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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第二節第二項(123)

 2.

 差しのべられた手。アイシャはヒスイの顔を穴が開きそうなくらいまじまじと見る。翠の瞳は、迎えに来たという説得力のある台詞とは反対に揺れていた。ヒスイは交渉事には向かないなとアイシャは思う。説得するつもりで来たのならもっと強気に出るべきだ。迷っているのはアイシャではない。ヒスイの方である。
 アイシャは彼女の瞳から、今度は手に視線を移した。ヒスイは固唾を呑んでアイシャを見ている。一歩引いたところで、イスカもまたアイシャがどういう態度に出るのか凝視していた。
 二人が緊張して見守る中、アイシャはその期待を裏切るように緊張の欠片もない声をあげた。
「どうしたの。手首、あざが出来てるじゃない」
 ヒスイの右手首にはうっすらと青あざが浮いている。ヒスイがそれに気づいて慌ててひっこめようとしたが、そこはアイシャが早かった。手首ではなく腕をとり、小脇に抱えるようにして右腕を引っ張る。
「しょうがないわね。私がちょっと目を離すと怪我してくるんだから。ほかに怪我してるところはない?」
 ただ確認を取っただけだったのだが、ヒスイはおそるおそる
「……左足首をねんざして……大したことはない」
 という。アイシャの眉がつり上がった。
「ヒスイの『大したことはない』は信用できないのよ。イスカ、薪を多めに持って入ってきて!」
「は、はいっ」
 薪を積んである場所は入り口の裏にある。イスカに頼んだ後、雪を踏みかためてできた小道をたどりヒスイを部屋の中にひきずっていった。部屋の寝台の上にヒスイを座らせ、自分の外套を脱いでかぶせかけた。真冬だというのにヒスイはかなりの薄着だったからだ。それでも寒そうな様子は見せない。アイシャは続いて薬棚から包帯やらなにやらをひっぱりだした。
「冷やすのはそこらに雪があるからこれでいくわね。足のほうがひどそうね? 包帯で固定しておきましょうか。私がいなくなるとこれなんだから。セイに怒られるのは私なのよ」
 てきぱきと足を固定し、包帯をはさみで切る。アイシャの知る限りでは打ち身・ねんざに特効薬などない。せいぜい炎症を抑える膏薬(こうやく)を塗って、冷湿布で患部を冷やすしかない。そうして穏やかに快復を待つ。
「骨にひびは入っていないようね。肉離れも起こしていないようだし。なんなら痛み止めの薬草を煎じましょうか?」
「……いや。それで、アイシャ。あの……」
 ためらいがちに切り出されるヒスイの声に、アイシャは顔をあげた。翠の瞳はまだ不安げな色を浮かべている。
「セイに怒られるって……まさか、来るつもりなのか?」
 本音では来てほしくない、と顔に書いてあった。アイシャはわざと大きく目を見開いてみせる。ヒスイによくわかるように。
「当然でしょ?」
 今度はヒスイが瞳を見開いた。これは心からの驚きゆえだろう。
