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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第二節第六項(127)

 6.

 ヒスイ達のとった部屋は三人部屋である。つまり、この部屋で眠ることができるのは三人だけだ。ヒスイとトーラ、それにアイシャ。始めからセイはこの部屋を使うつもりはなかったらしい。
「イスカが合流したら男ばっかの部屋でもとるよ」
 そう言い残して夜の町に消えた。彼には花街に寝床がある。ヒスイ一人を愛しているといいながらちゃっかりとそういう場所に消えるのはわけがあるが、それを知らないアイシャは「不謹慎ね」と軽くへそを曲げていた。トーラは同じ妖魔であるからセイが女たちの生気を餌にしていることを知っていたし、ヒスイは元からあまり頓着しない性格なのでセイがどこで誰と何をしていようが気にしていなかった。

 その夜は疲れていたが、女三人集まると自然と遅くまで雑談が続く。
「月の女神はね、太陽神の妹なのよ」
 アイシャが語るのは、彼女が子供の頃から聞かされてきたお伽話。この「世界」で育ったものなら誰でも知っているような話だったが、宗教的一般常識に疎いヒスイとトーラには新鮮だった。
「神話というか、本当にただのお伽話なのだけれど。太陽と月は、他の五柱の神々よりも古い神様なんですって。とても仲の良い兄妹神で、竜がこの『世界』を作ったときに自分たちはこの『世界』を照らす光になろうと、二人で空に上ったんですって」
 神話に疎い二人とも、かろうじて創世記は知っていた。一文目は「この『世界』は竜が作った」。竜が作ったこの「世界」を、のちに神々が引き継ぎ、さらに神々がいなくなったあとは人間の時代に入る。そういう話だ。
 アイシャが語るお伽話はさらに続く。
 太陽神は自分が眠りについたあと、この「世界」がとても暗く寂しい世界になることを知っていた。太陽(じぶん)の光が強すぎて夜にしか生きられない生き物のために、太陽神は自分の妹を遣わすことにしたという。月が振りまく銀の光は太陽の光ほど目を焼かず、夜の世界に生きるものは月の女神が自分たちの世界を治めることを許した。そうして、結果的に仲の良い兄妹は、悲しいことに昼と夜、別々の世界で暮らすことになった……。
 お話の途中で、トーラが子供らしい質問を投げかける。
「神様はどこから来たの? やっぱりお母さんのお腹から生まれて、兄妹になったのかしら?」
「さぁ」
 その答えはアイシャも持ち合わせていない。苦笑いを浮かべてアイシャは次の言葉を紡ぐ。
「だけどどんな文献を読んでも、月は太陽の妹だということになっているわ。神様のきょうだい――兄、姉、弟、妹に限らずね、太陽と月以外に聞かないのよ。もっとも神話なんて全てが真実とは限らないけれどね。性別だって、伝播の過程で変わる神様だっているくらいなんだから」
 例えば、大地の神は、場所によって大地の女神と呼ばれることがある。
 母なる海という言い回しがあるのと同時に、海を知らない国では母なる大地という言い回しが使われることがある。そこからどうも大地を母、つまり女神ということになったらしい。神話とはそれくらい曖昧なものだ。口伝でいくらでも変わっていく。
「ここ聖都では大地の神様は男性神として崇められているわね。だけど母なる大地としての役割も忘れられているわけじゃないの。例えば、女の人は一生のうちに、愛の女神に恋愛成就を祈り、月の女神に懐妊を祈り、大地の神に出産の無事を祈るというのがよくあることだから」
 月の女神は月経周期を司るために懐妊を、大地の神は収穫を意味するため転じて出産も司る。また愛の女神にも出産の女神という側面があるため、ここらは祈る人の好みだ。
 と、そこまでいったところでヒスイが疑問の声をあげた。
