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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第二節第五項(126)

 5.

 ようやく四人そろったところで、アイシャはきょろきょろと周囲を見回した。
「ところで、イスカは?」
 アイシャは、合流するのは自分が最後だと思っていたようだ。あとイスカがそろえば懐かしい顔ぶれがそろう。アイシャの問いに答えられるのは、ずっと聖都にいたトーラだけだ。
「まだ着いてないわ。ヒスイが現れた知らせを送ったのは十日ほど前だもの。イスカは今まで竜の里で厄介になっていたの。普通にやってくるなら、まだかかるわよ」
 その台詞にアイシャは何も聞き返してこなかった。そうなの、といったきりである。アイシャだけでなくヒスイもさらりと流した。ヒスイの背中に貼り付いているセイだけが意味深な笑みを唇に乗せている。
 昔ならともかく、今のイスカには翼がある。非常に悪目立ちするが、竜の姿で空を飛んでくるのが一番早い。だが実際に竜の姿を見たアイシャでさえそのことには気づかなかったようだった。まして、聞かされただけのヒスイではまだ実感が伴ってないのも無理はない。
 そのヒスイはまっすぐに翠の瞳を向けてくる。
「十日ということは……あれからそう長い時間は経過していないわけだな?」
 ヒスイの能力にはいつも微妙な誤差がある。トーラは頷いて答えた。
「たった三日よ」
 思ったよりも早くにヒスイが着いたことに安堵したのはトーラだけではないはずだ。青い目をした盗賊はごきげんだった。それを視線の端にかすめながらトーラは続ける。
「もっとも、私が知らせを送るより早くイスカは動いていたみたいだけど。予言の星が空に現れた時点でイスカは竜の里を出て、直接フォラーナ神殿に向かったのよ。私からの連絡はそこで受け取ったみたい。行き違いにならなくてよかったわよね」
 トーラはここ聖都の神殿から総本山であるフォラーナ神殿へと連絡をいれた。ただし宛名はイスカではない。人間は権力というものに弱い生き物だということを学習していたので、神殿関係で一番偉い人に向けて言づてを送ることにしたのだ。トーラの口頭での伝言は神殿側で書簡にされ――トーラは字が書けない――大神官宛てに送られた。
「トーラ、まさか馬鹿正直に私が……予言の星が現れたって書かせたんじゃないだろうな」
 心配そうなヒスイの声がとぶ。口には出さなかったがセイもアイシャ同じ心配をしていた。トーラは心外だとばかりに首を振る。
「まさか。そこまで考えなしじゃないわよ。『姫君が到着したからイスカに迎えに来るよう伝えてください』って」
 イスカが姫君と呼ぶのは一人だけだ。これで通じるだろう。トーラが自慢げに胸を反らすのと同時に残る三人は胸をなで下ろした。
 大神官から里にいるはずのイスカを呼び出してもらおうと思っていたのだが、思ったよりもイスカの行動が迅速で無駄な遠回りをせずにすんだわけである。大神官がもし五十年前のイスカを知っている人物であったなら書簡にその名前を見つけて、さらに本人にでくわすはめになって卒倒したかもしれない。そこまで長生きする人間は少数なのでそんな心配はないだろう……多分。
 そこでセイが問いかけてきた。
「それで? あいつはいつ到着するの? 聖都に来る経路には馬と船があるけれど?」
 陸路か海路かと聞きたかったのだろう。ただ聖都に海はない。あるのは大きな河川。海から河口をのぼってくる定期船がある。巡礼者が多いからこそ定期船も頻繁に往航している。
「ええと……陸路じゃなくて船を使うみたい。そっちのほうが早いからって」
「大地の属性を持つ者が船だって? 苦手なくせに。そんなに早くヒスイに会いたいのかな」
 不機嫌そうな彼の様子を見、苦笑しながらアイシャも付け加えた。
「そんなこと言っちゃ可哀想よ。イスカだってずっとヒスイに会いたがってたんだから」
 けれどセイはすねていた。手の中の感触を確かめるようにもう一度強くヒスイを抱きしめて頬ずりをする。しかし、おもちゃにされている当の主(ぬし)は二度目の甘えを許してくれなかった。
 よく言えば不言実行、悪くいえば口よりも先に手が出るヒスイである。止める間もなくヒスイの拳がセイの頬にめりこんだ。もちろん始めから誰も止める気などない。
「ああ、そうよ。やっぱりこれがなくちゃ! これがあってこそ帰ってきたって感じよね。ねぇ、トーラ?」
「わ、私に同意を求められても、困る……」
 このまま突っ立っていても思い出話はつきないだろうと思われた。アイシャの体内時計でさえもう二年ほどヒスイとセイには会っていない。ここに五十年待ち続けたイスカが加わって、再び全員がそろえばさぞ賑やかになるだろう。最低、あと三ヶ月は聖都に滞在する予定なのだ。ここにとどまっていなければならないのだから。

