[←back][home][next→]

翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第五節第五項(115)

 5.

 目を閉じればすぐに、その状態に入ることが出来る。
 セイ……夢見を司る青い髪の妖魔は、呼吸するよりもたやすくヒスイの深層心理にたどり着いた。

 そこに広がる光景を「知らない」者に説明するのは難しい。
 例えば、生まれつき目の見えない人間に色の美しさを説明するのは難しい。生まれつき耳の聞こえない人間に音曲の艶を説明することと、どちらが難しいだろう。目が見える人間や耳の聞こえる人間にとってそれは不自由なことに違いない。夢見の光景を「知っている」彼にとって、「知らない」人間に人の心を説明するのはそれに似ていた。が、最初から何も知らなければそれは不自由でもなんでもない。人間は尻尾の利便性を、翼のない不自由を、一生知らなくても不自由とも思わずに生きているのだから。
 人が知らなくても何の不自由もない、むしろ知らない方がいいかもしれない場所。それがセイの知っている「人の心の中」だった。そこにある記憶と感情はまとわりつく水に似ている。温度差のある水に潜ったとき、水の色はわからないけれど皮膚でその温度の違いは自然と判断できてしまう。あえていうならそんな感じか。

 青い髪の妖魔はそこに立っていた。
 正確には重力が存在しないので「立っていた」という表現も間違っている。だがヒスイの心はそう捕らえたようだ。そこに自分とは違う何かが立っている、と。
「だれ?」
 声だけが聞こえた。
 ひどく幼い声。
 正直、ヒスイの心の中に潜ることはあまりしたくなかった。ヒスイ自身の矜持を尊重する理由だけではなく、自身にとっても痛い場所だから。ヒスイの心の中には幼少期に付けられた深い傷がある。潜っていくと必ずその傷に触れるのだ。この記憶と感情、普段は表層意識からきれいさっぱり取り除かれていて、ヒスイ自身を常に苦しめてはいないようだけれど。この辺り、人間はとてもよく出来ている。
 幼い声はもう一度、聞こえた。今度は未知のものに対する脅えの色と共に。
「だれ……?」
 不安げな彼女の声に、苦笑をもらさずにはいられなかった。気の強い人間は大抵その裏にもろさを抱え込んでいるものだが、ヒスイのもろさは卵の殻に似ている。壊れやすいくせ、妙に強靱だ。
 幼子の声には答えず、青い髪の妖魔は逆に質問をした。
「ヒスイ、いる?」
 ぴくりと大気が震える。大気そのものがヒスイの肌のようだ。自分が呼ばれたことが分かったのだろう。そこに初めて「景色」が生まれた。
 かなり距離をおいた場所に少女が立っていた。くるぶしまでを赤黒い水に浸し、簡素な白い服を着てこちらを見ている。足下の水辺は血。少女は幼少期の姿を模したヒスイ自身。白い服に血のしみはひとつもついていない。辺りは静寂を表現するような闇で覆われ、その闇に映えて白い服の色がまぶしいくらいだった。
 それはまったくヒスイそのもの。血に濡れることを厭わず、けれど決してその色に染まらず、凛として立つ。
「ああ、ヒスイだね」
 心理状態を模倣した現在でさえ翠の瞳は鮮やかで、まっすぐに見つめてくる。間違いなくこれは自分が愛した魂。傷を知らない潔癖さではない。痛みを知るがゆえに光放つ魂。少女……幼いヒスイは顔色ひとつ変えない。浅い血の池にたたずんだまま動かなかった。
 自分のことを誰かと聞いてきた。その質問に答えてはいけない。自分の正体を答えることはヒスイに自覚させることに繋がる。そして幼子の姿をした彼女に微笑みかけ、続けて尋ねた。答える代わりに問いかけたのは、自分に対する興味と不安からヒスイの意識を反らせるため。
「セイのこと、好き?」
 翠の目から警戒の色が消えた。目の前にいる青い髪の妖魔と「セイ」という存在が同一人物だとは欠片も思っていない顔だ。当然、夢見の妖魔はわざとそう仕向けている。ヒスイに悟らせるへまなどしない。だからここにいる間、自分は「セイ」ではない、と夢見の妖魔は自身に言い聞かせた。
 二度ほど瞬きをしたあと、彼女は笑顔で答える。
「好き」
 生身のヒスイからは一生聞けないだろう台詞が飛び出した。
 ヒスイが自分を嫌っていないことは知っていたものの、こうもまっすぐに答えられるとやはり嬉しくなる。が、嬉しくなったけれど、もうひとつの懸念もあって更に質問を続けた。
「……ヒスイは、お父さんとお母さんは好きかな?」
「うん、好き」
 間髪入れず返事がきた。ちびヒスイは先ほどよりもっと嬉しそうだ。ヒスイの実年齢は十八で、本人に直接尋ねたならこうもあけすけな返答はもらえなかっただろう。けれどここは深い心の底であり、しかも具象化された彼女は幼い子供の姿をとっている。そのため、心理状態は通常よりずっと単純化されているらしい。
 つまるところ、セイに向けられた「好き」という答えは単純な「好き」「嫌い」で分けた場合の回答であり、それもどちらかというと子供が父親や母親に対して抱く「好き」とほとんど変わりないということだろうか。
