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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第五節第一項(111)

 相聞歌

 空に予言の星が現れてから彼はずっと、ただ一人を捜していた。
 捜して、捜して、捜して。
 よもや妖魔封じが張り巡らされた島に流れ着いているとは思いもしなかったに違いない。しかしそれさえも、よく考えてみれば彼女らしい。
 その島から出てきた彼女を、当然ながら彼が見逃すはずがなかったのだ。
「ヒスイ、みーつけた」

 1.

 水の入った手桶をかかえながらレイガは甲板にあがった。
 コゥイがこの後どういう行動にでるかおおよその想像はつく。あのヒスイがそれを受け入れるかどうかは別問題だが。
 甲板にあがったところでほかの船員が声をかけてくる。
「どうだった、レイガ?」
 彼らが問うのはコゥイが彼女を落とせたかどうか。レイガは笑って答える。とっさに作りあげた、作り物の笑顔だった。
「一度は邪魔してやったわよー。でも追い出されちゃった」
「じゃあ、あいつの勝ちか」
 勝ち負けの問題ではないのだが、若い彼らはそれさえ娯楽にするのだ。多少事情を知っているアジロが青ざめてこちらを見ていたがレイガは作り物の笑顔を貼り付けたまま応対した。彼らの間でレイガの評価はそれほど悪くはなかった。コゥイほど露骨な嫌悪をぶつけてくるものはあまりいない。
 ここらの島々では海を女性に例える。実際はもう少し生臭い理由で避けられるのだが、船に女性を乗せることを嫌う方便に「海は女の神様が司っているから、女が船に乗っていると嫉妬されて転覆させられてしまう」という。レイガは女性の姿で船に立つ。が、本当の女性ではないから海の女神には嫉妬されない。彼らは女装する白い肌のレイガを一種、女神の偶像として認めてくれているのだ。
 かつて、擬人化した海は男性神に例えた。女神信仰が入ってきてから女性と例えられるようになったのだろう。大陸の中心地から遠い場所ではまだ精霊信仰の名残が色濃く残っている。それまで崇められていた土着の精霊と七柱の神々は伝播の過程で融合し、水の精霊は愛の女神と同一視されていった。だから島では一見、無関係に見える愛と美の女神を祭っている。大地の精霊は豊穣と冥府の神として形を変え、炎の精霊はその性質から戦の神と同一視されていった。四大精霊のなかで唯一、風の精霊だけがどの神も拒んで、ただの風として有り続けている。
「そしてヒスイが司るのは風、ね。誰にも何にも染まらないあたり、よくお似合いだこと」
 自由に駆け回る風の娘。それでいうなら、さしずめコゥイは炎か。昔から風は情報を司ったというが、あの娘も随分と痛いところを突く――。いずれ明らかにせざるをえないかもしれないが、それは今でなくてもいいとレイガは考える。考え事をしながら真水で洗ったヒスイの衣服を勢いよくはためかせた。この日差しと風なら本島に着く前に乾くだろう。
「あーあ。お裁縫道具と時間があればちゃんとしたドレスが縫えるのに」
「そんな特技があったのか?」
 声をかけてきたのはアジロだ。
「もちろん。アタシ、女の人のドレス縫ったりとか髪をいじったりとか、お化粧したりとか大好きなのよね。あんたの結婚式にも花嫁にドレス作ってあげましょーか?」
 そういうとアジロの表情は輝くどころか逆に曇った。照れではなく懊悩しながら、もじもじと指をいじりはじめる。
「いや、結婚式どころか、うちの場合……」
「そうね。あんたの未来の花嫁は、婚約者のことそっちのけでコゥイに熱をあげてるもんね」
「うっ」
 図星をさされてアジロの口が閉じる。コゥイに特定の彼女ができて一番喜ぶのはこのアジロかもしれない。コゥイに色目を使う女は少なくないが、中でも一番熱心なのが彼の許嫁だった。二人の結婚を親が決めたのは相手の彼女が生まれたときからで、コゥイが島に来るずっと前の話だ。
「……本当にコゥイのやつ、あの女を物にして出てくるのかな? そうしたらやっとトァミも諦めて……」
「どうだかね」
「そんな、レイガ!」
 だが、はっきりいって見込みは少ない。コゥイの好みは頭が良くて矜持も高い、一本芯が通った性格の女。己の隣で戦える女ならなお良い。その点で行くとアジロの彼女は多少見目よいだけの凡庸な女でしかない。が、得てしてこういう女ほどあきらめが悪かったりする。
「本人同士にまかせるしかないんじゃないの?」
「無責任だぞ、お前!」
 この場合レイガに責任を追及する方が間違っている。冗談でなく本当にヒスイとうまくいったとしたら、そのときはレイガも年貢の収めどきだった。まさか妻帯者となったコゥイにいつまでもくっついているわけにも行くまい。そうなったらそうなったことだと、まったく他人事の顔をしながらレイガはとぼけて青い空を仰ぎ見た。
 マストの上の人影に気づいたのはそのときだった。
「……ねェ。あんなところに、誰がのぼったの?」
 その台詞に、アジロや、他数名が同じ調子でマストを仰ぎ見る。頭に青い色の布を巻き付けてその裾を長くとっているように見えた。風にそよいでいる。それが布ではなくて本当に青い色をした髪の毛だと確認したとき、誰かがいった。
「妖魔……!」
 人がそれを妖魔と決定づけるのは人間の持たない色を持っているという一点のみだった。厳密には人間と変わりない髪と瞳を持っている妖魔もいれば、変わった色の髪や瞳を持っている人間もいる。身近なところでコゥイの例がある。青く見える髪はもしかしたら染めているのかも知れないと――現実から逃避したいがための発想ではあったのだが――思っていた衆人環視のまっただ中、その人影……男の髪は青から赤毛へと変化した。