 その反応にアイシャが二の句を継ごうとしたちょうどそのとき、部屋の扉が威勢良く開かれる。
「薪を持ってきました!」
 イスカだった。寝台の上で治療中とみられるヒスイを見て、琥珀の瞳が歓喜の涙でうるむ。
「ヒスイ様……」
 胸を詰まらせてそれ以上は言葉にならなかった。感動の再会はアイシャに譲ってくれた。彼もまたヒスイと再会できるのを心待ちにしていたのに。今すぐ飛びついて次の主(あるじ)としてすがりつきたいだろうに、それでも彼は一番をアイシャに譲って自分は自分の役目を果たすべく努めて冷静であろうとしていた。
「お寒いでしょう、今すぐに」
 イスカは薪の束を崩すと、ぽんぽんと勢いよく火の中にそれを放り込んだ。炎はイスカの心を映したかのように大きく膨らんでさらに強く熱を放出する。この際、薪が残り少ないことは後回しだ。アイシャははしゃぐようなイスカの背を見て気づかないうちに微笑みを浮かべていた。
「イスカ。台所にいってお湯を沸かしてくれないかしら。寒いから熱湯が沸くのは時間がかかると思うけれど、お茶をいれてほしいの」
「お茶ですか?」
 茶葉の蓄えはもうない。行商をしているときの目玉商品だったが、この小さな民家に引きこもってから取引もないので目減りする一方だった。飲み物といえばワインかエールなどの酒類、あるいはアイシャが薬草と兼ねている香草を煮出したものくらいである。
 アイシャは目を細め、口角の両端をあげて無理に微笑みの形になるよう表情を作った。
「少しヒスイと二人きりでお話をしたいの」
 つまり、しばらく邪魔をするなということだ。イスカは非常に残念そうに肩を落とした。
「……ローズマリーでいいですか」
「お願いね」
 嬉しそうなアイシャの声とは対照的にイスカの声は沈んでいた。彼は持ってきた薪の束をひとつ抱えた。このために、イスカには薪を多めに持ってきてもらったのだ。せっかく出会えたヒスイともっとゆっくり話したいと物言わぬ背中は語っていたが、アイシャはそっと心の中で謝罪する。その彼は出ていくときに一言そえるのも忘れない。
「お願いですから、お茶を持ってくるまで二人ともそこにいてくださいね?」
 頼むから勝手に消えないでほしいと本心から訴えて台所に消えた。
「……すっかり尻に敷かれているな」
 扉を見つめるヒスイの一言に、アイシャは首を振る。
「イスカには尻に敷かれている自覚なんてないのよ」
 自覚がないから、尻に敷いていることにはならない。アイシャの説明にヒスイは疑わしげな目を向けてきた。もっともアイシャ個人の考えでは、男は女の尻に「敷かれてやっている」くらいの度量がないといい男とはいわないと思っている。
「さて、ヒスイ。さっきの話の続きになるけれど……」
 彼女の手首に包帯を巻きつつ言いかけたところ、ヒスイの説得の声に遮られた。
「本当にいいのか? 自然の摂理に逆らっていることになるんだぞ。育ててくれた人とか、世話になった人とか、生きていれば絶対に誰かが覚えてくれている。もしかしたらこのまま生きる先に出会えたはずの人も……そういうのを全部諦めることになるんだぞ?」
