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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第四節第三項(107)

 3.

 その男は、じっとその機会を待っていた。
 死体の中にまぎれ息を殺し、その懐に短剣を握りしめて。退却戦が始まると自分はもう仲間達のところには戻れないと覚悟した。死を覚悟して男は好機をうかがっていた。
 男の狙いは始めから濃紺の長衣をまとうその人。
 彼の周囲から人がいなくなった頃を見計らい、更には彼が長文の呪文を唱え始めたとき男は「今だ」と思った。呪文は途中で唱えるのをやめることはできない。今なら彼、レイガはよそに注意を払うことも出来ないのだから。
「お覚悟を……!」
 男は屍のふりをやめ、弾けるように駆け寄った。

 レイガはそれを横目で確認していた。だが、動けなかった。唱え始めた呪文を途中で放り出すことはできない。魔術師の使う魔法は言霊によって「世界」から力を引き出す。一度「世界」から力を引き出す公式をはじめてしまうと中断は許されない。それが法則だった。レイガに出来ることは一刻も早く呪文を唱え終わること。彼は早口になりながら術式を展開し、必死に唱え続けた。

 ヒスイは何も考えず飛び出していた。自分が足をねんざしていることも、なぜ敵兵の狙いがレイガだったのかも、何も考えられなかったというほうが正しい。考えるより先に体が動いていただけなのだ。ヒスイに分かっていたのは刃の殺傷力と、それが自分以外の人間に向けられているという二点のみ。丸腰であることも忘れて飛び出していったのはきっとレイガのためではない。誰のためかとあとで問われたとしたら、それはきっと自分のためだ。理屈抜きに「助けなければ」と思った。奇しくもコゥイがいったように。
 見殺しにする理由がなければ助けるのが普通だろうよ。
 コゥイはそういった。無意識に自分も同じことをしていることにヒスイはまだ気づいていない。

 コゥイが動いたのはそれよりわずかに後だ。ヒスイが飛び出して、彼女の進行方向と交わるように敵兵と握る刃を確認した。ヒスイがやられる。そう思ったら曲刀を抜いていた。すでにこれで何人斬り殺したかわからない。人間の血と脂にまみれて切れ味は恐ろしく悪くなっている。ぎらついた刃を抜き、大きく一歩踏み出してヒスイよりわずかに先んじた。
 敵兵の目にはおそらく横合いから飛び出してきたコゥイのことなど目に入っていなかったに違いない。曲刀をかざすコゥイの姿は十分視界に入っていただろうに、自分の身を守る本能的行動に移るよりもレイガを狙って刺し貫くことを選んでいた。迷いない足運びからしてそれが見て取れる。敵の男が握る短剣と曲刀では間合いが違う。敵の刃がレイガのところに届く前に、男の首は十分コゥイの間合いに入っていた。
 怒りは戦いの妨げにしかならない。興奮した頭で武器を取れば自分がやられる。相手を屠ったその一瞬を想像しながら、それでもコゥイはいわずにはいられなかった。
「貴様、俺の女に何しやがる!!」
 腹の底から力を込めて叫ぶ。脂がついたままの曲刀を横に薙ぎ払った。
 鮮血が散った。
 同時に、レイガが呪文を唱え終える。最後はほとんどむちゃくちゃになりながら完成させていた。
「……電撃の矢よ、我の示す的を貫き……ええい! ぐずぐずしてねーで、さっさとそのでっかい的を貫け!」

   *

 飛び出したヒスイは思うように動けなかった。痛めた足は自由を奪い、つんのめりそうになりながら、それでもなんとか体勢を整える。その間にコゥイが自分の横を鬼神のごとき形相で追い抜いていったのを見た。
 続くコゥイの怒号。
「貴様、俺の女に何しやがる!!」
「誰がお前の女だ!?」
 反射的にそう切り返していた。が、次の瞬間、目の前で起こった惨劇に目を奪われる。
 今まで生きていたはずの「モノ」から血が吹き出した。
 血煙という言葉を咄嗟に連想する。人間の血は本当に、霧のように細かい粒子になって飛び散るものだなと妙に冷静になって見ていた。
 首は綺麗に切断されるのではなく、首の皮一枚をもってかろうじて胴とくっついたままだった。その切り口はおせじにもきれいに切断されているとはいいがたい。切り裂いたというよりは、引きちぎるようにして力任せに薙ぎ払ったのだと分かる。切れ味の悪い包丁で肉を切ろうとしたときのような。コゥイの曲刀が刃こぼれを起こして使い物にならなくなっていることには、まだ気づいていなかった。
「……電撃の矢よ、我の示す的を貫き……ええい! ぐずぐずしてねーで、さっさとそのでっかい的を貫け!」
 遠くの海の上で、轟音をたてながら帆船がひとつ炎上した。
 レイガの呪文の成果だ。たっぷりと油を吸い込んでいた帆は魔法で作り上げられた電撃の矢をうけ、あっけなく火がついたらしい。

