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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第五節第二項(112)

 2.

 占いや予言というものは、得てして忘れた頃に思い出すものである。

 ――あなたの体、いまから数えてうんと未来にあるわ。そう……今、生まれた人間の子供が大人になって、また子供をこさえているくらいには――
 星見の妖魔はそういって藤色の瞳を閃かせていた。夢の中で再会したときに。
 最初から手がかりはすべてヒスイに与えられていた。トーラはそのための布石。あのときすでに十年以上経過しているといっていた。一般的な成人男子は生活が成り立ってから妻を迎える。その計算から考えて、霧の谷崩壊後から十年や二十年程度の経過ではなかったこともヒスイには予測できたはずだった。
 人が予言に気づくのはどうして問題が起こってからなのだろう。
 ――困難が待ち受けている。行く手には新しい道。道は途中で二つに分かれている。どちらも選べないのに、どちらかを選ばないとならない状況――
 新しい道。そうだろう、確かに。
 二つに分かれた道。自分を見る赤と青。どちらも選べないのに、どちらかを選ばないとならない状況。混戦状態。
 ヒスイの脳裏に占い師としてのトーラが浮かぶ。色白でほっそりした手、桜色の爪はやすりで丁寧に磨かれ、指はしなやかに動いて札をめくる。なにか別の生き物を見ているような奇妙な高揚感を覚えた。心音が耳障りなほどによく聞こえていた。その札の先に見える未来に不安を、そして、もっとこの光景を見ていたいという憧憬と。
 迷ったらどちらを選べばいいのか、トーラの札は結局答えをくれなかった。

   *

 蒼天の真下、唐突に落ちた雷は稲光も雷鳴もなかったというのに、特定の人物に対して影響力は多大だった。

「な」
 セイと呼ばれた男の口から、ひび割れた声が落ちる。青い目が物騒な色に光る。比喩表現を使うとするなら血走った目というのが正しいだろうか。
 人が放つ気には膨大な情報が含まれているという。ヒスイ一人を除いてここにいる誰もセイのことを知らないはずなのに、彼が放つ気配に全員気圧された。
「何してくれる、そこの赤目野郎がッ!」
 こめかみの血管が切れそうな勢いでセイが怒鳴る。
 その台詞は、いつものことながら的確に相手の気にさわるツボを抑えていた。
「誰が赤目野郎だッ!」
 ヒスイから口を放して、コゥイは反射的に怒鳴り返した。
 両者に激しい火花が散る。
 二人の男に一人の女。相手が妖魔でなくて人間相手でも、のぼせ上がった雄同士の対決は目を覆いたくなるものがある。血を見るか、と全員が覚悟した。

 男二人以外の声が割り込んできたのはそのときだ。
「……コゥイ」
 この二人に割り込めるのは張本人であるヒスイしかいない。たくましい男の腕に抱かれた、役柄でいうなら「奪い合われるべき、かよわき姫君」。実体がどれほど役柄と合っておらずとも。そのヒスイの声に男二人はにらみ合うのをやめた。セイが青い目をヒスイに向ける。どうしてその男の名を呼ぶのか問いかけるように。コゥイもまたヒスイに視線を移す。こちらはもちろん、続く台詞に甘いなにかを期待した感があった。彼らだけではない。船に乗っていた全員の目が彼女に吸い寄せられる。
 ヒスイは翠の瞳に怒りの色を浮かべていなかった。いつもどおりの、表情のあまりあらわれない目。いや、むしろその目はコゥイに何か訴えているようにも見える。これでヒスイが理想的な美女の体つきをしていたならば、雄々しい体格のコゥイに抱きすくめられ、まるで二人でひとつの彫像のように見えただろう。あいにくと理想の美女にしては肉付きが薄すぎた。
 注目を集めた二人。コゥイは瞳だけでヒスイに語りかけ、続く言葉を促す。それを見てセイの柳眉がますます険しくなった。
 ヒスイの表情は止まったままだ。突然のことに何も考えられないのだろうか。いや、そうではなかった。目元が細められ、唇が動いて。無表情はゆっくりと、あでやかな笑みへ変化した。……ただし表情と台詞の内容はかなりちぐはぐだったが。
「歯を食いしばれ……?」
 例えるなら大輪の花。八重の緋牡丹がほころぶような笑みと、百合の香りのようなきつい声音。口から出たのは愛の言葉ではなく棘のある言葉。綺麗な薔薇には棘がある。花のような微笑みを向けるのと同時にヒスイの手は後ろに下がって準備を終えていた。たっぷりのタメをとってから、細く華奢な腕が鞭のようにしなる。例え見かけは細くみえようとも長弓を引くだけの筋力はきっちりとつけてある戦士の腕だ。それが容赦の欠片もなく力一杯振りぬかれた。
 屋外であるから音はたいして反響しない。にもかかわらず、その船にいた全員が高らかに打ち鳴らされた音を聞いた。これは痛い、と、その音を聞いた全員が思わず同じ感想を抱いたほどに。
 レイガは、この瞬間にセイの目がおもちゃをみつけた猫のように輝いたのを見た。
 彼は中心人物達のうち、主にマストの上のセイを観察していた。コゥイがひっぱたかれる前、やってくれた行動に衝撃を覚えていたのはレイガも同じであった。が、その理由もあって同じような立場のセイがどういう行動に出るか見ていたのである。つい先ほどまで怒りをあらわにしていた彼はずっと人間に擬態したままだ。もしも本来の色であると思われる青い色の髪をまとえばこんな小さな船などどうなってもおかしくない。それを半分心配し、半分は期待していたのだが。にらみ合いという膠着状態が、ヒスイによって新しい動きを見せてもレイガはそちらに視線を移すことなく妖魔の観察を続けていた。

