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翡翠抄−ひすいしょう−

第六章第一節第一項(117)

第六章

 聖都

 この「世界」では七柱の神々が信仰されている。ここでいう「柱」は神々を数える数詞である。人を一人、鳥を一羽、木を一本と数えるように、神は一柱と数える。七柱の神々は文字通り、人々の信仰心を支えるためにそこに在った。
 神が本当に存在しているのか、魔術師は議論する。
 精霊使いは神を信じない。神を離れた精霊と心を通わせるゆえに。
 神は目に見えないが存在していると、神官は説く。
 無知で文盲な民草たちは目に見えない何かが存在していることを肌で知っていた。ゆえに、その何かの正体を神と呼んで、祈る。

 ひとつ、太陽神。地上にあまねく光与えし黄金の神。
 ひとつ、月の女神。太陽神の妹にして闇夜を照らす銀の女神。
 ひとつ、戦の神。与うるは誇り高き戦士の魂(みたま)。
 ひとつ、知恵の神。叡智なるもの知識のみにあらず、知恵あってこその叡智。
 ひとつ、法と契約の神。定めし道を外れぬことこそ正しき道と知れ。
 ひとつ、愛と美の女神。この世を潤す姿なき水を恵む。
 ひとつ、豊穣と冥府の神。大地に祈り、大地と帰れと教えしや。

 それぞれの神々を祭る神殿は各地に点在しているが、あるひとつの都には七つ全ての神殿が集まっていた。豊穣と冥府の神を除いた六柱の神々がすべてその都に総本山を持つゆえに、その都は「神々の膝元」「聖なる都」との名称を持つ。それは近年さらに縮められ、一般には聖都と呼ばれていた。

 1.

 聖都は常に巡礼の人々でごったがえしていた。
 神に祈る世界中の人々は、一度はその都に参拝したいと願い、集う。だからこの都に人が途切れることはない。外から人が集まれば内の人はそれをもてなすために動く。巡礼たちが泊まる宿は貧富にあわせて様々あり、各神殿の前ではそれぞれの神にあわせた捧げ物を売る男や女たちがいる。人が増えれば当然そこには揉め事もおきる。巡礼の護衛を勤めるいかつい男たちが喉を潤す酒場もあれば、彼らに一夜の慰めを与える女達もいる。神にもっとも近い場所でありながら、善悪が渾然一体となったもっとも人間らしさの現れている都でもあった。
 そんな風にごったがえす聖都にて、一組の男女が他者の目を逃れるようにして暗がりに引っ込んでいった。そこそこ立派な身なりをした冴えない男が、身なりは冴えないがそこそこ綺麗な顔立ちをした女と二人、もつれあうようにしてささやきを交わす。
「やっと二人きりになれたね……」
「だめよ、こんなところで……あん」
 彼ら二人の運のなさは、ちょうどその時間、その場所で、男女二人であったことだろう。
 男はちょうど背中になっていたのでそれを見ることはなかったが、壁際に寄りかかっていた女は見た。何もない空中から赤毛の若い男と、抱きかかえるようにして短い黒髪の女が急に現れたその様子を。
 何が起こったか考える間さえ、現れたその二人組は与えてはくれなかった。