 首を失った男の体は命令系統をなくしても慣性で前にいこうとする。敵兵の進行方向と、コゥイの曲刀をはらった軌道がたまたま同じ方向にむかっていたためだ。レイガの濃紺の衣を短剣が引っかけて切り裂く。が、すでに事切れた死体はレイガにとって驚異にはならなかった。
「てめー、おれ様を見殺しにするつもりか……?」
 寄りかかってくる屍をかわし、ひざで蹴倒してレイガはコゥイに向かう。ちなみに倒れた死体はヒスイのちょうど真横に転がってきた。
 応えるコゥイは微笑みさえ浮かべている。
「なんだよ。十分、避けられただろ?」
 相手の血しぶきを頭からかぶり、ひじのない短めの左腕で目元や額をぬぐった。手にした曲刀を一振りして付着した血を払う。それでも粘ついた赤い液体は名残を惜しむかのように、しぶとく刀にへばりついていた。
 そしてくるりとヒスイの方に向かう。
「むやみやたらに飛び込んでいくな!」
 と。
 さすがにこれにはカチンときた。
 さて、ヒスイにも返り血は飛んでいた。至近距離で血柱が噴き上げるのをみたのだからそれも仕方のないことといえる。コゥイの真似をするわけではないがやはり同じようにして血をぬぐった。ヒスイの場合はそれほど浴びてはいない。前にいたコゥイの体でほとんど遮られていたからだ。
 確かにコゥイが曲刀を抜いてくれなければ自分が怪我をしていた。しかも今のヒスイは丸腰で、身を守るすべを持たなくて。賢いやり方ではなかったと思うしコゥイのいうことももっともなことなのだが、いかんせん、言い方が悪かった。
「むやみやたらで悪かったな!」
「悪い! こんなもん、お前がかばわなくても自分でなんとかするんだ!」
 こんなもん、と左腕でレイガを示す。通常の半分以下の長さしかない彼の左腕は、赤い肩掛けで全貌は隠されている。ヒスイとコゥイの怒鳴り合いにレイガが混ざった。
「人をさして『こんなもん』はねーだろ、『こんなもん』は」
「お前なんか『こんなもん』で十分だ。事実、無事だったろーが」
「いや、今のは本気で危なかったぞ? まさかとは思うが……てめー、ヒスイが危なくならなかったら、おれ様助ける気なんかなかっただろ」
 会話の論点はすっかりヒスイからレイガに移ってしまった。途中で我に返ってヒスイはそれ以上いうのをやめる。言い争いをしていても始まらない。大陸の船団から島の船を引き離した本来の目的を思わず忘れそうになっていた。
 やいのやいのと言い交わす二人を余所に、ヒスイは敵の船団がよく見える位置へと動いた。
 炎上した船は一隻。他数隻は炎をよけつつ沖へと脱出していく。
「……射程圏内ぎりぎりになってしまったな」
 レイガの電撃が火を付けた、その直後に行わなくては意味がなかったのに。
 ヒスイは目を凝らした。海の上で焼け崩れる炎を見つめる。その周囲に風が取り巻くようにと念じた。以前は自分の近距離しか使えなかったが、見えている範囲ならもしかして効果があるかもしれない。
 風が吹いた。
 その海域に突如として暴風が襲った。炎上する船は風に押され、火の粉は他の船へと散っていく。小さな種火が一斉に大陸の無事だった船に襲いかかった。
「何だ、この風は!」
「舵を取れ!」
 島の船は燃え上がっている船とは距離を置いていたし、しかも風上だったので火の粉の被害は受けずに済んだ。これが密着状態なら島側の船にも影響があっただろう。島の人間はこの「偶然」に大いに感謝した。風のせいで荒れ狂う海の間を巧みに舵取りしていく。一方、大陸の船は事前に染み込ませていた油が利いたのか、ひとつ残らず飛び火した。
 はるか沖の海上で大きなガレー船はみな、炎に飲み込まれる。船底は破れ、マストは折れ、そして火だるまになって落ちてくる帆と風によって荒れた海面に挟まれて壊滅状態にまで追い込まれた。
 ヒスイのまわりに風が吹く。ほめて、とまるで甘えるように。
「……ああ。おつかれさま」
 精霊の声を聞くものが少なくなったので、ほとんどの人間はこれを偶然だと思っている。それでもいいかと思った。
 レイガが大きな火種をつけてくれたので助かった。そうでなければどこから炎を調達するか難しかったのだ。レイガの使う魔法と違って、ヒスイが使う風では敵味方の区別をつけられない。台風がいい人と悪い人を区別せずに進路上のものをなぎ倒していくのと同じだ。だから距離が欲しかった。味方を傷つけないために。一度距離さえ取ってしまえば自分たちが立っている側を風上にすることくらい、ヒスイには何でもない。十分、帆に油を染み込ませたのをみてこれならやれるだろうと思った。逆に火種から敵も距離を置いたのをみて焦ったが、ぎりぎりヒスイの力が及ぶ射程圏内だったので全ての船に火を付けることもできた。運もあったとはいえ今回は島側の圧勝だ。いい結果ではないか。