 嫌われるよりましかもしれないが、恋敵が生まれた現在としてはやや不満が残る本音だ。
 もうひとつ尋ねなければいけないことがある。夢見の妖魔は自分の意見をひとまず隠して、微笑んだまま最後の問いに移った。
「じゃ、コゥイのこと好き?」
 ちびヒスイはまた、翠の瞳をしばたたかせた。
 ややうつむきかげんになり視線をそらす。頬こそ染めていなかったものの口元にかすかに笑みを浮かべて。
「えっと……好き……」
 それまでの単純なる返答に比べ、恥じらいというおまけつきで答えが返ってきた。あきらかな差。この場所がヒスイの心の中で、自分が下手に感情を爆発させるとヒスイの精神に悪影響があるという自覚がなければ、夢見の妖魔はこの場で盛大に暴れ出していたかもしれない。
 すると、急いで追加がなされた。
「でもセイも好きだよ」
 今度は青い髪の妖魔が目を瞬く番だった。ここにいる自分がセイ本人だとは気づいていないはずだ。なのに、ヒスイはそういう。ヒスイの瞳はどこまでも澄み切った翠玉の泉。どこまでも純化した魂の色を映した色。ただ、その色はあまりにも純粋すぎて本能が付随する肉欲とは無縁に思えた。
「二人とも好き。でも、どっちかを選べといわれたら、どちらも選ばない。迷うくらいなら両方いらない」
 さらりと吐かれた言葉はなかなか切ない。あの船の上で確かにヒスイはどちらも選ばないといった。それはこういう意味だったのか。
「……ヒスイは、それでいいの?」
 ここにいる間は質問しかしないと夢見の妖魔は決めていた。ここで漏らす迂闊な一言がヒスイの精神に悪影響を与えるかもしれない。精神を操る妖魔にはなにかと制約が多いのだ。
 向けられた一言に、ちびヒスイは口をへの字に曲げた。いいはずがない。それでも寂しいのを我慢しているのが分かる表情で、彼女は頷く。その仕草は己に対して無理に納得させようとしているように見えた。
「あのね。セイの側は泣ける場所なの。普段は私の下にいて、殴っても蹴飛ばしても甘受してくれるけど本当のセイはうんと大きいの。だからつい甘えてしまうし、ずっとずっと一緒にいてほしいとも思う。そうしたらまた元気が出てきて、私は一番私らしい私でいられる」
 ヒスイの一言と連動して世界が青に染まった。
 頭の上には青い空、足下と周囲はどこまでも広がる海。ただしそれは南の海で見た原色のそれではなく、もっと淡色めいた優しい色だ。風の匂いは潮風のそれではなくなぜか草原をわたる草の匂いがする。深層心理の中だから現実世界との整合性がないのはある種、当然だ。ただ、それでもヒスイの足下にある血の浅瀬は消えることはなかった。
「コゥイはね、少しだけ私の前にいるの。背中を見てるのはちょっと寂しいけど、追いつきたくて頑張れる。コゥイの側にいる私は笑ってるんだって。でもコゥイと一緒にいると、私は私らしくいられない。自制が利かなくなるのが恋なら、多分これがそうなんだと思う。……でも私はそれがいやだった」
 翠の瞳がほんの少しきつい色を帯びる。思うようにいかない自分自身にいらだっている顔だ。周囲の景色は色を変えた。空も海も赤みを帯びる。風の匂いはやっと潮風のそれになった。
 ヒスイの遅い初恋は、どんな望みもかなえてくれて何でもいうことを聞いてくれる都合のいい男ではなく、自分が一緒に肩を並べていきたい男。ヒスイらしいといえばヒスイらしい。だからそれ故に相手はセイではいけなかった。けれど相手役として全く必要とされていないわけでもないらしい。
「どちらか一人じゃ駄目? どちらもヒスイのこと愛してくれるよ?」
 夢見の妖魔の一言に、ちびヒスイはその見た目に似合わないくすんだ笑みを浮かべた。周囲の景色もいっそうくすむ。暗い灰色へと変化し、反対に彼女の足下の血は鮮やかさを増した。水面が波打ち、ヒスイを中心として同心円の波形を描く。翠の瞳さえ暗い影が落ちた。
 わずかに間をおいて彼女は唇を開く。
「教えてよ。どうして、女を一番深く傷つける方法と一番深く愛する方法、同じなの?」
 周囲が再び闇に満ちた。
 しまった、と思ったがもう遅かった。
 深層心理に深く潜りすぎた。ヒスイの痛みが血の浅瀬から浮かび上がってくる。闇の色と血の赤だけで塗りつぶされた忌まわしい記憶。心の深淵に沈めたはずの傷だ。それが再び、かさぶたの下からじくじくと痛みを帯びてくる。
「――駄目だ、ヒスイ」
 ちびヒスイはそこに立ちつくしている。記憶の底から感触が蘇る。目隠しをされていても分かった、触れてくる複数の大きな手。自分を殴り、自分をまさぐり、自分の首を絞めた。
「駄目だ!」
 殴られた。壁に頭をぶつけた。鼻から血を流した。死ぬかと思った。痛み、恐怖、聞こえてくる低い嬌声。
「駄目だ、ヒスイ。思い出さなくていい!」
 壊れる。壊される。誰も助けてくれない。汗の臭いと男の肌の臭いと知らない臭い。腹の底からあがってくる吐き気。体の中央を貫通する痛みと異物感。血の匂い。
 ここにいるのは人にあらず。ここにあるのは彼らのおもちゃ。
 壊れたおもちゃ。
 誰も、助けてくれない。
 ――誰ガ シンデ タマルモノカ
 ワタシヲ傷付ケルモノ
 オ前達ガ シネバ イイ

 どんな言葉で語られるより生々しい、記憶と感情の集合体。トーラの星見の力が客観的に物事を見るのに対し、夢見の力は物事を主観的に「見る」。だから当時のヒスイが感じた一切をまるで自分自身の体に起こった出来事のように感じることができた。受けた精神的な苦痛もそのままに。
「ヒスイ! 大丈夫だ、お前にはセイがいる。彼はお前をそんな風に扱わない!」
 ちびヒスイの足下で盛大にゆらめいていた血だまりはやっとその動きを止めた。離れたところに立っていたはずの彼女は、いつの間にか夢見の妖魔のすぐ足下に立っている。日頃の気丈さを感じさせないほど傷ついた瞳でこちらを見上げていた。
「……知ってるよ。セイが優しいの、知ってる。だけど体の中に入ってこられるのは……まだ怖いよ」
 彼女の表情がゆがんだ。目尻には光るものまである。
 触れられることに安心感を覚える一方、極度に嫌悪してしまう。ひとつの行動に対して矛盾するふたつの思い。どちらかが間違っているわけでもない。どちらも正しい。ゆえに堂々巡り。舌打ちしたい気分だった。これがあるからヒスイは男に触れられることを徹底して厭う。この感情の奔流に比べれば、起きているときの素っ気ない態度など可愛いものだ。見ているこちらが先に苦しくなる。
「好きな男が出来たならもう少しましだと思ったんだけどな……。コゥイは、ヒスイに無理強いしたのか?」
 だとしたら絶対に許さない。ヒスイがどれほど許そうが自分が手を下してやる。と、思っていたらヒスイは急に、きょとんと夢見の妖魔を見つめた。
「何もされてないよ?」
 もしもこの台詞を聞いたのが現実世界なら顎がはずれていたかもしれない。
「セイは勘違いしたみたいだね。でも、わざわざ教えて喜ばせてあげる義理なんてないし」
 このあたりの性格はしっかりヒスイだった。妙なところで意地悪だ。さっきまでべそをかいていた少女はもうにっこり笑っている。
「コゥイは好きだけど信頼してるのはセイのほう。誰も殺さないって五十年も前の約束、守っててくれたよ。セイは絶対、私が本気でいやがることしないの」
 現実世界では決して聞けない台詞、再びである。
 が、この台詞にはかなりぐさりと来るものがあった。ヒスイは自分の心を覗かれることが嫌いだ。セイにその能力があると知ったあとでも普通に接してくれるのは、決してそこまで踏み込んでこないという信頼の裏返しでもある。
 まずい。
 今やっていることがばれたら、縁を切られるぐらいでは済まない。本気で殺意を抱かれかねない。全てが水の泡だ。

 夢見の妖魔は急いでその場から離脱した。

+感想フォームを利用してくれる?+(作者が喜びます)
[<<前]
[次>>>]
[目次]
翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada