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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第一節第三項(119)

 3.

 ――お前ら、あとで覚えていろ。
 ヒスイは内心で悪態をついたが、あいにく声にする気力さえ残されていなかった。ヒスイの前には
「嬉しいっ。ヒスイなら絶対分かってくれると思っていたのっ」
 と、ヒスイの心中など欠片も察知することのできないトーラが笑顔で抱きついている。後ろには後ろで
「ヒスイはやっぱり優しいねぇ」
 と、こちらは完全にヒスイの心中を察知していながら皮肉を発することのできるセイが肩に腕を回して、やはり笑顔ですりよっていた。懐いてくる妖魔二人によって抵抗する気力は完全にそぎ取られた気がする。すでに諦めがヒスイの心を支配していた。
「……この心境、なんというんだろうな。諦念? 諦観?」
 ヒスイの苦悩などどこ吹く風でトーラたちは元気である。
「ね、セイ。諦念と諦観ってどう違うの?」
「諦念は物事の道理を悟って諦めの境地に達すること。諦観は……本質をよく見極めること、俗世に対する希望や欲望を諦め悟ること、かな」
「ふうん。じゃあ今回のヒスイの場合は諦念のほうが近いのかしら」
 その通りである。分かっているではないか。がっくりとヒスイの肩が落ちた。
 反対にトーラが顔をあげる。
「待って、待って。まだ落ち込まないで。時間移動を試みてもらう前に色々と済ませておきたいこともあるのよ」
 と、いってヒスイから一歩離れた。
「針を持ってない?」
 あれば借りたい、とトーラは手を差し出してきた。反射的にぱたぱたと体中をさぐったが、考えるまでもなくヒスイに裁縫道具の持ち合わせはない。なにしろ今着ている服さえ元はただの敷布だったのだから。後ろを振り向いて目だけでセイに問うた。持っているかと言葉にしない視線だけの問いかけにセイは首を振って否と返事する。
「ナイフならあるよ。駄目?」
 彼の台詞は直接トーラには向かわずヒスイに投げかけられた。セイは手首の服地の裏から一本の細い刃物を取り出す。手のひらに隠れそうなほどの長さしかないきらめく刃。柄の部分は麻糸を巻き付けただけの簡単な作りである。先は鋭く尖っていた。
「投擲(とうてき)用ナイフ?」
「そう。隠密用のオレの手作り。針ほど繊細な作業をするなら小さいほうがいいでしょう。これでまからない?」
 今度の問いかけはトーラに向けられる。彼女は満足そうに頷いた。
「ちょっと痛そうだけれど、それでいいわ。貸してくれる?」
 小さな刃だが反射した光の鋭さで切れ味は分かるような気がする。扱いの難しそうなそれをトーラは借り受けて、糸を巻いただけの柄を親指と人差し指でつまむようにして持った。そこに中指をそえる。何をする気かと見ていると、トーラはその鋭く尖った刃先を持ち手と反対側の指の腹に突き立てたのだ。トーラの表情が痛みでゆがむ。
「何を……!」
 ヒスイは非難めいた声をあげていた。トーラは踊り子である。芸を売るのが本分であるが、その前に外見が美しくなければ損になる商売である。体が資本なのだ。それなのに、わざわざその大事な体に傷を刻みつける意味がヒスイには分からなかった。トーラの指には赤い珠が生まれ、それは真珠の粒くらいまで膨れ上がった。小さな傷だから大事(おおごと)になることはないだろうが、血判を押すでもないのに自分の指を傷つけることはないだろうと思う。
 トーラはというと、黙って傷口を見下ろして、ヒスイに指を見せるように向けた。
「先にやって欲しいことがあるといったでしょう? 『魂の双子』の強化よ。覚えてる?」

