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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第一節第二項(118)

 2.

 再会を果たしてから三人は宿をとった。半分はトーラが稼いだ金、もう半分はセイが盗ってきた財布の中身である。広めの部屋は三人一部屋。着いて早々、トーラはふかふかの寝台の上に腰を落ち着けて靴を放り出した。
「こんな素敵な宿、久しぶり。ねぇ、ヒスイ?」
 今は薄物の舞台衣装ではなく厚地の木綿の服に着替えていた。ヒスイは部屋をぐるりと見渡す。
「……確かに、いい宿だな」
 その隣でセイが、ちょうどヒスイが考えていたことを口にした。
「オレたちが旅してた頃はだいたい娼館の裏だったもんねえ」
 あの頃はアイシャの荷馬車があった。荷馬車を置けるだけの場所を確保してもらい、なおかつ男女に分かれた部屋をとろうと思えば手持ちの金ではかなり心もとなかった。安宿では他の宿泊客と雑魚寝という方法もあったが女性陣の身の危険もあったし、もっと最悪な宿になると旅人を殺して金品を奪うような宿主もいると聞く。そういうことはセイが詳しかったのである。初めての町ではいつも花街に直行して娼館の女将に口を利いてもらい、裏にひっそりと泊めてもらうことが一番だったのだ。
 ヒスイはトーラを振り返る。
「……それにしても」
 寝台の上で足をぷらぷらと振っていた少女は藤色の瞳を向けてきた。ヒスイの覚えていた頃のトーラは一人では何もできなくて、そのくせ矜持だけは一人前という感のあった少女だったのだが環境はあっさりと人を――いや、妖魔なのだが――変えるらしい。
「いつの間に踊りを覚えたんだ?」
 と問いかけると、
「すごいでしょ? 私、こっち方面の才能、あったみたい」
 トーラはやや自慢げに笑った。いまだ幼さを残しているトーラの表情はむしろ微笑ましく映る。子供が「すごいでしょ」と胸を張っているような感じなのだ。
「ヒスイがまだ霧の谷にいた頃、夢の中で話したわよね。当時、私は流民の人たちに占いを教わりに行ってたって。で、ヒスイが消えてから私も単身飛び出して、そのまま流民の集団に潜り込んでしばらく占い師のまねごとをしていたの」
 ところが、とトーラは苦笑する。星見は一般の占い師よりもよく見える目を持つ分、やたらとよく的中してしまったのだそうだ。よく当たる占い師として名前が出ることも多くなり、そのうちどこかの屋敷でお抱え占い師にならないかという話まで出始めた。トーラはセイのように自分の外見を器用に変化させること、つまり、人間が老化していく速度に合わせて自分も年を重ねているように姿を変えることができなかった。年を取らない妖魔にとって一ヶ所につなぎ止められることは致命的だ。
「だからね、そのまま別の流民の集団に紛れ込んで、今度は歌や踊りを見せ物にしたのよ。そこでかなり鍛えてもらったわ。大丈夫よ、春は売ってないから」
「……おい」
 ヒスイは意図していなかったが一瞬、険しい顔になった。トーラは相変わらず目の前でにこにこと微笑んでいる。罪の意識のない笑顔だったからその言葉が本当だと信じられた。
 しかしトーラのいうことも分かるのだ。ヒスイだって女一人で生きていくのに綺麗なままでいるのがどれだけ難しいか理解できる。歌や踊りを飯の種にしている女達は大抵それだけでは食べてゆけず、夜の町で男の袖を引く者も多い。多いというかむしろ、そうでない女のほうが少数だ。トーラは人間と違って衣食住のうち衣と食に金を使わずに済む。
 そんなわけでトーラは占いと踊りという二つの「生活の糧」を手に入れたわけだ。
 座っていた寝台から、やや勢いをつけてトーラは立ち上がる。
「実はまだ本調子じゃないの。目が覚めてからまだ一週間もたってないし、早く今の流行の踊りを覚えなきゃ。私が眠ってから四十年弱。やっぱり人間の世代交代って早いわよね」
