔から全く変わりませんね。変に崇められたり、逆に気味悪がられたりするよりもよほどいい」
 ありがたがられる筋合いなどなかった。ここにいるのは最後に別れた頃とまったく変わりないイスカだから、態度も変わりようがないだけだ。
 彼は言葉を続ける。
「冗談ならよかったんですが今の僕はまぎれもなく地竜なのです。今まで黙っていて申し訳ありませんでした。それから、僕のために長きにわたって神殿に無理を強いてしまったことをお詫び申し上げます。ありがとうございました」
 イスカは深々と頭を下げた。本来の立場からすれば一介の人間にすぎないクロードのほうが彼の足下にひれふすべきである。なのにイスカは昔のようにクロードに頭をさげる。もしかすると、ある時からすべてが変わってしまったから、よりいっそう変わらないことに執着し感謝しているのかもしれない。
「証拠はあるのかね。竜だという証拠は」
 わざと意地悪をいってみる。きっと困った顔をするとわかっていた。予想を裏切らず、イスカは眉根を寄せて視線を上にやる。
「はぁ。見てわかる証拠というと尾てい骨の上に鱗がありますが、さすがにお見せするわけには……」
「貴公の青い尻など見たくもないわッ」
「……ですよね」
 真面目な顔でイスカは二度ばかり深く頷いた。この少年は一事が万事この調子である。
 クロードは憮然としながら円卓の上を指さした。
「持って行け。貴公が欲しがっていた神官の法衣だ。他に神官に必要なものは一式そろえて荷袋の中にまとめてある。聖都行きの船の切符も手配した」
 この先これらが、イスカが大地の神の神官であることの証明になる。イスカはぺこりと頭を下げて法衣を始めとする品々を受け取った。クロードは知らない。イスカが五十年前、どういった経緯でこの神殿に来ることになったのか。なぜ人間のふりをしていたのか。これから彼が何をしようとしているのかさえも先代からは聞かされていなかった。
「なぜ役目をまかされたのが貴公なのだ? 予言の星が関わっているのだろう。この『世界』にどういう影響がでるのか、知っているのか?」
 彼が旅立とうとしているその先に何が待っているのかなど知らない。だが、歩もうとしている道が決して平坦ではないことだけははっきりと分かった。でなければ地竜が竜の里に背を向けて人間に協力を頼むなど考えられない。
「もしや貴公は『世界』を救うために行くのか?」
 何も知らないクロードにとって予言の星は凶星に他ならない。選ばれた者が悪鬼を排除するという図はとても分かりやすかった。その問いかけに対し、イスカにしては珍しく怒りを押し殺したような低い声で答えた。
「この『世界』のためではありません。自分のためです。あの方を失って、その忘れ形見まで失うなんてごめんです」
 その刹那、イスカの瞳の色に血がにじんだかと思った。
 クロードの視線がそこに吸い寄せられる。光の加減で瞳の色が変わる人間はめずらしくないが、この場合は違った。彼の琥珀色の瞳が鮮血のような真紅に変わって輝く。瞳孔がトカゲのように細くなった。爬虫類そのものを連想させるような目が今、イスカの両眼にある。竜という言葉の意味が急に身近になった気がした。人間の瞳に赤い色は現れない。そんな色の瞳は、人間ではない。
 これが証拠だった。まぎれもなく目の前の無害そうな少年は、人間という脆弱な種族など足下にも及ばない太古の生物の血を引いているのだ。初めて目の前の少年……いや、「生き物」を恐ろしいと思った。

   *

 回想を終えて老大神官クロードは目を開ける。
「あの、馬鹿者が」
 ひとりごちた。クロードは、折ったばかりの羽根ペン二本を屑籠の中に放り込んだ。続いてインクで汚した羊皮紙を几帳面にナイフで細かく引き裂いて、これもまた丸めて屑籠に捨てる。あのあとイスカは、元の琥珀色の瞳に戻って何度も礼をいいながら聖都へ旅立っていった。
 五十年前のように彼はまた、己を人間と偽り不器用に人の中に紛れて、使命のために生きていくのだろう。これで先代から受け継いだ地竜との契約は成された。これまでは、契約を終えたら肩の荷がおりて楽になるだろうと思っていた。ところがどうだ。今は、あの頼りなさそうな地竜の行く末がひどく気にかかる。わざわざ心労の種を増やしてくれたことに恨みまじりの感謝を捧げたいくらいである。
「……無事に帰ってこい」
 誰もいない部屋で、誰に向けるともない言葉が漏れた。この言葉を聞いた者は誰もいない。そして、この先誰も知ることはなかった。

   ***

 さて、その頃のイスカはというと。
 星空の下、慣れぬ船酔いのために海に向かって吐いていた。

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