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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第三節第五項(104)

 5.

 ヒスイは室内に人の気配を感じて目を覚ました。
 周囲はまだ薄暗い。夜が明けるか明けきらないかといったところだろう。ヒスイはじっとその気配に聞き耳を立てた。
 夕べ、ヒスイが寝たふりをしてから隣の部屋は長く明かりがついていた。耳をそばだてていても何も聞こえなかったから、おそらくどちらかが一人で何かしていたのだろう。ようやく明かりが消えて、寝息が聞こえるまでヒスイは神経を集中させていた。それからやっと眠りについたのだ。今が夜明け直前ならあまり眠れなかったことになる。
 それでもちゃんと目が覚めるのはその前に丸二日寝込んでいたせいだろうか。
「おい、起きろ」
 男性にしては細い声。はっきりした声ではなく、低くささやくような。ヒスイに向けていわれた言葉らしく、警戒しながら声の主へと顔を向ける。目の前には頭からすっぽりと頭巾を被った、怪しい男がいた。
「誰だ」
「アタシよ」
 先ほどとは違う声が、頭巾の男から放たれる。この声はレイガだ。ヒスイは驚いて、それでも誰なのか納得できたから体を起こした。
「……今日は女性の姿をしていないのか」
「化粧したまま徹夜すると肌がぼろぼろになるんでな」
 彼にとっての女装は、服と化粧と装飾品がすべてそろって初めて成立するものらしい。それにしても口調ひとつでここまで人間が違って見えるものだろうか。ヒスイはまじまじと頭巾の男を見た。
「あんだよ。信用ないってか?」
 レイガは面倒臭そうに頭巾をあげた。わずかな光の中でも彼の檸檬色の髪ははっきりわかった。レイガの特徴としてあげられる色違いの瞳はどちらも暗い色で、これくらいの光源だと同じような色に見える。それでも、この特徴のありすぎる垂れ目を見間違えるはずがない。
 ただ、女の顔のときはどちらかといえば華やかなのに対し、男の顔のときはぼんやりとした希薄な印象を受けた。
「納得したか?」
「……した。だが、どうして徹夜だったんだ? 私を起こしたのはなぜだ」
 彼の答えは単純明快だった。
「寝台が二つしかないから」
 つまり、この家には寝台が二つ。普段はコゥイとレイガだけであるから事足りる。だが夕べはヒスイが増えたせいで、人間は三人になってしまった。誰かが一人あまってしまうのだ。仕方ないのでレイガは夕べ寝台をヒスイとコゥイに明け渡して自分だけ徹夜したというのだ。その彼は今からここで眠るつもりらしい。ヒスイに寝台を明け渡せというのだろう。
「……すまない。迷惑をかけたみたいだな」
 ヒスイが寝台の上から立ち退くと、そのままレイガは倒れ込んだ。
「気にするな。それにおれ様は元々夜型だ。ひどい低血圧なんでな。コゥイはお前と一緒に寝てもいいといっていたが……」
「冗談じゃない!」
「大声だすな。隣でまだあいつが寝てる。……」
 それっきり何もいわなかった。寝入ってしまったらしい。寝起きは悪いらしいが、寝付きは恐ろしいほどよいとみえる。
 ヒスイは肩をすくめた。とりあえずすることもない。散歩にでも出ようかと、ヒスイはそっと小屋を抜け出した。

 南の島にくるのは初めてだった。湿気を含んだ空気がしっとりと体を包む。霧の谷のそれとは違う、水の側の空気。潮の香りはまだ嗅ぎ取ることはできなかったけれど海が近いことは肌で分かる。ヒスイは素足のまま歩き出した。鬱蒼と茂った熱帯植物の森を道なりに進む。
 燦々と輝く太陽を浴びると人は明るくなるらしい。鬱になるのは冬の日照時間が短い北国によくある症状だという。そんな話が関係があるのかどうか知らないが、今のヒスイはとても開放的な気分だった。思うように動かない足のねんざだけが少し惜しい。