 トーラはくるりとその場で回ってみせる。セイはわざとらしい仕草であくびをしていた。ヒスイはというとトーラの一言で目を見開く。
「そうだ……人間の世代交代だ。アイシャは今、どうしている?」
 それが一番心配だった。ヒスイが消えてから五十年経っているという。普通に考えればアイシャは今年七十を越える老婆になっているはずだ。その前に寿命が来たのならば、もう二度と会えない。
 さて尋ねられた方はというと、ヒスイの翠の瞳を下から上目遣いに覗き込む。後ろにさがりつつ、やや引きつった笑顔で返してきた。
 曰く。
「うふ。わかんない」

 場の空気が一瞬にして静寂に包まれる。
 ヒスイは微笑みを浮かべた。それはもう、普段は見せないような笑顔でにっこりと。

「ヒスイさん?」
 セイがヒスイの前へと回り込み顔を覗きこんでくる。そのセイは「おや」と一言呟いた後、なぜか嬉しそうに微笑んだ。
「うわぁい。ヒスイも怒ったら笑うんだ。トーラ、正直に白状しないとヒスイにどんな目に遭わされるか分からないよ?」
「あんただけにはその台詞、いわれたくないわよッ」
 と口ではいいつつ、トーラの目はヒスイの笑みから離れなかった。離せなかったというべきか。
「そんなこといったって、前に魂だけのヒスイに会ったとき、私ちゃんといったでしょ。アイシャは今どこにいるのか分からないって」
 半分泣きそうな笑みを貼り付けながらトーラはまた後ろにさがった。ちょうど進行方向にあった寝台に足下をすくわれた形になって、そのまま尻餅を付くようにして座り込む。そしてそれにあわせるように一歩ヒスイが近づいた。
「……分からないとはどういうことだ、こら、星見。過去は変わらない。お前に見えない過去なんかないんじゃなかったか」
「だから! 本当にそこだけ分からないんだってば!」
 セイは二人から少し離れたところで、にやにやしながら見ているだけだ。彼にはトーラを助けるつもりなどさらさらない。むしろこのやりとりを楽しんで見ている。ヒスイに問いつめられてしどろもどろするのは、いつもならセイの役目だ。それが今はトーラが追いつめられているのだから、これほど愉快なことはない。
 しかしセイの予想に反してトーラは完全に追いつめられたわけでもなかった。
「でもイスカには連絡を入れたわ。ここ聖都の大地の神の神殿から伝令がいったはずよ。イスカだって星が光ったのは分かっているはずだし、すぐに飛んでくると思うわ」
 このときヒスイは、トーラとセイによってイスカが地竜に変化したことを知らされた。ヒスイもまたイスカはただの精霊だと思っていたからこれには驚く。時間の果てで出会った老人はそこまで教えてはくれなかった。いずれトーラたちと合流すれば分かることだと口をつぐんでいたのだろうか。
 トーラは膝小僧をそろえ、ヒスイを見上げて今度こそ本当に心からの笑顔になった。
「だからね。私たち、イスカが到着するまでしばらくこの都に足止めなの。時間は十分あるわ」
 時間があるのはわかる。だが、トーラの台詞にはそれ以外の何か含みを持たせたような声音でもあった。セイもそれに気づいたのだろう。盛大に顔をしかめた。
「お前、何を企んでるわけ?」
「やぁね。人聞きの悪い」
 さらりとセイの一言を受け流して、藤色の瞳はヒスイを見つめてくる。
「アイシャと合流するのに、いい方法があるわ。ヒスイが今から過去に飛んで、若い頃のアイシャを連れてくればいいのよ」
 ヒスイの目が点になる。
 セイはぽんと手を叩いた。
「じょ……冗談じゃない!」
「その手があったか」
 ヒスイとセイの声は見事に重なった。トーラがいうことは本当に歴史改変だ。もしかしたらアイシャはあの後、普通の主婦として平凡に人生をまっとうしたのかもしれない。それをヒスイの身勝手でこんな「遠い未来」に連れてきていいはずがない。ヒスイは大きく首を振った。
「アイシャは生きていればこの時代、七十なんだぞ。それを二十そこそこのまま連れてくるなんて、アイシャの人生を狂わせるつもりか!?」
