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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第二節第四項(125)

 4.

 聖都では、神殿より打ち鳴らされる鐘によって時を知る。
 宗派は違えど祈る時刻は同じ。鐘の音は各神殿が祈りを捧げる時間にあわせて鳴らされていた。ここで使われる時計は水時計で、水と縁が深い知恵の神の神殿では昔から使われていたものだ。現在でもその風習は守られている。
 先ほど高らかに鳴り響いたのは夕刻の鐘。
 トーラは一曲踊り終わると、いそいそと帰り支度を始めた。日が西に傾いている。
「もう終いかい?」
「ええ。おしまい」
 声をかけてくれるのは顔見知りになった吟遊詩人。彼が不思議そうに聞いてきたのも無理はない。歌や踊りを生業(なりわい)とする人間はこれからが稼ぎ時だ。夜の酒場に繰り出し、そこの客を相手に歌い、踊るのである。
「うちはそういうの、座長がうるさいの。私のことをいつまでも子供扱いするから」
 使い古した言い訳を口にし、トーラは手を振ってみせた。
 まるっきり嘘ではない。もしも自分たちが旅芸人の一座と仮定するなら座長はヒスイしか考えられない。彼女を中心にして自分たちはまとまっている。ヒスイがトーラのことを子供扱いするのも真実だし、酒場で「女」を売り物にすることも好きではない。
 吟遊詩人は肩をすくめて見せた。
「君が本当に一人きりなら是非一緒にと誘うんだけど。でも、君のところの座長、見かけないよね?」
 この手の誘われ文句もお手のもの。トーラはにっこりと営業用の笑みを振りまいた。
「まだ追いついてないの。途中で別の仲間を迎えに行ってて、私には先に聖都に行けって。本当はもうひとり一緒にいるんだけれど、彼は彼で花街に入り浸りなのよね。じゃ、お先に」
 手を振りつつ必要なものは素早くまとめて、それ以上引き留められないうちに颯爽と身をひるがえした。
 とはいえ踊り手一人、しかも昼間に踊るだけではやはり稼ぎに限度がある。鈴と手拍子だけではもの足りず、隣にいた一人きりの吟遊詩人と仮に組むかとも考えたが、いかんせん彼の腕はあまりよろしくなかった。ぽつりぽつりと語るならそれでもいいが激しい踊りにあわせて流暢に奏でるには向いていなかったのだ。せめて一人でいいから音楽を担当する相方が欲しいとトーラは思う。そうすれば表現の幅は格段に広がるし、贅沢をいえば弦楽器、管楽器、打楽器、それに歌い手がいるともっといい。
「セイは絶対にそういうこと手伝ってくれないしなぁ。得意そうなのに」
 独り言をつぶやきながら足早に広場を突っ切っていく。日は西にあるといっても辺りはまだまだ明るい。人のにぎわいはまだ落ちないし、今の時間はちょうど礼拝をすませた者と夜になる前にたどり着いた者がごったがえして宿へ殺到している。
 広場には新しく立て看板が立っていた。近々祭りが催されることを告知するものだ。人だかりができていたがトーラは興味がなかったので素通りする。人々が口々に「一番の乙女を選ぶ」だの「誰が選ばれるか」だのいっているところを見ると世間的には関心度の高い出来事なのだろう。

 広場から脇道を通り、宿の階段を上り、いつもの一室に戻る。扉をあけると、それまでまったく人気(ひとけ)のなかった部屋の空気が寒々しかった。
「慣れたとはいえ寂しいわよね、この瞬間」
 ヒスイが消えてから三日経った。
 逆に言えばまだ三日。皆既月食は三ヶ月も先だ。あせることはないけれど、この一抹の寂しさはどうしようもない。頼りにするべきはずのセイは出ていったきり一度も戻ってこなかった。どうせまた花街で遊んでいるのだ。
 寝台の上に腰を下ろす。することもないので暇つぶしに聖典の一節を歌い始めた。聖典の文句はところどころ歌になっている。聖都にいれば自然と耳にするため、最近覚えたものだった。
「月の女神は太陽神の妹、処女と妻の守護神。弱い立場の女の味方。もしもあなたが逃げたいならば、月への道が開く日に、ななつの封印飛び越えて、死者の門をくぐりましょう……」
 トーラがつぶやくように歌うのは月の女神への歌。妖魔であるトーラに、神々をあがめるという習慣はない。七柱の神々といわれてもピンとこない。しいていえばヒスイと関係がありそうな月の女神だけがトーラの興味をひいていた。
 その月の女神は――理由はわからないが――ヒスイという存在を欲していて、そのヒスイを手に入れるためにわざわざ両親を会わせる段階から根回しして誕生させた。ではなぜ、そこまでして月の女神はヒスイを欲しがったのだろう。「予言の星」と呼ばれるヒスイの力が必要だったのか。その力を何に使うつもりだったのか。突き詰めて考えれば、なぜ、ヒスイの両親はあの二人でなければならなかったのか?
