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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第四節第五項(109)

 5.

 レイガの声は、先ほどよりずっと明瞭になったはずなのに。
 どこか遠くから聞こえたような気がした。
 突かれたくない図星を、もしかしたらたった今、突かれたのかもしれない。

 ヒスイは、コゥイの大きな手を連想していた。差しのべられた手。何度も。拒み続けていないで自分を求めろといってくれた。
 それは、頼ってもいいのだといってくれている気がしていた。ちゃんと自分で手を伸ばせといわれたとき、一人で解決しなくてもいいのだといわれた気がした。そのときに抱いた感情に無理矢理名前をつけるとしたら「嬉しい」が一番近いのかもしれない。が、レイガの言葉はそれよりもずっと直接的で。この感情に再び名をつけるとしたら「嬉しい」よりももっとずっと……そう、むしろ「痛い」。
 そのヒスイとコゥイは同じだとレイガはいう。
「……けれど」
 ヒスイはなんとか声を絞り出した。自分が発した声なのに、他人がしゃべっているように聞こえる。
「コゥイは、いったんだ……。自分一人を守るために複数の人間を傷つけて楽しいか、と。そうまでして守らなきゃならない自分は一体、何様のつもりだと……」
「そんなこといったの?」
 軽く驚いた声が背中の向こうであがる。次にレイガの声は苦笑まじりの忍び笑いへと変わった。
「しょうがないわねぇ。自分に出来ないことを人に押しつけて、どうするつもりなのかしら」
 くすくすと。いたずらっ子を見て微笑むような暖かな笑い声だった。まるで母か姉のように優しい。これは男だ、とヒスイは改めて強く思う。そうでもしないと本当に女性と話しているような錯覚に陥りそうだった。
「……と、いうことは……」
「そ。あいつも人を傷つける、人のものを奪う、なんでもやるわよ。そうしなきゃ生きていけなかったしね」
 あのときは、コゥイは傷つけずに生きてきた人間だと思っていた。そうではなかったのに。船での戦いぶりをみてそれくらい気づくべきだった。彼は躊躇せずに曲刀を振るっていた。体から血と汗の匂いを発して。文字通り「自分一人を守るために複数の人間を傷つけて」戦っていたのだ。命を屠ることにためらいもしなかった。
「あなた達は二人とも決定的なくらい愛情不足だわね。親切にしてもらったとき、好意を抱いたとき、それをどうやって相手に伝えればいいのか分からないでしょう。誰も愛してこなかったの? 誰からも愛されてこなかったから、どうやればいいのか方法が分からないだけ? だからコゥイは極端に走ってぬくもりを求めようとするし、あなたは差しのべられた手を拒否することでしかそれを示せない。違う?」
 指摘は、再び痛いところをついた。
 レイガの言葉は、コゥイの行動を決して悪くとってくれるなとのことだったのだがヒスイはその意図には思い至らない。図星を指されたと認めたくないことしか頭にはなかった。
「……親は、愛してくれた。愛情不足とは……思いたくない」
 片親で育っているので、その話題だけは訂正せねばとヒスイはがんばって口を開いた。ものをいうのにこれほど気力を振り絞らなければならないのは久しぶりだ。誰かに声をかけるとき、いつだって緊張して、心構えが必要だった遙か昔を思い出す。
 両親が共にそろっていないと子供はまともに育たない、とは、誰にも思われたくなかった。それはヒスイを中傷する言葉ではない。母や父が中傷されている言葉だったから。
「じゃあ、あなたの場合は他人からの愛情が足りなかったのかしら?」
「……え?」
「愛情はね、身内からの愛だけじゃ駄目。他人からの愛情も十分でないとね。車輪だって片輪だけだと不安定でしょ。それと一緒よ。身内からの愛情はその人の中身を濃くしてくれるし、他人からの愛情は広い視野と社交性をくれるわ。もちろん完全に釣り合ってる人間なんて少ないけれど、あなたはちょっと他の人より極端すぎるみたい」
 視野はともかく、社交性はヒスイに欠けているもののひとつだ。もっとも足りないものといっていい。
 確かに、他人にはろくな目にあわされなかった。誹謗、中傷、暴力……。知らぬ間に自分を傷つけるものだと認識していたのかもしれない。逆に、他人に愛されない分まで両親は自分を愛そうとしてくれたのだろうか。
 こちらにきて他人だらけの中、おそらく平気だったのはアイシャが真っ先に「身内扱い」してくれたからかもしれなかった。今思うに、アイシャという人は身内からの愛情とは無縁だった。だからこそ、なおさら彼女は「家族」という形にこだわったのかもしれない。足りないもの同士がちょうどよく補いあっていたのかも。
「……レイガは?」
「ん?」
「レイガは……釣り合っているのか?」
 愛してくれる人が。先ほど、コゥイの台詞を「自分に出来ないことを人に押しつける」と笑っていたレイガはどうなのか。愛されて育ってきたのか、それとも彼もまた、愛情のどちらかが足りない人間なのか。あまりに的確に人のことを言い当てる彼に是非とも聞いてみたかった。
「うーん……。友達づきあいは一応そつなくこなして来たし、うちの両親は子供に興味なんか全くなかった人だけど……姉が愛してくれたから、かしら……?」
 姉が、という一語だけわずかに憂いを帯びた声に聞こえた。何かあるのかと思ったがそれには触れないでおいた。
「客観的にいって恵まれていたとはいえないかもしれない。でもアタシにはそれくらいでちょうど満足できたのかもしれないわ。アタシという人間は、とかく物事に執着のない性格でね。全てにおいて無頓着なのよ」
 飄々といってのける声は悲嘆しているようにも、また自嘲しているようにも聞こえなかった。本人の言うようにあまりにも客観的すぎる。まるで他人事のようだ。
 男の姿をしているときのレイガがまさにこういう感じだった。つかみどころのない、何を考えているのか分からない男。まだ女装しているときのほうがはっきりした主張を持っている。
「女の姿しているときも根本は同じなんだな……」
「そりゃそうよ。アタシ、二重人格じゃないもの。意図的に演技してるだけ。でも、女のアタシの性格も間違いなくアタシの一部よ」
 また笑い声が聞こえた。二重人格でないといわれても、まるで二重人格のような鮮やかな使い分けだ。
「……男の声のほうが、いい」
 女の声のときは何となく、はぐらかされているような雰囲気がつきまとう。女の姿をしているときに男の口調で話されると多少の抵抗はあるが、今はちょうど顔が見えない。
 返事はすぐ返ってこなかった。
 ややあって低い声が響く。
「……ま、こっちの方がいいんなら、こっちで喋らせてもらうけどな」
 聞き取りにくい、静かなレイガの声だった。
「本当に鮮やかな使い分けだな。それで二重人格じゃないといってもにわかには信じがたいぞ」
「ほっとけ。いっておくが、本気で女装してるときにこの口調は不気味以外の何者でもねーんだかんな。こっち見るなよ?」
「私だって覗かれたくはない」
 背中の向こうで、今度は苦笑のおまけはなかった。
 うってかわって今度は沈黙が流れる。
 ヒスイは肩をすくめて、それまで胸元で固く握りしめていた手を放した。水気を吸った服をいつまでも握りしめていたせいで指の皮が白くふやけている。濡れた服の合わせ目をようやくほどいた。濡れた服を空っぽの桶に突っ込んで、体をふいたあと乾いた真新しい敷布で体を包む。体はすっかり冷え切っていたが、寒いとは思わなかった。乾いた布の肌触りが心地いい。
 着替えがすんでもヒスイはそこから出なかった。
「レイガ」
「あん?」
 どうしてもひとつだけ、聞いてみたかったから。
「本気で好きなのか? ……あいつのこと」
 返事はしばらく聞こえてこなかった。何かいいたそうな沈黙だけが背中から伝わる。
「あんまりコゥイ本人には聞かせたくない内容だが……そう、だな。大事っつうか……今のところ、おれが執着してるのはあれだけだからな」
 がりがりと頭をかく音。小さなため息らしい音が聞こえたのは気のせいではない。
「あいつが本気でいやがってるのは知ってる。あいつはまともな男だかんな。だから永遠に実らないのも分かってる。けどな、相手に『好きだ』って知ってもらえているだけで、その上で側にいることができて、それだけで満足してるのさ、おれは。前の恋はそれすら許されなかったからな」
「え?」
「むかしむかし、おれ様の初恋は、本人にも周りにも悟られると何かと面倒だった相手でな。あのころはそりゃあ、気づかれないよう必死こいて押し殺してたわけだ」
「……念のために聞くが、その初恋の相手というのは女性か?」