 しかしトーラはなおもけろりとした顔で重ねる。
「それをいうなら、ヒスイは? 私たちはいいけれど、ヒスイだって本来のまま年を重ねていれば七十未満のおばあちゃまだわ。今、ここにいるのは誰? 当時と同じ十八のヒスイでしょう?」
 それも確かにそうなのだが。
「歴史を変えたくないというヒスイの願いはすでに取り返しの付かないところまで来ているのよ。だってそうでしょう。仮に今からヒスイが五十年前に逆戻りして、時間移動なんかなかったふりをして人生をやり直そうとしても、よ。私もセイも、この五十年『ヒスイに会えなかった』ままで暮らしてきたのよ。イスカもだわ。歴史は修正されるの? じゃあ、この五十年を過ごしてきた私たちはどうなるの? なかったことになるの?」
 側ではセイが小さく拍手をして頷いていた。先ほどからトーラの敵になったり味方になったり、忙しい男である。
「だとしても。トーラの言葉を借りれば、お前たちの人生を狂わせるのは承知できなくてもアイシャの人生を狂わせるのはいいのか? お前がいっているのはそういうことなんだぞ」
「だけどアイシャはもう一度ヒスイに会いたがっていたわ!」
 トーラはなおも食い下がる。
 その気持ちは痛いほど分かるだけに、ヒスイはそれ以上強くもいえなくなってしまった。けれど歴史を書き換えるというのはヒスイの中で「してはいけないこと」になっている。自覚はなかったが力を暴走させている途中、過去に二度飛んだ。そのときももしかすると母やアイシャの人生を変えたかも知れないのだ。ひとつ時間を移動するたび、ありえるはずのない出来事が周囲の人々に影響して動かしようのない事実になる。それがどうしようもなくいやだった。
「駄目だ、トーラ。本当にそれだけは……」
 しかし話はそこで終わらなかった。
 ずっと側で聞いていた男が、黒く尖った尻尾が見えそうな笑みで口を挟んできたのだ。
「そんなに気にすることもないよ?」
 トーラは顔を輝かせてセイにすがるような視線を送る。対しヒスイは眉間に縦皺を作った。
「お前は口出ししないでくれ」
「どうして? オレもどうせなら、しわくちゃのアイシャさんよりも、まだましなアイシャさんに会いたいなぁ」
 若い、とは決していわない。笑いながら毒舌をくりだすのはセイの得意技だ。このままセイと舌戦となれば圧倒的にヒスイが不利である。まずい、と直感的にヒスイは身構えた。このまま言いくるめられそうな、ひどく悪い予感がよぎる。
「よーく考えてみてね? アイシャさんは天涯孤独だったの。だからね? ヒスイが消えたあの時間から、またひとり消えても誰にも迷惑かからないんだよ?」
 ヒスイは自分の柳眉が険しくなったのを感じた。
「……よくそういうひどいことがいえるな?」
「うん、そうだねぇ、ひどいよねぇ」
 それでも彼の顔はにこにこと変わらない。セイの笑顔が今日はひどく不気味に見える。案の定、セイは「だけど」と言葉を続けだした。ヒスイの退路がひとつずつ断たれていく。
「天涯孤独ってことはね、アイシャがいなくなっても、誰も泣かないってことだよ。そうでしょう? アイシャと特別仲がよかったのはイスカ、トーラ、それにヒスイ。全員がこの時間帯に存在してる。けれど五十年前、アイシャの側にヒスイとトーラはいなかった。あのままひとりぼっちで老後を過ごさせるより、今の時代に連れてきた方がずーっとアイシャさん、幸せなんじゃない?」
 青い目がすうっと細くなって、三日月の形に笑う。
 セイのいうことは間違っていない。たしかに、ヒスイが消えた五十年前、アイシャの側にはイスカしかいなかった。トーラが以前教えてくれた話によるとそのイスカも後に地竜の里とやらに厄介になったという。聞いたときはただ大地の精霊として竜に仕えたかと軽く考えていたのだがよもや本人が竜になったとは思わなかった。最後にイスカもいなくなったとき、アイシャは何を考えただろう。
