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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第五節第三項(113)

 3.

 沈黙。
 あまりにあっけにとられすぎて、ヒスイはまばたきすら忘れ目の前の男を見つめた。

 おもむろにその頬に手を伸ばし、むにゅっと引っ張ってみる。
「ひ、ひふひひゃん?」
「……本物、だよな」
 思わずそう確かめてしまいたくなるほどに、彼の発言は耳を疑うものだった。
「熱でもあるのか?」
 彼の額に手を滑り込ませる。自分のそれと比べても、さほど体温に差があるとは思えない。やっぱりおかしい。
「ヒスイ、熱を計るんならおでこより、ちゅーして口内温度で計ろうよ。ね?」
「……やっぱりセイだよな。間違いない」
 非常に不愉快なことではあるのだが、この手の言動を繰り返してこそのセイだ。納得すると同時に手はセイの頭を平手ではたいていた。だが、この男の口から先ほどはっきりと出た言葉はその基準で行くとちっともセイらしくない。
 痛いなぁ、と苦笑しつつセイは笑っている。いつもどおりにしか見えない。
 そう思っていたら、セイは青い目でじっとヒスイを見つめ、やっぱりまた同じ台詞を紡いだのだった。
「あいつと一緒にいなくてもよかった? 捨てて行っちゃって、よかったの?」
 真面目な顔だ。皮肉をいっているのでもない。ヒスイはただただ当惑するしかできなかった。その視線を受けてセイが小首を傾げる。
「もしかして、オレがこーいうことをいうのが変?」
「……変、だ。どうした……?」
 セイという性格を一言であらわすなら、ヒスイ以外には傲岸不遜。誰に聞いてもそう答えるだろう。他の者のことを思いやったりする男とは思えないし、事実、ヒスイに向ける気配りの欠片すら思いやらない男だった。なのになぜセイは今頃こんなことをいうのだろう。さんざん求めてやまなかった相手が五十年の歳月を経て、やっと自分の手元に戻ったというのに。
「だってね、ヒスイ? ヒスイに不埒を働いて、それで平手一発で済んだ男なんて、オレ、あいつの他に知らないもの」
 小さく微笑む。
 いつもの明るいだけの顔とはどこか違う。なんとなくもの悲しい雰囲気をも含んでいた。
「普通ならね、ヒスイに殺されてもおかしくなかったよ。なのに平手一発でヒスイさんてば気がすんだかのように笑ったんだ。オレの腕の中にいて、それであいつに『また会おう』っていった。それって、ヒスイはあーいうことされたのに『また会ってもいい』と思える程度に、あの野郎のこと好きだったってことでしょう」
 セイは夢を司る妖魔。しかも大好きなヒスイの精神状態なら、どれほど長い時間離れていたって分からないはずがない。
「オレはね、ヒスイが幸せだったらいいの。ヒスイの幸せのためなら、ちょっぴりなら我慢できるからさ」
「本当か……?」
 実に疑わしかったので、ヒスイは台詞の途中で思わず口を挟んでしまった。
 くすくすとセイは笑う。笑みの意味は肯定のようでもあり否定のようでもあり。はっきりとした答えは出さずわざとぼかして、見る側の立場……ヒスイの心ひとつで、白にも黒にも見えるような淡泊な笑顔だった。
「そうだね、ごめん。やっぱり自信ないかも。でもヒスイの幸せを望んでるのは本当だよ。ちょーっと目を離した隙にあんなのに取り込まれてるとは思わなかったけどね」
 微笑みを少しだけ深くして、セイは腕の中のヒスイをさらに引き寄せ頬ずりをする。やめろ、とヒスイがいう前にセイは再び体を放してヒスイの翠の瞳を見つめてきた。
「ここなら誰も聞いてないよ? 本当のこと、いっていいからね?」
 と。
 誰も聞いてないとはよくいったものだった。目の前にセイがいる。それ以外は確かに、ヒスイとセイ以外は誰もいない、どこまでも続く荒涼とした暗闇。なんとなくヒスイが時間移動に使っていた空間に似ている。それとも、この場をわざとそういうような形にしてくれているのだろうか。セイにはそれだけの力がある。
 ヒスイは無言でセイを見つめ続けた。
 霧の谷が炎上したのは、ヒスイの感覚では一週間も経っていない、つい最近のことのはずである。それなのに色んなことが一度にあって、なんだかすごく遠くなった気がしていた。実際の時間からすると五十年も経っているというのだから本当に遠い昔のことなのだけれど。信じていなかったわけではないけれど、よく今まで自分を待っていたな、と思う。それほどに長い時間。
 ヒスイはもう一度、セイの頬を引っ張った。
「ひふひ……?」
「……よく伸びるな」
「おもひゃとひひゃうっへば」
 おもちゃと違うってば、と抗議の声。
 セイの笑顔はいつでもヒスイを安心させてくれる。安心してもいいのだと、思わせてくれる。
 そう自覚すると急に肩の力が抜けた。
「そうだな。……いいんだ、これで」
 置いていってよかったのかとセイは問うた。
 その問いに答えるとしたら自分は迷わず首を縦に振る。
「どうして?」
 セイが先を促す。言葉の足りないヒスイから、なんとか思いを言葉に代えて引き出そうとしてくれているようだ。心の中に描くものはとても曖昧で、それが文字にしろ言葉にしろ第三者にわかりやすく説明することで物事の本質が見えてくる。セイはその作業を手助けしてくれているのだ。どういえばいいのか分からなくて唇をしめらせた。
「好きだから離れるの?」
 セイの声は絶対にヒスイを責めない。責めないから、追いつめることもしない。コゥイに対する相談は、少なくともセイにだけはすることがないだろうと思っていたからヒスイはどうも奇妙な違和感を覚える。苦笑しながら答えた。
「好きだから離れるとか……そういうわけではなくて……」
 また会えたらそれでもいい、とは思う。どこかでまた会いたいとも思っている。
「あいつの欲しい物は多分、私と同じだ。でも私はそれを持っていないから、あげることはできない。また、あいつも私の欲しい物をくれない。自分が持っていないから」
 奇しくもレイガがいったその言葉を、ヒスイは自分の口から紡ぎだした。
 セイが首をかしげる。セイの仕草はいつもどこか道化ている。愛玩動物が不思議そうに見上げてくるような仕草に見えた。
「欲しいものは何? ヒスイは何が欲しい? あの野郎は、何をヒスイに求めてるの?」
「……無条件に愛してくれる誰か、だろうな……」
 それがヒスイが感じた、コゥイが求めているもの。
「いっそレイガが本物の女ならよかったのに。そうすれば、コゥイはやっと欲しい物が得られるんだ。あの小さな島で自己完結していられたのに」
 願いはそううまくは叶わない。男であるがゆえにレイガはコゥイの永遠の安らぎにはなりえない。コゥイが自分を望む理由は分からないけれど、見いだした果てのヒスイにその安らぎを求めてもなんの不思議もない。
 そしてヒスイの望みが彼と全く同じとは限らない。それでも、とても近い気がした。ヒスイの抱いているものは漠然としすぎていて、何が、という具体性がそこにはない。セイなら……心を覗くことの出来るセイならばヒスイの意図をはっきりと「感じて」くれるのだろうが、ヒスイはそこに踏み込むことを許してはいなかった。
 心の中を覗かせることを許さないなら、セイの問いには言葉で説明しなければならない。人間に説明するように。自分の前ではあくまで人間のふりを続けようとしてくれている夢見の妖魔に心から感謝した。
「はっきりとしたものはよく分からないけれど……コゥイは、心の中にぽっかりと空いた空洞を抱えてる。そんな気がする。私も多分、同じような空洞を心の底に抱え込んでいるんだ。いかに強くあろうとしても根のない大木のようなものだ。根本はどうしてももろくなる」
 寂しいと、その空洞は訴えている。空洞がどこから来ているものなのか、何が原因なのか、ヒスイにはまだ分かっていない。けれどその空洞を埋めたがっていることは確かだ。自分も、コゥイも。
「私たちは同じ匂いを知っている。同じ空虚を抱えているから、相手の空虚が誰よりもよく分かる。だからそれに惹かれあった」
 コゥイは、二人でいればそれが埋まるといった。
 ――寂しさと空虚と、渇望と。いつも何かに渇えていた。潤す何かを求めていた。
「……好きだった?」
 端的な言葉になおすセイの声。先ほどからさりげなく過去形で問われていることにヒスイは気づかない。後ろめたいことがないからヒスイはまっすぐに彼の目を見て答える。
「先にお前と出会ってなければ、そのまま居着いてもいいと思う程度には、な」
 微笑する。
 彼なら、共にいてもいいと思った。価値観の合う相手というのは側にいて随分と楽だ。ヒスイはもともと他者に細やかな気配りができるほうではないし、その分だけ周囲に気を使って神経をすり減らすことも少ないのだが、それでも気の合わない人間といるとストレスがたまるのは誰しも同じ。霧の谷にいた頃がいい例だった。どこにいても異邦人という感覚がつきまとうのは、育った世界にいたときも同じだったかもしれない。
 コゥイは同じ物を見ているし、同じ事を感じている。男と女の差異はあれど基本的な価値観が似ているのだ。同じような性格であるということは気が合うときはこれ以上なく付き合いやすい相手ではあるが、一度喧嘩でも始めればとことんまでやりこめて決裂するだろう。そういう危うさも抱え込んでいた。
 もしも先にセイと出会っていなかったらコゥイと共に居続けたかもしれない。同じ褥(しとね)で東雲を待ち、共に船に乗って、共に戦って。多分コゥイなら誰よりもヒスイをヒスイらしいままでいさせてくれただろう。けれどどうしても決められなかった。
 結局、ヒスイはセイの手も放したくはなかったのだ。
