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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第四節第二項(106)

 2.

 全員の目が集中する……魔法使いが連れてきた一人の女に。

 島の人間は見た。白い肌、そして熱帯の植物よりも艶々と輝く翠の瞳を。
 大陸の人間は見た。鮮やかな色の衣装を身にまとい、島の人間たちの船に現れた娘を。
 群れを作る動物は自分たちと違うものには敏感だ。真っ先に「自分たち」とは違う匂いをかぎ分け、それを排除する。
 ヒスイは島と大陸、どちらにも属さない。島に生まれる人間はみな褐色の肌に褐色の瞳をしている。ヒスイが白い肌と翠の瞳を持つ以上、島の人間とは決して相容れない。大陸で生まれた、大陸に属する立場と見る。
 ならば大陸の人間からするとどうか。大陸の出身とみられる身体的特徴をそなえた娘は、島の衣装を着て大陸の敵の船に現れた。大陸とは相容れない文化を受け入れた娘は、すでに自分たちとは違うものだと判断された。
 皮肉なことに、どちらからも敵とみなされた。

 周囲のざわめきから、厄介なことになったとコゥイは気づいた。彼女に不躾に向けられる敵意の視線はそれほどまでにあからさまだったのだ。船内には汗の匂い、金臭い匂いと荒んだ空気。間違いなくここは戦場で、唐突に現れたレイガたち二人は明らかに周囲から浮いている。
 レイガはいつのまにか頭巾をすっぽりと被っていて、おそらくヒスイ以上に目立つだろう檸檬色の髪もヒスイ以上に白い肌も人目にさらされることはなかった。のんきに片手をあげてコゥイに挨拶をする。
 血管が何本か、ぷちぷちと音を立てて切れた気がした。思わず駆け寄ってその首根っこを掴み上げる。
「ど派手な現れ方しやがって! テメエ、何、考えてやがるんだ!」
「何……って、お前が呼んだんだろーが?」
「来るんならテメエ一人で来やがれッ」
 コゥイがレイガに近づいてくるのとほぼ同時に、周囲の島の人間は一歩、レイガから……いや、ヒスイから距離を置いた。彼らは、ただ大陸の女だというだけでヒスイを敵視している。一目見ただけでヒスイに牙をむいたアジロのように。
 レイガは抑揚のない声で、自分の胸ぐらをつかみかかってくるコゥイを諭した。
「勝算がなくて連れてきたわけじゃないんだが。彼女も望んだし、彼女の能力は十分に役に立つと判断した結果だ。……と、おれ様がそう考えていることぐらい、お前ならお見通しだろ?」
「俺がいってるのはそういうことじゃ……!」
 レイガもまた大陸の人間だ。だが、そこは島にいる年数の違いだろうか、ヒスイのように完全に敵視されているということはない。それでも反発されていることに変わりなかった。魔法が使えるという特殊な立場が皮肉なことにレイガの立場を島の中で守っていた。敵がいる間はレイガを利用するつもりで。
 くってかかるコゥイを見ていられなくなったのか、ヒスイが口を挟んできた。
「レイガを責めるな」
 ヒスイへと視線を移した。翠の瞳がまっすぐにコゥイを見つめている。無言で首を振って、もう一度「責めるな」と態度でしめす。レイガにつかみかかっていた手がゆるんだ。コゥイは視線だけで問いかける。どうしてここに来たのかと。今、心底怒っていた。それ以上に焦っていて、そして、どうして自分がそこまで強い感情を覚えているのか自分でもよく分かっていなかった。
「レイガのいう通りだ。私が望んだ。だからレイガを責めるな」
「あのなぁ!」
「……わかってる」
 ほんの少し憂いを含んだ笑みが返ってきた。翠の瞳が「心配するな」といっていた。彼女の瞳に透かし見える感情が、自分がヒスイのことを心配しているのだと気づかせた。
 何の心配だろう。この女は強い。それは知っている。けれど今は怪我をしている。自分が怪我をさせた。痛む足と手首で、この女は何をしにきたのだろう。どちらからも敵とみなされて、どちらの陣営が勝ってもおそらく敵視されて。たとえこの船を助けに来てくれたのだとしても、もしかしたら助けたはずの島の人間によって怪我をさせられるかもしれない。それよりももっと……。闘争本能は男の血を狂わせる。戦場にただひとり立つ「女」がどんな目に遭うか。
 だがヒスイは薄笑いを浮かべてコゥイに応える。先ほどの笑みとは少し違う、くすんだ笑み。すべて分かっている、と。そういっているように思えた。

 コゥイはヒスイから目をそらす。舌打ちの音は盛大だった。
「おら、テメエら、何かたまってやがる! 今のうちに大陸の船を叩け!!」
 怒鳴り声が支配した。一瞬、膠着していた空気は弾かれるように元に戻り。船に乗る島の男達の意識はヒスイから再び敵へと向かった。鮮やかな方向転換。彼女から注意をそらしたかった。
「……コゥイ」
「どうせ言ったって聞きゃあしねえんだろうが! 自分の身は自分で守れよ、俺は守ってなんかやらねーからな!」
 捨てぜりふ。本気ではないが、売り言葉というやつだ。
「当然だ」
 晴れやかな声で答えが返ってきた。
 やけになった買い言葉ではない。それまで見たこともなかったような笑顔でヒスイは応える。自分が力になれることを戦士として喜んでいた。
 守られるだけのお姫様などまっぴらだった。隣に立つなら共に戦える相手がいい。戦場にあってなお、綺麗な笑顔の女。きっと血の匂いを身にまとっても綺麗だと思った。絶対に。
 後ろでぼそりとレイガがつぶやいた。
「……。早まったかな」
「何が」
 と、いきおいでコゥイは問い返してしまったが後で後悔するはめになる。
「いや、恋敵を自分で作ったかなー、と」
 聞きたくなかったたぐいの返答だった。

   *

 場に再び活気が戻った。小さな船で作られる船団は、大陸の船を沖へ沖へと追いやっていく。双方の船の上では敵味方が入り乱れてくる。

 ヒスイは息を吸い込んだ。敵の船は帆船。風の影響を受けるはずだ。
 風がヒスイの周囲を取り巻いていく。潮風を扱ったことはないけれど、湿気を多く含んでいる少しひねくれた風はそれでもヒスイに力を貸してくれる。ひねくれ方がちょっとコゥイに似ていたのでヒスイは我知らず微笑んでいた。
「こうも乱戦状態だと手加減が必要だな……?」
 話しかけるように風に手を差し出す。
 精霊を使う者には、かならず得意とする精霊と苦手とする精霊がいる。ヒスイは水の精霊が苦手だった。そして潮風は風の精霊だが若干、水の性質も含んでいるらしい。水の精霊が愛するのは、水が上から下へと流れていくような素直な性質。こればかりはどうしようもない。
 ざわりと風がうごめいた。
「さぁ……久しぶりだな、お前達にとっては」
 霧の谷がなくなってから精霊使いは激減したらしい。この「世界」でもう精霊を使える人間は数少なく、そして精霊のほうも自分たちの声を聞くものがいなくなって久しくなったということだ。
「行け」
 あまりに久しぶりだったから、ヒスイは心の中で唱えるだけでなく、声に出した。風が吹き荒れた。
 守らないといわれて喜ぶ女はおかしいのかもしれない。
 それでも嬉しかった。自分はちゃんと一人で戦えると認めてもらえたのだと思った。守られるだけの女になりたくはない。もう、自分を守るために誰かの手を汚させる真似はしない。手を汚すなら自分がやる。
 隣に立つなら共に戦える相手がいい。