「考えてもごらんよ、ヒスイ。縁者がいないってことはどういうことか。アイシャがこの時代で七十すぎのおばあちゃんでいる必要がないってことだよ。この時間に生きる誰も誰もアイシャという老婆を知らないし、必要ともしていない。もしもヒスイが五十年前から二十代のアイシャを連れてきたとして、会う人会う人がアイシャを見て、七十年前に生まれた人だと誰が気づく?」
 それもそうだ。ましてアイシャは地元でずっと暮らしてきた人間ではない。交通手段が発達していないから生まれた場所を飛び出す人間はまれである。だが、アイシャはその数少ない「生まれた場所を離れた」人間であり、ずっと行商をしていた。彼女は一度も故郷に帰らなかったから地元では誰もアイシャのその後を知らない。行商の仲間も隊から離れたアイシャの消息をたずねたりはしないだろう。
 だんだんと追いつめられていったが、ヒスイは頑張ってあがき続ける。負けられない。ヒスイは気持ちを強く持ってセイをにらみ返した。
「……だが仮に、あの後アイシャが結婚していたら? 子供ができていたら? そして幸福に晩年を終えていたら? 『もしも』そういう人生があればこの時代にもアイシャの子孫達がいるはずだろう。『もしも』この時代に老婆になったアイシャがいるなら、この時代に連れてくるということは二重存在になるんじゃないのか?」
 アイシャはそういう普通の人生を送っていたかもしれない。過去を変えるということはその子供達の存在を無に帰し、アイシャのあるべきはずの人生も全てなかったことになる。
「歴史は簡単に流れが変わる。たしかに私の存在がすでに歴史を書き換えているのだろう。だったらこれ以上の混乱は避けるべきだ。お前たちが私にやれやれといっているのは、死すべき定めの人の子に不死を与えるようなものだと思わないか?」
 これに対して返事はひとつだった。
「思わない」
 セイの声が明るく響く。それだけではない。同じ台詞をトーラも放っていた。つまり二重奏で否定されたのだ。
 毎度毎度いらぬ一言をたしなめられるトーラは相変わらず黙っていられなかったらしい。自分の意見にセイも乗り気なのがそんなに嬉しいのか、顔を輝かせてヒスイの説得にあたる。
「大丈夫よ。歴史を改変したくないというのなら、アイシャを迎えに行くことこそが歴史を変えない方法だと思うわ。何度もいってるでしょう? 私の星見でも、アイシャがどこにいるか分からない、って」
「そうそう」
 ヒスイの二倍か三倍くらいは口が達者なセイがトーラの発言に理屈をつけた。
「こいつの星見を狂わせる存在なんてヒスイ以外に誰がいるの? さっき仮説の話をしたよね。じゃあ、『もしも』ヒスイがいうようにアイシャが結婚して子供作って、幸福な晩年を終えていたのだとしたら……どうしてそれがトーラに見えない? トーラは星見なのに?」
 それは奇しくもヒスイがいった台詞の繰り返しだった。しまった、と臍(ほぞ)を噛む。まんまとしてやられた。ヒスイの二倍、三倍どころか、口のうまさでいけば百倍でもまだ足りない。
「ヒスイさん、自分の台詞覚えてる? 『分からないとはどういうことだ、こら、星見。過去は変わらない。お前に見えない過去なんかないんじゃなかったか』っていってた人、だーれだ」
 そうよ、とトーラが嬉々として勢いづく。
「ヒスイ、説明して。どうしてアイシャのその後が見えないのか。私は絶対、ヒスイが予言の星の力でアイシャを迎えに行ったからだと思うんだけど、どうかしら」
 完全に退路を断たれてしまった。
 ヒスイとてアイシャに会いたくないわけではないのだ。だがヒスイが感じているような歴史に対する介入への抵抗を、目の前の二人に口で話して理解して貰うことは困難である。期待に満ちあふれた青と薄紫の瞳がじりじりとヒスイを追いつめる。
 ヒスイががっくりと肩を落とし時間移動を試みることを諾(うべな)ったのは、その三十秒後だった。

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