 魂の双子。それは妖魔が互いの魂の一部を交換する術をいう。
 同じ血肉を分かちあって生まれるのが人間の双子なら、妖魔の双子は後天性のもので魂を分かちあう存在なのだという。外見が違えど魂が同じ輝きを持っているのならそれは妖魔にとって双子とみなされる。人間にその繋がりはわからない。人間は、性格が違っていても外見がうり二つならば双子だと認識する生き物だから。
「……そういや、具体的に魂の双子を選ぶとどうなるんだ?」
 ヒスイが何も分からないときにトーラの魂を預かったので、実はこのあたりがまったく分かっていなかったりする。
 術を行った双方には魂の繋がりができる。そこまではヒスイも聞いていた。妖魔同士なら命さえ共有するような危険と紙一重の術だが妖魔であるトーラは人間であるヒスイをその相手に選んだので、逆に言えば魂の絆ができただけの術だ。
 これにはセイが答えた。
「具体的な効果は個々の妖魔の能力によって違うよ。トーラは星見だから、ヒスイを『見つける』ことにかけては多分一番だろうね」
 そう説明した上で蛇足も忘れない。
「もちろん、オレもヒスイを見つけることにかけてはトーラにひけをとらな……」
「それはどうでもいい」
 放っておくといつまでも延々とどうでもいい話が続きそうなので早めにさえぎる。セイは一瞬の間を置いたあと、ヒスイの背中に貼り付いた。何かしくしくと聞こえるのは気のせいだろう。
「トーラ、後ろのうっとうしいのは放っておいて、続きを」
「え、あ、ええと。そうね……なんか出鼻をくじかれた気がするけれど。用件は早いの。ちょっとキモチワルイかもしれないけれど、この血をなめてほしいのよ」
 トーラの指についた赤い珠はまだ乾いていなかった。かといって、あとからあとから流れ出てくるほど深い傷でもない。
 すぐに行動には移れなかった。だが、ためらったのはほんの一瞬。トーラの手首をとると彼女の指に付いた傷に唇を寄せた。予想通り金臭い味がする。妖魔でも人間と同じような味がするのかと、妙なところで感心した。ヒスイの見た限りでは妖魔も人も対して変わらないように見える。
 傷から口を放してトーラを見つめた。
「……これに、なにか意味があるのか?」
 トーラはヒスイの目をまっすぐ見て頷く。
「大ありよ。でないと、アイシャを迎えにいったあと、ヒスイがまた迷子になるわ」
 いたずらっぽい子猫のような瞳をめぐらせてトーラが笑みを作った。

 次にトーラがいうことを要約すると、つまりこういうことだった。
 昔、トーラが小さな子供の体を損傷して新しい体――現在の魂の器――を作ったときに、ヒスイの血を一滴分け与えたことがある。あのとき、ヒスイの中にあったトーラの魂の半分は失われたが逆にトーラは自分の中にヒスイの体液を取り込んだことで、より敏感にヒスイの動向を察知することができるようになった。
「ところが、ヒスイがいったん時間の海に潜るとその私の『目』でもなかなか居所が見つからないのよ。広い海で漂流した人間を見つけるのが大変なのと同じ、かな? どこまで流されているのか検討の付けようもないから探すのが大変なの。だから逆に『私がヒスイを見つける』んじゃなくて『ヒスイに私を見つけて』もらう必要があるのよ。漂流した人間は北の一つ星で方角を知るのでしょう?」
 暗闇で航海するとき、北極星の方向を頼りにして進むように。
 時間という大きなうねりの中、トーラの魂の輝きを北極星がわりとして帰ってこいということか。アイシャと一緒に飛んだあと必ずこの時間帯に戻れるように。
 妖魔は人間のような肉体を持たない。外見上、体に見えるものは魂の外側にあたるもので、だから血に見えるものも魂の一部なのだと。ヒスイに血という形でトーラの魂の一部を取り込んでもらったのは、より確実にトーラの気配をたどれるようにするためだという。
「今、何か自覚がある?」
「いや……具体的にどう変わったのか、さっぱり……」
 首を振って答える。すると、トーラは軽く肩をすくめて笑ってみせた。
「そう。やっぱりヒスイの力のほうが強いんだわ」
 藤色の瞳にどことなく悲しげな色が混ざったように思ったのはヒスイの気のせいか。
 漠然と絵の具の並んだパレットを頭に思い描いていた。白に有彩色を混ぜるとたやすくその色に染まる。ところが黒に有彩色を混ぜてもほとんど分からない。多少トーラの力が混ざってもヒスイにはほとんど影響を成さないというのは、それと似ているのだろうか。
 ヒスイが何もいえないでいると、背中からセイの手がのびる。肩ごと抱くように腕をからめてきた。
「……セイ?」
「不安にならなくてもいい。トーラが劣っているとか、ヒスイが優れているとか、そういうことじゃないから。人間のほうが肉体がある分、どうしても魂が安定しやすいんだ。それだけのことだよ」
 セイの言葉には嘘が混ざっていたが、ヒスイには基礎知識がなかったのでその言葉に納得した。それはヒスイがいってほしいことであり、そう信じたいことでもあったからだ。セイはさらに続ける。
「時間移動ってのは、オレから見ると方位磁石なしで目印のない砂漠を歩いてるみたいな感じなんだよ。ヒスイはそう思ってないかもしれないけれどね。だからさ、帰りはトーラの魂の色を目印に帰っておいでよ。行きは、オレがなんとかするから」
 セイの言葉に目をしばたたく。なんとかできるのだろうか。
 この能力はヒスイだけのものだと、遠い未来で出会った老人はいった。そういえば老人はセイの言葉以上のこともいっていた。時間軸はぴったりでも出現する空間を間違えるな、だったか。大気圏にこそ出現しなかったが、空中に出たり海中に出たりと失敗も重ねてきたため改めて老人の忠告が身にしみる。
「……そうだな。砂漠を歩いているだけなら安いものだ。最低でも、おぼれたり墜落したりすることはないんだからな」
「はい?」
 セイが首を傾げたが、ヒスイはそれに対して説明しなかった。
「それより、だな」
 左手で拳を作って肩越しに振り返る。青い瞳と目があった瞬間、彼の顔に「もしかしてまた一発殴られるのでしょうか」と書いてあったのが読みとれた。
「アイシャのところに向かう前にせめて着替えさせろ! こんなぴらぴらした服でアイシャの前になんか立てるか。面白がられるに決まってる!」
 そしてセイの予想は現実となる。

