[←back][home][next→]

翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第四節第六項(110)

 6.

 防音結界も同時にほどこされているので、波の音さえ聞こえない。
 コゥイは早々と着替えを終えていた。隻腕を隠すための赤い肩掛けはもう乾いている。船にはわずかながらであるが食料を積み込んでおり、彼はそのうちのひとつ、生で食べられる果物をひとつ手にして囓りついた。相変わらず開かない光の壁をにらみながら。その実、その真紅の瞳が映していたのは壁ではなかった。

 全てを跳ね返し、牙をむいてきた。それが正しいことではないと知ったあとでも、そうするしか生きていく方法を知らなかった。波止場で育った文盲の捨て子は誰からも教わることなく自分で生きる方法を模索するしかなかったから。導き出した答えは、持たざる者は持つ者から奪うしかないということ。
 幼い頃は、うつむいていると声をかけてくれる誰かがいた。
 その声に促されてゆっくりと顔をあげる。期待してはいけないと思いつつ淡い期待を抱いてしまう自分を腹の中であざけ笑った。結局いつも同じものを見るのだ。まず「自分たちと違うもの」を見た驚きの顔と目が合う。続いてそれは嫌悪と恐怖にそまる。身をひるがえしたり、悲鳴を上げたり。コゥイが真紅の瞳を持つゆえに。
 ――化け物!
 他者に優しい言葉をかける口は一転してののしりの言葉を吐き捨てる。転ぶ子供にのばされる大人の手は、コゥイを前にすると鞭より強くはねつける。同じ人の同じ口、同じ手。なのにそこにある温度は相手によって炎と氷ほどに違う。人間は二つの顔を持っているのだと、普通の子供が知るよりはるかに早いうちから理解してしまった。
 人は、自分とは違うものを決して受け入れてくれない生き物なのだ、と。体の中で何かが壊れた気がした。壊れた隙間に染み込んでいくのはどうあがいても動かない事実のみ。自分は人とは違うのだ。
 痛みも傷も、同情も哀れみも、何もいらないと思っていた。

(現状を維持するだけで手一杯なんだな)
 色違いの垂れ目をした男は、表情を映さない目でコゥイにつぶやいた。極度に垂れ下がった瞳の形はそこはかとなく間抜けで、敵意を感じさせる顔ではない。左目は焦茶。それは珍しい色ではない。右の目は聖石の青だった。青い目そのものはさして珍しいものではないけれど、聖なる石とたたえられる青金石(ラピスラズリ)と同じ色は尊ばれる。
 レイガと名乗ったその男は微笑さえ浮かべず、暗い色の長衣を身にまとった。人目を引きやすい派手な色を持つ男はそれだけで急に周囲から埋没する。
(人は何かを生むために生まれてくる。お前は何を生んだ? 人か? 物か? 思想か? お前が搾取してきたものも皆、どっかの誰かが生み出したものだ。思想も、物も、人も。奪うことのなんと易いことか、生むことのなんと難いことか)
 回りくどい言い回し。だがそれを理解できないほど愚かでもなかったのがコゥイの運の尽きだ。哲学という言葉さえ知らなかったコゥイは、だが、決して頭の回転が鈍いわけでもなかったのだ。
(お前、何かを生み出す余裕もなかったんだな。現状維持だけで手一杯なんだな、今も……)
 人と違う色の目で迫害されていたコゥイが、同じく人と違う色した目を持つレイガの言葉に耳を傾けたのはかすかにあった仲間意識だろうか。
 レイガと出会ってそれなりの時間が経った。だが、今もそれは同じ。
 どこまでいってもコゥイは簒奪者。奪う者はいつか奪われることを知っている。
 だから……大切な何かを手にすることはいつもとても恐ろしい。