 そして、アイシャはうきうきした声をあげた。
「明日はお買い物にいかなくちゃね。ここで生活していくことになるんですもの。私の服や、ヒスイの身の回りの品や、買いそろえるものはいっぱいあるでしょう。そうだわ、聖都もゆっくりと見てまわりたいわ。初めての大都会ですもの」
 彼女が育ったのは愛の女神の神殿付属の孤児院だ。どんな田舎で暮らそうと、総本山がある聖都の話を聞かなかったはずがない。ただアイシャはそういう宗教的なことにはまったく興味がない。ここにいる全員がそれをよく知っている。
 買い物と聞いてトーラは瞳を輝かせた。
「今はもう夜だから、明日は色んなお店をまわりましょ。私、知ってるところを案内してあげる」
「まぁ、嬉しいわ。でも私、これから行ってみたいところがあるの」
 ヒスイも少し興味を引かれたようで耳を澄ませていた。セイは再びちゃっかりとヒスイの後ろという定位置を確保し、いつものように肩を抱いてヒスイの背中に貼り付いている。殴られても蹴られてもそこがいいらしい。
 にこやかにアイシャは言い放つ。
「女全員でお風呂に行きましょう。聖都の名物のひとつに湯治場(とうじば)があるの」
 セイの腕の中でヒスイが軽く固まった。
 大陸西部の文化では毎日入浴するという習慣はない。だから個々の家々に内風呂などないのが普通だし、入浴をしたいときには風呂屋に行く。それは日々のちょっとした楽しみで、特別な日の前日などは石鹸をたっぷり使って、たっぷりの湯で流す。水はただでさえ貴重だし、石鹸も油を鹸(アルカリ)で固めたものであるから食べられる物をわざわざ食べられない物にした贅沢品の一種である。
 東部は水が豊富なこともあって水浴は珍しいことではないが、それでも湯を使った入浴は大変な贅沢だった。ヒスイも霧の谷では侍女にわざわざ風呂の入り方を説明されたくらいだ。
 聖都はどちらかといえば西の文化の影響が強い。そんな中で湯治場というのはなかなか珍しいものだった。薬効のある湯に浸かると怪我や病に効くという東の文化が入り交じっているらしい。人前で肌をさらすことを慎みがないとする神もいるのだが、聖都巡礼は長旅が多いのでそんな人間はここにつくと「ひとっぷろ浴びて、旅の垢でも流すか」ということになる。巡礼は「特別な」ことなのだから。
 トーラはひとつ心配事があって、アイシャに聞いてみた。
「だけど、湯治場……温泉は愛の女神の管轄よ?」
 精霊信仰と入り交じったとき、アイシャが毛嫌いしている例の女神は水を司る女神にもなった。まして愛の女神は癒しの技を使う女神でもある。怪我や病にきくという温泉を管轄下にいれても不思議ではない。
 しかしアイシャは強かった。
「嫌いなものでも、利用できるものは軽やかに利用するのが大人の女よ?」
 その微笑みが非常に説得力があるような気がするのはなぜだろう。
 このときの「軽やかに」という言い回しがトーラは気に入った。セイのように腹の中が真っ黒に見えないあたりがいいかもしれない。妖魔は特に水を浴びなくても身辺をきれいにしていられるのだが、入浴するのは嫌いではなかったので大喜びで首を縦に振った。自分が嬉しいと周囲に注意を払うことがおろそかになるので、トーラは固まっているヒスイには気づかない。
 アイシャがその笑顔をヒスイに向けて、ヒスイの緊張に気づくその前に声があがった。
「やだ!」
 セイだった。全員が彼に注目する。もちろんヒスイ自身も。
「やだったら、やだ。オレがイヤ。ヒスイさんの玉の肌を見ていいのはオレだけなの。そんな赤の他人に覗かれ放題の場所になんか行かせないもんねっ」
 我が儘たっぷりにヒスイを抱え込んで、セイは頬を膨らませる。子供が自分のおもちゃを人に貸すまいと抱え込む様子に似ていた。抱え込まれたヒスイはというと、とまどい、言葉もでないようだった。セイに対してヒスイが何もいえないときはアイシャの出番である。トーラはとっさに助けを求める目でアイシャの方を向いた。
 ピンクのリボンがまぶしい「お母さん」は見事その期待を裏切ることなく
「あらあら、セイったらお茶目さん。仕方ないから一緒にお風呂は諦めるとして、でもね、夜はちゃんとあなたに返すから昼間は私たちにもヒスイを貸して頂戴ね?」
 と、のたもうた。
 とたんにヒスイの金縛りが解ける。
「ちょ……私はこれの所有物じゃないぞ!」
 これ、と二人称ならぬ指示語でセイを指す。ヒスイさんの意地悪、と小さな声が聞こえたが女性陣全員は黙殺した。
 アイシャはにこにこと続ける。この時点で会話の対象はセイからヒスイへと移っていた。
「あなたはセイの所有物じゃないかもしれないけれど、セイはあなたの管理下にあるのよ。昔、ちゃんといったじゃないの。『ヒスイがやらなきゃ誰が彼の手綱を取るっていうの。この人間の皮を被った妖魔を野放しにする方がよっぽど怖いと思わない?』」
 どこかで聞いた台詞だった。それは比喩ではなく、恐ろしいほど事実を正しく指摘している。
「それともうひとつ。セイの機嫌を損ねると、冗談じゃなく私やトーラの命が危ないのよね。だからヒスイ。あなたはちゃんとセイの手綱を握って、それでいて、私たちのために頑張って生贄になって頂戴な。私たちの身の安全のためよ、身の安全のため」
 ことのほか「身の安全のため」を強調してとどめをさした。ヒスイの性格を逆手に取った言いくるめ方である。アイシャが『ヒスイのことが大好きなセイ』の味方だというのは嘘ではない。案の定セイは大喜びで、ヒスイは反論の余地もなく黙りこくってしまった。
「さぁトーラ、今からお風呂に行きましょうか。二人ともお留守番よろしくね」
 うきうきした声に引っ張られる形でトーラは一緒に部屋を出た。扉を閉めたあと室内から残された二人の声が聞こえる。「だってオレでさえ見てないのに」とか「やかましい」とか、ついでに何かを思いっきり殴ったような音などなどが響いていた。トーラはあえてそれを星見で覗くことはしなかった。見たって、どうせ嬉しそうなセイの顔があるだけである。アイシャに手を引かれて前だけ向いた。

