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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第一節第四項(120)

 4.

 部屋の内側から扉を叩く音が聞こえた。トーラとセイはそれにあわせるように音のしたほうへ視線を移す。
 扉が開いて、翠の瞳がひとつだけ見えた。
「……もういいぞ」
 赤毛の男はヒスイを見るなりいつものひょうきんな態度に戻った。それまでセイが薄ら笑いを浮かべていたことなどヒスイは気づかない。気づく余地などセイは与えない。まるで、それまでずっと同じ調子で――すなわち、トーラに対してもヒスイに対するときのような終始にこやかな態度で――話していたかのように。
「ヒスイ、着替え終わった?」
 青い瞳が優しく笑う。トーラはそれを見上げつつ、セイより先にヒスイに駆け寄って抱きついた。ヒスイは目をしばたたいて見下ろしてくる。
「……どうした? 今日は随分と甘えっ子じゃないか」
「うん。だって久しぶりだものっ」
 どさくさに紛れてヒスイの胸の上で頬ずりをする。後ろから感電死しそうなほど痛い視線が突き刺さったが、精一杯虚勢を張って気にしないふりをした。トーラは瞳の色が分からなくなるほど目を細めて顔を上げる。
「私だけの特権を実感してたの」
 現段階で、たとえ服越しとはいえヒスイの胸に触れて怒られないのはトーラだけ。女同士だから、自分より小さな子だと思っているから、ヒスイはトーラが触れても警戒しない。アイシャが子供を抱きしめて育てる人だったからトーラもそれにすっかり慣れてしまった。ヒスイもまたトーラは誰かにくっつくのが好きだと思っているから目くじらをたてない。それどころか、しょうがない甘えん坊だと頭をなでてくれた。どんなにこの位置をうらやんでも決してセイには真似できまい。
 とうとうセイから怒りの一声があがった。
「いい度胸だな、このクソガキ!」
「セイがいじめる……」
 脅えたようにしっかりしがみつくと翠の瞳がじろりとセイを睨んだ。
 ヒスイが側にいてくれるなら、もう怖くない。虎の威を借る狐という戦法はイスカからアイシャへ、アイシャからトーラへとしっかり伝わっていた。
 ささやかな嫌がらせ。ささやかな抵抗。これくらいしか意趣返しなどできない。
 そんなことはおくびにも出さずトーラは表面上、無邪気にヒスイにしがみついていた。

 三人が再び室内に戻っても、まだセイはぶつぶつと文句をたれる一方だった。
「トーラのクソガキが。ヒスイに抱っこしてもらった。ヒスイにすりすりした。ヒスイによしよししてもらった。オレだけがやっていいのに、クソガキの分際で」
「貴様、いつまでぶつくさ言ってるつもりだ?」
 ヒスイの一睨みもなんのその、片隅でまだ文句をいっている。
 部屋の中央には椅子がひとつ置かれていた。ヒスイはそこに座っている。トーラの瞳の色に合わせた服は不格好とはいわないまでも翠の瞳をしたヒスイにはあまり似合っておらず、新しい服と靴が必要だろうなとトーラは思う。女三人そろったらみんなで買い物に出るのも楽しそうだ。
 トーラよりも多少ましとはいえアイシャに戦闘能力はない。それでもアイシャには必要とされる理由がある。薬草の知識は傷ついたヒスイを癒す。今、ヒスイの怪我を手当できる存在はいない。野営の食事をおいしく作ってくれるし、商人でもあったから財布の紐を締めるのは得意だ。そういう細々とした雑事を一手に引き受けてくれるのがアイシャだった。彼女がいるからセイやヒスイは余計なことに煩わされることなく戦うことができる。
「待ってるから、アイシャを連れて帰ってきてね」
 ヒスイの正面に立ってトーラは微笑んで見せた。ヒスイの表情はあきらかにとまどっている。昔はヒスイの微妙な表情の変化を読むのは大変だったが、今は随分と分かりやすくなっていた。ヒスイは自分で気づいていないかもしれないが離れていた間、変わったのはトーラだけではない。翠の瞳は困った色を浮かべていた。
「……来るかどうか、最終的な判断はアイシャにまかせるぞ?」
 ヒスイの仕事は、過去にさかのぼってアイシャの前に顔を出すこと。アイシャが一言「行かない」といえばヒスイはそれを強制するつもりはなかった。
「星見で見えなかったのは過去とはいえまだ選択の余地があるからだろう。お前には決まっていることしか見えないからな。逆にいえば、必ずアイシャが時間を超えてくる保証もない」
 これにはトーラも頷くしかなかった。だが本心から納得したわけではない。アイシャは絶対に必要なのだ。――何もできないトーラとは違って。
