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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第三節第三項(102)

 3.

 ヒスイはうっすらと目を開けた。
 黄色い光だ。この光の色はもう昼間だろう。再び目を閉じて寝返りを打った。とん、と何か柔らかい壁にぶつかった。
「……?」
 今度ははっきりと目を開ける。呼吸音にあわせて上下する胸があった。ついでに、背中から尻にかけて重い右腕が絡みついている。
 跳ね起きた。
 知らない場所、隣には知らない男。男は身じろぎをし、すぐに目を開けた。
「……ん。なんだ、やっと起きたか……?」
 ぴしり、とヒスイの意識にひびが入った。ヒスイは自分が一糸まとわぬ姿であることを確認する。あまりにも出来過ぎた状況でやることはひとつ。悲鳴を上げたり等、一般女性らしい行動を起こすより前にヒスイは男に殴りかかる。その手にめりこんだ鼻の感触があたることを疑いもしなかった。それはきっといつの間にか「習慣」になっていたからかもしれない。
 が、予想に反して褐色の肌の男は紙一重でヒスイの拳を避けた。
「いきなり何をやってくれるんだかな、このお嬢は」
「!」
 ひやりとした。その声音にではない。自分の失態に気づいたからだ。この男、戦闘経験では明らかにヒスイより上なのが分かってしまったからである。自分の攻撃をかわされたときにどうするべきか、戦いの本能と訓練の行き届いた体はすぐさま行動に移った。上掛けの毛布をはぎとるとその場を離れる。相手の攻撃の間合いから即座に離れること。ヒスイは毛布で体を隠すようにして壁際に貼り付いた。
「……私にさわるな」
 呼吸を整える前にヒスイは相手をにらみつける。壁際をとったのはもちろん背後からの死角を作らないためだ。たったこれだけの動作で軽く息があがった。体がうまく動かない。一体、どれくらい眠っていたのだろう。
 目の前の男は目を丸くしてヒスイを見た。その目が人間には現れない、赤い色をしていることにヒスイは気づく。懐かしい色だった。からかいを含んでヒスイで遊んでいたレンカを思い出す。一応念を押すがヒスイ「と」遊ぶのではない。ヒスイ「で」遊ぶというのが文法的に正しい。
 男は、寝そべった姿勢のまま真紅の瞳でヒスイを眺めた後、やおら上体を起こした。
「驚いたな。丸二日寝ていた状態で、もうそれだけ動けるのか」
 彼の皮肉げな笑みはヒスイの視界に入ってはいなかった。釘付けになったのは、ひじから下がない左腕。太い首、広い胸、筋肉の鎧を身にまとった引き締まった上半身。一見完璧な肉体の中で、肉がこそげおちたような左だけひどく均衡を崩している。下半身は意図的に見ないようにした。男もまた一糸まとわぬ姿であったから。
「……私に何をした!」
 眉じりをつりあげヒスイは詰問口調をやめない。この手の状況で女が真っ先に心配することに関しては、体の中心部に異物感がないことで無事だったんだろうと勝手に判断する。が、それがなければ全てよしというわけでもないのだ。
 男は顎に手をやって首をひねった。
「何を? そう、だな。……乳もんで、服ひっぺがして、腕に抱いて寝た?」
「十分だッ」
 殺してやるリスト入り確定。
 この場に武器がないことが悔やまれた。ヒスイの目が左右に走り武器を探す。目の前の男は体格からしてヒスイが正攻法で戦っても勝てないことが見てとれる。それでも、おとなしく蹂躙されることだけはヒスイの矜持が許さない。幸いにというべきか、男も寸鉄ひとつ身に帯びていない。そしてヒスイの目は欲していたものを見つけた。
「……っ」
 右に飛ぶ。無造作に、本当に生活用品の一部のように無造作に置かれていた短剣を取るために。男の目つきが変わった。
「よせ!」
 制止の声をふりほどき、ヒスイの手がそれを取る。その瞬間、軽い舌打ちの音と同時に寝台がヒスイめがけて飛んできた。
 ぎょっとした。
 慌てて正反対の方向にまた飛ぶ。咄嗟のことでもあったし、何より十分に慣らしていない体は即座に反応することができなかった。着地の瞬間、ヒスイの左足首に鈍い痛みが走る。しまった、と思った。ヒスイはそのせいで崩れ落ちそうになる体をなんとか支えて、背中を壁にあずけ男に対し剣をかまえる。足首をねんざしたかもしれない。だが、これくらいなら動けないこともないと判断してヒスイは痛みを無視した。
「その鞘を抜くな」
 男の声が剣呑な響きを帯びてヒスイに投げつけられた。
 今、彼はすっくと立っている。やはり何も身につけないまま。どうやらその格好のまま、蹴り技で寝台をヒスイに投げつけてきたらしい。ヒスイは自身の習慣でついその寝台を重く固いものだと思っていたが、違った。ヒスイの隣で形を崩している寝台だったもののなれの果ては、竹を編んだような軽く通気性のよいものだ。これならヒスイの力でも投げつけることができるかもしれない。
 隻腕の男の台詞は続く。
「そっちも剣を持つ人間なら分かってるんだろーが。それを抜いたら、俺は全力でお前をくびり倒すぞ。お前の力じゃ俺に勝てない」
「……」
 尊大な台詞にかちんとくるものがあるものの、なまじ当たっているものだから反論もできない。ヒスイは男をにらみつけ続けた。

