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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第二節第三項(124)

 3.

 フォラーナ神殿で、その日はちょっとした騒ぎがあったと、のちに記録は語る。

「大変です、神官クロード! 資料室の扉が破壊されました!」
 下っ端神官が大慌てで持ってきた報告に、石頭と鋼の心臓を併せ持つと噂される鉄面皮の資料室担当神官は眉ひとつ動かさなかった。
「廊下は静かに」
「で、ででででで、ですが……ッ」
「廊下は静かに」
 クロードと呼ばれた神官はそれでも冷静な態度を崩さなかった。読みかけていた書物に几帳面にしおりを挟んだあと立ち上がる。威厳を持って。
「何者に破壊されたのか? 破壊した目的は何か? せめてそれくらいの情報は整理してもよいのではないかね?」
 きょろきょろ動かない目は爬虫類のよう。まっすぐに引き結ばれた唇の両端はやや下がっており、それがいっそういかめしい雰囲気を作っている。彼はとにかく威厳とか冷静という言葉が大好きだった。その彼の分厚い外面をたたき壊せる存在は今、神殿にはいない。
 報告を持ってきた下っ端神官は大きく深呼吸し、そして神官クロードの大好きな「冷静」な態度を取り戻す。直立不動で張りのある発声を返した。
「では、報告いたします。先ほど元・神官イスカ殿が来訪され、扉の鍵を破壊し来室。貸出禁止文書を資料室内にて閲覧中にあります」
 イスカ。その名前を聞いた瞬間、神官クロードの表面を覆っていた威厳やら冷静やらは一気に吹き飛んだ。次の瞬間、普段は表情のない顔に青筋を浮き上がらせ、資料室まで全力疾走する神官クロードの姿があった。廊下は走るなという自分の台詞を忘れているとしか思えない。あとに残された部下たちはただ呆然と遠ざかる彼の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
「クロード様はどうなされたんだ……?」
「お前、知らないのか。クロード様はイスカがあまりお好きではないのさ。なんというか性格的に合わないらしい」
 年上の部下は首を振ってみせる。それから、その場にいた全員は再び通常業務に戻った。まるで何事もなかったように。