 ヒスイの説得はアイシャをここにとどめるためのもの。思わず苦笑してしまった。迎えに来たといった人間の台詞ではない。なだめるようにアイシャは続きを話した。
「そうね。このまま生きていたら……もしかしたら、いい男とめぐりあって結婚して子供こさえているかもしれないけれど」
 ありえない架空の話を語るように、声音にはまったく真実みがない。
「全てを捨てることになるわね。分かっていないと思ってた? でもね、ヒスイ。そんなことは大した問題ではないの。旅暮らしが当たり前だったあなたには今ひとつぴんとこないかもしれないけれど、人が故郷を捨てることも同じくらい全てを捨てることになるの」
 アイシャは一度故郷を捨てて流れ者暮らしを始めた。ヒスイはそれを知っているはずだった。だが事実だけをのべてみても、土地と共に生活していた人間と最初から旅暮らしだった人間では出来事にともなう心理的な重みが違う。
 足と手首の治療をすませ、アイシャは椅子を引き寄せて座った。
「例え話をしましょうか。もしこのまま私がここで暮らしていたとして。そうね、一生懸命長生きして、七十一のいい女になれたとしましょう。そのとき目の前には誰がいると思う?」
 ヒスイの翠の瞳が瞬いた。答えを導き出してほしいと、アイシャは微笑みながらそれを見守る。ヒスイの目が台所の方向を向いた。そこにあるのは壁だけれど、ヒスイの意識はまず間違いなくその壁の向こうを見ているだろう。
「……イスカ、か?」
 出題者の意図した回答がでてきてアイシャは満面の笑みになった。
「そうね、今のままなら、もしかしたらそうなるかもね。だけどヒスイ? イスカは絶対、そのときが来たらヒスイのところにいっちゃうのよ」
 もしもこのまま変化乏しく暮らすとしたら、年老いてもイスカと二人暮らしになる。その可能性は高い。
 優しい彼のことである。そうなった場合、ひとりぼっちになるアイシャを優先してずっとここにとどまってくれるかもしれない。だがそれはイスカ本人にしてみれば貧乏くじをひくことになりはしないだろうか。
 彼が今生きているのはひとつの約束を果たすためだ。大切な大切な、それこそ命と引き替えにしてでも守りたかった大切な人が託した願いのため。ヒスイを守ること。もしも老いたアイシャのせいでその約束を守れないとなったら絶対に後悔する。イスカが後悔するのではない。深く後悔するのはアイシャのほうだ。
「大切な人が一人もいなくなって、それでも生きていられるほど私は強い人間じゃないわ。あなたが持ってきた話はとても魅力的よ」
 このままただ時を過ごして、それはそれで幸せなのかも知れないが、自分は知ってしまった。自分が生きているか死んでいるかきわどい時間にヒスイが再び現れること。そうなったら、きっと思うのだ。「あと五十年若かったら一緒に行けたのに」と。そんな後悔はしたくない。そして自分の目の前には選択肢がある。不安がないといえば嘘になるが、あちらの時間にはヒスイがいてくれる。セイがいる。トーラがいる。イスカも長生きできる。
 それに、自分が覚えているセイは最後に冷たい目をしていた。怒っているヒスイの後ろで幸せそうに目を細めている彼をもう一度見たい気もする。