   *

 部屋の中で。
 誰もいなくなったのを確かめて、ヒスイは先ほど殴ったばかりのセイの頬に手の甲を沿わせた。
「ヒスイさん?」
「……ごめん」
 謝られた方はというとしれっとした顔で「何が?」と聞いてくる。
「殴ったこと気にしてくれてる? 平気、平気。いつものことじゃない。オレ、これくらいの痛みなんてちっとも堪えてないから」
「そうじゃない」
 セイはわざと芝居をしてくれた。人前で着替えたり風呂に入ったりすることをヒスイが苦手としていることを知っていて、かつヒスイがそれをあまり知られたくないということも分かっていたから。だからわざと自分の我が儘を押し通すという形でヒスイを助けてくれた。これではセイが悪役だ。
 けれど青い目をした男は、瞳の色が分からなくなるくらいに目を細める。
「平気だよ、ヒスイ。オレの我が儘なんて今に始まったことじゃないでしょう? 誰も疑わないし、それにヒスイの玉の肌を見ていいのはオレだけだっていうのも嘘じゃないもの。それにヒスイはオレに謝らなくっていいんだってば。アイシャの台詞じゃないけど前にもいったよ。謝るのはもうなしだよん」
 とはいうが、この先何度もヒスイは彼に謝ることになるだろう。だが今は謝罪するより感謝することにした
「助かった……礼をいう」
 それをいうと、セイはさらに機嫌が良くなった。