 室内は干からびた蛙やらトカゲやら骸骨やらの怪しげなものと、膨大な書物が山と積まれていた。燦々と照りつける真昼の太陽が窓から差し込んでくる。粗末な木の床もどちらかといえば明るい色で、室内の調度品の雰囲気が南の島を思わせた。湿度が高いのに加え風に潮の香りが混じっている。おそらく、海が近い。ヒスイは左手で体を隠す毛布を握りしめた。毛布というよりこれはただの大きな布だ。気づかなかったが裸でもあまり寒さを覚えない。
 そして、目の前の男の、褐色の肌。ここはどこなのだろう。そして、いつの時代なのだろう。肩で息をしながらヒスイは鞘に入ったままの短剣を油断なく構えていた。

「……確かに、私では勝てないな」
 睨み続けたままヒスイは短剣をかまえる。
 力量の違いくらい分かる。悲しいことに分かってしまう。腕力も体力も体重も目の前の男の方が上だ。瞬発力を武器に動き回り手数で勝負するしかない自分では勝てない。
「けれど一方的な力の差があるのは……嫌いなんだ」
 それは目の前の男も同じだろう。ヒスイが短剣を抜いた瞬間にこれは男を屠る牙になる。彼はそれを見逃さない。冗談でなく、本人がいったとおり全力でヒスイの首を絞めにくるはずだ。一目で歴戦の戦士と分かる目の前の男は、きっとそうやって自分の生を勝ち取ってきたのだから。男は少し首を傾げ、半ばあきれた声をだす。
「体を隠したまま戦えると思ってんのか? それじゃあ俺と条件は五分だ」
 左腕を失った男は不敵に笑った。ヒスイもまた左を封じられている。体を隠すための布をしっかりと抱いているから。けれど……それでは勝てない。ヒスイも男に倣って笑った。
「……冗談じゃない。五分どころか私の方が条件は悪いじゃないか」
 ヒスイはしっかりと短剣を握った。そして、左手でその鞘を抜く。男の真紅の瞳が真剣になった。
 勝負は一瞬。ヒスイはねんざした方の足で力一杯踏み切った。
 短剣の鞘を投げ、両手でしっかりと柄を握る。体を隠していた布は音も立てずに落ちたがヒスイはかまわず剣を振った。飛びかかられた男はそれをまた紙一重で避ける。
「マジで隠さず来るとは大した女だな!」
「うるさい! ここで羞恥心なんか覚えてたらこっちが死ぬんだ!」
 恥と命なら命を取る。男はその図体に見合わずというべきか、俊敏に動いて後ろに飛んだ。そこらに置いてあるものをかまわずヒスイに向けて蹴りまくってくれる。
「その格好で蹴りをいれるな!!」
 見たくないものがいやでも目に入る。完全にかわすことが出来ず、飛来物に足を取られながらