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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第一節第五項(121)

 5.

 宿を出たセイは足の向くままに歩きだした。露天には神への捧げ物にされる絹の反物が並んでいる。巡礼者の財布の中身にあわせて捧げ物の値段も変わるから木綿の反物もある。冬になれば毛皮や毛織物の割合も増えるのだろう。道の筋を変えれば食べ物の屋台が並んでおり、揚げ菓子の匂いがただよっていた。蜂蜜や砂糖は通常、現地だけで消費されるため甘いものは滅多に平民の口に入らない。甘い蜜のかかった菓子や色とりどりの飴玉は聖都巡礼の大きな楽しみのひとつだ。セイはそれらに目もくれない。広場からはひっきりなしに音楽があふれ、目的もなくそれに誘われるようにそちらに向かう。そばには誰もいないというのに、セイの口から誰かに問いかけるような独り言がもれた。
「ちょっと大人げなかったかな?」
 あたりは賑やかすぎて誰もその独り言を聞きつける者はいない。セイがつぶやいた一言は、先ほどトーラにぶつけられた台詞について。何もあそこまでムキになって反論することはなかったかもしれない。笑って流せるだけの余裕を持ってもよかった。それでもとっさに本音がでてしまったくらい的確に図星をつかれたのも事実で。

 ――策士が策におぼれたくせに。自分が弄した策に、もう少しでヒスイを持っていかれそうになったくせに! 私が知らないとでも思ってるの!?

 トーラが知らないとは思っていなかった。むしろ知っているとしたらトーラ以外にはありえないと思っていた。人は見かけによらないというが、あのお子様も油断していると痛い目にあわされる。無力に見えるが持っている情報量はおそらくセイさえも及ばない。それが星見の怖さだ。その力、うまく利用すれば一財産築けるどころか世界を混乱に陥れることもできるだろうに、本人にはその気もないし利用しつくす知恵もない。それとも星見という能力は妖魔らしくない妖魔にしか授からないものなのだろうか。
 がりがりと前髪をあげて掻いた。トーラがいっていたのはヒスイと離れていた五十年の間にやらかしたこと。もしも策とやらをヒスイに知られたら、彼女はセイのことを嫌いになるだろうか。そういう恐ろしいことはあまり考えたくない。
 昔、妖魔であることを隠していて結果的にヒスイを騙す形になってしまったことがある。その時もう二度とヒスイを傷つけるような秘密は持つまいと思った。それがどうだ。セイからヒスイが離れたとき、それまで押さえてきた妖魔の本性はあっさりと顔を出して今のセイを追いつめる。すべては自分のため。人間一人を踏みにじることくらい気にしない。むしろ使い道があるのならいくらでも利用する。けれど、セイが気にしなくてもヒスイは気にするのだ。最初からヒスイに嫌われそうな策など張り巡らせなければよかったのだろうが、全部わかっていて、それでも踏み切った心理状態は考慮されるのだろうか? ヒスイの心の中に無断で潜ったことにしてもそうだった。あれがばれたらと思うとぞっとする。ヒスイは絶対に許してくれないだろう。
 大きく息を吐いて空を見上げた。
「オレも思わなかったよ。よりによって、あの赤目野郎にヒスイを持っていかれそうになるなんてさ」
 今日の空も青く澄み切っている。策士、策におぼれる。まさにその通り。
 セイと赤い瞳の海賊は、ヒスイを挟んだあの時点で初対面だった。それは間違いない。けれど、それよりずっと前からセイの策は始まっていて、きっとコゥイは自分が利用されたことを死ぬまで知らないままだろう。セイには安易に予想が付く。コゥイは絶対にヒスイを諦めない。何年かかっても追いかけてくるだろう。二人ともいらないといったヒスイは、そのときどうするのだろうか。
 足が自然と止まった。空を仰いだはずの視線がだんだんと落ちて、いつの間にか自分のつま先を眺めている。人通りの多い中、立ち止まっていられるのはほんのわずかな時間だけだった。
 が、ひょいと頭が上がって青い目が前を向く。
「考えたってしょうがないよね。うん、考えるのやめよう」
 そのときはそのときだ。セイには今さえあればいい。あと何日後にヒスイが帰ってくるのかは分からないけれど、トーラの魂を目印にするというのだから彼女さえ確保しておけば必ず再会できる。あとはちょっとばかりトーラを脅して口封じ。いつかばれることなのかもしれないが、それまでは波風立てず穏やかにいきたい。
 くるりと方向転換する。それまでとはうってかわって軽やかな足取りで、広場ではなく薄暗い裏小路へと足を向けた。