「イスカ殿ッ」
 資料室の扉は大きな音をたてて開かれた。
 樫の木で作られた扉はかなり重いのだが、それが吹っ飛ぶかのような勢いであった。
 薄暗い室内の閲覧用の机、その上にうず高く積まれた分厚い書物の陰に隠れて茶色の頭が見える。ちょこんとイスカが座っていた。
「……クロード様?」
 茶色の頭がひょいと上を向く。
 部下達の噂通りクロードはイスカが好きではなかった。自分より年下のくせに自分より優秀で、自分より大神官の信頼が厚い少年神官が。そのイスカはあれほど大神官その他幹部に可愛がられ目をかけられていながら半年前、神官職を辞任。その後何をするかと思いきや、神殿のまかない婦のところへ転がり込んで養われているという。神官の風上にもおけないと思っていた元神官の少年は、神官クロードの前で悪びれもせず琥珀色の瞳を細めて微笑むのだった。
「突然押し掛けまして申し訳ありません。どうしても調べたい資料がありましたのでお邪魔させていただきました。まさか鍵がかかっている部屋に司書さんがおられるとは思いませんでしたが、非常に助かりましたとお伝えください」
 調べ物は終わったのか分厚い書物を丁寧にたたみ、椅子から立ち上がる。
 後ろめたさのないイスカの表情とは裏腹に、威厳と冷静を何より愛する神官クロードの血圧はどんどん上がっていった。どうにもしゃくにさわる相手というのはいるもので、クロードにとってのイスカがまさにそれだった。
「イスカ……司書がいたのは、今日はちょうど資料の整理をしていた日だったからだ……」
 こめかみがひくひくとけいれんする。対し、イスカはまるで春のまっただ中のような顔。
「ああ、そうなのですか。本当に助かりました。あ、お返しいたしますね」
 机の上にはどどんと分厚い天文年鑑が十数冊と大陸地図の束。それをずいっと差し出される。怒りのあまりクロードは歯ぎしりしかねない強さで奥歯を噛みしめた。
「貴公、まるで謀ったようにこの日を選んだのはいったいなぜか?」
「日のことは僕にいわれましても……」
 たまたま今日、ヒスイが現れただけ。そんな事情のことなど神官クロードは知らない。目の前にいるのは小動物の皮を被った、ただの傍若無人にしか見えない。
「貴公は、そもそも、とうに神官を辞めた人間ではないのかねッ? それを、いつまでも身内面して、あがりこまれては。迷惑だと、そんなことも分からないのかねッ!」
 つばを吐く勢いで一句ずつ区切って怒鳴りつける。ことさら「迷惑」の部分を強調した。
 その姿は彼が最も愛する威厳だの冷静だのいう言葉とはほど遠い。神殿中の人間がすでに神官クロードの性格について知っていた。彼は、普段から自制をきかせていなければ神官らしく振る舞えないほど、根は直情型で短慮なのである。
 イスカは言葉の勢いにおされ首をすくめる。申し訳ありませんでした、と深々と頭をさげた。その態度がこれまた本当に心から反省しているように見えるものだから更にクロードをいらだたせた。正しいことが必ず相手の意に添うかというと、そうでもない。それはまた別問題なのである。
 頭を下げるイスカはそれに気づいているのか。いや、ない。茶色の頭が持ち上がるとその口はまたクロードの血圧を上げるような台詞を吐くのだった。
「今すぐ大神官様にお目にかかりたいのですが、本日はどのようなご予定が入っておられるのでしょうか。クロード様ほどのお立場でしたら大神官様のご予定も把握しておられますよね」
 頭の中で血管が数本切れた。
 少なくともクロードはそう感じた。
 大神官とは、大地の神に仕える神官すべての頂点に立つ方であり、おいそれと謁見を申し出るような相手ではない。数ヶ月前から謁見の予定を入れて、それでも予定が延びて、だが文句がいえるはずもなくじっとお会いできる日を指折り数えて待っている、そういう存在なのだ。
 会いたい、とすぐにいって会える存在ではない。まして神官でも貴族でも王族でもない、なんの権力も権限も持たない一般人の口から出るべき台詞ではないのである。あまりにも無茶な要求に、クロードは一瞬めまいさえ覚えた。
「し……」
「し?」
 イスカが首を傾げる。
「神官イスカ! 大神官様は貴公ごときのために時間を割けるほど、お暇な方ではないわぁぁッッ!」
 間違ってはいけない。イスカはとうに神官ではないのだ。が、あまりの怒りに昔の慣れた呼び方が出た。ついでにいうと目の前の少年はその雷にこたえた様子はない。
「クロード様のそういう職務忠実でいらっしゃるところ、僕、大好きですよ」
 糠に釘。
 一気に力が抜けた。
「ですが、今は地上における権力で物事を計っている場合ではないのです。ただのイスカが謁見できないのなら、霧の谷の権力を笠に着てならいかがですか?」
 琥珀色の瞳は困り切っていた。どうしても大神官様にお会いする必要があるのだと、その表情は言葉より雄弁に物語っていた。数年一緒に仕事をしていた経験があるものだから、イスカが元々権力に興味がないことくらい知っている。そのイスカが、ただ「手っ取り早いから」というだけで権力を笠に着ようとしている。
 何か、自分には分からない重大な出来事が起こっているのだとクロードは気づいた。
 だが「自分には分からない」出来事を「イスカが知っている」というのが癪(しゃく)に障る。妙に高い矜持が素直に頷くのを阻害した。
 クロードはしゃんと背筋を伸ばした。表面的にはいつもの威厳を取り戻した形だ。
「権力というが、神官イスカ。貴公はただの、霧の谷からの留学生ではないのかね。ただの留学生に、谷が。崩壊した谷が。いかほどの後ろ盾になるのか聞かせてもらおうではないかね?」
 わざと谷が崩壊したことを強調する。その瞬間、イスカの瞳に悲しみが色濃く混じった。その表情に少し言い過ぎたかと後悔したが、それでもイスカは感情的になることはなかった。
「……どうしてもいわなくてはいけませんか?」
 イスカが言いよどむ。クロードは、それを手を挙げて制した。
「いや。私が言い過ぎた。大神官様に取り次ごう。イスカ殿からだといえば、おそらく通じるのであろう?」
 それを聞くとイスカは明らかにほっとした表情になった。クロードは経験上、知っている。大神官が一見イスカに甘いのはその後ろになにか理由があるのだ。
 何か他言できないような込み入った事情があるのだろう。クロードの勘がそれ以上聞いてはいけないと告げていた。厄介な話には深入りしてはいけない。後戻りできなくなる。