 ヒスイは気づかなかったが、セイの台詞には柔らかな棘が隠れていた。『ヒスイの玉の肌を見ていいのは自分だけ』。彼は、自分より先にそれを目にした紅い瞳の海賊のことをしっかり根に持っていたのだ。

   ***

 夜の聖都はまだ肌寒い。アイシャは、いつもトーラが仕事場にしている広場に立って歓声を上げた。
「すごいわね。ここからだと七つの神殿全部が見渡せるのね」
 その場でぐるりと一回転して、ため息をつく。巡礼に来る人間がお参りする神殿を間違わないように、アイシャもまた一般的な知識として七つの神殿全て、どの神を祭るものか見分けがついていた。神殿育ちの彼女だから一般よりも知識があるといっていい。
「アイシャ。温泉、こっち」
「ええ」
 返事はするもののどこか生返事のような、上滑りした声だった。アイシャの空色の瞳はひときわ繊細な造りの神殿に釘付けになっている。
「アイシャ?」
「あれ、月の女神の神殿よね」
 指さされた神殿をトーラもつられて見上げる。それは光霊に照らされて夜の闇にほのかに浮かび、銀色に輝いていた。窓枠や尖塔の意匠は昼の光の中では脆弱にさえ見える。なのに今、夜の闇を背景にすると透かし模様を浮き上がらせているような美しさがあった。始めから昼間に見るより夜に見たほうがずっと存在感があるように作られているのだ。
 トーラはそれを夜に見たのは初めてだったので、単純に見たままの感想を口に出した。
「綺麗……」
 隣に立っているアイシャは違った。その神殿とはなんの脈絡もないような台詞が飛び出す。
「神様なんていないのよ」
 空色の瞳は険しかった。
「神が万能でいられるのは実体がともなわないからだわ。見えない、さわれない、そんな存在が助けてくれないのは当然。だから奇跡が起これば喜ぶし、助けてくれなかったら『運命だった』なんておざなりな言葉で済まされる。これでもし実体があってみなさい。人はその存在に万能を求める。助けてくれるのが当たり前、その恩恵を受けなかった者は……実在する存在(それ)に一生分の恨みをぶつけるでしょうね」
 押さえてはいるが憎々しげな声。普段の優しいアイシャからは想像がつかない。神を信じないトーラだけれど、人という生き物が神様を求める姿は時に愚かしく、時に尊いと思う。だがそれをアイシャの前で口にするのははばかられた。
 聖都に集まるのは敬虔な信徒たちが多い。アイシャはそんな彼らに聞こえないようにうんと声を小さくしていた。
「だから月の女神が実在すると知ったときは驚いたわ」
 空色の瞳はまだ神殿を見つめ、トーラは神殿ではなくアイシャを見ていた。その空色の瞳が動く。トーラを見てにこっと笑った。
「ヒスイはいつか月の女神のところに行くのでしょう?」
 優しい声だった。トーラは「多分」と濁して頷く。アイシャが何を考えてその質問をしたのか分からなかった。優しい元・巫女は優しい笑顔で続けた。
「……ヒスイが女神と出会うとき、私はその場にいられるかしら? そりゃあ私には何の力もないし、置いていかれるかもしれないけれど」
 そこで一度言葉を区切って、そしてアイシャは歩を進めた。トーラも急いで後を追う。アイシャは微笑を浮かべたまま振り返って、もう一度銀色の神殿を見上げた。
「今まで神は実在しないというのが持論だったのよ。もしも本当に存在するというなら、この目で見てみたいわ。――それが私の旅の目的かもしれない」
 いつも優しいアイシャ。今まで、優しくてたくましいだけの女性だと思っていた。優しいアイシャも、たくましいアイシャも間違いなく真実の姿なのだけれど、人間はときどき見た目からは想像できない面も覗かせる。
 何か言葉をかけたかったが、やめた。
 そのかわりトーラはただの日常会話を投げかけた。アイシャもそれに乗って、そして二人は何事もなかったように湯治場へ足を運んだ。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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