「それって、オレがいたから、迷ってくれたってこと?」
 だとしたら嬉しいな、とセイは笑った。その顔だけを見るなら本当に怒っていないようにみえる。けれどヒスイは自分がどれほど傲慢なことをいっているか……セイにひどいことをいっているのか自覚がないわけではないのだ。セイを一緒に連れて行けないからコゥイの手を放した。けれど、それがセイを選んだということにはならない。ヒスイはセイを選ぶことも拒んでいる。いっそどちらかがさっさと自分を諦めてくれればいいと虫のいいことを考えているのだ。残酷な真実。甘やかな嘘をつけるだけの器用さがヒスイにあればもう少しましだっただろうか。
「……ごめん。大事にしてくれているのは知ってる。だけど、私はお前のことを好きだといえる自信はない。それでも?」
 分かり切った答えをヒスイは改めて聞いてみた。それでも、まだお前は私を好きだと言い続けるのかと。
 もちろん青い目の男はヒスイが予想したとおりの答えを返したのだった。
「当然だよ。ヒスイに愛されたいわけじゃないの、オレがヒスイのこと愛してんの。ヒスイが別の人間を愛そうがオレがヒスイを諦めるなんて死んでもありえないね。オレの憤りはヒスイじゃなくて相手の男に向かって当たり散らされることになるんだよっ」
「……やめんか」
 本当にやりそうなのでヒスイは軽く脱力する。
 セイは悲壮感のまるでない表情で、いつもと変わらぬ明るい声をあげた。
「愛してるよ」
 何度も聞き慣れた言葉。赤い髪のときはいつもおちゃらけた声音で。青い髪のときに語られた同じ台詞はもう少ししんみりした感じだった。
「ヒスイはね、オレのこと嫌いっていったことないんだよ」
 嬉しそうな声でそういった。
「ヒスイは聞いてきたことないけれど、女の人は絶対『私のどこが好きなの、どこを好きになったの』って付き合った男に聞くんだよね。それってね、自信を持ちたいからだと思うんだな」
「……」
「この人は自分のどこに魅力を感じてくれたんだろう、って知りたいんだ、女の人は。自分に劣等感を抱いてるときなんか顕著だよね。それで、自分のことを愛してくれる人が『こーいうところが好きだよ』っていってくれることで自信回復してるんだ。自分はまだまだ捨てたもんじゃないぞと思うんだね。あとは、『こんな些細なところをこの人は見てくれている、そんな男に愛されてるんだ』って思うとか」
 それはちょっと違うんだけどね、と内緒事をいうときの嬉しそうな声音でセイは続けた。
「男にとっては『どこが好き』じゃないんだよ。きっかけなんてどうでもいいの。空気みたいな存在になっても、我が儘に振り回されても、それでも文句いいながらも一緒にいるのはなんの理由もなく一緒にいたいからなんだよ」
 にこにこと笑うセイ。ヒスイはその彼の頬にそっと触れた。
「え、と……つまり?」
「ヒスイさんはね。オレに『自分のどこが好き?』なんて聞かなくても、ちゃんと自分に自信を持ってるんだよ。無意識にね。だからヒスイ、もっと自覚して」
「……」
「それともうひとつ。オレはね、ヒスイさえ側にいればいいの。ヒスイがどこにいても一人になんかさせない。ちゃんと追いかけて、側にいるから。だからずっと側にいさせて。ね?」
 セイの声音は優しくて。
 その言葉は切なくて。緊張の糸がゆるんだこともあって、その言葉は思った以上に素直にヒスイの中に染み込んでいった。体の中に言葉が波紋のように広がっていって、それがあふれて、目元からこぼれそうになる。
「……ごめん」
 それ以上青い瞳を正視していられなくなって、セイの首元に顔をうずめた。
 愛されてるのは分かっている。この男を好きになれたらよかったのかもしれない。それでも、ヒスイはただ謝るしかできない。
「やだなぁ、ヒスイってば。オレ、何かヒスイに謝られるようなことしたっけ? オレの感情はオレのもの。ヒスイに頭さげさせるなんて、まるで自分が犯罪をしたような気分になるじゃない。はいはい、謝るのはもうなしだよ、ヒスイ?」
 泣き声はあげなかった。
 声を殺して静かに涙をこぼし続ける。
 その間セイの手はずっとヒスイの背に触れ続けた。まるで幼子をあやすように。セイがまとう空気はあくまでも軽やか。深刻さがないから、その分、重くなったヒスイの心にさらなる負担を与えることはない。いつだってこの男はヒスイに優しい。信じられないくらい、ヒスイにだけ優しい。
 それまで霧の谷滅亡やら親しい人との離別やら時間移動の放浪やら……つまりは本人の気づかないうちに心は負担をためこんでいたらしい。見慣れたセイの顔を見てほっとしたのもあるだろう。ヒスイはただ涙を流し続けた。次から次へとあふれる気持ちは涙に変化して、とどまることを知らぬように。
 そしてセイは何もいわなかった。ただそこにいてくれた。

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