   *

 長い廊下をクロードがすたすた歩く。その後ろをイスカがてくてく歩く。
 イスカは目の前を歩く中年の神官が嫌いではなかった。ときどき怖い顔で意地の悪いことをいわれるものの、彼は自分のことを棚に上げて人をあげつらうということはしなかった。他人に厳しいが自分にもいつも厳しい。人は彼を石頭だの鋼の心臓だのというがイスカはどちらかというと活火山だと思っていた。人間の時間感覚でおだやかなものと安心していると、いきなり噴火だ。

 二人が歩く回廊の真上から、影が落ちた。
 それに気づいてイスカが顔をあげる。体重を持った影はイスカの目の前で、神官クロードの背後に落ちた。
「クロード様、あぶな……!」
 最後まで声をかけることもできなかった。
 あまりに素早すぎて常人であれば何があったのか瞬時に理解することはできなかったに違いない。竜の目を持つイスカだから、目の前で何が起こったのか理解できた。音もなく着地した影。クロードの背後に降り立ったため、おそらく彼は影の存在に気づいていない。影はそのまま手刀でクロードの首筋を打った。
 前のめりにクロードが倒れる。だが影はそこで攻撃の手をやめなかった。首筋をひっつかんで体勢を立て直させたあと、その腹部にも一発いれた。音からして重い一打。イスカの目の前で起こった出来事は時間にしてまばたき二回ほど。
 神殿に侵入したくせものだ。本当なら、声を上げて誰かを呼ぶべきである。
 だがイスカはそれをしなかった。できなかった。その影は、ひとつに束ねた赤毛をひるがえし、青い目でイスカを見たから。
 今度こそ本当に中年神官の体はほうりだされた。
 イスカがそこにいなければ、おそらく誰に気づかれることもなくクロードを気絶させられただろう。セイが現れてからそこまでの一連の動作があまりに素早くてきぱきと行われたので、慣性に任せて倒れるクロードの体はひどく緩慢な動きに見えた。ゆっくりと倒れる知り合いの姿。その隣に立っている男の顔をイスカはまじまじと見る。もうクロードは目に入っていなかった。
 ヒスイと半年ぶりに再会したと思ったら、彼との再会ももれなくくっついてくるのだと失念していたイスカが悪い。ヒスイあるところセイありである。
 突如現れたセイはイスカを認めるなり
「ヒスイの気配がしなかったか?」
 といった。
 イスカは言葉にならなかった。あんぐりと口を開けて、憮然とした表情のセイを見る。
「……なんであなたがここにいるんですか」
 セイはむっとして眉間に縦皺を作る。
「そんなこと聞いてないっての。質問してるのはオレ。お前、ヒスイと会わなかった?」
 えらそうに腕を組んで見せる姿は本当に変わっていない。青い髪に戻していたはずなのになぜ今更また赤毛なのか、また、どうして彼が神殿にいていきなり自分の目の前に現れたのか、他にも一体いつの間にヒスイの気配を感じたのか、頭の中で色んな疑問が浮かんでぐるぐる回る。
 イスカは、考えるより早くセイの胸ぐらを掴んでいた。冷静に考えてみるとものすごく恐ろしいことをやっている。
「本当ですか? ヒスイ様のご気配が、あったんですか!?」
 妖魔がどうやってヒスイを見つけるのか知らない。トーラの星見はともかく、セイはそんな能力を持たないはずだ。自分でヒスイに進言したはずなのだがこんなに早くセイがここにやってくるとは思わなかった。
 琥珀色の目は真剣だった。青い瞳はそれをのぞき込んで、眉間の縦皺はそのままに大きくため息をついてみせた。
「……知らない、か。お前が知らないなら本当にオレの気のせいだったようだな」
 イスカが食いついてきたのを「知らないせいだ」と誤解しての台詞だった。乱暴にイスカの手は振り払われる。
 気のせいどころか、恐ろしいまでの精度である。
 そして、もうひとつ分かったことがある。心が読めるなら誤解などしない。今の姿では、彼は他人の心を読むことができないのだ。
「一体、どうしてここに?」
 元々イスカは嘘が下手だ。表情ひとつでセイに読まれることもあるが、がっくりと肩を落としたセイについ問いかけてしまった。髪は赤毛でもヒスイが側にいた頃とはやはり違う。青い目は笑顔とは無縁の、冷たい色しかしていなかった。
「だから気のせいだって。一瞬ヒスイが戻ってきたような気配がしたんだよ。ヒスイが帰るところは特定の場所じゃなくて特定の人のところだから、お前かアイシャのところに出たのかなと思ってさ」
 当たっている。アイシャのすぐ側にヒスイは現れた。
「小屋をあたってみたらアイシャいないし、お前いないし。お前の行き先なんて神殿くらいしかないだろうが。大神官とやらの部屋に続く廊下を張っていれば多分通るだろうと思ったし」
 そこまで行動を読まないで欲しいと思う。よほど分かりやすいのだろうか。
「だけど気のせいだった。オレもいいかげん感度が鈍ったな。ここから遠く離れたところにいたせいかもな」
 間違いではない。確かにいたのだ、ヒスイは。それを口にしてはいけない、とイスカは下腹部に力を込める。セイが未来を知ることを、おそらくヒスイは望まない。
「セイ……ヒスイ様には、いつか会えます……」
 声が震える。他人が聞けば泣いているのかと思うような、情けない声になってしまった。セイはいつもの自信たっぷりな台詞を返してくる。
「当然。二度と会えないなんて考えたこともない」
 この自信はどこから来るのだろう。不思議であり、うらやましくもあり、頼もしくさえある。
「今、どちらにいるんです? トーラ嬢、あなたを追っていったんですよ。会えました?」
「会ったけど、捨ててきた」
「捨……」
 どうやらトーラの淡い想いは、やっぱり、報われていないらしい。分かっていたことだけれどあの少女が不憫でならなくて、笑みともつかぬ微妙な表情を浮かべるしかなかった。
 それとは対照的に青い目の妖魔は実に楽しげな――まるで子供がたちの悪いいたずらを思いついたような顔である――笑顔を浮かべた。
「ヒスイがいないならもう用はないし? ああ、角を曲がって人が来る。お前、賊に襲われたことにしておけよ?」
 と、足下の倒れた神官クロードを親指で指す。そして完全に油断しきったイスカの顔をめがけて一発、掌打を浴びせかけた。油断していたこともあってもろにそれをくらう。鼻をつぶされながらイスカは後ろに吹っ飛び、尻餅をついた。
 女の声で悲鳴があがったのはちょうどそのすぐ後だった。
「きゃあああああ、イスカさん!」
 セイはその女によく見えるようにしてしっぽのような赤い髪をひるがえし、吹雪く外へと飛び出していった。
 女の声はまだ続く。混乱しきった声で衛兵を呼び、そのあと慌てふためきながらイスカに駆け寄ってきてくれた。大地の神殿に巫女は少ないのですぐに誰だか分かる。いつもそばかすを気にしていた巫女マリーだった。よっぽど混乱しているのか、目は涙目だし、手巾(ハンカチーフ)を出す手つきもあぶなっかしい。
「大丈夫ですか。鼻血出てますよ?」
 鼻血といわれて顔の中心に手をやる。ぬるりとした感触があった。もしかして、わざと彼女に見せるようにイスカを攻撃したのかもしれない。セイとイスカが知り合いとは、あのやりとりでは思いもしないだろう。
 イスカは袖口で血を拭った。今、手巾を借りても返せないのがわかっているので丁重に辞退する。
「巫女マリー、僕は大丈夫ですから神官クロードをお願いできますか。多分、気を失っておられるだけですから」
 自分の手巾を取り出し、引き裂いて、まるめて鼻の穴にねじこんだ。少々間抜けだが致し方ない。
「イスカさんはどうなさるのですか」
「ええ。ちょっと大神官様にお別れの挨拶にいってまいります」
 にこっと笑った。お別れの一言にマリーが目を丸くする。イスカはそれ以上語らなかった。足取りはふらつくこともなく、駆けつけてきた衛兵の間をぬって大神官のところへと向かう。
 セイの台詞ではないが、ここにはもう用はない。