 今度こそ疑いようがなかった。
「妖魔だ!」
 たちまち、船は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
「妖魔が出た!」
「一人か? 他の船に知らせろ!」
「どうしたらいい!?」
 マストの上にのぼって風を受けている妖魔はそれを面白そうにみやっていた。間違えてはいけない。彼は何かをしたわけではない。彼はただ見ていただけだ。ただ妖魔であるというだけで……滅多にそれと分かる姿で人前に現れない妖魔が今、現れたという理由だけで人間は彼を力ずくで排除しようとしていた。
 レイガは口の中で呪文を唱える。赤ん坊の皮膚を針先でなぞるくらいに神経を使い、相手を傷つけないよう、わずかなひっかかりさえ覚えないよう微弱な魔法を発動させる。物見の塔の誇る優れた魔法使いの誰よりも巧妙に、探知の魔法を使って相手を探る。そういう芸当ができたレイガだからこそ青い髪をしていた彼に気づかれることなくその性質を見極められた。
 その男は、きわめて人間に近く擬態してあるが間違いなく妖魔。そしてその性質はおそらく精神に関するもの。対人間の場合、最も本領発揮できる能力である。
「……やばい」
 レイガは濃紺の長衣を翻すと船倉に走った。
 精神攻撃を得意とする相手にもっとも有効なのは、悪い言い方をすれば筋肉馬鹿である。レイガでは駄目だ。むしろレイガのような頭で考えて行動する性格はあの妖魔にとって一番手玉に取りやすい相手なのである。
「コゥイ!」
 慌ただしく船室に入り、床に設けられた船倉への扉を叩く。あの妖魔に対抗できる理論より本能の筋肉馬鹿は、島の連中だけでは心許ない。ここはやはり真打ちに出てもらうのが筋というものだ。
「ちょっと、コゥイ! 緊急事態よッ。妖魔が出たのよ、妖魔が!」
 中で何が起こっているのかあまり考えたくないが、万が一のことも考えて扉を外から叩くだけにとどめる。いくらレイガとて、さすがに事の最中を邪魔するのは気が引ける。好奇心は床板に耳をつけるだけにとどめた。
 最初に聞こえたのはヒスイの声だ。引き留めるコゥイの声。ぼそっとヒスイが何かをつぶやいたあと、コゥイのやけになった声があがった。行けばいいんだろう、行けば、と。それからわざと轟かせているとしか思えない大きな足音が近づいてきて……。
 レイガは身を起こす。ちょうどいいというか最悪だったというか、次の瞬間、床板と同化していた扉が勢いよく跳ね上がってレイガの顎を直撃した。
「ちょっと、何すんのよう、痛いわねェッ」
 細くとがった顎を抑えてレイガが文句をつける。
 が、目の前にあるコゥイの顔を見ると、痛みに対する抗議はどこかに飛んでいってしまった。
「……。うるさいんだよ、テメエは」
 つりあがった眉尻、眉間には深い縦皺。真紅の瞳は本当に血走っており、心なしかうっすらと光る物がにじんでいるようにさえ見える。歯を向いたその姿は獣が牙をむいて威嚇している形相にそっくりだった。レイガはごくりと喉を鳴らす。
「ええと……アタシもしかして、ものすごぉぉぉぉく、いいところを邪魔しちゃったのかしらぁ?」
 ぺたんと尻をついてレイガはその格好のまま後ずさった。意識しないのに顔が引きつる。怖い。怖すぎる。
 蛇に睨まれた蛙よろしく、萎縮するしかないレイガを助けたのはまだ船倉にいるヒスイの声だった。
「コゥイ、早くそこをどいてくれ! 急ぐんだ!」
 船倉は船底に近いところに設えてあり、はしごのような急斜面の階段を使って行き来する。コゥイがどかないとヒスイがはしごを上れない。さっさとどけ、とばかりにヒスイがよじのぼってくる。後ろから押されてコゥイが先にあがってきた。
「ったく、なんで妖魔みたいな珍獣がこんな絶妙の間で襲撃してくるんだ!」
 コゥイはひどく機嫌が悪かった。こんなときに口答えしようものなら冗談抜きで首が飛ぶ。レイガは事実と違うところに目をつぶってやり過ごしたのであるが、そこはそれ、的確に疑問点をつくのはもう一人の人物の仕事である。
「襲撃なのか? その妖魔は人間を襲ってきたのか?」
 こうもまっすぐに聞かれては答えないわけにはいかない。レイガは首を振った。あの妖魔は「襲ってきた」わけではないのだ。ただマストの上に立っているだけで。
「むしろ襲ってるのはアタシたち。といっても、弓矢が効かないみたいでかすり傷さえおわせられない」
「魔法は?」
 ヒスイの視線が鋭くなる。なにか刺激を加えたのか、とその声は言外に語っていたのでそれも首を振るだけで否定の意を示した。
「おそらくは精神攻撃を得意とする妖魔よ。だからアタシなんかより肉弾戦が得意なコゥイのほうが適任ね」
 そんなものに下手な魔法でちょっかいなどかけられない。人間と妖魔では個々に持ちうる魔力が桁外れに違う。相手の得意分野で喧嘩をふっかけるのはレイガの趣味ではない。ヒスイの目がまた光った。一瞬でたくさんの事柄が駆けめぐった顔で、
「瞳の色は分かるか?」
 と聞く。
「目の色なんて見てないわよぉ。髪の毛は青から赤毛に化けたけど」
「おい、ヒスイ?」
「……私の迎えだ、多分」
 ヒスイは体に巻き付けた敷布の端をもう一度きっちり巻き直して、大胆に裾をたくしあげた。走り出す。慌ててレイガもその後を追った。驚いている暇さえなかった。
 もっと切羽詰まっていたのはコゥイだった。同じく駆けだしたのだが、彼はいつも以上に緊迫した空気を作り出してヒスイの背を見ていた。