 突如現れた突風が隊列を組んでいた船団を大きく揺るがした。島の船も完全に影響をまぬがれたわけではなかったが、それでも小さい分だけ被害は少ない。
 風に舵を取られ船の上はてんやわんや状態になった。風にあおられ水面に高波が現れる。船がまるでおもちゃのように大きく揺らめき、乗組員は次々と振り落とされていった。
 だが、大陸の船にはたくさんの櫂(かい)が突き出し、漕ぎ手たちが必死で立て直しているのだ。とても転覆まではもっていけない。
「……案外、効かないもんだな」
 実際は効いてないどころではない。だが、ヒスイが目算した結果には遠かった。
 ヒスイの後ろからひょっこりとレイガが顔を突き出した。
「大陸のはガレー船だかんな。帆をとったくらいじゃあ、さすがに絶体絶命まではいってくれんようだ」
 レイガは先ほどまでコゥイの側にいたはずだ。
「お前、どうしてここに?」
 後ろを振り向いた。が、そのとき間近で見たレイガの顔色が変わる。
「あぶな……!」
 ヒスイめがけて剣が繰り出されていた。
 素早く体をひねる。剣を握っていたのは大陸の武装をした男。手には刺し貫くタイプの細身の剣。
「死ね、裏切り者が!」
 勝手に仲間扱いして、ついでに勝手に裏切り者扱いとは、随分と厚かましい。ヒスイは自分から剣の前に飛び出した。レイガの顔が固まるのが見える。次の瞬間、レイガのずるずるした長衣の下から銀色の煌めきが抜かれるのも。
(……なんだ、剣が使えるのか)
 魔法使い一方だと思っていたレイガは、大陸の人間が持つものと同じ武器を手にしている。ヒスイが知っている剣はもっと幅の広いもので、切り裂いたり突いたりするよりもむしろ叩きつぶすための剣だった。文化の違いということだろうか。そうすると、現在敵対している彼らは、広く大陸といってもレイガが所属する文化圏からの強襲なのかもしれない。
「ヒスイ!」
 遅れて気づいたコゥイの叫び声も聞こえる。
 思考は一瞬。行動も一瞬。ヒスイは男の懐に入り込むと軽々と敵を投げた。
「な」
「に?」
 着地の際にきっちり首の骨を折っておくのも忘れない。ごきん、と鈍い音がひざの下で鳴った。
 それを目撃した島の男たちは少なかった。何しろ乱戦である。だが、見たものは一斉に畏怖を覚えた。体の小さな娘が大の男の手をひねり、軽々とその体を宙に浮かせ、素手で倒してしまったのだから。
 ヒスイは男の屍から細い剣を奪い取ると油断なく構えた。敵は一人ではない。使い慣れない武器だから、どこまで頼りになるか心配ではあるけれど。襲いかかってくる複数の男達に向かう。
 と、そのとき。自分の後ろからレイガが飛び出す。鮮やかな一閃で敵の喉を貫いた。
 ヒスイの目の前で、白い肌した男は血を吹き出しながら絶命する。
「油断大敵」
「……どうも」
 簡素な礼をいうと、ヒスイは細身の剣を棒きれかなにかのように振って敵を払う。間違った使い方だということは分かっているが、本来の使い方をしてもヒスイには貫ききるだけの筋力がない。レイガも男性の体格としては華奢に見えたが、きっちりと体を作ってはいるようだ。
「案外、使えるじゃないか。魔法使い」
「それはおれ様がお前さんに言いたいね。体術ができるとは思わなんだ」
 我流のコゥイの剣とは違う。あきらかにどこかで習った剣の形でレイガは動いていた。鋭く、早く、的確に振るう。考えてみれば、最初にヒスイがコゥイとやりあったとき、剣を置いてあったのはレイガの家だった。彼がそういう物騒なものをそこらに置いているような生活習慣の人間だと気づかないほうがおかしかった。
「おれ様の剣技はこういう戦いの場のためのもんじゃない。あくまで護身用か儀礼用だ。お前さん、随分と実践型の剣を使うじゃないか」
 激しい動きのためにレイガの被った頭巾がずれそうになる。いや、頭巾など被っていなくても、剣の型は大陸のものだと一目で分かる。ヒスイと同様、レイガも裏切り者として一方的に狙われ始めた。
「……そりゃあそうだろう。私は、そのための力が欲しかったんだから」
 護身用に体術を学ばせてくれたのは、いつかこちらの世界に来ることが分かっていた母の気遣いか。それと、いつもにっこり笑う極悪非道の元・盗賊が懇切丁寧に教えてくれたのはナイフだった。皮肉なことにそのふたつが基礎になっている。人体急所については父に教わるより先に学んだようなものなのだから。
「コゥイ!」
 手に、足に、小さな切り傷をいくつも作りながら一人の男を呼ぶ。彼のまとう赤い衣は、血で血を洗う戦場においてもなにより目に付いた。赤い色ならそこらじゅうにあるのに。距離を隔てられてなおヒスイには彼の背中が分かったし、またコゥイもヒスイの声を聞き分けた。
 こちらを見たその両目は、血潮の中でも一番鮮やかな真紅。
「コゥイ! 敵の帆船に油を! 火矢の飛距離は私がなんとかする。全力でこの場から離脱してくれ!」
 屍をまたひとつ海に落としてヒスイは叫んだ。そのヒスイの声より、更に凛としたコゥイの声が響く。
「油を! テメエら、全力でここから離脱しろ!!」

 海は赤くそまっていた。風は吹き荒れていた。島の人間もたくさん死んだ。双方、決して無事とはいえない。島の船が起こしたのはまさに退却戦と誰の目にも映った。島の人間でさえも。自分たちは尻尾を巻いて逃げ出すのだと誰しもが思った。
 せっせと油を積んだ樽が大陸の船に投げ込まれる。両者の船は、甲板の位置が決定的に違う。せっかくの油は相手側の甲板には届かず、帆にかするのも少なかった。
 ヒスイは手にした武器をとうとう折ってしまった。
 元々、無茶な使い方をしていたのだからむしろここまで持ったことを感謝するべきだ。
「弓をしぼれ!」
 コゥイではない、誰かの声。全員がそのとおりに動いた。退却する小さな船は油の詰まった樽を投げつけ、そして火矢を射る。風がずっと沖に……大陸の船に向かって吹いているのは誰もが偶然だと思った。
「ヒスイ、無事か!?」
 役目の終わったコゥイが駆け寄った。彼には左腕がない。片腕で弓は引けまい。
 ヒスイは頷いた。全身にはいくつも小さな切り傷を負ったし、すすだらけで顔も黒くなっていたけれど。
 その向こうではちゃっかりと安全圏を確保して、レイガが呪文を唱えている。
「天と地の狭間にて生きとし生けるものの、全ての英知をこの身に一時、預からん。盟約に従い我の名を風に記すものなり。我の名は麗雅。この名において命ず。天空の魔法陣より力を一点に……」
 簡略化した呪文より一から正式に唱えるものの方が集中力は高めてゆけるらしい。なにをするつもりなのかは知らないが、ヒスイが見たなかで一番長ったらしい呪文を唱え続ける。彼の周囲にはまた力が集まっていた。どうやらそれを感じ取れるのは、ここにいる中ではヒスイだけのようで、他の連中はけろりとした顔でおのおのの仕事を片づけていた。
「私は大丈夫だよ」
 ヒスイの周りにはまだ風が取り巻いている。物理的な攻撃にはほとんど力不足だが、弓矢などがヒスイに当たらないように守ってくれているのだ。大丈夫だよ、と、ヒスイがコゥイに手をのばす。
 もうすぐ終わる。緊張の糸がゆるんだ、ほんの瞬きひとつ分の時間。

 隠れていた敵兵が、刃物をきらめかせレイガに向かったのはその時だった。

 あぶない、と叫ぶ前にヒスイが飛び出していた。
 ヒスイが飛び出すと同時にコゥイが曲刀を抜いた。
 コゥイが抜くと同時に、レイガが呪文を完成させた。

 そして。

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