   *

 着替えるといったヒスイひとりを部屋の中に残して、トーラとセイは廊下に出ていた。セイがさっきからしきりと頬をさすっている。その傍らにトーラは立っていた。
「自業自得?」
「お前にいわれたくない」
 じろりとトーラを見下ろしてくる青い瞳は氷点下。ヒスイを見守る目とは違う、はっきりした温度差がそこにはある。
「……なんか……これがあってこそセイって感じよね」
 トーラは半眼を返した。昔から見事なまでにトーラにだけ意地悪だ。すでに諦めている。トーラの視線など痛くもかゆくもないセイはさっさと話題を変えて、顎をしゃくって扉を示した。
「ヒスイはお前が相手でも、部屋から追い出すんだな」
「うん? ……うん。なんかヒスイって着替えのときに側に誰かいるの、嫌いみたい」
 たいした理由はないのだろう、というのがトーラの見解。セイは何を考えているのか瞳を曇らせたような気がした。
 一応、踊り子としてトーラは幾枚かの服を持っている。舞台衣装だけでなくヒスイがいつも着ていたような意匠の動きやすいものもあった。それを貸したのだが、ヒスイにはやや下衣の裾が足りないだろう。逆に上着は胸の部分があまるに違いない。踊っているときは胸をさらしで固定しているから、それほどぶかぶかにはなっていないだろうと思うのだが。
「そういえば、ヒスイもさらし、使ってるのかしら。激しい動きをするときは固定しないとつらいのよね。揺れるし痛いし重いし。男の人にはわかんないでしょう」
「野郎だってちゃんと大事なところは固定してます。締め付けないほうが楽でいいんだけどね。ヒスイさんも普段から締め付けてるのかなぁ」
 一度ちゃんと確認しなきゃ、と、誰に聞かせるわけでもない呟きがもれた。
 どうやって確認するのだろう。聞きたくなくてトーラはその台詞を無視することにした。これで中断するかと思われた話の流れだが、意外なことにセイの方から話題がふられた。
「お前が、ここ聖都に居座ることを決めた理由は?」
 驚きのあまり目を丸くする。
「セイのほうから私に理由を求めるなんて、なにがあったの?」
「……お前、五十年の間に随分生意気になったじゃないか」
 青い目がまたトーラを見下ろしてくる。
「あら。私は昔からこうよ。セイは、ヒスイが絡まないと私のことなんて眼中になかったからじゃない?」
 さらりといなして、トーラはセイを見上げる。
「ちゃんとした説明はアイシャが来てから話すけれど。聖都は七柱の神々全員が神殿を持つ場所よ。それってね……月の女神の総本山もここにあるの。それが理由よ」
 それが理由。ヒスイをこの「世界」に必要としていた銀の天使、すなわち、月の女神に近づくために。
 やっとセイは笑顔を見せてくれた。
 唇の両端をつり上げた、酷薄な笑みではあったのだが。

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