 窓の外はじわじわと夕闇が支配していく。あたりが見えづらくなってきたというのにトーラは明かりも灯さず、暗い部屋の中でじっと動かなかった。なんとなく動けなかった。沈黙がじわじわとトーラの心を押しつぶしてきて、心細さばかりが募った。
 不条理だ、と思う。こんなに薄暗い中、自分はたった一人で寂しい思いをしていなくてはならない。その考え方そのものがもう独りよがりなものになっているのだがトーラは気づかない。八つ当たり気味に声を張り上げた。
「全部、セイが悪い!」
 本人の目の前では決していえない台詞である。
「そうよ、セイが悪いの! こんなときくらい側にいてくれたっていいじゃない! ヒスイが帰ってくるまで独りぼっちの可哀想な私をちょっとは構ってやろうとか思わないわけ?」
 どういう構い方をするかを考えるとそっちの方が怖い。トーラの頭の中には客観的な見方ができる自分がいて、口から飛び出す悪口の数々がなんの益もないことにため息をついていた。だが感情的な自分はそれでも一度開いた口を閉じることができない。黙っているとまた沈黙に押しつぶされそうになってしまうから。
「何よ、何よ。セイなんか、我が儘で、自己中心的で、他人のことなんかお構いなしで、ただヒスイのことだけ愛しててヒスイだけが大事で、いつもヒスイ、ヒスイ、ヒスイってそればっかりで……」
 だから決して振り向いてくれることはなくて。そんなことは分かっている。全部セイが悪いのだ、ともう一度無理矢理結論づけて無駄に拳を振り上げた。
「何よう、ヒスイが帰ってきたらあることないこと、全部告げ口してやるんだからッ!」
 と、そこまでいったところで、気配のなかった扉付近から声があがった。
「やってみろ」
 と。
 血の気が引くと同時にトーラの背筋が伸びた。
 聞き間違うはずのないセイの声だ。よく通る彼の声は、弱い獲物をいたぶるような猫なで声であとの台詞を続けてくる。心なしか冷気まで感じられた。
「我が儘クソ娘が自分のこと棚に上げて、何を、ぎゃんぎゃん吠えてるのかなぁ? 弱い犬ほどよく吠えるって知ってる?」
「……お、お帰りなさい」
 まさか戻ってくるとは思わなかった。おそるおそるセイに目をやる。あたりは完全に真っ暗ではなかったが、もう部屋の隅などは明かりが届かず、見えづらくなっていた。
 部屋に明かりが灯された。
 三人部屋の広さに光霊が飛ぶ。名前は精霊の一種のようだが、実は妖魔側に分類されるものだ。別名鬼火とも呼ばれるそれはセイが飛ばしたものだった。
 あたりはろうそくを灯すよりもうんと明るくなる。トーラは目を瞬いた。セイの服が替わっていた。細身の上下共地は同じだが、それまでは木綿の厚地でできた旅装だったのに、今は青く着色した皮の衣服になっている。
「どうしたの、それ」
「買った。前の服は変態に脱がされたから」
 その台詞に目を丸くする。先ほどセイの悪口雑言を吐いたことはけろりと忘れて、思わず詰め寄る。
「何があったの!」
「……なんでそんなに目を輝かせてるわけ、お前は?」
 見つめ返してくるセイの目は半眼。しかし次の瞬間、急に真顔になった。
「ヒスイは?」
 セイがトーラに尋ねてくるとしたらこれしかない。首を振って答えに代えた。セイも分かっているのかそれ以上深く問いただしてくることをしない。軽く肩をすくめるだけにとどめたようだった。
 セイは敏感にヒスイの気配をたどることができる。イスカが以前不思議がっていたことがあるが、トーラはその仕掛けを知っている。狩人が獣の通る道に鳴子(なるこ)を仕掛けておくのと同じだ。鳴子の仕組みは、道に糸をはりめぐらせてその先に音が鳴るものを用意しておく。セイの場合、けもの道に相当するものは特定の個人。周囲に張り巡らせる糸は、その人の心に仕掛けたセイの気配。セイは夢見、ひいては精神を司る妖魔だから他人の心の中に自分の妖気を忍ばせておくことくらい朝飯前である。