 聖都には全てがある、といったのは誰だったか。セイから見てもそう思う。神殿の力が強いので神官は尊敬され魔術師は迫害されるが、それでも都の片隅には物見の塔の出張所のような場所がある。裁判所もある。牢屋もある。ということはもちろん盗賊や暗殺者も隠れてはいるがしっかりと存在していた。
 裏小路の入り口からよく見える駄菓子屋でセイは飴の袋を買った。持っているのはセイが盗んだきらびやかな財布。目端の鋭い者がうろうろしている怪しげな場所で、金目のものをちらつかせることがどれほど危険か知らないセイではない。すべて分かった上での行動である。どれくらい餌をばらまけばいいかと考えあぐねていると、初っぱなから簡単に雑魚が釣れた。
 いきなり子供の集団が、わあわあといいながらセイの真横をすりぬけていったのだ。
「ごめんよっ」
 小汚い格好をした少年が一人ぶつかってきた。懐が軽くなる。かかった。その場はそしらぬふりをして、そっとその通りから離れた。財布を盗まれたことに気づいていないふりをする。セイの姿が見えなくなるまで子供達も油断しない。セイは急に何かを思いだしたような演技をしてみせると道の角を曲がった。薄暗い場所にいけば壁をのぼることも簡単だ。素早く飛び上がって二階建ての屋根の上にあがった。
 さて、子供の集団も声をあげながら、同じく反対側の道の角を曲がるとそこで立ち止まった。
「おい、早く見せろよ」
「待てってば」
 子供達の頭(かしら)らしい少年は、盗んだばかりの財布を服の下から取り出した。
「今日は薄ぼんやりした奴がいてよかったな」
「ああ、まったくだ。いるんだ、観光気分で危険な場所にも平気で踏み込んでくる無知なやつがさ」
 ここで暮らす子供達はそういう巡礼者を相手にして生活しているのだ。素人くさい相手がいれば取り囲んで財布をすりとる。自分たちは無知な観光客に勉強させてやっているのだといってはばからない。
 房の付いた財布の紐を解く。するっと小気味いい音をたてて布製の財布は開かれる。どれくらいの金が入っているのかと、彼らはわくわくしながら財布の袋をひっくりかえした。しかし中から出てきたのは子供達の意に反して、金ではなく飴玉だった。
「え!?」
 子供達は顔をみあわせた。彼らはセイが飴玉を買ったのを見ている。その袋は懐にいれていた。だが、すりとったのは間違いなく財布だ。飴玉の袋ではない。
「なのに、なんで飴が財布の中に……」
 年少の子供達は単純に飴玉を喜んだが、年長の少年達は複雑な顔をしてお互いを見つめた。財布の持ち主が金のかわりに飴を潜ませたとしか考えられなかった。なぜそんなことをする必要があるというのか。すりとられることが分かっていたからだ。
 セイはその一部始終を屋根の上で見ていた。とまどっている小さな盗賊団に笑いながら声をかける。
「それは駄賃だよ。財布ごとくれてやろう。どうせ盗品だ」
 彼らが驚いて周囲を見回した瞬間、セイは下へ飛び降りていた。彼らの目の前に楽々と降り立つ。
「……!」
 少年達とて、だてにこの裏通りで生活しているわけではない。この界隈で育った彼らは引き際を心得ている。きびすをかえすと沈没する船から逃げるネズミより素早くこの場から離脱しようとした。勝てる相手ではないと悟ったのだろう。しかしセイはそれよりさらに上手(うわて)だった。
 自分の財布――正確にはセイが盗んだものだが――をすった首謀者である少年の首根っこを捕まえる。散らばる他の雑魚には目もくれない。
「放せ、放せぇっ」
「はいはい。用が済んだら放してやるよ」
 暴れまくる少年を見下ろす瞳は優しく微笑んでいた。「優しく」。この単語が特定の条件下ではどれほど凶悪な意味を持つか、それは少しばかりセイと付き合わなくては分からない。無事に逃げ終えた他の子供達が影から息を詰めて見守る中、首謀者の少年は何とか逃げようと暴れる。その過程でほんの一瞬、セイの青い目と視線があった。どうやらそれだけで十分だったようである。少年の顔から一気に血の気が引くのが分かった。
 セイはにっこりと微笑む。
「飲み込みが早くて助かるよ。お前、ここらで仕事してるってことは聖都の裏組合と関わりがあるんだろう? そこに連れていってほしいんだ。一応、挨拶をしておかないとね」
 年を取らない事情もあって、セイが裏組合を抜けたのはもう四十年ほども前。聖都には最低あと三ヶ月は滞在する予定だ。裏の商売にかかわるのなら組合に顔出ししておくのが筋である。手にぶらさげた獲物に向かって、セイはこれ以上なく甘ったるい声で話しかける。
「本当はぁ、こういうことに手を染めるの、いやがる人がいるんだけどぉ。でも裏からの情報は捨てがたいしぃ? どうした、ボーズ。小便でもちびったのかなぁ?」
 もちろん言葉に含ませた――含ませるどころか隠しもしていない――毒針に少年が気づかないはずがない。ぽつりと、妖魔、とつぶやいたのが聞こえた。本当に妖魔だと思ったわけではなく、ただ怖いものを表現した比喩として妖魔といったに過ぎない。セイはただ微笑むだけにとどめた。哀れな少年が、仲間の手前で意地もあるのか小便をちびらなかったことにささやかな賞賛をこめながら。