「まぁ、そうだわな。初恋は実らないとかいう格言どおり、結局おれ様のも隠し通してた間に相手が嫁に行っちまって、見事玉砕したわけだ。ま、二度目の恋まで実らないこと確定の相手に惚れるとはさすがに思わなんだが」
 今度はわざとらしいため息が聞こえる。
 触れることもできず、告げることもできず、思うことさえ許されない恋は二度目も同じだった。最初の想いは幼すぎて、何もできないまま押し殺すしかなかったから。せめて今度は告げてから玉砕しようとレイガは決めたらしい。結果、女のレイガは拒否されたけれど男のレイガは側にいることを許された。
 レイガは特に同性が好きだというわけではなく、男女とも平等に興味がないらしい。だからコゥイはヒスイをレイガのところに預けた。下手な男に預けるよりも安心だというわけだ。
「性的嗜好も含めて、どっかまともじゃないんだろうさ、おれ様は。コゥイ曰く、おれ様は食欲と性欲はどっかに置き忘れてきたんだろうということだ」
「……お前が反応を示すのは睡眠欲だけ、というわけか」
 殴っても蹴飛ばしても起きないと太鼓判を押された男は、うむ、と見えないところで頷いた。
「お前さんは?」
「は?」
「どうなんだ? コゥイはお前さんに惚れたみたいだが」
「……」
 この手の話題からは逃げたかった。体をこわばらせていると、ヒスイが何かいうより先にレイガが結論づける。
「おれ様が見たところ、お前さんもまんざらじゃねーんだろ? ま、おれ様は、お前らがうまくいかないほうに賭けるけどな」
 意外な言葉だった。
 そういえば先ほども、女の口調で「それほど嫉妬は覚えない」といった。嫉妬を覚えないのは、最初からうまくいくとは思っていないからだ。ヒスイは、コゥイの手に収まらない女だからと。自分はそれほど厄介な女なのだろうか。
「……理由を聞かせてもらいたいな」
「二人とも愛情不足だといったろ? あんたら、本当に似たもの同士だ。今はいい。同じものを見ることができて、同じことを思えることが今は一番大事だかんな。けど、いずれコゥイはあんたに欲しかったものを求めるはずだ。無条件に注がれる愛情とか、全てを許してもらえる安心感とか、過去自分が与えられなかったものすべてを。あんたにはそれをコゥイに与えられない。あんたも同じものを欲しがってんだからな」
 男でも女でも、レイガは相変わらず痛いところを突いてくる。ヒスイは眉をひそめた。
 レイガの言葉はまだ続く。
「繰り返すが、あんたのことなんざ、おれはどうでもいい。コゥイが幸せになれないのがいやなだけだから。あんたらがうまくいくには、どちらかが自分の生き方を曲げるこった。しかし、おれ様が見たところ二人して、相手にあわせるとか妥協とか我慢とかには無縁だからなぁ……」
 やれやれ、と本当に保護者のような口振りでレイガは再びため息を付いた。彼のため息を聞くのはこれで何度目だろう。くせのようなものかもしれない。何も執着がないといった彼は、ため息とともにどれだけたくさんのことを諦めてきたのだろう。
 レイガの言い分は少なくとも半分、当たっている。ヒスイは自分の生き方を曲げてコゥイにあわせろといわれたら、絶対にいやだと言い切る自信がある。コゥイにしてもそうだ。己の矜持を捨ててヒスイにあわせろといって、あの男が首を縦に振るわけがない。女の方があわせるのが当然と考えているような男だ。どこまでいっても平行線。が、逆に言えば、同じものを見ていられるから居心地はいい。ヒスイは頭を抱えた。
「……。いっそ両方いればいいんだ。安心させてくれる相手と、共に戦っていける相手」
 レイガのため息が移ったのかも知れない。ヒスイもため息混じりにいった。
「レイガが本当に女だったらいいのに。そうすれば、お前がコゥイを支えてくれる」
「あら、いいわね、それ」
 目隠しの樽の向こうで、口調が鮮やかに変化した。高い声が耳に届く。
「アタシは自信あるわよ、あいつにあわせて都合のいい女になること。でも、そうするとコゥイはアタシとあなた、二股かけることになるけど?」
「心配するな。私は浮気には寛容だ」
 ヒスイはやっと笑って答えた。正確には去る者は追わず。来る者は拒むくせに、だ。コゥイが自分をいらないといったら、その場で速攻立ち去れる自信ならある。そういうと、なぜか嬉しそうにレイガが笑った。
「……ホントにアタシが女だったらよかったのに。そうしたら、今のアタシの憂い事、間違いなく半分は消えてなくなるのに」
 笑いながら彼がいったその台詞は、ヒスイの耳には本気に聞こえた。

   *

 同じ頃。
「出せーッ」
 無駄な叫びをあげて、コゥイは光る壁を叩いた。
 ヒスイが物陰に消えた後、女の姿をしたレイガはにっこり笑ってコゥイを船倉の端っこに行くよう指示した。そうしたら、いきなり光る壁が現れてコゥイを閉じこめたのだった。
『これ、不可視結界ね。これでいやでもヒスイの着替え、のぞけないでしょ。安心してね』
 と来たもんだ。
「さっさとこの魔法の壁を解除しろッ」
 無駄だと分かってはいるが、閉じこめられるという環境は著しくコゥイを不快にする。どうせ逐一聞こえていて、その上で無視しているのだ。歯ぎしりをしながらコゥイは腰をおろした。あぐらをかいて、どうあっても開かない光の壁を見つめる。光を屈折させて輝かせることで見えなくしているのだと知っていた。本来ならそこに物理的な力は加わらない。が、今目の前にある壁は叩いても蹴飛ばしてもびくともしない。目くらましにすぎない結界にそこまでの物理的強度を加えたのはレイガ独自の「研究」の成果である。本人を目の前にしたら死んでもいいたくない台詞だが、誰が認めなくてもコゥイだけはあの変態を天才だと認めていた。
「ちっ」
 いずれ開くと分かっていても気分はよくない。閉じこめられるという行為が、過去のろくでもない出来事しか思い出さないからかもしれない。
 食べ物を盗んだとき、見つかってよく閉じこめられた。捕まった自分が間抜けだとは思うけれど、盗んだことは今でもコゥイは悪いとは思っていない。食べなければ生きていけない。誰も与えてくれないなら盗むしかなかった。与えてくれるような人間は誰もいなかったのだから。欲しいものがあったとき、金があればそれが得られた。だから金を盗んだ。当時はほかに方法を知らなかった。自分を傷つけようとするものがあった。だから報復した。それが当然だと思った。何もしなかった子供を、ただ赤い瞳を持っているというだけで殺そうとした人間達に比べれば、自分のしていることはつじつまがあっていると思っている。

 これから船が向かおうとしている本島。そこでコゥイは育った。歓楽街の女たちが生まれたばかりの赤子に乳をやって育ててくれた。女達の機嫌がいいときは、からかいがいのあるおもちゃ。機嫌が悪いときは殴る蹴る、大麻の火を押しつけられることもざらだった。親なしの自分を呪ったのはあれが最初だったかもしれない。
 コゥイに親はない。もしも生み出してくれたものがあったとしたら、それは海だとコゥイは思っている。

 その昔、波間に漂う壊れた酒樽が船に引き上げられた。波に飲まれていつ転がるか分からないそれの中には、押し込められるようにして赤子が入っていた。それがコゥイ。
 人あらざる色を持った赤ん坊。まるで死んでくれといわんばかりに。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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