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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第五節第四項(114)

 4.

 ――どれくらいそうしていただろう。
 さて、昔から妙に切り替えが早いのがヒスイの長所であり欠点である。人の肩を借りて涙を流し尽くすとヒスイの気分も持ち直してきた。一度落ち込んだ気鬱は、あとはもう上昇するだけである。
「……降りる。降ろせ」
 きっぱりした声。
 すぐに返事がかえってくるかと思いきや、意外に長い沈黙が流れた。やっとセイの口からつぶやかれた言葉は。
「短い役得でした……」
 ため息と同時に切ない声が漏れ出た。
 どういう意味だ、とヒスイは眉間にしわを作って顔を上げる。随分泣いたからヒスイの目は赤くなっていた。泣いた後の顔ほど不細工なものはないのだがヒスイは手で涙をぬぐいさるとほとんどいつもと変わらぬ表情でセイを見る。
「つまんなーい。もうちょっと甘えて、オレに寄りかかってて欲しいのに。ヒスイってばいつも自力で立ち直ってオレのこと置いていくんだもん」
「そういう女を期待するなら余所へ行くんだな」
「あッ、ごめんなさい、嘘です! オレはヒスイがいいの、余所の女は一晩限りのおかずでいいの。ずーっと欲しいのはヒスイさんだけです、はい」
 ここでヒスイを手放してなるかとセイの声は必死だ。なんだかさらりと女の敵のような発言を聞いた気がするが、ひとまずこのまま流すことにする。ここで下手に突っ込んで「だってオレはヒスイ以外なんてどうでもいいもの」とばかりに返ってくる鬼畜な台詞を聞くのも、それはそれで怖い。
「ヒスイ、好きだよ」
 今度は先ほどとは逆に、セイがヒスイの首筋に顔を埋めて鼻先ですりよる。離れていた年月を欠片も思わせない。ここにいてもいいのだと。
 甘えてくる彼をヒスイは猫の子にするように首根っこを掴んで、ひっぺがした。
「セイ。……人の話を聞いていたか? 私は『降ろせ』といったんだが」
「……あう」
 これ以上の悪ふざけはまずいと本能的に知っているのだろう。ようやく離れる気になったようだ。それでもまだ名残惜しそうに、セイは抱き上げたままだったヒスイの体をおろす。
 着地した瞬間、足に激痛が走った。
 うっかりねんざしたほうの足に体重をかけて降りてしまったのだ。おさまっていた足の痛みはそれをきっかけにまたうずき始めた。つくづく面倒なときに面倒な怪我をしたものだ。
「ヒスイ?」
 どうかしたのかとセイの声。ヒスイは足が痛んだとき大仰に顔をしかめたりはしなかった。誰も気づかなくてもおかしくはないはずなのにセイは何かあったのかと聞いてくる。どうしてほとんど顔色の変わらない自分からちょっとした変化をいつも読みとれるのか、性格的に他者の細やかなところに配慮が行き届かないヒスイは不思議で仕方ない。
「いや……ちょっとねんざが……」
「ねんざ!?」
 一度おろされたのにまたあっさりとすくい上げられてしまった。
「どっちの足? あの野郎のせい? 絶対、あの野郎のせいだね?」
 口調こそ疑問形だが表情は始めから「あの野郎のせいだ」と断定している。ヒスイを抱き上げた格好でつかつかと何もない暗闇の中を歩いていったと思うと、そこに何かあるようにヒスイを暗闇の上に腰掛けさせた。何もない中空に放り出されるかと身構えたが、予想に反して柔らかく弾力のある何かがヒスイの体を受け止める。
「何だ、これ……椅子……?」
 肌触りは絹のように滑らかな、しかもかなり幅の広いだろう尻の下のそれはソファのようにも思えた。あいにくとその形はヒスイの目には映らない。
「ここは夢見の空間の中だからね。オレが望むようにいくらでも作り替えられるの」
 こんな風にね、とセイは闇の中に手をやると、そこから存在していたはずのない赤い革張りの椅子を取り出してきた。ヒスイの体をあずけるそれは全貌が見えないのに、セイが取り出したそれははっきりと赤い椅子として目に映る。その椅子に腰掛けて彼はヒスイの足を持ち上げた。