「失礼いたします」
 クロードに卒倒されそうになった「大神官に会う」という行為が、イスカには当たり前の権利として許されていた。
 もちろんそれを知らない人間のほうが圧倒的に多い。突然のイスカの入室をやんわりとたしなめようとしたお偉いさん方を、さらに差し止めたのは大神官その人だった。
「はずしておれ」
 穏やかな声。大地の神殿に仕える人間はおおむね穏やかな性質が多い。神官クロードのように実は短気な人間のほうがまれだ。側近を全員扉の外にやったあと、おそらく地上において頭をさげる相手などいないはずの大神官はイスカの前にぬかずいた。
「大神官様! 頭をあげてください。僕は自分が頭をさげられることに慣れていません」
「いいえ、イスカ様。そうは参りません。私は大地の神に……七柱信仰と融合した地竜にお仕えしている人間です」
 お互いに敬語だけは譲り合わない奇妙な会話。それをとがめていると話が進まないので、イスカは諦めることにした。どうやって切り出そうかと迷っていると、予想外なことに大神官のほうから話を出されてしまった。
「竜の里にお戻りになられるのですな」
 どうしてそれを、と思ったが最初からそういう約束だったことを思い出す。イスカが神官職を辞したとき期限付きでアイシャのすぐ側で暮らすこと、アイシャが嫁いだり、命を終えたときには竜の里に戻ること。アイシャが亡くなったわけではないが彼女を守るという理由がなくなったことは確かだ。イスカは頷いた。
「あなた様は先の王ホウ様からお預かりした方。どうぞ、必要になられましたらいつでも神殿にお戻りください。人間になりすますための身分と大神官の命令という権限をお与えいたします」
 イスカのいいたいことは全てわかってくれていた。ヒスイが戻ってきたとき、それらが絶対に必要になる。そして彼だけが約束してくれても困るのだ。あと四十九年後の大神官にも伝え続けていってもらわなくてはならない。
「ご面倒かけます。すでにご存じのことと思いますが、これは竜の里の決定ではありません。里はあくまで予言の星とは無関係。僕……いえ、私は先代精霊の長ホウとの盟約に従い予言の星を守護するのです。神殿は、里から何かいわれましたら知らぬ存ぜぬで通してください」
 大神官は頭をさげたその状態で、さらに深く頷く。
 そのときのイスカの瞳は確かに人を従える輝きを帯びており、反面、鼻に突っ込んだ血止めの布きれがなんとも間抜けさを漂わせていた。これで吹き出さない大神官はかなり偉かった。

   *

 記録は、事実は語るが、真実は語らない。
 記されているのは資料室の鍵が壊されたこと、盗賊が入ったがすぐ出ていったこと。
 神殿のまかない婦がひとり嫁いだということになって消えたことや、猛吹雪の最中、地竜が翼を広げて飛び立っていったことなどどこにも記されてはいなかった。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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