「無理をするな」
 後ろから声をかけられて、思わず体をこわばらせた。
 振り向くとコゥイがいた。昨日の服装とは違って今日はちゃんと上下の服を着ている。腕の先がない左肩の上には赤いマントのような掛け布。自然と目を引く。いつからそこにいたのだろう。地の利は向こうにあるとはいえ全く気づかないなんて。
「……眠っていると思っていた」
「こんなに涼しいのに? ここらじゃ、朝と夕が一番過ごしやすい。レイガは別だ。あいつは太陽が中天にのぼるまで殴っても蹴飛ばしても絶対起きやしねぇ」
 しゃべりながらコゥイは歩を進める。彼もまたセイと同じく、ほとんど足音を立てなかった。いくら足音を忍ばせていても気配で分かりそうなものなのだが気づかなかったということはそれだけヒスイが油断していたのだろうか。
「ほれ」
 右手が差し出された。
 ヒスイは翠の瞳を丸くする。どういう意味だろう。
「その足じゃ思うように歩けんだろうが。手を貸してやるといってる」
「……私に触るな」
 体が半歩分逃げたのはほとんど無意識だった。コゥイが何かしたわけではない。昨日の無礼はこちらにも非があるので「お互い様」と相殺されたはずだ。それ以外で誰かに借りなど作りたくなかった。コゥイは一瞬、不機嫌な顔を見せた。
「人の親切は受けるもんだ」
「親切の押し売りは断る」
 純粋な好意と好意の裏に隠れた悪意が判断できない以上、ヒスイはそうすることで自分を守ってきた。悲しいまでの事実が身についてしまっている。だが、完全に割り切って良心も痛まないような状態に持っていくには、ヒスイはまだ甘さが残っていた。セイならもっとうまくやる。あれは、表面上にっこり笑って利用できるものは他人を傷つけてでも利用する。痛む良心など始めから持ち合わせていないのだから。
 コゥイの目が見透かすように見つめてくる。にらみ返すことが精一杯の抵抗だった。
「あんた、そうやってとんがってて楽しいか?」
 差し出したはずの右手を引っ込めて、赤い瞳がすがめられた。
「自分一人を守るために複数の人間を傷つけて楽しいか? そうまでして守らなきゃならないあんたは一体、何様のつもりだ? まず最初に自分から傷つけておいて、その痛みにもめげず自分を愛してくれた人間だけが本物とでもいうのか。大概にしやがれ。他人に試練を強いなきゃならないほど、あんたは偉いのか」
 真紅の瞳が、身を切り裂かれるほどに冷たい光を跳ね返す。
「そうやって高見から見下して、さぞ気持ちのいいことだろうな」
 唐突に突きつけられた言葉。
 鋭い刃物でざっくりと切り込まれた気がした。次いで、怒りで頭に血がのぼる。そこまで思い上がってなどない。が、男の言葉は当たっていると自分の中の客観的な声が了承していた。どうしてこんなに、涙が出そうになるのか。
 コゥイの言葉に反論する台詞をヒスイは持っていなかった。
「……ほっといてもらおう」
 かろうじて、それだけいえた。この男には関係ない。昨日今日会っただけのこの男に、どうしてそこまでいわれなければならないのだ。沸々と怒りに似た感情が煮えたぎる。悔しかった。腹立たしかった。この男は私ではない。何もいう権利なんかないのに。
 煮えた頭に冷水を浴びせかけたのはまたしてもコゥイの一言だ。
「だったら俺が助けたお前の命を返せ」
 と、彼は冷静にいった。
「都合のいいときだけ恩恵にあずかっておいて、自分は後足で砂かけて終わるつもりか? 命には命で償え。いらないのなら、その命、俺に返せ」
 言葉に詰まった。
 頭の中は強い感情の色で支配される。一言でも口に出したら、想いはそのまま別の形であふれそうで。何もいえずにヒスイは歯を食いしばった。
(何もいうな。感情に左右されるな。こんなこと、なんでもないふりしてやり過ごせ)