   *

 かすらない矢に笑みさえこぼしながら、その男はマストの上に立ち続けていた。風が取り囲む。望む人がここにいることを教えてくれているようだ、と都合のいい解釈をした。
 船の中から慌ただしく何人かが飛び出す。その中に彼の求める人はいた。花嫁衣装のような白い服をたくしあげ、彼女らしく大胆に足をむき出しにして。
 闇夜に見つけた、ただひとつの彼の希望。
 男は息をのんだ。彼女の髪が見える。肩口で濡羽色の髪が揺れていた。真夏の森よりも鮮やかな色した翠の瞳が向けられる。上質の翠玉(エメラルド)を思わせる美しい彼女の瞳は昔の記憶通り。甲板とマストの上という距離をものともせず、まっすぐに青い瞳を射てくる強い視線も変わらずに。
 この五十年、ずっとずっと、気が狂うほどまでに待ち続けた愛しい存在。青い目が細められる。存在がまぶしすぎて愛おしすぎて、直視できないほどに幸せだから。
 そして愛しい彼女は、凛とした声で彼の名を呼んだ。
「――セイ!」
 愛してる。愛してる、愛してる。ヒスイが去ってから一度も浮かべたことのなかった、とびきりの笑顔をほころばせた。
「迎えに来たよ、ヒスイ」