「どっち? 右? 左?」
「あ……左の足首……。手首はちょうど右をやったから、利き手利き足を同時に怪我してしてしまって……」
「手も……?」
 持ち上がったセイの顔が怒っていた。どうして怒るのだろう、とヒスイは不思議にさえ思ってしまう。首をひねりながら怪我したほうの手を見せた。右の手首には青黒いあざが指の形で残っている。残されたあざはどうみてもヒスイより大きな手の持ち主で、かなり強い力がこめられたことを物語っていた。それを見るなりセイは低くうなったかと思うと、いきなり大声を張り上げる。
「あんの赤目野郎がぁッ。よりによってヒスイに二ヶ所も怪我させやがってぇぇぇえええ!」
「いや、あの、これは私が自分の不注意でこさえた怪我で……」
 たしかにそれは間違っていない。助けてくれたはずのコゥイと最悪な目覚めのあげくに顔をつきあわせ、無謀にも斬りかかって作った怪我だ。しかしセイは青い目をつり上げてヒスイは悪くないと言い切った。
「足はともかく、不注意でこんな指のあざがつくまで握りつぶされることなんかないでしょ!? 一体、何やってたのさ!!」
 何、といわれても困る。ヒスイはその勢いに気圧されながらも正直に――ヒスイにしてみればそれ以上の意味などないのだから――答えた。
「……いや、ちょっとばかり裸で取っ組み合いを……」
 セイが石化した。
 間違ってはいないのだ。剣と素手でやりあって、そのとき防具どころか服さえ着てなくて、自業自得でねんざをしたあげくコゥイに手首をつかまれ、これまた自業自得の怪我をして。あれは喧嘩とか戦いというより、取っ組み合いのあげく負けたとしかいいようがない。ヒスイにしてみればただそれだけのこと。この場合、ヒスイの言葉が足りないのがさらに災いした。
「セイ?」
 ヒスイが首を傾げる。セイの口からは抑揚のない言葉……いや、単語を機械的に組み合わせた確認事項が淡々と繰り出される。
「ヒスイさん。……念のために聞くけど。取っ組み合いって、本当になんにも着ないでやってた……?」
「まぁな。いわせるな」
 体を隠して片手で戦うには敗北必須の相手だったのだ。両手で戦っても結局は負けたのだが。
「さらに聞くけど……あの野郎の、足の間のあれ、見た?」
「……いわせるな」
 向こうは隻腕であった上に、残された右腕には武器を持っていなかった。腕が使えないなら足を使うとばかりに蹴り技で障害物をぶつけられたのだ。別段見たくもなかったが、見えてしまった物はしょうがない。ヒスイにしてみても、いまさら恥じらって赤面しながら顔をそむけるような純情娘でもない。
 セイは固まったままだった。
 長く長く固まったままだった。
「……? セイ?」
 ヒスイの、ねんざしたほうの足首を持ったまま、彼はしつこく動きを止めたままだった。何も見えていないのかとヒスイは青い目の前で手を振ってみる。焦点は合っていなかった。石化したセイにとどめの一撃を加えたことなどヒスイが気づいていたはずがない。
「どうした、お前?」
 彼の手から自分の足を取り戻して、何も映していないセイの目をのぞき込む。反応はない。本当に何も見えてないらしい。人間が……いや、彼は妖魔だが、こういう状態になっているのを初めてみた。ヒスイの腰掛けていた椅子が大きくきしむ。椅子というよりも敷布をしいた大きな寝台のようにも思えた。
「……おい。帰ってこい」
 ぴたぴたと反応のないセイの頬を叩く。彼の頭の中でいったいどんな情景が想像されているのかヒスイは考えもしない。どうしたものだろう、と思っていると、ヒスイの目の前で無表情の青い瞳からみるみるうちに水が盛り上がりはじめた。
 ぎょっとする。
 ヒスイが一瞬身を引くと、それにあわせてセイが飛びついてくる。図体ばかり大きくなった猫に突然飛びかかられた気分だった。
 椅子から転げ落ちるかと思いきや、体の下のそれは存外に大きく、二人分の体重をしっかりと受け止め支えた。椅子ではなく大きな寝台だったようである。いや、いくらでも作り替えられるといっていたからつい先刻、ソファから寝台へ作り替えたのかもしれない。
 この体勢は二度目だな、と頭の中では冷静に考えながら、口では怒鳴っていた。
「こら待て! 泣けば抱きついても許されると思ってるのか!」
 セイはそれに答えなかった。べそをかきながらしっかりとヒスイを抱きしめる。そもそもこのセイに、涙というものが存在していた自体、信じられない。ヒスイは困惑しながら、ただただ眉根を寄せる。
 だがここで「なんで泣いてるんだ?」とは、聞いてはいけない気がした。仮にヒスイがそう尋ねればセイはさらに奈落に突き落とされたこと確定だったので、これは間違っていない選択だったのだが……。
「離れろ、セイ! こら。おい!」
「……に」
 ぼそりとつぶやかれた言葉はヒスイの耳には明瞭な音として聞こえなかった。
「……何だって?」
 今度の音はもっとはっきりと。
「オレでさえヒスイの裸なんか見たことなかったのにぃ……」
 切なげにもらす声。声の調子はともかく台詞の内容にヒスイはまた眉間にしわを作ることになる。そんな事どうでもいいじゃないか、というのがヒスイの感想。だけどセイはしっかりとヒスイを抱え込んで放してくれない。
 ひとつ息を吐いて、ヒスイはぽんと彼の頭に手をやる。
 いきなり飛びついてきたと思えば、それでもヒスイの怪我した足と手には負担をかけない気遣いが彼らしい。処置が遅れたがきちんと冷やせばヒスイのねんざもすぐに治るだろう。怪我といってもその程度のことで……だからセイが角を出すほどのことでもないのに、と少々はずれたことを考える。
「……。すんだことだ。別にいいじゃないか」
 終わったことにするにはコゥイの印象はまだまだ生々しかったのだけれど、落ち込んでいるらしいセイを浮上させるためにわざと軽めの物言いをしてみる。されど誤解したセイの耳には別の響きに聞こえてしまった。
「何をすませたって? オレでさえヒスイの裸、見たことないのに。オレのさえ見せたことないのに!」
 セイの頭が持ち上がる。だんだん何か誤解をしていることが分かってきたものの、わざわざ否定して喜ばせてやる義理もない。どういうわけかセイはコゥイを目の敵にしているらしい。そりゃあ、目の前で派手な恋敵宣言などをやってくれた相手を敵視するなという方が無理かもしれないが……。
 セイが懸命になればなるほど、ヒスイの心の中のどこかは静かになっていく。自分が一番自分らしい状態でいられる。ヒスイはそれに気づき、我知らず微笑んでいた。
「何、思い出し笑いなんかしてるの」
 今度眉間にしわを作ったのはセイの方。不信感というよりはとまどっているような。そんなセイの表情が面白くて、彼の頭にやった手で合図するように二度軽く叩いた。
 自分が一番自分らしくいられるのが嬉しい。
「ヒスイ?」
「おとなしくしてろ」
 聞き分けのない子供をあやすような口調で返事をした。ヒスイの手はセイの後頭部に添えられたまま。翠の瞳に怒りの色はない。セイが瞬きをひとつする。一拍の間をおいて、まるで頭を押さえつけられでもしたかのように彼の上半身はヒスイの上に落ちた。けれど彼の後頭部にあるヒスイの手は動いていない。セイの顔はちょうどヒスイの首筋あたりに埋まるようにあって、青空よりも澄み切った深い青の瞳が至近距離で顔をのぞき込んできた。
 一番近くにいる存在。
 今後も、一番近くにいるだろう存在。
 それが多分ヒスイの、セイに対する認識で。セイがヒスイに対して望んでいるのは側に居続けること。それも一番側にいること。ヒスイはセイにそれ以上を求めていないしセイもそれを甘受してくれるので、逆に言えば、それ以上の感情には発展しづらいのだ。
「今日は……色々ありすぎて疲れたから。もう寝てしまおう」
「えっ。寝るって……寝ていいの!?」