 光の壁が色を変え始めた。コゥイは内側に潜り込みそうになった意識を急浮上させる。
 狭い船倉、ヒスイと自分を遮っていた魔法の壁はまず物理的な質量をなくす。ついで、壁は不透明から半透明へと姿を変え――それは瞬きひとつ分の間だったが――完全にその姿を消した。同時に慣れ親しんだ潮騒が聞こえてくる。音と色が戻ってきたことによって現実感もまたコゥイの元に戻ってきた。
「はぁい。終わったわよん」
 色違いの垂れ目をした「女」の姿が目の前にあった。嬉しそうに手を振ってくる。初めて会った頃はつかみ所のない男だと思っていたが、よもやこんな変態だとは思わなかった。
「なぁに、元気ないわね?」
「……誰のせいだよ」
「アタシのせい? そんなっ、アタシの愛するコゥイにそんな不愉快な思いをさせてたなんてっ。ごめんなさい許してぇぇえええ」
「やめんか、その手の冗談!」
 一斉に鳥肌が立つ。どこまで冗談でどこまで本気なのか……恐ろしいことにはわずかながらでも本気が混じっているらしく、コゥイは反射的に壁際まで逃げた。
「コゥイったら何で逃げるのよぅ」
「逃げるわ、ボケ! 近寄るな!」
 レイガは上目遣いにコゥイを見、なおもにじりよる。自分は何も悪いことなどしておりません、とばかりに清純な乙女の皮を被った変態は徐々に間を詰めていった。
「アタシが悪いの? 閉じこめたなんて人聞きの悪い。アタシはちょっぴり目くらましさせてもらっただけなのに。なんでも直すから気に入らないところ、いってちょうだい? アタシ、そんなに嫌われるよーなことした?」
「オカマ言葉と女装姿をやめろっつってんだ!」
「あ、それは却下」
 なんでも直すと豪語した口でレイガはさらりと流す。
 生理的嫌悪というものは厄介だった。どうやっても消えるものではない上に、原因を取り除くことができないのである。あるものは爬虫類特有のぬめぬめとした皮と鱗、表情のわからない目をいやがり。ある者は毛虫の、派手な色とぶよぶよとした表皮が伸縮するさまをいやがり。毛虫のように毒もなければ爬虫類のように噛みつきもしないのに、油を塗ったような照りと艶をもった熱帯・亜熱帯生息の昆虫、すなわちゴキブリをいやがる女もまた多い。しかも南国のゴキブリは大陸のそれよりはるかに大きいので女性の悲鳴の大きさも正比例する。かと思いきや、それらをこよなく愛する趣味の人間も多くいるのだから世の中は多種多様だ。
 世の中には、たとえオカマが言い寄ってきても「諾」といえる男もいるのかもしれない。が、コゥイはそれに喜びを見いだす性質ではなくむしろ何があっても「否」と言い切る人間であった。たとえオカマの中身が聖人君子であろうとも関係ない。人間は心を結びつけるよりもむしろ体を結びつける動物で、コゥイの中の正常な種族保存維持本能は目の前の異物に対して警鐘を鳴らしてくるのである。世界中のオカマを敵に回しそうな思想の男であった。
 それ以上近づいたら生理的嫌悪は殺意に変わる、というぎりぎりの位置でレイガは近づくのをやめた。くるりと鮮やかに回って背をむける。
「さ。今日のところはこれくらいにしておいてあげましょーか」
「おーまーえーはーッ!」
 また遊ばれたのだ。いつもいつも同じ結果。結論は分かっているが体は理性より正直に拒否反応を示す。全身にあらわれた鳥肌はいまだ冷めやらぬ状態だ。
 暗がりのすみで、そんな二人の様子をおかしそうに笑う声があがった。
 小さく忍ぶような笑い声はヒスイのもの。格好の悪いところを見られた、とコゥイはそちらに目を向ける。そこで止まった。
 白い敷布を体に巻き付けただけの簡素な格好。衣装とも呼べないそれはヒスイの背があまりないことも手伝って、彼女の足下までをきれいに覆い隠していた。やや裾をひきずるような長さは、ちょっとしたドレスに見える。まるで花嫁衣装か何かのようだ。
 小さな忍び笑いと同時に翠の瞳がコゥイをみやる。
「お前たちは本当に面白いな」
 放たれた声は人をうっとりとさせる優雅なものだったが、台詞の意味するところはコゥイを不機嫌にさせる以外の何者でもなかった。鼻筋にしわをよせる。
