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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第二節第一項(122)

 双女神

 人は生まれながらに性別を持つ生き物だから。
 神々にも当然のように性別を定めた。
 七柱の神々の中で女の神は二柱。この二柱の女神はまったく違う方向を向いた、それでも二柱とも女性のための守り神。女たちは祈りの内容にあわせて、彼女たちを崇める。

 愛と美の女神は恋人達の守護神。大好きなあの人が振り向いてくれますように。もっと美しくなれますように。一夜限りの愛を恵む娼婦の女神でもあり、交わりがあれば実るものもあるから出産の女神も兼ねる。美しく慈愛深き女神はその博愛の心から、神殿に孤児院や施療院を併設しているところも多い。
 月の女神は処女と妻の守護神。結婚という誓約を得るまで清らかな体でいられますように。夫が他の女のところに行きませんように。夫の暴力から逃れられますように。月は闇夜に光を与える女神だから、日陰者といわれる者達をも守る。ただ慈悲の顔だけではなく冷たい横顔も持っていた。二十九夜にわたり変化を続ける月は焦点の定まらないもの、すなわち狂気を司る女神でもある。

 1.

 雪が積もっていた。冷たい空気が肌を刺す。小さな家の、そこだけ雪かきを終えた小さな庭先で、暖かな冬日を背に受けながらアイシャは手斧を振りかぶる。
「せぇの」
 思い切って振り下ろすと、かつて椅子であったものは一撃でただの大きな木片と化した。
 庭の片隅でぱちぱちと小さな拍手が起こる。
「すごいですね。コツをご存じなんですね」
 尊敬のまなざしを向けるのはイスカである。力だけならイスカのほうが上だが、アイシャほど器用に薪(まき)を割ることはできない。
「今年は雪が早かったものね。おかげで蓄える時間がなかったったら……」
 アイシャはほつれた髪を耳にかける。実りの秋が短く、ゆえに冬の食料を確保するだけで精一杯。薪まで余裕がなかったのである。薪小屋に積んだ薪は勢いよく目減りしていた。今の蓄え分では二人が一冬越すのは難しい。
 もう一度アイシャは振りかぶった。薪がないなら手近な家具をたたき壊して燃やすしかない。アイシャが今軽々と使っている斧は、普通の女性が使おうとすればやや重く感じるものだ。何度か手斧を振り下ろすと、あっという間に椅子であったはずのものは原型をとどめぬ薪らしい形になる。
「本当に、アイシャさんなら十分それで戦えますよ」
 イスカは琥珀色の瞳を向けて微笑んだ。彼は、以前この家にいたトーラが自分に戦える力がなくて悔しい思いをしていたことを知っている。だからアイシャにもそういう言い方をしたのだろう。アイシャはイスカのほうに目をやって首を振った。
「あはは、ちょっと無理ね。私、ひとの血が流れるのを見るの、いやだから」
 手斧を少し持ち上げて笑うと、逆にイスカが笑うのをやめた。アイシャは命を奪うことそのものに対してためらっているわけではないのだ。対象が狼なら「やられる前にやれ」と思うし、ネズミなら食料を食い荒らされるのを避けるために退治しようと思う。イノシシや鶏や魚なら感謝しておいしくいただこうとするだろう。だけど、人の形をしたものを傷つけるのは、怖い。アイシャにとって人は助ける対象であり、傷つける対象に入っていないからだ。