 どういう意味だ、と突っ込まずともその台詞の意図は明白だったが、ヒスイはあえて無視した。セイに絡めていた腕をはずして毛布を引き寄せる。さすがに夢見の空間だけあって、さきほどまでそこに「なかった」毛布は、「ある」と思ってまさぐったヒスイの手にしっかり握られていた。
「じゃ、おやすみ」
 目を閉じる前にもう一度しっかり青い目と視線を交わらせる。おやすみという言葉の意味を、視線でわざと強調した上で。ヒスイの首筋に沿うように落ちたセイの頭がまた上がる。顔がひきつっていた。
「ひ……ヒスイさん……?」
 上等の毛織物を想像しながら手にした毛布を被る。体の上にまだセイが居座っていたが毛布はどうしたものか、しっかりセイとヒスイを隔てて、ヒスイの体の上だけを覆った。
 セイのとまどいなどなんのその。寝付きのいいヒスイは目をつむると、そのまま深い眠りの淵に落ちた。

   *

「ヒスイの鬼。……よりによって、この体勢で熟睡するか……?」
 胸の下にヒスイの体を組み敷きながら、ぼそりとつぶやかれた言葉は闇の中に吸い込まれて誰の耳を振るわせることはなかった。規則正しい寝息は、わざわざその口元に耳をやらなくても重ねた体の下で感じることが出来る。これで狸寝入りあたりでもしていてくれればまだセイにとっても救いようがあったものを。
「ヒースーイ。ホントに寝てるの? 信頼されてるのは……ま、一応嬉しいけれど……。あんまり油断してると喰っちゃうぞ?」
 挑発的な台詞に、それでもヒスイの規則正しい寝息は乱れることはない。本当に眠っている。
 セイはヒスイの体の上から退き、かわりにその横に陣取って添い寝の体勢に持ってきた。重石がなくなって呼吸がずっと楽になったのだろう。十分な酸素が肺に行き渡るのを示しているかのように胸が膨らんで、呼吸に合わせてまた深く沈んだ。
「好きだよ、ヒスイ」
 五十年ぶりの眠り姫。
 伏せられた黒いまつげはまっすぐで、呼吸を楽にするためかすかに開かれた唇は透明な桃色で。吸い付けばどれほど甘いか知っている。けれどそれ以上は知らない。上気した肌の熱さも蜜の味も、腕の中でどんな声で鳴くのかも。
「男として見られてないのかねぇ? 昔はそれでもいいと思ってたんだけどね」
 そう、昔は。側にいるだけで十分で、いつか彼女が別の男を愛することがあっても耐えられると。今は、ヒスイの心にあの男が棲むのだけは許せない。他の誰でもない、あの男だけは。
 ヒスイの曖昧な物言いによって完璧に誤解――すなわち、ヒスイがすでに食べられたあとであると――をしているセイは、このとき少しばかり平常心を欠いていた。
「愛しいヒスイ。そうやって無垢なふりをしていれば、オレは絶対にヒスイに触れないとでも思ってる……?」
 耳元で囁かれた台詞に、ヒスイはそれでも目覚めなかった。
 寝息を紡ぐ半開きの唇をセイの指がなぞる。それに反応したか、触られることを厭うように鼻にかかった声がヒスイから漏れた。青い瞳はつい小さく微笑む。このまま唇に唇を沿わせたら後で鉄拳が飛んでくるだろうな、と。
 
 セイは人ではないから、人ほど体に執着しない。それよりも欲しいのは記憶と心とその魂。
「ようはばれなきゃいいんだ、ばれなきゃ」
 と、本人が聞いたら怒髪天を衝く台詞をさらりと吐いて、ヒスイの体を毛布ごと抱きしめ目を閉じた。
 これからしようとしていることが、ヒスイにばれたら本気で縁を切られる。ヒスイは体に触られるのも厭うけれど、それ以上に自分の心に触れられるのを嫌うから。人は誰も心だけは自分の領域だと信じている。それはたしかに人の理屈にかなうのだけれど、妖魔の理屈からいわせてもらえば違うというだけで。
 夢見に許された能力を発揮してヒスイの中に潜る。深く、深く、赤裸々なところまで。深層心理と呼ばれる底まで。
 ほんの少しの、隠された本音を聞くために。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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