 己を叱咤しつつ腹に力を込め、コゥイをにらみつける。そうしてやっと暴れ狂う自分の感情を抑えこんだ。心の底まで見透かされているようでイライラする。同時に、自分がひどく恥ずかしかった。自分を守るという題目で優しい人を傷つけることに慣れていた自分がひどく傲慢に思えて。
 コゥイの瞳も同じくらいまっすぐにヒスイを見つめていた。その眼光がふとゆるむ。右手がもう一度差し出された。
「ほれ」
「……」
 ヒスイの視線が手に移った。どういうつもりか。ヒスイは返事の代わりににらみ返した。
「手負いの獣か、お前は。この手をとってもお前の負けじゃねえ。振り払うなよ。俺の腕はもうこれ一本しかないんだからな」
 手がさらにのばされ、ヒスイを招いた。
 ヒスイはしばらくその手を見つめていたが、やがて、おずおずと手を出した。一本きりしかない手を差し出されたその危険性がわかったから。以前、教えてもらった。非常時には片腕を開けておくのだと。救助する人間は例え乱暴に見えようとも引きずっていくのが一番よく、必ず利き腕を開けておく。いざというとき対処できるように。
 その手をヒスイで塞ぐということは自分が危険になるということだ。こんなに簡単なことに気づかなかった己を恥じた。大きな手の上に自分のそれを重ねる。
 コゥイの右手はヒスイの手をとらず、そのままヒスイを引き寄せて足からすくい上げた。
「ちょ……っ」
 片腕一本で抱き上げられてしまった。
「歩けないんだろうが」
 赤い瞳がまっすぐに見上げてくる。その通りだったのでヒスイは唇を引き結んで頷いた。今は何がなんでも怪我を治すことが先決だったから。真紅の瞳が意地悪く笑う。
「面白い顔だな」
「……悪かったな」
 先ほど痛いところを突かれたので、ヒスイの対処はついぶっきらぼうなものになってしまう。態度はすぐに変わらないものだ。彼は自分に危害を加えるものではないと分かっても。
 ヒスイを抱え上げたまま、コゥイは散歩の続きをすることに決めたようだった。ヒスイが行こうとしていた道をまっすぐに進む。歩かなくてよいだけ随分と楽で、それに自分の身長よりも高いところに視点があるのは楽しかった。
「……海はどうやって行くんだ?」
「ここをまっすぐだ。今のあんたでも沢遊びくらい出来るかもな」
「どうして私を助けた?」
 おぼれたところまで覚えてる。どうして助かったのか分からなかった。コゥイは笑った。
「海の前じゃ人間なんざ弱いものなんだよ。例えそれがどんな悪人でも、死にかけてる人間を助けるのに理由がいるのか? 見殺しにする理由がなければ助けるのが普通だろうよ」
 そんなものだろうか。ヒスイは間近に見える男の顔をみる。横顔を見ていたら、その顔が急にヒスイのほうを向いた。
「俺も聞きたい。お前、俺の目が怖くないのか?」
 と。
 何をいわれたのか一瞬わからなかった。おそらくいっている意味は赤い色のことだろう。が、目の色が違うだけで怖がる理由にはならないだろうとヒスイは思った。だがコゥイの目は真剣だった。
「お前は最初から俺の目を見ても脅えなかった。それどころか今でもまっすぐ俺の目を見る。なぜだ?」
 きつい声音。どう答えたらいいものか分からなくて、ヒスイは一瞬ためらった。
「……怖がる理由なんかないもの。お前の言葉を借りるなら、怖がる理由がなければ、脅えることもないのが普通だろう?」
 ヒスイは腹芸のできるたちではない。とまどいは顔に出る。コゥイはまだ訝っていたがヒスイの顔をまじまじと見ると納得した……納得せざるを得ないようだった。
「怖がる理由ならあるだろ。これは人間に出る色じゃない。化け物とさんざんののしられたぞ、俺は」
「一応、人間と妖魔と精霊の区別はつくようになったんだ。お前は人間じゃないか」
 それに、言うつもりなどなかったが赤い瞳は見慣れていた。燃えるようなオレンジの髪の美女が赤い瞳だったから。彼女は人間ではなかったが、その色を異様だと思う前に彼女はヒスイの側にいたので慣れてしまっているのだ。
 コゥイはしばらく黙っていたが、じっとヒスイの目を凝視したあと、破顔一笑した。
「やっぱ気に入った」
「え、なに……?」
 ますますわけが分からない。

 熱帯の森の中、二人だけでしばらくの間、互いの目を見ていた。赤い瞳と翠の瞳がそれぞれ相手の顔を映す。何か言いかけそうで、どちらも何もいわなかった。
 沈黙を破ったのはヒスイでもコゥイでも、まして熟睡中のレイガでもない。
「コゥイ!」
 まさしく進行方向から男性の声が飛ぶ。駆け寄ってくる男が見えた。
 コゥイと同じような褐色の肌の青年。髪はちぢれた短髪だ。その青年はなぜかヒスイの姿をみとめると、ぎくりとして歩みを止めた。コゥイがそれに声をかける。
「どうした、アジロ」
「……その白い肌……コゥイ、その女、どうしたんだ!」
 きつい口調だ。恨まれているような非難の声。昨日間違えて刃を向けたコゥイにならいざ知らず、見ず知らずの男にそうそう恨まれる当てもない。ヒスイはコゥイを見る。
 コゥイは平気な顔して答えた。
「俺の女」
 ヒスイは頭の中でなにかが切れる音が聞こえた気がした。
 だが怒り心頭なのはヒスイよりむしろアジロと呼ばれた青年のほうらしく、大きな声をあげて指を突きつけてきた。
「何を考えてる! これから大陸に戦を仕掛けようって人間が、よりによって大陸の女と……!」
 戦の一語にヒスイは背を正した。
 戦争になる。思わずヒスイは彼の耳元で怒鳴った。
「コゥイ!」
「うるせぇな。ごちゃごちゃ抜かさなくても、そう簡単にお前を放しゃしねえよ」
 人称代名詞がさっきから「お前」に変わっていることをヒスイは聞き逃さなかった。アジロはというと不信な目を向けてヒスイを見たが、それどころではないと軽く舌打ちする。
「コゥイ。そんなことで朝っぱらからお前を呼びに来たんじゃないんだ。沖合いに大陸の船が見える。また一仕事だ。しかも、こんどの船団は大きい……!」
「マジか。この間仕事したばっかだぞ。早すぎるんじゃないのか?」
「この間と同じ国かどうかは知らないさ! だけど、ここらの島一帯をかたっぱしから荒らしている奴らとあれは同じだ!」
「……ちッ」
 渋々といった様子で、コゥイは抱いたヒスイを一度おろす。
「お前、ここから帰れるな? 殴っても蹴飛ばしても構わん。レイガを叩き起こしてくれ。俺は先に船に行く。……あいつ、寝入ったばかりだからもしかしたらお前じゃ起こせないかもしれんが」
 大きな手で華奢なヒスイの肩を軽く叩く。それを合図に男二人は海の方向に駆けだしていった。何かが起こっている。そして、それには戦えないヒスイよりもあの優男が必要なのだ。
 ヒスイは急いで来た道を引き返した。ねんざの痛みはある程度引いているが、走ることはできない。ひょこひょこと引きずりながら引き返す。自由に動かない体がもどかしい。
「レイガ!」
 ヒスイは叫んでいた。熱と湿気を含む風がヒスイを取り巻く。その風に声を乗せてヒスイは叫んでいた。直接歩いて行くより、こちらのほうが絶対に早い。
「頼む。起きてくれ、レイガ! よく分からないが大変なことになってる」
 風がヒスイの声を運ぶ。
 殴っても蹴飛ばしても起きないとお墨付きをもらった低血圧男を、これだけで起こせるかはなはだ心許なかったが。
「コゥイがお前を呼んでる。お前を必要としてるんだ! ……惚れた男くらい自分で助けろ!」
 これ以上効果のありそうな文句はヒスイには思いつかなかった。

 そう時間の経たないうちに寝ぼけ眼のレイガが家の方向から走ってくる。
 真相を知れば鳥肌たてて嫌がるだろうコゥイを思い、決め手の台詞だけは黙っていることに決めた。

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