 さて、片隅でいじけていたセイは突然勢いよく立ち上がった。そのままヒスイの背後から肩に腕を回す。
「それでは、そろそろ道筋を付けておきましょうかね」
 帰りはトーラの魂を目印に帰ってこいといってある。そして、行きはセイがまかせろといった。
「ヒスイが消えたのが今から……四十九年と七ヶ月と八日、二十一時間十九分前だから」
「なんだ、その細かさは!?」
「最近、物見の塔で制定された時間の単位だよ。そりゃ知らないよね。だけど時間移動するのは秒単位だしねぇ」
 ヒスイは単位に驚いたのではなく正確に時間を覚えているセイに驚いたと思うのだが、そのことにはまったく触れさせなかった。セイの両手がヒスイの頬を包む。ぐいっと顔を真正面……トーラのいる方向に固定させて、ヒスイの耳元でセイがささやいた。
「目を閉じて。よく聞いて。必ず誤差がでるのは分かってるからその辺りはヒスイにまかせるけれど、くれぐれも自分が消える前の時間に行っちゃ駄目。だから五十年よりも四十九年くらい前にさかのぼることを考えて。場所はフォラーナ神殿の近く。目印は、そうだな、アイシャのピンクのリボンを想像して」
 翠の瞳が閉じられる。
 セイの言葉はまだ続いた。
「帰ってくるときもやっぱり、ヒスイが南の海を漂ってた時間帯には戻ってこないように。『今』から三ヶ月以内に帰ってくるのが理想かな。……あと三月(みつき)ほどしたら、聖都で皆既月食があるんだ」
 ヒスイの、閉じたまぶたがかすかに動いた。やっぱりセイは知っていたかとトーラは感心する。トーラもまたそれを一番気にしていたのだった。包み込むように触れていたセイの手がヒスイから離れた。
「行ってらっしゃい」
 最初からその言葉が合図だったかのように、ヒスイの輪郭が薄くなった。室内には風が生まれる。不透明色だったヒスイの体が急速に透明感を増してゆき、空気に溶け込むように輪郭が消え失せていった。ヒスイを中心としていた風は勢いよく室内をかけめぐり、その隙にヒスイの姿は消えていた。まるで風にかき消されてしまったかのように。目の前で見ていなければ信じられないくらいあっけなくヒスイは消えた。妖魔が空間を越えるときはろうそくの火を吹き消したようにフッと消えるが、ヒスイの時間移動は氷の彫刻を火中に投じたときのように、辺りに溶け込んで消えた。
 暴れる風は窓際の天幕をはためかせ、セイの髪を吹き上げた。紙を置いていたら部屋中にまき散らされていただろう。トーラの髪もくしゃくしゃになった。
 風がようやく落ち着くと、セイとトーラはそろって、誰も座っていない椅子を見つめていた。
「……初めて見た……」
 それはセイの台詞か、トーラの台詞だったか。
 時間移動を見るのは初めてだ。目の前にヒスイはもういない。
「今のでちゃんとヒスイ、過去にいけた?」
 髪をなおしながら問いかける。トーラにはセイが何をしたのかよくわかっていない。セイはヒスイの耳元でささやいていただけだ。
「多分ね」
 青い目をした男は満足そうに頷いた。
「さっきヒスイには特別な夢を見せておいた。オレの能力、夢見だもん。夢を見せるのは得意。ヒスイが時間の流れの中で迷子になるのは出口を明確に想像できてないからなんだよ。人間だって全然知らないところに行くのに地図を必要とするだろ? たどり着くまでどれくらいの時間がかかるか、どういう道を選んで行くか、道の目印はなにか。トーラの魂が方角を特定する方位磁石なら、オレがヒスイにしてあげられることは地図みたいなもの」
 地図と方位磁石があれば、未知の世界でもそう簡単に迷子になるようなことはないだろう。自分たちはヒスイの両翼なのだ。どちらの翼が欠けても翠の小鳥はうまく飛べない。だけど彼女はおそらく、今後進んで自分の力を使うことはないだろう。
「……ちゃんと帰ってきてね」
 ぽつりともらした一言にセイが素早く反論する。
「そのために月食の日付教えておいたんだし。むしろ帰りはお前の目印がどこまで働くかだろ? ヒスイを迷子にさせるような真似すると承知しないからな?」
 セイの思考回路はヒスイ中心。ヒスイの失態は全部トーラのせい。わかってはいたけれど、この男に理不尽を説いても今更始まらない。トーラは肩を落とすだけにとどめた。
「セイ……月食のこと、知っていたのね」
「まぁね」
 天文の運行と迷信は密接に繋がっている。人々の興味関心は並みではない。ただ、月食は普通、眠っている時間に起こる現象だから民草は日食ほど大騒ぎしない。日食が起こるときは大変だ。一部が欠ける部分日食でさえ人々は怯える。まして皆既日食では真昼なのに真っ暗になるのだ。騒ぐなというほうが無理だった。