   *

 セイは鮮やかに、目の前の見知らぬ男女を気絶させた。ヒスイはセイから離れて地上に降り立つ。
「いやあ、いい時、いい場所に都合よくいてくれたねぇ」
 彼の長い髪がさらりと滑る。ヒスイの目には、セイがちょっと手を動かしただけですぐ男女が倒れたように見えた。一瞬のことなのでよく見えなかったが、手刀だったのだろうか。
 どうして、現れた場所に見知らぬ二人組がいて「都合よく」なのかよく分からなかった。が、ヒスイの目の前で、セイはごそごそと彼らの懐をあさり始める。ヒスイの眉間に縦皺が寄った。
「お前は何をしてるんだ……?」
「何、って、こいつらの通行証を探してるんだよ」
 見上げてくる青い瞳には罪悪感の欠片も見あたらなかった。よく「空のように澄み切った」などという表現をするが、この瞳を見ていると、その青空でさえ裏には闇が広がっているのだということを思い出させてくれる。人間とは異なる長さの寿命を持つ妖魔が人の世界に紛れて生きるにはどうしても犯罪まがいのことをしなければならなかったのだろう。それは分かる。が、感情とは理性とまた別物なのだ。
 セイはヒスイの心中を察しているのか、いないのか、むしろ楽しそうな声で続けた。
「通行手形もね、元になるものがあれば偽造しやすいんだよ。オレたちには戸籍がない。これがないと堂々とこの都から出ることもできないんだから」
 と、ヒスイに向かって女が持っていた手形を投げてよこす。だとするとこの男女はどうやって都を出るのだろうか。他人の心配をしている場合ではないのだがヒスイは一瞬、彼らに同情してしまった。
「ついでに財布もいただいてしまおう。あ、男はけっこう持ってるけど、女はあんまり持ってないや」
「お前な……」
「まぁまぁ。妖魔の世界も金次第。持ってて損はないんだしさ。ヒスイの服も買わないといけないし。だけどヒスイさん、一文無しでしょ?」
 にっこりと笑顔で痛いところを突いてくる。
 今、ヒスイは白い瀟洒(しょうしゃ)なドレスを着ている。誰の目にも、それが体に巻き付けたただの敷布だとは思わないだろう。ドレスに見えるそれは、セイが視覚と触覚をだます簡単な目くらましをかけた代物だった。文字通り着の身着のままでセイと合流してしまったためにヒスイが身にまとっているのは実質、これ一枚きりなのだ。
「……派手じゃないか、この服?」
 気絶させられ倒れている女の服装と、自分の服を比べながらセイに問うた。
「平気、平気。ここは聖都だから。貧乏人から金持ちまで、色んな人が集う場所だからね。ヒスイが少々いい服着ていたって誰も気にとめやしないよ」
 聞き慣れない町の名前を耳にして、ヒスイは目だけで問いかける。同じく青い目が頷いたような気がした。
「聖都。七柱の神々全員が神殿を置いて居座ってる都。早い話、大神官がごろごろいるような宗教の中心地だね」
 懐に盗んだ財布と通行手形をしまいこみ、セイはヒスイにこれまた盗んだ外套(がいとう)を着せかけた。男が着ていた上等な外套はセイの目くらましによって仕立てのいい女物に変わる。結局セイは男と女から通行手形と財布、それに上に着るものもちゃっかりと頂戴してしまった。都合がよかった、というのはこういう意味だったのだ。

 ヒスイたちはトーラと合流するため彼女がいる場所に向かった。そしてセイが連れてきてくれたのがこの都。この場所に近いところに彼女は長い間眠っていて、そして最近、予言の星が光ったのを合図に目覚めたらしい。トーラが眠るとは聞いていたものの、てっきり山奥、少なくとも人里離れた場所にいるとヒスイは思っていた。ここはたくさんの人が集う場所だと聞いて、軽く驚きを覚える。