 イスカはぺこりと頭を下げた。
「……すみません」
 それは不用意な発言でアイシャを不愉快な思いにさせたことに対して。ちっとも気にしていなかったのでアイシャはやっぱり笑って、今度は首の代わりに手を振った。
「いえいえ。それよりどうしましょ? この分だと春までには、うちにある寝台や扉がひとつ残さず灰になるわねぇ」
 斧を台座に突き立て、足下を見下ろす。椅子だったはずの残骸は薪となり今日一日はアイシャたちを温めてくれるだろう。だが、それだけだ。寝台を壊せば一月(ひとつき)は持つだろうが、この家に寝台は二つしかない。そして住人は二人いる。さすがに同じ寝台を使うわけにはいくまい。
「僕の使っている寝台、壊してくれてもかまいませんよ。台所の床で寝ますから」
「駄目よ。イスカにそんなことさせられないわ。床で寝るなら私よ。私が薪を切らしたんですもの。私の責任だわ」
 けれど外見だけは少年に見える元・神官は優しく笑った。
「それをいうなら勝手にこちらに転がり込んできた僕にも責任がありますよ。それにどう考えても、人間であるアイシャさんより僕のほうが丈夫です」
 正論である。
 正論ではあるのだがアイシャは納得できない。自分のせいで他人(ひと)様に寒い思いをさせて自分だけぬくぬくとしているなんて、それは許されない気がする。よほど困りきった顔をしていたのだろう。アイシャの表情をみたイスカは苦笑しながら、それ以上同じ話題を続けずに何の脈絡もなく別の話題を振ってきた。
「ヒスイ様、いつ帰ってくるんでしょうね」
 今までさんざん話してきた内容の繰り返しだった。
 いつも言い慣れた台詞だから考えるより前に口から飛び出す。
「本当に、いつ帰ってくるのかしらね」
 親を亡くしたばかりの傷心の娘がいなくなって最初の冬を迎えた。イスカはいまでこそ神官の法衣は着ていないけれど、額に締めた金色の環は同じだ。霧の谷でいう神官の証らしいのだが、今は亡き精霊の長からもらったもので愛着があるのだという。そういえば額に輪をつけていたのはトーラも同じだった。あの子の場合は飾りだったけれど。
「ヒスイもそうだけどトーラもトーラよね。出ていったあと、ちっとも帰ってこないんですもの」
「……そりゃあ……」
 イスカはこの話題になると奥歯に物が挟まったような言い方になる。帰ってこないでしょうね、と訳知り顔で納得するのだ。アイシャにはこれが不思議でならない。
「いつも思うのだけれど、どうしてそう言い切れるの?」
 イスカはアイシャの足下に来て、壊れた木片……椅子だったそれをかき集める。
「僕としてはアイシャさんがその原因に思い当たらないほうが不思議なんですが……」
 微妙な笑顔だった。言うに言えない、といった感じか。表面が枯れた丈夫な蔓を紐代わりにして木片を束ねる。そうやって束ねると本当に元が椅子であったことなど分からない、立派な薪にみえる。
 アイシャは腰に手を当て、やや背中をそらすようにして腰を伸ばす。視線は空。冬の天候は変わりやすい。もうすぐまた曇ってくるだろう。そして明るい灰色の空からはまた雪が降ってくる。
「天気がまた悪くなりそうだわ。そろそろ部屋の中に戻りましょうか?」
 イスカは話題が変わって、あからさまにほっとした顔になった。
「ではこの薪と、あと数束ほど薪小屋から取ってきますね」
「お願いね」
 今夜の献立は何にしよう。そんなことを思いながら台座に突き立てたままの手斧を引っこ抜いた。