「……複数の神々に祈るんだな。一生のうち、一柱の神だけを崇めるのではなく」
「そういう人もいるわよ。神官や巫女なんてそうね。だけど一般の人はお祈りする内容によって祈る神様を変えるのが普通だと思うわ。だから、聖都巡礼に来ると全部の神殿にお参りする人が出てくるのよ」
 アイシャは枕を抱えて、ころんと上を向いた。
 今、室内にはろうそくの明かりだけが光源だった。窓はしっかりと閉めていたが、その向こうではまだ花街や神殿を照らす光霊があかあかと灯っているだろう。セイが呼んだこの部屋の光霊はもう消えていた。トーラは枕に顔を埋め、すでに目元がとろんとしてきている。ヒスイがそれに気づいてトーラの肩まで毛布をひきあげ、かぶせかけた。
 ろうそくはかなり短くなっている。この分だと明日はまた、新しいろうそくを補充しなくてはならないだろう。夜が着実に更けていっているのがその長さで分かった。
 眠気を払っているのか今夜のアイシャはよく喋った。いや、普段からよく喋っているのだが、神殿関係の話をすることは滅多にない。
「七柱の神々のうち、女神は二柱しかいないの。月の女神と……愛の女神。だからよく、この二柱の女神は比較されるわ」
 ヒスイは目を瞬いた。眠気のためではない。アイシャが、嫌いなはずの愛の女神について語るのはこれまでほとんどなかったからだ。そのことに軽く驚いた。
 肝心の彼女はというとそれに気づいていないのか、今日は本当に珍しく、かの女神の話を続ける。
「愛の女神……愛と美の女神様はねぇ、恋愛重視の軽薄な女神様だって男の人にはいわれるけれど、そんなことはないのよ。本当の顔は慈愛の女神なの。傷ついた男を慰める優しい女を象徴しているのよね。もっとも、それを誇大解釈して娼婦の女神もかねているわけだけど」
 聞き役の二人のうちトーラは半分夢の中だ。ヒスイは耳を澄ませていた。アイシャは抱え込んだ枕を再び亜麻色の髪の下に敷いて、口を動かす。
「どっちかというと愛の女神は、男の人と仲良くできる女の人って感じね。女性にも二通りいるでしょう。男の人の受けがいい女性と、やたら男の人に対してかたくなな女性。月の女神が守護するのは後者の女性ね」
「……気が合いそうだ」
「あらあら」
 微笑。アイシャの声はしっかりしていたが、眠気が忍び寄っていることはその声の調子で分かった。ヒスイも、会話が止まればすぐに眠ってしまいそうだった。体は確実に疲れている。
「月の女神は、男の人には嫌われているわね。嫌われているというか……主に男性不信の女性が崇めているというか。夫の浮気に泣かされてきた妻や、夫や息子の暴力を受けてきた女性、不埒な男にもてあそばれて捨てられた未婚女性とかね。そういう、泣かされてきた女たちが最後にすがるのが月の女神なの」
 切なさがアイシャの声ににじんだ。同じ女として、そういう女性達に対し共感できるような哀れみを覚える。ヒスイは頭の中で月の女神を想像してみた。なぜか、子供の頃に「祖母だ」と聞かされていた肖像画の女性が浮かんだ。長い銀色の髪、紫の瞳、母親と同じ造りをした顔。ただしそこに浮かんでいる表情は多分、母サラのように苛烈なものではないはずだ。三日月のようにどこか寂しげな横顔が連想された。
 アイシャのまぶたはすでに閉じかけている。何か思いだしたのか歌の文句をつぶやいた。
「月の女神は太陽神の妹、処女と妻の守護神。弱い立場の女の味方。もしもあなたが逃げたいならば、月への道が開く日に、ななつの封印飛び越えて、死者の門をくぐりましょう……」
 ヒスイの知らない歌だった。逃げたいと願う女たちは、最後は死者の門をくぐることでしか救われることがないという意味だろうか。だとしたらあまりにも悲しすぎる。
 光源がうんと小さくなった。ろうそくが終わったのだ。風もないのに、一瞬で火は消えた。
 それが合図だったかのように会話が止まる。ヒスイも目を閉じた。

   *

 トーラはこのとき、かろうじて声は聞こえていたのだが意識は完全に夢の中だった。
 しだいに声も聞こえなくなって、そして、色鮮やかな夢を見た。

 天井の瓦解した石造りの廃屋は斜めに射し込んだ朝の光によって白く輝いていた。
 あたりは清浄な空気に満ちていた。そこが神殿であった頃の名残のように。
 そのさらに奥、祭壇のあったであろう場所に、二人の少女が跪き祈りを捧げていた。
 トーラの視点からは背中しか見えない。その背に流れる長い髪の色は、金と銀。髪の色以外はまったく同じ背格好をした二人の少女は、おそらくはその胸の前で両手を組み、額をこすりつけているのだろう。
 二人は熱心に何を祈っているのだろうか。むろん、その問いに誰かが答えをくれるはずもない。
 銀の髪した少女がふいに頭をあげた。
「そこにいるのは誰?」
 一瞬、驚いた。トーラの姿が見えているのかと思った。だがすぐに思い直す。彼女たちからトーラの姿は見えているはずがない。おそらくトーラの視点がある後ろに誰かいるのだろうと思う。夢の視点はしつこくそこから動かなかった。
 金の髪の少女も祈りを中断し、隣にいる銀の髪の少女に何か声をかける。彼女には何も分からなかったのか、いぶかるような声音。だが銀の髪の少女は首を振ってその声に反対の意を示した。
「違うの……気のせいなんかじゃない。そこにいるのは誰なの?」
 銀の髪した少女は、脅えた声をあげて振り向いた。今度こそはっきりとトーラに少女の顔が見える。不安を映した瞳の色は紫。銀の髪によく映える色だった。
 金髪の少女もそれに倣って振り返る。同じ顔、同じ色の瞳。だが雰囲気が違った。銀髪の少女が優しく儚い雰囲気をしているのに対して、金髪の表情は生気に満ちた気の強そうな雰囲気を醸し出している。
「なんだ。誰もいないじゃないか、ソウジュ」
 同じ声だった。同じ顔立ちで同じ服をまとい、違う表情をした二人の少女は、トーラが知っている人物ととてもよく似ていた。

「――ヒスイ?」
 思わず、手を伸ばしていた。少女たちの幻に触れるかのように。
 だがその瞬間、目の前の「景色」はかき消える。代わりに目の前に現れたのは暗い宿の天井だった。トーラが伸ばした手はむなしく空をつかむのみ。自分が横になっていたことをその瞬間まですっかり忘れていた。
「ゆ……め……?」
 思わず口からこぼれた自問自答を、我に返って力一杯否定する。
「ううん、違う。ただの夢じゃなかった。あれは過去視だった」
 トーラの星見には二通りの発動の仕方がある。ひとつは能動的に見る場合。自分から「見よう」と思って見る方法だ。もうひとつは受動的に見る場合。星が運命の一部をたわむれにトーラに見せてゆく。今回は後者だった。
 星見の能力が発動したあとはいつもどちらが現実世界なのか分からなくなる。こちらが現実だ、と自分に言い聞かせトーラは体を起こすとゆっくりと深呼吸を繰り返した。
 闇の中から、それもすぐに隣から声があがった。
「どうした、トーラ?」
 眠っていると思っていたヒスイだった。先ほど自分の名前を呼ばれたのが気になったのだろう。顔だけこちらを向けて、目をこすっている。
「怖い夢でも見たのか?」
 夢ではない。意味深な過去を見たのだ。あの場面がどういう意味を持つのかトーラにはわからない。黙っていれば、無用の混乱を招かなくてよいのかもしれない。しかしトーラは口を開いていた。
「夢じゃない。星見だったわ。女の子が二人いたの。古い祭壇とおぼしき場所で、金髪の女の子と銀髪の女の子がいて。うり二つで……直感でしかないけれど双子なんだと思う」
 ヒスイに聞かせるためというよりは自分が見たものを客観的にまとめるため、口に出していた。そのほうが考えがまとまるのだ。
 少女たちの顔立ちを見たとき、ヒスイにそっくりだと思った。だが冷静に思い返すともっとよく似た存在を知っている。長い銀髪、紫の瞳。いつか星見で見た、泣くしか能がないとサイハにののしられていた月の女神にそっくりだ。
「金髪の女の子が、銀髪の女の子に向かって『ソウジュ』っていったの」
 それは月の女神の名前だ。サイハがそう呼んでいた。似た人物なのではなく、あの銀髪の少女は月の女神本人だということにはならないか。
 ヒスイの目が正気を取り戻して、体を起こした。アイシャはまだ眠りについたままだ。トーラの肩にヒスイの手がかけられる。
「……『ソウジュ』だと?」
「うん」
 肩に圧力が加わる。ヒスイの爪が食い込んでくるかと思った。
「ソウジュの隣に金髪の少女がいたんだな? お前が、双子かと思うくらい、よく似た少女が?」
 この問いにもトーラは頷く。事実をねじまげて伝えることはできない。それがトーラの性格によるものなのか、あるいはキドラの教育の賜か、はたまた星見の妖魔が先天的に備えている性質なのかは知らないが。
「女の子たちは二人ともヒスイにそっくりだった。髪の色だけが違う二人。二人とも夜明けの空より濃い紫の瞳をしていたわ。でね……金髪の女の子、ヒスイと同じようなしゃべり方をしていたの」
 トーラは事実を述べるだけだ。その事実によってヒスイがどう判断するかは別だった。今、おそらくヒスイの脳裏には約一名の姿が連想されているのだろう。が、それはトーラが推測したものではない。金髪の少女が誰なのか。あまりにも当てはまりすぎる人物を、直接会ったことはないけれどトーラも知っていた。

 もしもここにセイがいたなら「年齢があわない」と一蹴されていただろう。神様の幼少期などという途方もない遠い昔に、ただの人間が時間を共有できるはずがないのだから。

   ***

 話はそれより少し前にさかのぼる。

 波止場はオレンジ色に染まっていた。日は西に傾いている。波止場では、商人やら船乗りやら大勢の人間がみな忙しそうに行き交っている。海を仕事場とする荒くれ男たちに混じって、ひときわ背の低い茶色の頭がきょろきょろと目的の船を探していた。
「どうした。そこの坊主、はぐれたか? 迷子にでもなったか?」
 真っ黄色い歯をした船乗りの一人が、ごま塩のひげをしゃくりながら茶色の頭の少年に話しかける。少年ことイスカは人なつっこい笑顔でそれに答えを返した。
「もとより一人なんですよ。聖都に行くんです」
 真新しい外套を少し広げる。その下には神官が身につける法衣が覗いていた。老いた船乗りは納得する。波止場に詰めて長い彼は、そうやって神殿へ学びに行く若い神官をたくさん見ていた。新しい法衣からしてもおそらく初めて遠い異国へ学びに行くのだろう。見た目の初々しさと、やけに落ち着きはらった態度の落差を船乗りは気に入り、親指で自分の後ろを示した。
「なら、この船だ。早く乗りな。本日最後の船が出ちまうぞ」
「わ。ありがとうございます」
 もう遅い時間だった。この船で夜を迎え、明日の早朝には中継地点へ到着する。一度そこに着いてしまえばゆるやかな河川の船旅になるのだが、ここはまだ海だ。

 イスカは見ず知らずの人の親切に丁寧に頭を下げた。正直いって海の揺れは苦手だったが、一刻も早く――付け加えるならば、できるだけ目立たない方法で――聖都に行きたかったので「我慢するのはここだけだし」と自分に言い聞かせる。
 船に乗り込もうとしたところで、人垣の向こうから喧噪が聞こえた。
 どうやらイスカと同じ船に乗ろうとした男と、乗船券をもぎとる男との間に諍(いさか)いが起こったらしい。波止場は賑やかすぎてあちこちに騒動の種が絶えない。イスカに声をかけてくれた船乗りはいつものことなのか動こうともしなかった。
「あのう、何かあったんですか?」
「さてな」
 老いた船乗りはイスカの乗船券を半分ちぎって突っ返す。
 慣れていないイスカはおろおろと喧噪を遠巻きに見ていた。褐色の肌をした大きな男が小男をひねり挙げている。怒号がこちらまで聞こえてきた。
「人のことを妖魔よばわりとは何事だ、テメエ!」
 大声でわめかれたその台詞に、思わずイスカは耳をそばだててしまった。
 男の側で、連れと思われる女性が低い声でなだめにかかる。その声もどこか投げやりで、非は絞められている小男にあるとでもいいたげだった。
「もうやめない、コゥイ? 文句いってもどうせ無駄だしィ?」
「うるせえ!」
 振り向いた褐色の肌の男は、鮮やかな真紅の瞳をしていた。
 人間には現れない色。妖魔呼ばわりされるのも無理はないかもしれない。そんなことを冷静に考えながら、体は無意識に動いていた。
「待ってください!」

 彼の赤い瞳に懐かしさを覚えたからかもしれない。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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