 目の前の彼女はまだ納得がいかないような顔をしていた。ヒスイはアイシャではない。アイシャの考えていることなどきっと、どれだけ言葉で説明しても納得してもらえない。だが、彼女はそれでいいのだ。無理に同意しなくてもいい。心配してくれる人がいることさえ今のアイシャには心地いい。
 それに、昔から口達者とはほど遠かったヒスイのことだ。頭の中には色々渦巻いているだろうがアイシャを説得できるだけの言葉をそこから導き出すことはできないだろうと思われた。
 ヒスイの視線がやや下にさがる。再び顔が持ち上がって口を開きかけるのだが、その先は言葉となって出てこなかった。口は再び固く閉ざされた。かわりに、がっくりと肩が下がる。ヒスイの顔には「しょうがないな」と書いてあった。どうやら諦めてくれたらしい。つられてアイシャの表情もゆるんだ。
 場が和んだちょうどそのとき、見計らったようにして扉が開く。
「お茶が入りました!」
 甘い香草の香りと共に入ってきたのはイスカだった。
「あらぁ、意外に早かったのね?」
「まさか。僕は気が気じゃなかったですよ。扉を開けたら、お二人ともいないんじゃないかって」
 その答えは、アイシャがヒスイと一緒に未来へ行くという前提によって成り立っていた。つまり彼は最初からアイシャがどう判断するかなどお見通しだったわけだ。幸か不幸かヒスイはイスカの言動の裏に気づかなかった。もしここにセイがいたなら即座に気づいてヒスイに耳打ちしていたかもしれない。
 気づかれなかったイスカは昔と変わらない笑顔でヒスイに微笑みかけ、茶を渡す。
「熱いですよ。気を付けてくださいね」
 室内にはふわりと甘い香りがただよった。配合した香草はどうやらローズマリーだけではなく甘みを出すためタイムの茎も混ぜたらしい。アイシャの鼻はごまかせない。この家を捨てていくとなると今までため込んだ薬草や香草も無駄になるが、それは諦めるしかなさそうだ。
 ヒスイは茶を一口、口に運ぶ。
「うん……すっとする」
 感想をもらってイスカは照れ笑いを浮かべた。彼はいつも人当たりがいいので気づきにくいが、ヒスイに対するときとアイシャに対するときではやはり表情が違う。穏やかな優しい時間。あと五十年後に同じ時間を共有するのだと思うとなぜか不思議な気持ちになる。
「イスカ。私、行くわ」
 決意を固めるようにアイシャは宣言した。
 琥珀色の瞳に驚きの色はなかった。むしろそれが当然のように。
「だろうと思いました。アイシャさんが一度いいだしたら絶対ヒスイ様では勝てないと思いましたから」
 ヒスイが小さく「こら、待て」とつっこみをいれたがイスカは動じなかった。精霊であった頃なら主(あるじ)の命令は絶対だった。竜になってほんの少しだけ融通がきくようになったのか。それはイスカ自身にとっても新鮮な驚きだったに違いない。茶色の頭はヒスイに向いて微笑んでから、次に再びアイシャのほうを向いた。
「いってらっしゃい。僕はまた会える日を待っています」
 輝く琥珀色の瞳と正比例して、翠の瞳は曇る。
「……すまない」
 イスカは連れていけない。連れていかなくてもイスカは長生きできる。できるが、これから四十九年、彼は独りぼっちだ。だが彼はいつものように笑みを絶やさない。
「気になさらないでください、ヒスイ様。僕にとっては大した長さではありません。それに……」
 それまでの微笑みが急に真面目な顔になる。
「セイだって几帳面に五十年待っているんでしょう? なのに僕が一年たらずでヒスイ様と再会できていたってばれたら冗談抜きで命があぶないです」
 もっともだった。
 自分は長年ヒスイに会えなかったのに、と、かんしゃく起こして八つ当たりされかねない。アイシャは想像してみた。竜になったイスカと妖魔の姿に戻ったセイ、実際はどちらが強いのか分からないが、なんとなくイスカが勝てる見込みがなさそうに思うのはなぜだろう。
「それよりヒスイ様、アイシャさんをお連れでしたらお急ぎください。この時代のセイが嗅ぎつけてきますよ」
「……え」
 ヒスイの驚きの声。前向きな反応はアイシャのほうが早かった。
「いけない。その心配があったんだわ!」
「そうですよ。セイだけじゃありません。星見だっているんですからね。トーラ嬢が『ここにいるヒスイ様』を見つけるのなんかすぐです。幸いというかここは神殿の近くですから、妖魔の力でははっきりと見えにくいようですけれど……」
 だがトーラたちがヒスイを見つけるのは時間の問題だった。
「善は急げというわ。急ぎましょう、ヒスイ」
 アイシャは腰をあげて、ヒスイを立つように促した。そのヒスイは寝台から立ち上がる。唇に苦笑を浮かべながら
「……やっぱり私は、アイシャには勝てないとみえる」
 と、先ほどのイスカの言葉を下敷きにした台詞を吐いた。迷っていた目が本当に覚悟を決めていた。