「具体的に、例えば私がヒスイと接触したときにセイはどう感じるの?」
「後ろから髪の毛を一本だけ引っ張られる感じかな。で、その背後に立たれてる気配がヒスイの気配と一致していたら、当たり。ただしヒスイの気配ってたどりにくいから」
「そうね。水の中で硝子のかけらを探して拾うのに似てるわね」
 ふう、とため息をはいた。その気持ちはよく分かる。
 ただし今のトーラは、それよりもっと気を引く出来事があった。
「で、なんで服が替わってるの?」
「お前もしつこいね。……さっきの嘘はおいといて」
 変態さん云々は嘘だったらしい。セイはにっこり微笑んで――もちろんそこに好意があろうはずがない――トーラの頬をつねりあげる。続く言葉は嬉しそうな顔とは裏腹に、普通の声だった。
「そろそろ盗賊家業に戻ろうかと思ってね。丈夫な服に替えたのさ。ある程度の衝撃には耐えてくれるし、ちゃちなナイフくらいなら腕を振り上げるだけで防げる。もちろん音も立たないから盗賊御用達だよね、こりゃ」
「わ、わかった、わかったから。わかったからこの手を放して……っ」
 トーラの悲痛な叫びなどなんのその。セイはにっこりとさらに笑みを深くした。
「人の陰口叩くようなクソガキにはお仕置きが必要だからね」
 そういってさらに強くつねりあげられる。

 そのとき、部屋に風が吹いた。
 窓は閉まっている。隙間はない。
 セイの手が放される。トーラは視線をセイから外した。
「おい」
「うん、多分……」
 どこにも風が通る道などない。けれど風は確かに吹いていた。それがどういう意味であるか。ヒスイの時間移動に風が付き物なのはこれまでの経験で二人ともよく分かっていた。
 部屋中に放った光霊が風にあおられ、光がぐるぐると渦を巻きはじめる。風が生まれていたのは部屋の中心からだ。それはあっという間に微風から突風へと育つ。トーラは思わず目を細めた。風のうなり声が高くなり、窓際の垂れ幕が風をはらんで大きく揺れる。トーラやセイの髪も大きく吹き上げて、そして、妖魔二人は風巻(しまき)の中心に人の気配を察知した。二人ともおのおのが持つ特有の感覚ではっきりと「彼女」が現れることを知る。
 次にその存在を捕らえたのは視覚だ。風の中心に半透明の光が生まれる。その光の色と形が、短い黒髪の娘と亜麻色の髪にピンクのリボンを結んだ女性の姿を取るのは、まばたきするほどの時間しか要さなかった。
 風の勢いがおさまった。二人の女性の足が床につく音。翠の瞳はまっすぐにトーラを見ていた。トーラの藤色の瞳もまっすぐに翠の瞳を見つめている。ヒスイの手にしっかりとつかまっていたアイシャはまだ現状が理解できていないようだった。
「何? 着いたの? 真っ暗なところを歩くのはもういいの?」
 空色の瞳をせわしなく瞬きさせている。その目がセイとトーラの姿を捕らえたのはすぐだった。
「セイ? トーラ!」
 歓喜の声をあげる。ヒスイはそっとアイシャに添えていた手を放した。トーラも同じくらい喜びに満ちた声をあげる。
「アイシャ!」
 感動の再会。なにしろ二年間一緒に暮らした仲だ。もう二度と会えないかもしれないと思っていた姉代わりの女性の登場にトーラは両手を広げた。
 だが誰よりも先に再会の抱擁をしたのは、他でもない。
「おかえり、ヒスイ!」
 セイ――最強の根性悪にして、ヒスイの前だと借りてきた猫の代名詞――は、立ちふさがるトーラとアイシャの存在を押しのけ、真っ先に最愛のヒスイに駆け寄り抱きついた。嬉しそうに黒髪に頬ずりをする。
「……ただいま。いい子にしていたか?」
「うん、もちろんっ。ちゃあんとトーラの面倒も見てたよ、偉いでしょ」
 ついでにもうひとつ、大嘘つきの代名詞という説明も付け加えていいかもしれない。アイシャは無言でトーラを見、トーラもまた無言だったが力一杯首を横に振ってみせた。ヒスイが聖都から消えて、まだたった三日。今まで五十年待ったことを考えれば素晴らしいまでの早さだ。
 セイがヒスイに懐いている間に、アイシャはトーラを抱きしめてくれた。お互いに変わっていないねと確認の意味もこめて。
「元気そうね、トーラ。よかったわ。心配していたのよ」
「ありがと。アイシャ、大好き」
 久しぶりの懐かしい人は今の季節にあわない冬服を着ており、その服からはいつも側にあった香草の薫りがした。アイシャのところで暮らしたころの記憶が呼び覚まされる。トーラが唯一、寂しくなかった時代のものだ。嬉しくて懐かしくて涙がにじむ。
 対しアイシャの時間感覚はまだ「懐かしい」と思えるほど離れていなかったので、セイに対しても昔のような軽口を投げかけた。
「セイとも久しぶりね。嬉しいわ、また昔のように笑うあなたに会えて」
 聞きようによっては皮肉ともとれる。トーラは表情をひきつらせた。ヒスイは、自分がいない間にセイの態度が豹変していたことなど知らないわけだからさらりとその台詞を聞き流す。肝心のセイはというとヒスイを抱きかかえながら何でもないことのように答えた。
「オレも嬉しいよ、またアイシャに会えて。ちゃんとヒスイの治療もしてくれてるじゃない? ヒスイの怪我を治してくれるから、アイシャさん、好きだよ」
 その台詞を翻訳するなら「ヒスイの役に立つうちは利用価値がある」だろうか。すわ嫌味の言い合いかとトーラは顔色を変えたが、セイもアイシャもなぜかますます嬉しそうな顔で話を進めるのだ。
「だけど私、薬草や香草のたぐいはみんなあの家に置いてきてしまったのよ。せっかくヒスイの怪我を治す価値を見いだしてくれたのに残念だわ」
「大丈夫、ここは聖都だからね。薬草や香辛料の交易も盛んなんだよ。お金があればまた薬草も買いだめできるし、トーラが踊り子さんやってるからいっそ別のお商売を始めてもいいよね? オレ、お財布握って怖い顔でそろばん弾いてるアイシャさんも好きだなぁ」
「まぁ、よかった。宿暮らしだと自慢のお料理も振る舞えないからどうしようかと思っていたのよ。やっぱり、しっかりもののセイがいてくれると心強いわ。安心してヒスイをまかせられるわね」
 最後にさらりと恐ろしいことをいった。
 トーラは固まる。ヒスイは眉間のしわを人差し指でのばした。
「……そういえばトーラがこの二人の会話を聞くのは初めてだったか? 今のうちに慣れておけ。終始この調子なんだ」
 それは、聞いている周囲の人間はかなり心臓に悪いということだろうか。だれもトーラの問いに答えてくれる者などいない。そして青い目をした盗賊はきらきらとその瞳を輝かせてアイシャの手を取った。
「やっぱりアイシャさんはこうでなきゃ。オレのこと応援してくれるの、アイシャさんだけなんだものっ」
「私も、ヒスイのこと大好きなあなたのことは嫌いじゃないわぁ。頑張りましょうねっ」
 何を頑張るのだろうか。トーラはとっさにヒスイの顔を見たが、ヒスイは固く目を閉じたまま首を振るばかり。ただ口の中で小さく「これがあると、やっと帰ってきたという気がするな」とつぶやかれたのをトーラは聞き逃さなかった。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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