   *

 聖都には全てがある。だがひとつだけないものがある。
 ここには城がない。
 必要がないのだ。聖都には王がいない。ここは貴族・王族が治める場所ではなく、神殿を預かる大神官たちが治めている。国ではないが国とほぼ同じの規模で全てが動いている。上下水道などの設備も、税金も、議会制の国家並みだ。かつて霧の谷と呼ばれた国はれっきとした王を戴きながらその神秘の力ゆえ「国にあって国にあらず」と「谷」と呼ばれた。聖都はちょうどそれとは逆である。どの国にも属さないのに国の中心に与えられる「都」を名乗る。だからここに王と呼ばれる人物はいないし姫と呼ばれる人物もいない。普通ならば。
 ある神殿の奥。あたりは静まり返っており、鏡のように磨かれた床の上には絹の帳だけが下りて部屋を区切る。その外から内へ話しかける声があった。
「姫君はいかがなさっておられますかな?」
 年老いた男がかける、ひそやかな声。部屋の中から気配がし、帳をはらって外へと現れいでたのはこれまた年老いた女だった。老いた男の問いかけに首を振って答える。
「芳しくなく……そろそろ代わりの方を用意していただかなくては……」
「そこまで、ですか」
 落胆を隠しもしない男の声に、老いた女はそっと目頭を袖で隠した。
「神はなぜ、かような仕打ちをなさるのか……」
「滅多なことをお言いではありません。失礼ながら、ご婦人はどちらの神殿の方でいらっしゃいますかな?」
 女は、いや、経験豊富な巫女は隠した顔をしゃんとあげ、次に深々と腰を折った。
「はい、愛の女神に永くお仕えしております。失礼ながら先の大神官様に代わり私めが癒しの技を行って参りました」
「左様でございましたか。これは失礼いたしました。私めは契約の神に仕えます神官にて……少々過ぎたことを申し上げれば、私も制約の言葉を得意としております」
 かつて各々(おのおの)の神は、己を信仰する信徒たちにひとつ不思議な力を与えた。例えば愛と美の女神であれば傷ついた体を癒す力を、法と契約の神であれば制約を強制する力を。それは信仰心に比例し、昔は大神官が一番優れた技を行っていた。今でも建前はそうである。建前なのだ。熟した果実が内側からゆっくりと腐っていくように神殿の内部はいつの間にか信仰心より富や名声が優先するようになった。富を持つものが優先的に出世し、高い位を占めるものは自動的に無能ばかり。それを補うため高位の神官は能力に優れた者を影として立てる。ずっとずっと長い間、総本山でさえ行われてきた秘中の秘。情けないがこれが神殿の現状である。
 そしてここにいる「姫」のことは純粋に能力に優れた者にしか知らされていなかった。巫女と神官はそろって帳の向こうに目をやる。
「すでに今の姫様は聖都に張り巡らされた結界を維持する力を失っておられます。新しい姫が……『生贄』が必要です。できるだけ若い、それも潜在的になんらかの力を持つ娘が」
 巫女は一筋、涙を流す。聖都が聖都たるゆえん、神の力に支えられた都であるという事実は現在ひとりの娘が担っていた。かつて七名の大神官が支えていた結界は、代替わりを重ね無力になるにつれて支えられなくなった。「姫」とはそのために選ばれた代役。信仰心を、潜在的な力を、最後はその命を削って結界を支える人柱。かつては身分の低い巫女がいずれかの神殿から一人選ばれたが、今では巫女である必要もない。顔に年月と同じだけの苦渋を刻み込んだ神官はうなだれた。
「近く祭りを催しましょう。三月(みつき)後には皆既月食が起こります。姫君のお力も難しく、この上、月の女神の守護までも欠けるとなればどのような災いが起こるかわかりません」
 祭りにてもっとも力あふれた娘を捜し、次の「姫」と為す。聖都の人柱にするために。

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