 わりをくった、というよりは思わぬ反撃にあったコゥイが一番意外だったかもしれない。腕を振り抜き痛烈な平手打ちをくらわせたヒスイといえば、誰もを魅了するような笑顔を放り出して元の口角の下がった無表情に戻っている。コゥイから上半身を引き離して振りかえる。つり上がった翠の瞳をマストの上に向けた。
 マストの上にはあの男がいる。
「セイ!」
 咆哮。一喝。怒号。
 空気がびりびりと震えた。
 翠の瞳がきつい輝きを帯びる。それは怒りにも叱咤にも似た強い感情の発露。じわじわと気圧されるのではない。一瞬、濃密な空気の壁をたたきつけられるような振動が伝わる。衝撃が走ることを「雷が打たれる」という表現をするが、それでいくならまさにヒスイそのものが雷だった。
 彼女は身動きままならない状態を嘆いているのでもない。セイにやり場のない怒りをぶつけたのでもない。叱咤でもない。なぜならセイを叱りつける理由がない。あえていうなら自分の身にかかる不埒から助けてくれなかった、と普通の乙女ならば嘆きそうではあるが、そこはそれ、ヒスイである。普通ではないのである。男の助けを待つより自分で反撃に出る女だ。王子様の助けを待つお姫様の役など論外なのである。では、ほとばしるこの感情は何か。
 レイガはセイを注視し続けていた。名前を呼ばれて、彼はヒスイのところに駆け寄るかと思いきや、その場を動かなかった。ヒスイの怒鳴った意味をすぐに納得したのか、一番最初に浮かべたような甘い顔になる。歯が溶けるほどに甘ったるい菓子もセイの今の顔にはかなわない。瞳の色さえ分からなくなるほどに細められた目。嬉しそうに口を開けて笑顔を作る。彼は精神を司る妖魔。絶対にヒスイの意図を間違えない。
 足場の悪いその場所で、支えもなしに彼は両腕を広げた。直立した姿勢はゆるがない。柔らかい曲線を作って広げられたその腕の中に収まるのはきっとただ一人。その女性だけに許された特等席。
 そのときやっとレイガには、ヒスイを怒鳴らせた感情の正体に気づいた。命令、あるいは合図。いつか古い文献で読んだ、かつて妖魔を支配していたという雷帝をどこか彷彿とさせるような迫力。これはもう命令と呼んでいいかもしれない。そしてセイはその合図の意味を正しくくみ取った。