 その矢先だった。
 イスカとアイシャ、二人ほぼ同時に目の端にかすめるものがあった。二人同時にそちらへ顔を向ける。
 あたりは雪が塗り替えた白一色の世界。そこに色が現れればよく目立つ。淡い有彩色の光が、二人が立っている位置からさほど遠くないところに現れ始めた。
 イスカが立ち上がり反射的にアイシャを背後にかばう。アイシャは持ち上げた手斧を再び台座の上に突き立てた。自分をかばうイスカの肩越しに、前のめりになるようにして光を見つめる。イスカは警戒したがアイシャは直感でそれが悪いものではないと判断していた。
 二人の目の前で、淡く透き通る光は二人がよく知る人物の形をとりはじめる。柔らかな曲線を描く小柄な体つき。まっすぐな黒髪は肩までの長さ。どれもよく見知っていた。待ち望んでいた大切な彼女の姿を忘れるはずがない。
「……あ……」
 アイシャは空色の瞳を見開いた。イスカが喜びに頬を紅潮させる。
 半透明だった光の色は徐々に不透明になる。そこにいるという質量をともなってそこに現れる。足下の雪が音を立てて、彼女が踏みしめた形に沈んだ。彼女の瞳が見開かれる。まぶたの下から現れる色が翠であることを二人は疑いもしなかった。
 彼女の名前は呼べなかった。呼べば、目の前の出来事が夢のように消えてしまいそうで。とっさにアイシャは頬をつねった。自分のものではなく、思いっきりイスカの頬を。
「いたたた……痛い、痛いですって、アイシャさんッ」
「夢じゃない……」
 真冬だというのに彼女の周囲は暖かな風が取り囲んでいた。翠の瞳の主(ぬし)はひとつ目を瞬いて、喜ぶよりも先に確認するように名を呼んだ。
「……アイシャ?」
 アイシャがよく知っている、いつも遠慮ぎみのヒスイの声音。間違いない。今度こそアイシャは顔に満面の笑みを載せた。
「ヒスイ!」
 イスカを押しのけ、両手を前に突き出した。やっと彼女もほっとしたような笑顔になった。アイシャの覚えているヒスイはまだ十六だった少女。なにしろ十八になった彼女は憔悴しきった一瞬しか見ていない。記憶にあるよりもずっと女性らしくなっているヒスイにアイシャは幸せな驚きを覚える。
「お帰りなさい、ヒスイ! 帰ってきたのね。急に消えたと思ったら、急に現れるんだもの。もっと普通に帰ってこられなかったの?」
 立て板に水の口調で話しかけるアイシャに、ほんの少し困ったように笑う。イスカはその後ろで感涙していた。
 感激の再会。けれどヒスイは二人よりも冷静だった。喜びに打ち震えるアイシャから視線を外してイスカに向かう。
「久しぶりだな、イスカ。早速だが、今は一体いつだ?」
 なぞめいた問いかけ。アイシャは空色の瞳を瞬いたが、その点、イスカはさすがだった。いきなりの問いかけに一拍おいたあと、ヒスイの意図をくみ取って答えを返す。
「ヒスイ様が消えて最初の冬です。アイシャさんは先頃ひとつ年を取って二十二になられました。あと一月ほどで春の雪に変わります」
「ちょっと、私の年をばらすことないじゃない」
 だがヒスイには通じたようである。妖魔や竜はあまりにゆっくり年を取るため、歳月を計るには向かない。一年という歳月に目安をつけるには人間の年齢のほうが向くのだ。ヒスイは大きく頷いた。
「約半年ほどズレが出たな。……アイシャ、よく聞いて欲しい。私は確かに帰ってきたが、一時帰宅のようなものだと考えてくれ。私がセイやトーラと再会できたのは今から四十九年ほど未来でなんだ」
 アイシャは目を丸くした。
 驚いたのはイスカもだ。ヒスイは二人にゆっくりと説明しはじめた。ヒスイ自身でもまだ納得ができていないのか、噛んで含めるように。ヒスイの能力が時間移動であったこと……これはアイシャたちに予備知識があったのですんなりと説明できたのだが。その結果、過去や未来にふらふらと現れたこと。ヒスイが消えて五十年後にセイやトーラと再会して、その時間で生きていこうと決めたこと。そしてその時間にアイシャはいないこと……。
「どうして?」
 アイシャはヒスイに詰め寄った。アイシャの疑問は、自分がそこにいないことではない。
「なぜ、今の時間に帰ってきてはいけないの? セイはこの時代、一生懸命ヒスイを捜しているわ。トーラもそうよ。追いつけるはずはないのにセイを追いかけてあなたを捜すって出ていったのよ。せっかく戻ってきたのに、なぜ未来で生きなければならないの!」
 そのほうが痛みがなくていい。
 セイは五十年もさまよわなくていいし、トーラだってすぐ帰ってくる。また皆で暮らせる。いくら女性が男性よりも長生きだとはいえ必ず七十一まで生きていられる自信はない。そしてそんな老女が側にいて何ができるだろう。アイシャにはもう手が届かない。
 この時間にとどまって欲しかった。なのに、必死に訴えかけたのにヒスイは首を振るのだ。
「……あの時間にしがらみが出来てしまったから、それは無理だ。歴史が変わる」
 どうして。
 問いかけは喉を振るわせることはなかった。アイシャが、そしてイスカが何かをいう前にヒスイが口火を切った。
「私だってアイシャと離れたいとは思っていない。だから迎えに来たんだ。アイシャが決めてほしい。この時間で歳月を重ねて生きるか、それとも自然の摂理に逆らって五十年後の世界に飛び込んでくるか」
 右手が差し出された。

   *

 ヒスイにはよく分かっていた。アイシャがこの手を取るということがどういうことか。アイシャに親はないけれど、親代わりに育ててくれた人はいる。兄弟同然に育った孤児たちや、行商で知り合った友人もいる。今、勤めている仕事だって知り合いや上司はいる。そうやって社会にたずさわっている全てのものからアイシャは切り離されるということだ。
 差しのべた手とは裏腹に、本心ではアイシャに時を越えてほしくないと思っていた。
 ヒスイ自身、生んでくれた母親や育ててくれた世界を離れてこの「世界」にいる。右も左もわからない世界に飛び込んだ困難さもまたよく分かっていたから。

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