 セイはヒスイの手を引いて薄暗い路地裏から一気に明るい場所へと移動する。まぶしい光は最初ヒスイの目から視界を奪った。
 そして見えてきたのは、人、人、人。
 ヒスイは息を呑んだ。
「……わ……」
 そこには賑わう町の様子と、それ以上に大勢の人間がいた。
 ヒスイが今まで旅していたのは森や荒野、海の上にぷかりと浮かぶ島、あるいは外界から完全に隔離された霧の谷の離宮など、あまり人がいなかった場所だ。もしかしたら初めての都会を体験するのかも知れない。右を向いても、左を向いても人。先ほどセイがいっていた貧富の差のある人々もいれば人種も、年齢も、皆ばらばらだ。
 そして、それらの人々は同じ場所を目指しているようだった。急ぎ足ぎみに、そして熱っぽい瞳をしながらそこに向かっている。人いきれでめまいがしそうだった。
「ヒスイ?」
 不思議そうにセイが聞いてくる。
「あ、いや……」
「怖い?」
 笑顔で問い返されて思考回路が一瞬、とまる。ヒスイは反射的に力強く首を振った。
「ありがとう。もう大丈夫だ」
 久しぶりに会う大勢の人の熱気に少々当てられただけ。実際、これほどたくさんの人間が一ヶ所に集中していくという様子はある種の怖さが感じられた。
「心理状態は多少、移るからね。人間って不思議だよね。妖魔でもないのに感情を共有することができる」
 ヒスイは内心、それは違うと思った。人間は普段、大多数の他人と感情を共有することはできない。それができるのが宗教なのだ。音楽や演説でも大勢の人間を揺り動かすことができるが、全ての心をひとつにできるような音楽や演説を与えられる人間は少ない。
「古来、音楽は神に捧げるものだったと聞いたが……そういう特殊能力を持った人は神に並べるのかもしれないな」
「ヒスイさん、難しいこといってるね。オレはこの人間特有の熱気、好きだけどなあ」
 軽くヒスイの肩に手をやって抱きよせてくる。ヒスイはやぶにらみの目を向けた。
「何を馴れ馴れしい真似をしている」
「うっ、すいません。……っていうか、ちょっと内緒話をね」
 苦り切った笑みでセイが耳打ちしてくる。
「オレやトーラみたいな妖魔は人間の感情を餌にするからね。こういう都会のほうが餌に事欠かなくていいの」
 ヒスイは目を瞬いた。初耳だ。セイが妖魔だということはかなり前から知っていたが、彼もトーラも普通の人間が食べるような食事をしていた気がする。
「……お前、今まで何を食べていたんだ?」
「うん? 『夢見』の別名は『夢魔』だもん。青い髪のときは人間の夢とかね。ちなみに人間のふりをしてるときはそういう食べ方はできないから、女の人と交わってる隙に精気を吸い取ってる。人間が食べるみたいな食事じゃ、お腹はふくらんでも栄養にはならないもの」
 妙に納得してしまった。そういえばまだアイシャと三人だけで旅をしていたとき、セイが娼館に消えるのはしょっちゅうだった。初対面でヒスイを口説いてきたこともあって、てっきりただの女好きだと思っていたが裏にはそういう理由があったのだ。
 ではトーラはどうなのだろう。妖魔は人間と違って食べなくても生きていけるという。だが、それが人間のような食事を摂取しないでいるという意味なら、彼女の餌はなんなのかヒスイには想像も付かない。
 セイは相変わらずヒスイにぴったりとくっついて耳打ちを続ける。傍目にはセイが睦言を呟いているように見えるだろう。彼の足取りはいつの間にか人々の流れの中に向かっていた。自然とヒスイも人の波の中に飲まれてゆく。
「トーラはオレと違って、人間のきれいな感情を餌にしてるみたいだね。オレは悪夢を見せたときの人間の苦しみとかを吸い取って餌にしてるけど」
「……悪趣味な」
「そう? いやなことを忘れさせてあげるんだから感謝してよ。まぁ、多少吸い取っても人間の苦しみなんて後から後からあふれてくるけどね。で、あのチビの場合は優しいとか嬉しいとか愛しいとか、そういう感情が自分の側にあると元気みたいだ」
 人間にも食べ物の好き嫌いがあるように妖魔にも好き嫌いがあるらしい。トーラは感情を吸い取るというより、好きな感情を近くに感じることで存在を保っているのだ、とセイは説明してくれる。いつの間にかヒスイたち群衆は一本の広い道を歩いていた。が、道は広いのだが大勢の人間で埋まっているため窮屈には違いなかった。
「だから、あの精霊の側で育てられてた間が一番、飢餓状態だったんじゃないかな。アイシャさんに引き取られてヒスイと時々連絡とってたあの頃が一番元気だったから」
 人混みはますます混雑してくる。ぎゅうぎゅうと押されながら、ヒスイの肩に回されたセイの手ははぐれないようにと力をこめてきた。
 道が開けてきた気配がする。ざわめく人々の声が道の終わりを告げていた。誰かがいう。何々の神への捧げ物はどれがいいか、広場からどの神の神殿に参ろうか。どうやら開けている場所は広場というらしい。
「ヒスイもそろそろ感じない?」
 顔を側に近づけて、にこっと青い目が笑う。
「トーラと魂の双子なんだから、そろそろ気配が濃厚になってきたんじゃないかな?」
「ああ、分かる。あの子は広場にいるんだな」
 ヒスイも翠の瞳を微笑ませてセイに答えた。

 どうして巡礼の人々が広場を目指すのか。行ってみてヒスイは納得した。だだっぴろい広場からは来た道を含め八本の道がのびている。その道はそれぞれ、神殿を頂く小山に繋がっているのだ。どれも立派な神殿だったが建築の趣向が違った。やたら大きな門構えもあれば、小さいが繊細な作りの神殿もある。ヒスイにはどれがどれだか分からなかったが巡礼の人々は確実に各神殿を見分けており、そしてそれぞれの神殿へ向かうべく道を選んでばらばらに分かれていくのだ。
「……そうか。広場は分岐点なのか」
「そういうこと。全ての神様の信徒がどうやっても通る場所だから、ここに市が立ったり、大道芸人たちが群がっていたりするのも自明の理というわけ」
 耳を澄ませてみれば、大勢の人間の声に押されがちだが確かに楽の音が聞こえる。歌もだ。大道芸にも色々あり人気も違うようで、猿を使う見せ物やら、松明を投げ合う芸人たちもいる。とある楽士の前にはお情け程度の小銭が投げられるだけだが、とある踊り子の前には人だかりが出来ていた。一人で踊る彼女に伴奏の楽の音はないが手足に付けた鈴が鳴る。
「それで、トーラは?」
 ヒスイには感じられる。ここはトーラの気配が濃厚だ。香りのいい紫の花が咲きこぼれたように、姿は見えなくてもはっきりと存在を主張しているような感じがする。セイはなぜか笑っていた。その笑顔はなぜか苦笑しているようでもあり、面白がっているようにも見えた。ますますヒスイを困惑させる。
 わっと拍手が響いた。どうやら先ほどの踊り子が踊り終えたらしい。頭を下げて優雅に礼を取っている。蜂蜜色の髪をした、踊り終えてみると意外に小柄な踊り子だった。
「まあまあ、ヒスイさん。それより遊ぼうよ。芸人の踊りでもゆっくり見ない?」
「ふざけている場合か?」
 襟首をつかむ。と、そこへヒスイが聞き間違うはずのない、明るい声が耳に飛び込んできた。
「皆様、ありがとうございました!」
 ヒスイは思わず首を声の方向に向けた。
 人の輪の中心に踊り子がいる。ふわりと流した肩までの蜂蜜色の髪、大粒の藤色の瞳。なにより額に戴いた紫水晶の額飾り。手首に鈴をつけた手を高々とあげ、薄物の衣装を身につけて少女は額に軽く汗していた。
 ヒスイは、目が点になった。
 踊り子の前には、ただの芸人に投げ込むには少々多めの金が投げられる。銅貨だけではなく銀貨まで混じっている始末だ。それらに礼を言って彼女はゆっくりと人垣に瞳をめぐらせていく。そして彼女の藤色の瞳もまた、ヒスイを捕らえて点になった。
「ヒスイ!」
 聞き間違うはずのない明るい声。見間違うはずのない藤色の瞳。
 少女は人垣を越えて駆け寄ってくる。両手を伸ばして抱きついてきた。
「嬉しい、会いたかった!」
「やっぱりトーラ!? お前、どうして!?」
 それまで人垣の中心にいた踊り子の、どう見ても感動の再会といった様子に人々の目は集中した。

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