 コゥイの腕の中から、その姿は消えた。
 褐色の腕はむなしく空を切る。
 あれだけ誰にも取られまいとしっかり捕まえていたというのに、後さえ残さず綺麗に消える。

 セイは腕を広げたまま、自分の目線よりやや上に視線を固定する。コゥイが真紅の瞳を空に向けた。焼け付くような太陽の下、どこまでも広い青空を背景に白い色が生まれた。下から見上げているので、それは太陽の光を遮ってすぐに暗い影になる。生まれた影はふわふわと柔らかく、羽が舞い降りる程度の速さでセイの腕の中におりてきた。服がわりに巻き付けた白い敷布が翻る。セイの右腕が両足をすくいあげるようにして――下の覗き魔たちから裾の中が見えないように――支える。反対側の手がヒスイの背中に回された時点で体重が戻ってきたようだ。それまで揺るがなかったセイの頭が、腕が、少しぐらついた。それでも足は揺るがない。
「ただいま」
「おかえりなさーい。うわぁい。ヒスイだ、ヒスイだ。本物のヒスイさんだぁ」
 その姿勢のままだとちょうどヒスイの胸元から首筋のあたりに彼の顔がくる。抱きしめて甘えるようにすりよってみせる彼に、ヒスイが見えるように拳を作った。
「早速殴られたいとみえるな?」
「わ、ちょ、ちょい待ち。あいつは平手で、なんでオレは拳なのさ」
 と、不平不満をもらしながらそれでも彼はどこか嬉しそうである。そして、嬉しいついでなのだろう。ちらりとコゥイを見ると、思いっきり舌を出してみせた。
 ぷちっという音がどこからか聞こえた気がした。
「……!!」
「ちょっと、コゥイ。子供じみた挑発に乗らないで、抑えて頂戴」
 コゥイの将来は高血圧だろうと心配しながらレイガは一応、声をかける。見ると、こめかみの血管がものの見事に浮かびあがって動いているのが触らなくても確認できた。脳内で堪忍袋の緒が切れていると見た。ほんの少し前まであの状態だったのはセイのほうだった。歯をむき出しにして憤怒の形相でコゥイは二人を……正確には横合いからかっさらっていったセイをにらみつけていた。
 上では上で、別のやりとりが行われている。
「念のためにいっておくが、コゥイを殺すんじゃないぞ」
「大丈夫だよ、ヒスイ、前に人殺しはもうやめなさいっていったじゃない。ね、ちゃんと覚えてたでしょう?」
「ほんっとうに、そうなんだな? 命とる気なんかなかったんだな?」
「……。モチロンダヨー、ヤダナー」
 ぱくぱくと口を動かす。無理矢理作ったような抑揚のない台詞の、即席の腹話術人形。くるりと首の向きを変えそっぽを向いたセイの首を、ヒスイは両手でしっかりつかんで無理矢理正面を向かせる。目をのぞきこんだ。
「怪我させるのも駄目だ。それから精神攻撃も駄目だからな」
「えええッ」
「……やっぱり殺さない程度に痛めつけるつもりではあったんだな」
 ヒスイは深い深いため息をつく。下で聞いているレイガもまったく同感だった。ちろりと横目で真紅の瞳をした猪突猛進男をみやる。
(コゥイもやられたらやり返さなきゃ済まない性格してるからねぇ……)
 ふう、とわざとらしく肩を落としてみる。肝心のコゥイはレイガなど見てはいなかった。
「ヒスイ!」
 怒鳴り声はコゥイの声。それに対して上からはしれっとした声が返ってくる。
「ああ、そういやお前も根が深そうだな?」
「お前な!」
 恋を覚えた女は強い。そうでなくても女は強い。抜けるような青空を背景に、船のマストと一組の男女はなんとよく映える構図だろう。白い帆を張って全力で疾走させてやればもっと美しかろうに。今、たいして速度を出していないので帆はたたまれていた。白い帆の代わりにヒスイの白い服の裾がはためく様子が風を感じさせてなんとも爽快だった。
「お前は方法を間違えたんだ」
 切りそろえられた短い黒髪をなびかせ、翠の瞳は優しく笑う。その言葉の意味はなんなのか。ヒスイが人に触られることが嫌いで、無理強いをされることはもっと嫌いなことをレイガは知らない。
「どちらも選べないのなら、どちらも選ばない。お前の元にいるとそうも行きそうにないしな」
「あ!?」
 晴れやかな笑み。吹っ切れたというか、割り切ったというか。レイガはその変化にわずかに眉をひそめる。
「じゃあな、コゥイ。運がよければまた会おう」
 セイは嫌味な笑みを口元に浮かべたまま、それまで動こうとしなかったマストを蹴った。晴れた空によく似合う白い布が大きくはためく。落ちる、と人間なら次に当然起こることを想定して声をあげそうになったが、その前にヒスイ達の姿は消えていた。余韻を残さず綺麗さっぱりと。

 あとにはただ、呆気にとられる善良な島の人々とレイガとコゥイが船に残された。

   *

 ヒスイは、セイに抱えられたままでこれからどこに行くのか分からなかったのだが。
 彼が足を着けた先は、ヒスイが夢でよく見るようなどこまでも暗闇の広がる場所だった。
「妖魔の空間?」
「そう。ヒスイはオレの作る空間の中に入るのは初めてだよね」
 そこで、ヒスイははたとセイの髪の色に気づいた。
「……お前……?」
 青い髪、蒼い瞳の本性を現したときでしか妖魔の力は使えないといっていた。だが、今の彼はヒスイの記憶にあるとおりの赤毛・青い目という擬態した姿。だがここは妖魔の空間だという。
「うん。長い間この姿でいたからね。どうやら徐々に同化していってるみたいだ。でも安心してね? 心の中を覗いたりとか夢に潜ったりとかは本当に青い髪のときでしか出来ないから」
 最低限のプライバシーは守られるということだ。セイはいつものように笑って、けれどその目が急に穏やかになった。無条件に一方的な愛情を注ぐそれではなく。
「ヒスイ、本当にいいの?」
 と聞いてくる。何がと問い返す間もなくセイはさらに穏やかな声音で……少し寂しそうな目で微笑んだ。
「こっちに来てよかったの? だって、ヒスイはあの野郎のこと、ちょっとは好きだったんでしょう?」
 実にセイらしくない台詞が飛び出した。

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