   *

 コゥイは空を見上げた。
 多分、これが崩壊の足音を聞いた最初になるのだろう。
 飛び出したヒスイがまっすぐに一点を見上げて名前を呼ぶ。男の声がそれに答えた。幸福な声……聞くだけでそれが幸せなのだと分かる。
「迎えに来たよ、ヒスイ」
 甘ったるい笑顔。細身の男は、後ろでひとつに束ねた長髪を細くたなびかせて下をのぞきこんだ。
 すでにヒスイの目はあの男しか見ていない。迎えだといった。迎えが来たらヒスイは帰ってしまう。コゥイの知らない場所、コゥイのいない所に。
(駄目だ)
 自分からヒスイを奪っていく存在だ、あれは。
 人の大切なものを奪ってきた。そうやって生きてきた男は知っている。いつか自分も奪われることを。何もいらないと思っていた。親も、家も、財産も何もコゥイは持っていない。コゥイから奪える物は何もない。欲しいとさえ思わなければ、他人が奪える物もなにもない。大切な物はいつか誰かに奪われる。愛したものも、同じ。それがヒスイと出会って、惚れ込んで。ヒスイを奪われるときは存外早く来てしまった。
 コゥイの目の前で、その彼女はセイと呼ばれた男を指さし、怒鳴りつける。たくしあげていた裾が落ちて再び足首までを隠した。
「何を目立つところに陣取ってお山の大将をやってるんだ。さっさと降りてこい!」
「ああッ、当たり前だけど全然変わってない! ヒスイさんてば、五十年ぶりの第一声がそれなんてーっ!」
「ごじゅーねん!?」
 精霊達の最後の聖域、霧の谷が崩壊してから五十年だと、そういえばレイガがいっていた。そのレイガはぺろりと舌を出す。彼は結局、それをヒスイには伝えていなかったのだ。
「ちょっと待ってろ。そっちに行くから……」
 ヒスイは白い布の裾をまた持ち上げる。その格好でマストをのぼるつもりなのだろう。一番見晴らしのいいコゥイのとっておきの場所。どこまでも広がる海と空、境界線が溶け合った青い水平線。一番好きな景色。いつかヒスイを連れていきたいと思っていた。それが、今はそこに行かせたくないと思う。
「行くな」
 褐色の右腕を伸ばしてヒスイの腕を取る。
「行くな……」
「コゥイ?」
 翠の瞳がやっとコゥイを見た。怒っているのでもなく、けれど喜んでいるのでもない。どうして引き留められるのだろうかと疑問に思っている顔だ。自分はあそこに行きたいのに、と。
「行かせない」
 行ってしまったら、もうコゥイのところには戻ってこない。引き寄せて、かきいだく。こうやって胸に抱きしめたのは今日だけで何度目だろう。ちょっとやそっとの抵抗では逃げられないよう彼女の腰に腕を回して締め上げる。ヒスイが顔をしかめた。
 欲しい物はただひとつ。
 翠の瞳と真紅の瞳が近くで交わる。目は口ほどに物をいう、とはよくいったものだ。
「……お前、もしかしてあれに喧嘩売る気か? だとしたらやめておけ。セイは手段を選ばんぞ」
「なめてくれるなよ。俺が妖魔風情に負けると思ってるのか?」
 小声で交わされる会話は果たしてあの妖魔に聞こえているのかどうか。
 身を重ね合う二人、会話さえ聞かなければ愛しみあっている男女に見えなくもない。コゥイは素早く、マストの上の妖魔に視線を移した。表情の消えた顔からは目だけが鋭さを増して冷たく冴えている。真冬の海の冷たさを思いおこさせる光だ。
 ヒスイはお前の物じゃない。
 心の中でつぶやいた。ヒスイが、いい加減に放せと腕の中で訴える。
「手段を選ばないのは、あいつだけじゃねぇよ」
「何?」
 ヒスイの動きが止まる。
 それに微笑しながら前のめりにコゥイは動いた。
「だから。お前に惚れてんのは、あいつ一人じゃない」
 愛してる。愛してる、愛してる。今願う、ただひとつの望み。どこにも行かせない。

 恋敵の前で明確な意思表示を起こす。
 深く唇を結びつけることによって。

 ――空気の中に、目に見えない雷が走った。
 気の毒だったのは船員達である。運悪くコゥイと同じ船に乗っていた彼らは、二つの雷が走ったまっただ中で身を寄せ合って脅え震えるしかなかった。雷はセイの真上に落ちたそれ一本ではなく、コゥイの後ろにいたレイガの上にもまた落ちていたのだ。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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