 くるりと振り向く。あっけにとられているコゥイと、展開を予想済みだったレイガの顔がこちらを向いていた。
「信用してくれてありがとう。それから、助かった」
 少なくともこの二人だけは「偶然」ではないことを知っている。それで十分だった。
「な。使えるだろ」
 レイガが嬉しそうにいった。コゥイは「ああ」と生返事をしただけだった。それほど大きな口を開けているわけではないのに、ぽかんとしているといった表情だ。拭い切れていない返り血が頬や首にこびりついて、それがすでに乾いている。ぽろりと固まった血が落ちた。それさえ気づいてないようだ。
「コゥイ?」
「あ。……いや」
 ヒスイの力が気に入らなかったのだろうか。それにしては、嫌悪や厭う気配はない。コゥイは我に返ると曲刀を鞘におさめた。
 真紅の瞳が再びヒスイをみつめる。
「……なんでもねぇよ。惚れ直してたとこ」
「は!?」
「気にするな」
 あっさりといってのけた。いいたいことをいってさっぱりしたのか、真紅の瞳がまた生き生きと輝き出す。剣をつるす帯をほどくと、腰からはずしてレイガに放り投げた。ヒスイに背を向けて船のへりに向かう。へりに足をかけた時点でヒスイの方を肩越しに見た。
「お前も来い。返り血浴びて、ひでぇ顔してるぜ」
 そういうコゥイのほうがひどい顔をしているのだが、彼はそう言い放つとまるで柵をまたぐかのような気軽さで、船べりを乗り越えた。
「コゥイ!?」
 思わずヒスイは駆け寄る。見えないところで大きな水音があがった。身を乗り出して船の下を見る。見下ろした一面は白いレースのような波頭が渦を巻いていた。その白い泡の中から黒いコゥイの頭が飛び出した。
 コゥイは船の上からもよく見えるよう、右の手をあげて大きく振る。ヒスイの隣でレイガが綱を一本垂らした。何をするつもりかと見ていると、コゥイは一本きりの腕を器用にその綱に絡ませる。船はゆっくりに見えて進んでいるのだ。その船に置いて行かれないように、海流にコゥイが流されないように、固定するためのものだと分かった。
 レイガは船べりに膝をつき顎を支え、ぽつりとつぶやく。
「子供だな、ああしてると」
 その声はどこか嬉しそうだった。あの騒ぎの中でさえ頭巾を目深にかぶっており、その表情は隠されていて見えない。
 ヒスイは再び眼下を見下ろした。傷に塩水はしみるだろう。だが。
 レイガはコゥイから目を離さず独り言をつぶやき続ける。
「血を浴びたら海で洗い流せばいいじゃないかと来たもんだ。お前さんも真似するんじゃねーぞ。……と……おい、ヒスイ?」
 少し遅かった。ヒスイはそのときすでにへりを越えて飛び込んでいた。
 水音がまたあがる。
 気持ちよさそうだと思ったのだ。水に落ちた瞬間がとても気持ちがよかった。体に付いた小さな傷にぴりぴりした痛みが走る。だがそれよりももっと、水の冷たさが心地よかった。透明感のあるきれいな海の水。体にまとわりつく泡の一粒一粒が肌を滑っていく。その感触がなんとも気持ちいい。思ったより潮流は早い。流される前にヒスイは海面に浮上に顔を出す。
「ぷはっ」
 肺の中に思いっきり息を吸い込んだ。まるで生まれて初めて呼吸するかのようなこの一瞬が好きだ。顔に貼り付いた黒髪をぬぐうと目の前にコゥイの顔があった。
「やあ」
「よう。来たな」
 赤い色が分からなくなるほど目を細めてコゥイが笑う。ヒスイが飛び込んだのも彼に取っては驚くに値しない出来事のようだった。
「……来ると、知っていた?」
「来いといったろ。けれど、いわなくても飛び込んでくるような気はしてた」
 綱によって船と連動しているコゥイは滑るように移動していく。ヒスイは流されまいと腕で水をかいて泳いでおいついていった。
「馬鹿、体力を消耗するだろが。つかまれ」
「え? ああ……」
「俺にはお前を支えてやれる腕がない。手前の面倒だけで手一杯だ。ついてくるならお前が手を伸ばせよ?」
 手を伸ばされるのを期待するなとコゥイは笑う。ヒスイもつられて笑った。いままで、もしかしたら自分は誰かの手がさしのべられるのを期待していたのかもしれない。コゥイは差しのべてくれない。仮に差しのべたくとも、そのための腕がない。彼にあるのは自分が戦うための手だけだ。
 ヒスイは手を伸ばした。コゥイの背に腕をまわす。潮流に流されないよう、しっかりと彼の体にしがみついた。

   *

 その頃の船の上では。
「おい、レイガ。なんか船の下、いい雰囲気になってるぞ?」
「知らん。おれ様はなーんも見てない。子供が二人、じゃれてるだけだ。おれ様は、なーんにも知りません」
 船べりから背を向けてレイガが一人むくれていた。

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