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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第五節第六項(116)

 6.

 ヒスイの深層心理の底から、かりそめの肉体を持つ身へと戻る。
 青い髪の妖魔は髪の色を変じ、再びセイと呼ばれる存在としてヒスイを抱きしめ狸寝入りをしていた。

 腕の中でヒスイが目覚める気配がする。寝息が止まった。毛布越しに身じろぎする感触が伝わってくる。
 一拍の間があったあと突如、一点集中の衝撃が走ってセイは寝台から転がり落とされた。
 ヒスイに殴られたのだ。
 いや、蹴飛ばされたのかもしれない。どちらにしろ目覚めたばかりの姫君はご機嫌斜めだった。
「人の隣で何をしているんだ、お前は!」
 起き抜けだというのに元気な声である。
「ひどい、ヒスイ。『おやすみ』っていってオレより先に寝たじゃないかぁ」
 床に転がったときに頭を打ったらしい。ずきずきと痛みを主張する後頭部を押さえてセイは体を起こす。間違いなく現実世界。正確には自分が作った妖魔の空間の中だけれど。
 そうして寝台の上を見上げたならば、座ったまま腰に手をやり胸を反らして、不信感いっぱいの目でこちらを見ているヒスイがいた。
「条件反射だ。諦めろ」
「……はい」
 しくしく、と泣き真似などしてみせた。内心は嬉しくてたまらない。かつて渇望していた日常茶飯事が戻ってきたのだ。ヒスイを探して、探して、探し疲れて、それでも一縷の望みを捨てず待ち続けた。たった五十年、されど気が狂うほどに長い時間。そうしてやっと手元に取り戻したヒスイは全く五十年前から変わっていなかった。平常時は怒るし、殴るし、こきおろすし。その後ほんの少し「言い過ぎたかな」と気にしてくれる。
 愛してる。ヒスイとのこんな些細なやりとりを守るためなら何だってできる。あの赤い目の海賊を自分のために利用することだって、いくらでも――。
「ところで、セイ」
「はい?」
 ほくそ笑んでいたところにヒスイの声が飛んで、セイは慌てることなく表情を取り繕っていた。もちろんヒスイはセイの腹の内など気づかない。
「私はどれくらい眠っていた? ここだと外の景色が見えないから、ちっとも時間の経過が分からないんだが」
 ここは夢見の空間。眠ろうが目覚めようが真っ暗だ。時間の経過が分かるのはこの空間の主であるセイだけである。
「四半日ってところかな。もしもさっきの場所に出るなら、今は夕暮れ時だよ」
 ヒスイがぎょっとしてセイを見た。そんなに意外だっただろうか。セイがヒスイを奪取したのはちょうど太陽が真上にあった頃。疲れがたまっていたのかヒスイは寝入ってから今の今まで一度も目覚めることがなかった。昼寝どころか、通常の睡眠時間と変わらない。
「もちろん、外に出るのが別の場所だったりしたら朝だったり夜だったりするよ? 世界は広いからね。同じ時間に昼の国と夜の国がある」
 それがどういう理屈なのかセイには分からない。ただ経験として知っているだけだ。が、ヒスイにはそれだけの説明で理解できたようである。時差、という言葉がヒスイの口からぽろりと漏れてきたがセイにはその意味が分からなかった。
「さぁ、ヒスイ、どこに行きたい? 世界は無限大に広がってるよ。行きたいところにオレが連れていってあげる。昔みたいにオレの力、隠す必要ないもんね。この世はオレたちだけのものだよ」
 ヒスイに目的地はない。セイにももう行きたい場所はない。探していた人が目の前にいるから。可能性だけが四方八方、どこまでも続いている。
「あ。ヒスイがお望みならこのままずっとここで蜜月を過ごしても……」
 いった瞬間、無言で殴られた。
 まだ抱きついてもいないのに大した早さである。
 ヒスイはセイを殴りつつ、頭では別のことを考えているようだった。翠の瞳が難しい顔をしている。どうやら先ほどの見事な拳打は本当に反射的なものだったらしい。そういう反射神経ばかり発達させてくれるというのも何だかやるせない。すねちゃうぞ、と呟いていたら、ヒスイがすっくと立ち上がった。巻き付けただけの白い服の裾をたくしあげて寝台を降りる。
「トーラは今、どこにいる?」
 まっすぐな視線。どうやら考えがまとまったらしい。
「ひとまずトーラと合流する。イスカの居場所はあいつが占ってくれるだろう。アイシャがどうなったのかも知りたいし。まさかお前、トーラがどこにいるか知らないなんてことはないよな?」
 せっかく二人きりになれたというのにヒスイは邪魔者の存在をご希望らしい。よほど「知らない」と答えようかと思ったが、やめた。あれはヒスイの双子だ。セイがほったらかしておいてもいずれ邪魔しにくるだろう。だったらここでヒスイの怒りを買うのは得策ではない。
「分かるよ。じゃ、そこに向かおうか」
「その前に服と靴だ。それから武器。薬と包帯。身の回りの品。それと食事もな。なにせ私は今朝から何も食べてないんだ」
 立て板に水を流すような口調でつらつらと並べ上げられる。変わりないヒスイの様子にセイはこっそり胸をなで下ろした。どうやら夢見の存在はヒスイに気づかれずに済んだらしい。セイも立ち上がって、昔のようにヒスイの背後からその肩を抱きしめた。
「大好き。ところでヒスイさん。オレ、いい子で待ってたでしょう? ご褒美は?」
「……は?」
 片眉をややつりあげ翠の瞳が自分を見る。青い目を映した彼女の瞳をのぞき込むのが好きだと今、思った。
「だから、ご褒美。だって独りぼっちで寂しかったんだよ? 贅沢いわないからさっ」
 ずっと一途に待ち続けてきたのだ。ここらで少しばかりおいしい目にあってもいいではないか。
「……分かった。ご褒美だな」
 セイによく見えるようにヒスイが握り拳を作った。それは先ほど二つばかりお見舞いされました、とはいえない。しかしヒスイが自分に何かくれるものといったら拳か、せいぜい心配そうな視線だけだ。駄目で元々といってみただけである。
 ヒスイの手は拳を作った後、思い直したかのようにセイの耳を引っ張った。新手の攻撃である。これは予想外だった。
 やっぱり痛い目をみるのか、とセイが諦めた瞬間、耳元でヒスイが何やら囁いた。
「え……?」
 台詞のあまりの意外さに一瞬、固まってしまった。
 ヒスイはセイの耳を放して、しれっと
「二度はいわんぞ」
 という。顔色は少しも変わっていない。普段から無表情だが彼女の顔だけを見ていると先ほどの台詞が嘘のように思える。
「え? え? ごめんヒスイ、もう一回いって!」
「だから、二度はいわないといった」
「もう一回!」
 けれど振り返りもせずにヒスイは前へと歩いていった。

 ――お前が追いかけてきてくれるから、私は前に進んでゆける。頼りにしてるぞ。

   ***

 さて、話はそこから少しさかのぼる。

 ここは遠く離れた南の海のまっただ中。
 ヒスイたち二人が青空に消えた甲板で、コゥイを始めとする乗組員たちはあんぐりと開いた口が塞がらずにマストを見上げていた。

 この場で一番冷静だったのがレイガで、最初からヒスイに確執も執着もなく、さらに妖魔に対する知識もほんの少しばかりあったゆえに立ち直りも早かった。
「いつまでぼんやり空を見ているの?」
 船は波に乗って進路通り進んでいる。固まってしまって動けない人間を乗せて、どんどん本島に近づいていった。あの騒ぎでも航路が変わらなかったことをありがたいと思うしかない。
 この場で一番、精神的な衝撃が大きかったのは多分コゥイだろう。一目惚れだかなんだか知らないが、惚れた女に逃げられたのがよほど堪えたらしい。正確には現れた恋敵にさらわれた。レイガから見ればヒスイは最初からあの妖魔のものであり――妖魔が異常に独占欲の強い生き物だということは承知していた――、通りすがりに助けただけのコゥイに始めからどうこうできる女ではなかったのだ。ならばさっさと諦めればいいものを、真紅の瞳を持った男はまだその境地に達せていないらしい。
 アジロたちはというと、そろそろ呪縛もとけて、ぎこちないながらも動き始めていた。現実を見ているのだ。まだ動けない男がここにいる。
「いいかげんになさいな。コゥイ?」
 レイガはため息混じりに声をかけた。ヒスイを見る何分の一かでいいから、彼から恋する男の目で見られたいものである。レイガが男であるというその事実が全てを無に帰すのだが。コゥイは、開けていた口を閉じると、音を立てて歯を食いしばり始めた。それほどまで悔しかったのかとレイガが納得し再びため息をついたところへ。
「本島についたら船を下りる」
 コゥイはまだ真っ青な空を見上げたまま、白昼夢でも見ているのではないかと思うような台詞を吐いた。
 驚いたのはレイガだけではない。アジロもだ。
「寝ぼけているのか?」
 それを思ったのはアジロだけではない。船の上で何人かがコゥイに注目しはじめる。その隻腕の海賊はというと、やっと視線を空からはずし振り向いた。
「んなわきゃねぇだろうが。ヒスイを追いかけるんだよ!」
 それこそ白昼夢でも見ていなければ出てこないような台詞だ。今度はレイガがあんぐりと口を開ける番だった。しかし真紅の瞳は真面目そのものである。
「あれは俺の女だ。取り戻して何が悪い。戻ってくるときはあいつと一緒だ」
「コゥイ。お前、暑さのあまり脳味噌が煮えてるのか? お前にはここでやらなきゃならないことがあるだろうが。大陸からの進出もどんどん激化してくるし、ここを守るために……」
 アジロの必死の説得は、しかし、赤い瞳が返した冷たい光によって遮られた。
「守る? 俺が? なんで?」
 彼の口から飛び出したのは疑問ではなく、なぜ自分がそんなことをしなくてはならないのかという突き放した回答だった。
 船の上がどよめいた。レイガはそっと額を押さえる。この場でコゥイの今の台詞を理解できるのは多分レイガだけだ。こんなところで喧嘩を売らなくてもよいだろうと視線を投げかけたが、コゥイは逆に、思っていること全てを口に出した。
「だってそうだろう? お前らは自分の故郷を守るために戦っているんだろう? なんで俺がそれを『しなければならない』になるんだ?」
「コゥイ……。お前は、お前だって……」
 ここらの群島の出身じゃないか、とアジロはいいたかったのかもしれない。しかしその一言は喉に絡んでしまったのか紡がれることはなかった。コゥイの出生ははっきりしないのだ。
「俺に義務はない。自分が生きやすいから島にいた。そして船を操ってた。今は他に手に入れたいものがある。それだけだろうが。俺に故郷なんてもんは存在しねぇんだからな。その俺が、なんでお前らのもんを守ってやらなきゃならない?」
 冷淡な一言。痛烈な皮肉。この中でレイガだけ、コゥイと同じく「島」に帰属しない人間だからその気持ちは少しわかる。分かるが、この場でいうべき台詞ではない。険悪になるだけではないか。
「お前は俺たちのことをそんな風に思っていたのか!」
 分かりやすい人間のもう一方の代表格、アジロは突っかかった。コゥイはそれに対し薄く笑ってみせる。
「お前には俺の船をやるよ。風を捕まえにいくのにあれはまだ必要ないからな」
 まだ、といった。いずれコゥイは風を捕まえて戻ってきて、再び海にでるつもりだ。口を出すつもりはなかったが、レイガはため息をついて髪を掻き上げた。
「あんた、ヒスイと一緒に海に出るつもりなの?」
 アジロとコゥイがそろってレイガを見る。コゥイの顔が笑った。アジロは眉をひそめている。自分の一言が絶対にコゥイの味方だと二人とも信じているようだった。
「冗談は休み休みいいなさい。女を海に連れていけるわけないでしょう」
 二人の表情が一変した。コゥイは渋い顔になり、アジロは逆にその通りだと表情を明るくする。レイガは別にアジロの味方をしたわけではないのでこの反応は少し不快だ。
「別に、船に女を乗せてはいけないって、迷信でいってるわけじゃないのよ。遠洋航海がどれほど不衛生な環境になるかコゥイが知らないはずないでしょう。女の体は泌尿器の長さが男より短いから、体の中に雑菌がうんと入り込みやすい。まして女は月に一度、血を流すわ。血は水よりも腐りやすい。ハエがたかる。そうするとウジだってわく。けれど船の上には体を流すために使える綺麗な水なんてないのよ。水はすべて飲料用。それさえ腐るときがあるんだから。野郎どもみたいに海水で洗えっての? 藻やゴミが浮いて、ときに死んだ魚が浮かんでいるような汚い海の水で? 体どころか、戦いでついた傷口を洗い流すことさえできないこともざらにある。水も食料もつきたまま長い時間漂流してて、消毒できない傷口からウジがわいたせいで腕を切り落とすしかなかったどっかの誰かさんは身にしみてると思ってたけど?」
「さぁなぁ。どこの誰だろうな。そういう奴はごろごろいるからなぁ」
 冗談抜きに島にはごろごろいた。医療の発達していないこのあたりではさほど珍しいことではない。大陸でも金のない傭兵たちの間ではよくある話である。
「どうしても女を船に乗せたければ、まっとうな水洗設備が整えられるようになってからいうのね」
 それだけではない。男所帯に女がいるということはどういうことか。男の体は理性とは裏腹に女を求める。まして死に近い場所にいる男達は、いつ死ぬか分からないためにできるだけ己の子孫を残そうと本能が叫ぶ。少し道徳から離れたことを考えさせてもらえば、ひとりの女を男全員が共有することは一気に性病を感染させることにもなる。船の全滅は火を見るより明らかだ。
 真紅の目は笑ってはいなかった。真剣に耳を傾けてくれている。
「だけど、俺はあいつを手に入れて外海に出る」
「……まだいうか」
「俺がさせない。俺の女だ。誰にも触らせない。んなことで諦めるほど生半可な惚れ方してねぇんだよ。それにあいつは魔法が使える。たしかお前、清めの魔法ってやつが使えたよな? ヒスイもそれを覚えればいいだけの話だろ?」
 つまらないことはよく覚えている男である。レイガは眉間の縦皺を深くした。たしかに精霊と共感できる彼女なら簡単な魔法くらい使えるかもしれない。
「追いかけに行くったって、あんたが海を捨てられるわけがないでしょう……」
 コゥイは海で拾われた。海の近くで育った。ずっと海の上で戦ってきた。離れがたい思いはレイガが想像できないほど強いに決まっている。その海を捨ててまで一人の女を追いかけていく価値があるのか。だがその問いかけさえもコゥイは軽々と受け流した。
「だァれが。知らねぇの、お前? 船乗りは航海のためによい風を捕まえに行くもんなんだぜ?」
 褐色の肌に精悍な笑みが広がる。真紅の瞳は少年のように輝いていた。
 レイガは頭痛を覚えた。海を捨てるわけではないのだ。再び海で生きるために自分の隣に並ぶことのできる女を「取り戻しに」行くだけの話。ただし、どこに行ったか分からない女をである。しかし航海のために大陸まで風を探しに行くとは本末転倒もいいところだ。この頭痛、コゥイの台詞のせいではなく単に睡眠不足と灼熱の太陽のせいだと思いたい。
 なにがあってもコゥイの決意を変えることはできないと分かってしまった。説得の材料はきっと全て克服してくる。深く深く、ため息をつくしかレイガにできることはない。
「……アジロ。少し早いけれど結婚祝い。アタシの家をあげるわ」
 ぶっ、とアジロが吹きだした。
「ただし中にある蔵書と採取標本を処分したら命ないと思いなさいね。あとで取りに行くから、そのとき壊れてたり欠損があったら承知しないわよ」
 どうせ元々コゥイの家だ。レイガがコゥイに拾われて島に転がり込んで来たとき、自分に家はいらないから勝手にしろともらったもの。蔵書と標本置き場を兼ねた仮宿にしていたがコゥイが島に戻らないならあの家はもういらない。アジロに船をやるといったコゥイの台詞ではないが、旅を営むのなら船や家はむしろ足かせにしかならない。荷はできるだけ軽くしていくべきだ。
 意図を読んだのかコゥイが歯を見せて笑った。そういう笑い方をすると一気に外見年齢が下がって、本当に少年のようにも見える。
「もしかして最初から、アタシがあんたに付いていくと思ってた?」
「当然、来るだろ?」
 疑いもしなかったという返答。別の女を追いかけにいく旅だというのに、それでも連れていってくれるつもりだったのが嬉しい。乙女心(?)は複雑だ。コゥイがヒスイを追いかけて行くならば、レイガはそのコゥイを追いかける。いつ終わるとも分からない旅に出る。
「つくづく惚れた弱みというのは恐ろしい……」
 ぽつりと漏らしたあと、結い上げていた檸檬色の髪をほどき、首に下げていた装身具をはずした。細身のリボンと首飾りを小さく丸めて服の隠しにしまいこみ、朱色の口紅を袖口でぬぐって落とす。たったそれだけで今まで女の姿をしていた「彼女」は生来の性別である「彼」に戻った。
 レイガの変身を目の前で見たことのなかった島の人々はアジロを含めたみなあっけにとられ、一人それを見たことのあったコゥイは口では笑って――ただし見えないところに鳥肌を立てていたが――それを見ている。目立つ髪と、一度見たら忘れられないような色違いの垂れ目を頭巾で隠して、レイガはコゥイの傍らに立った。
「じゃ、行くかぁ」
「おう」

 船が本島にたどり着くのを待たず、再び船の上に光の柱が屹立した。

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