 これはアイシャの最後の我が儘。この先どれだけ後悔したくなることがあっても、もうヒスイの力を利用して、ずるをしようとは思わない。それだけははっきりと心に誓う。時間を好きにできるヒスイの力、利用しようと思えば後悔したことを片っ端からなかったことにできるだろう。まぶたの裏に一瞬、懐かしい夫の生前の姿が浮かんだ。だがそれは「してはいけないこと」だ。ヒスイの自戒は正しい。
 持っていくものは何もない。贅沢をいうなら髪をまとめたピンクのリボンだけあればいい。アイシャはしっかりとヒスイの手を握りしめた。
「じゃ」
「行って来るわね」
 ヒスイとアイシャは二人そろって、残していくイスカに言葉をかけた。琥珀の瞳には不安もなく彼は手を振ってくれる。ヒスイとイスカの本当の再会はこれからずっと後。
「……多分トーラから連絡が入ると思うが、四十九年後の聖都にいる。それまで」
「はい。それまでのお別れですね」
 ヒスイは肩に掛かったアイシャの外套をそっとおろす。まだ彼女がこの時代に馴染みきっていないことを証明するかのように、ヒスイはこの薄着で寒さを覚えた様子はなかった。

 アイシャの視界から、景色がだんだんと色を失っていった。
 目の前にいたイスカの姿が闇に飲み込まれる。足下すら見えない闇なのに、なぜかヒスイの姿だけは鮮明だった。

   *

 イスカの目の前で、ヒスイが消えた。アイシャをともなって辺りの空気に溶け込むように。
「行ってしまわれましたね」
 振っていた手を止め、力無くおろした。
 薪の炎は先ほどと同じくらい勢いよく周囲を温めてくれるのに、室内は急に冷え込んだ気がする。もうアイシャはいない。ため込んだ地下の食料も、懸念していた少ない薪も、もう使う人はいなくなった。ヒスイが口を付けただけの香草茶もそのままに。
 その場にへたりこんだ。
 またヒスイに会える。本当ならいなかったはずのアイシャもいる。それが分かっただけでも成果があった。だが、心の中に何かがぽっかり抜け落ちたようで、それが自分を支える力も全部奪い去っていったようで足に力が入らなかった。
「……ああ、そうか。セイが味わっているのはこういう喪失感なんですねぇ」
 ぽつんと独り言をもらす。こんなときでも笑っている自分が滑稽だった。ホウがいなくなったときの喪失感はこの比ではなかった。あの時こそ、この世の終わりだと思った。だけどこれは、そういう絶望感ではなくて。言葉にするなら、ただ寂しい。
 ヒスイが消えて五十年後の聖都ではまた会えるというのに。
「……?」
 と、そのときイスカは眉をよせた。一瞬、何かが脳裏によぎった気がする。もう一度つかみそこねた思考回路をたどりなおす。
「五十年後の、聖都?」
 顔をあげた。力の抜けたはずの足は再びしっかりと床を踏みしめ、立ち上がる。勝手知ったる他人の部屋とばかりに書棚や引き出しをあさり始める。
「地図……そろばん……天文年鑑!」
 行商をやめてから使っていなかったそろばんを出してき、続いて地図を探す。この付近の地図ではなく大陸全土の地図を。
「駄目だ、緯度と経度が書いてない。これじゃ計算が……」
 普通そこまで正確な地図は一般人にまで浸透していない。まして天文年鑑など手に入るはずがない。知的財産を私有している一握りの人間だけがそれを持っている。たとえば国だったり、全ての魔法使いたちを統べる物見の塔であったり、神殿の総本山だったり。そこまで考えて、イスカは上着も羽織らないまま吹雪き始めた外へと飛び出した。
「神殿!」
 目的地は目の前。七柱の神々のうち唯一聖都に総本山を置かない神。豊穣と冥府の神の総本山、フォラーナ神殿へ。

 一応雪かきを終えた道があるものの降りしきる雪は見る間に積もっていく。新雪に足を取られながら、だがそれはイスカの体力を著しく奪うものではなかった。手にそろばんを持ったまま慣れた神殿の奥、資料室へと――扉にきっちりとかかった鍵を力づくで壊して――駆け込んだ。
「すいません、ここ百年ほどの天文年鑑と正確な大陸地図、貸してください!」
 イスカの脳裏に閃いたもの。どうして、ヒスイが流れ着いた先が「その時代」だったのか。
 のちに司書はこのときのことを「脅迫されました」と言葉少なに語る。そんなつもりはさらさらないイスカは、出してもらった天文年鑑を元にそろばんを弾いた。地図の経度、緯度を計算し、月の運行を計算する。
「こんなことが……よりによって聖都で皆既月食なんて……」
 聖都には七柱の神々が全員そろい、うち六神殿の総本山がある。ただでさえ日食やら月食やらが起きると神の加護がその期間なくなるといって非常に忌み嫌うのに、よりによって一番神殿の影響の大きい場所でだ。太陽と月以外の五柱の神々は五惑星を主星にしているので火星食や木星食でも大騒ぎする都である。

 そして聖都での皆既月食は、もっとも近いところで四十九年後と判明した。
「ヒスイ様ぁ。もしかしてあなた、次は月の女神のところまで行っちゃう気じゃないでしょうねぇ?」
 その問いかけに答えてくれる者は誰一人ここにいなかった。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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