 それほど大騒ぎしない月食であるが貴族や占い師などは別だ。月は通常太陽の光を跳ね返して輝いているのだが、皆既月食の場合光は徐々に失われてゆき、完全に影に入ったとき赤い光だけを跳ね返す。夜、暗闇にぽっかりと浮かぶ赤銅色の月はなんともいえぬ不気味な存在だ。これは悪い知らせに違いないと思っても何の不思議があるだろう。
「あのね、今回の月食は本当に特別なの。聖都の真上で起こるんだもの」
 聖都には七柱の神々全ての神殿がある。しかも大地の神を除いた六柱はすべてここに総本山がある。先ほど廊下でいったように月の女神の総本山もここにある。
 聖都になぜ各神殿の総本山が集まっているのか、その理由は定かではない。大地の神、正式名称でいう豊穣と冥府の神だけがここに総本山を置かないのは地下を重視する神にここの土があわなかったからだといわれている。一説には大地の神は地竜信仰が形を変えたもので、竜や精霊を嫌った他の神々に厭われたからだとも。だがここは色んな意味で「世界」の中心だった。宗教上の理由だけではなく、魔力的な意味でも文化的な意味でも、土地そのものに宿る力でも。かつての霧の谷ほどではないがここにも妖魔よけの結界が張り巡らされている。が、実際の効果はどれほどかというと、現在トーラやセイが平気でこの都に存在している程度である……。
 ――その、月の女神の総本山の真上で、月の力を失う皆既月食が起こる。
 青い目が三日月の形に笑った。
「もしかしなくても、あの諸悪の根元に一泡ふかせる好機?」
 悪人にしか見えない笑顔で喜んでいる様子をみてトーラは
「……その顔、すっごく複雑な気分になるわ」
 と口にしていた。本当の極悪人は月の女神ではなく目の前の男ではなかろうか、と、ふと危険な考えがよぎる。ヒスイが清濁併せのむ人間だから側にいることを許されているけれど、間違ってもセイは善人ではない。
「それに、まだ月の女神が諸悪の根元とは決まってないんだけど」
「もう決まってるようなもんだろ?」
 トーラは首を振った。セイのいうとおりかもしれない。けれど、そうではないかもしれない。
「月が力を失っている間、闇は強くなるわ。昔は闇を司る精霊がいたからすべてを平らかにしていたけれど、今は妖魔の力が強くなる。分からない? 私たちの力も強くなるけれど、サイハ様の力ももっと強くなるのよ」
 セイは青い目をわざとらしいまでの仕草で瞬いた。視線だけで天井をあおぐ。
「懐かしい名前だなぁ」
「たかが五十年で懐かしいなんていわないでよッ。私はともかく、あんた一体何年あの方の側にいたと思ってんの? あーんなことや、こーんなことまでさせられてたくせに!」
「それ、ヒスイにばらしたら殺すよ?」
 にっこりと青い目が笑ってトーラを見た。五十年前までのトーラなら裸足で逃げ出したかもしれない。そこをぐっと踏ん張って口を真一文字に結ぶ。
「ヒスイは、怒らないわ。それくらいで、ヒスイは、あんたのこと怒ったり幻滅したり嫉妬したりなんかしないもの……ッ」
「……。嫉妬もしてくれないから余計ばらされたくないんですけどねェ、お嬢サン」
 嫉妬するのは、相手を独占したいと思うから。ヒスイは、いうようにセイに対して嫉妬などしないだろう。セイのことを独占したいとは思っていないから。過ぎれば毒になるけれど全くないと物足りない心理をトーラに分かれというほうが無理だった。
 しばらくにらみ合いを続けていたが、くるりとセイは背を向ける。
「どこ行くの」
「外」
 簡潔にして明瞭。セイにはセイなりの行動理念で動く。ヒスイがいるときはヒスイを中心にして動くけれど、そうでないときは一人きり。隣にトーラがいてもいないのと同じ。空気のように扱われるのも久しぶりだ。それがどうにも腹立たしくて、哀しくて……だから、いわなくてもいいことまでつい、その背中に投げかけてしまった。
「策士が策におぼれたくせに。自分が弄した策に、もう少しでヒスイを持っていかれそうになったくせに! 私が知らないとでも思ってるの!?」
 セイの足が止まった。ゆっくりとこちらを振り向いたその顔に、いつものわざとらしい笑みは貼り付いていなかった。
「それをヒスイに喋ったら殺す程度じゃ済まさない」
 それだけ言い捨てるとセイは扉の向こうに消えた。相変わらず足音ひとつ立てない静かな動作で。トーラは自分が禁句に触れたのだということを改めて自覚し、青くなった。

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