「これが面白いか?」
「……じゃれあってる。楽しそうだ」
「待て。その認識は間違いだ。誰が喜んでじゃれてるって? 誰が楽しそう? お前の目は腐ってる」
 いまいましい限りなのに。心からそう思っているのに隣でレイガは
「ええ、楽しいわよぉ。アタシたち、こうやって遊んでるの」
 と、のたもうた。ヒスイは小さな拳を作ってゆるむ口元を押さえている。コゥイの表情はそれに対してますます硬化した。せっかくヒスイがいつもにまして綺麗な立ち姿でそこにいるのに、会話の流れはちっともそっちにいってくれない。憮然とした。
「レイガ、しばらくはずせ」
 彼がいるといつまでたっても玩具状態から抜け出せない。ようやく鳥肌もおさまって、コゥイはヒスイを抱き寄せると優美な曲線を描く柳腰を抱え込んだ。言葉よりもはっきりと態度で示し、レイガを見る。「彼」は肩をすくめてみせた。
「二人だけにしておいたら何をやらかすか分かっていて、アタシにはずせっていうわけ?」
「ああ、そうだ」
 ヒスイは翠の瞳を丸くした。それまで機嫌のよかった顔がみるみる表情を消していく。ヒスイの顔を見なくても、コゥイは抱きしめた手のひらから伝わる感触で彼女の体がこわばっていくことを――脅えゆえではなく警戒ゆえに、だ――理解した。あごをしゃくってレイガに出て行けと示す。レイガの細い眉がひそめられたが「彼」はもう反対しなかった。
「と、いうわけで勘弁してね、ヒスイ。アタシはこれ以上コゥイを止めらんないみたい」
 無責任なことをいって、来たときと同じくひらひらと手を振ってみせる。コゥイの首の下で抱きすくめられたヒスイが声を上げた。
「待て、レイガ」
「だからごめんてば。アタシ、これ以上やってコゥイに嫌われたくないもの」
「……そうじゃなくて」
 おや、と男性陣はそろって片方の眉をあげる。
「今日襲ってきた大陸の連中は、お前の知り合いか……?」
 突拍子もないことだった。コゥイの耳には少なくともそう聞こえた。レイガはあげたはずの眉を元に戻す。
「……なんで?」
「持っている武器が同じだった。剣術の形式も。それに人種的にも相当近いだろう」
「ま、ね。国は近いと思うわ。知り合いってほどでもないけどぉ」
 誰が気づかなくてもコゥイには分かった。レイガが、すっとぼけにかかっていることを。普段ぼんやりしていて読みにくい彼の表情は、その腹の中で何を考えているのか分からなくするという実に優れた長所だった。女の顔のときは必要以上にはじけるために、これまた本心が読めない。だがヒスイはさらに続けた。
「最初はお前が魔法使いだからかと思ったんだが……『お覚悟を』といったろう、あの伏兵は。あの男は、お前に、敬語を使う必要があったんじゃないか……?」
 コゥイが薙ぎ払ったナイフの持ち主は、馬鹿丁寧な口をきいてただひとりを目指していた。コゥイは咄嗟に目配せを送る。「彼」もまた素早くコゥイに瞳をめぐらせて応えた。
 ――まだはっきりとはバレてない。今は何もいうな。
 その目はそういっていた。
 女のふりをしていてもレイガの性根は男である。女装はただの趣味だ。ほんの一瞬に交わされた視線のやりとりではすっかり男に戻っていた。目配せの意味は分からなくても二人の間で意味ありげに交わされた視線にヒスイが気づかないはずがない。彼女はレイガに向けていた目を今度はコゥイに向けた。だがコゥイも何もいわなかった。
「じゃっ、お邪魔虫はこれにて退散するわね。お達者でぇぇ」
 語尾を甘くのばしてレイガは扉の向こうに消える。逃げたな、とコゥイは思ったが最初に出て行けといったのは自分なので黙っていた。
「……コゥイ。いいかげん、放せ」
 不機嫌きわまりない声があがる。真下から突き上げるような視線でヒスイがにらみつけていた。
「お前、よく気づいたな」
 些細な一言で。本気で賞賛しながらコゥイは腕をゆるめてやる。思ったよりあっさりと解放されたことに驚いたのだろう。ヒスイはまた別の意味で眉根をよせる。なんの魂胆あってのことかと、まだ警戒している顔だ。
「何もしねぇよ。頭も冷えたしな」
 特定の単語に、腹の底に眠るどす黒い感情が少し噴き出しただけ。それを沈めるのに柔肌を求めてしまったため。レイガが邪魔してくれて助かった。そうでなければヒスイを壊していただろう。
「……本島?」
 ヒスイがぽつりとこぼす。コゥイは目をむいた。あまりに的確にヒスイがその単語に行き着いたから。苦々しげに舌を打つ。
「レイガか……」
「責めないでやってくれ。たいしたことは聞いていない」
 それは本当だろう。レイガは世話好きな一面もあるが、聞かれない他人のことを逐一教えるような酔狂ではない。おそらくは先ほどヒスイがみせた勘の良さでコゥイの変化にも気づいてレイガに問うただけに違いない。が、自分だけ弱点をさらされたようで気分が悪い。
「レイガのことも聞いてやるな。あいつは、色んなしがらみが海藻みたいにへばりついて足を引っ張ってやがるんだ」
 何もいらないと思っていた――痛みも傷も、同情も哀れみも。昔、レイガは笑って首をふった。それは全てが欲しいという裏返しだと。そのレイガこそが本当に全てを捨てたがっていた。
「あいつ、色んなものを『どうだっていい』というわりにはおせっかいだろう」
「……。ああ」
 彼女もまた何かをいわれたのだろうか。全てを拒むヒスイに自分の姿が重なったのは確かだ。強がりを口にする者がどれだけもろく見えるか、コゥイは知った。自分も、他人の目からみるとただ強がっているだけにしかみえなかったのだろう。おもわずレイガからの受け売りを口に出していた。レイガ本人に知られたら「自分ができないことを他人に押しつけてどうするんだ」とまた呆れられるので絶対に知られたくないが。
 すでにヒスイが喋っていることをコゥイはまだ知らない。
「だけど……」
 コゥイの頬に白い手が触れる。赤い瞳と目が合うと、翠の瞳が微笑んだ。ヒスイはいつでもまっすぐに人の目を見てくる。それが他人に忌み嫌われるコゥイの真紅の瞳であっても変わらずに。
「お前、あいつのおせっかいが気に入っているんだろう」
 疑問形ではなくほぼ断言に近い声音。山ほどの反論がのどまで出かかったが、コゥイは彼女の微笑みを見ると何もいえなくなってしまった。あまりに文句が多すぎて喉元で渋滞を起こしたのかも知れない。コゥイは無駄なあがきとばかり口を開ける。だが、やはり一言も出なかった。
「そのレイガがいっていた。お前と私はそっくりで、二人とも寂しがり屋なのだそうだ」
 ヒスイは微笑む。ほんのわずかに、そこに苦笑と自嘲が混ざる。彼女もまた自分の弱さを認めたくない人種だ。そしてその弱さをばねに、強さに変換できる。
 一人では寂しくて、隙間をうめたがっているのなら。
「……二人なら埋まるのかもな」
 寂しさと空虚と、渇望と。いつも何かに渇えていた。潤す何かを求めていた。
 コゥイは彼女の華奢な腰にもう一度手を絡ませ、抱き寄せた。そのまま壁際にまで押しやる。
「俺は……っ」
 ヒスイの目がひとつ瞬く。――その瞳がコゥイの赤い色を映し、そして軽く閉じられた……。

   *

 さて。レイガがしぶしぶあがった甲板では、ちょっとした騒ぎになっていた。

   *

 マストの上にその男は立っていた。誰も彼を知らなかったし、また、いつそこに上ったのか誰も気づかなかった。妖魔、と口々に叫びながら彼を見上げる。勇気ある者が矢を射かけようとしたが、矢はその男にかすりもしなかった。男の体に触れる前で見る間に失速して落ちていく。
 青空に映える色の髪が細くなびく。男は微笑んでいた。雨上がりの空よりも、空の色を映した昼間の海よりも透き通った深い青の瞳はマストの下、甲板を見つめている。正確に言えば甲板には現在、彼の望む存在の姿はない。だがこの船にいることを彼は知っていた。
「ヒスイ、みーつけた」
 闇夜にただひとつ光を見つけたような、幸せが滲み出ている声。甲板にいた誰の耳にもその声は届かなかったが。

+感想フォームを利用してくれる?+(作者が喜びます)
[<<前]
[次>>>]
[目次]
翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada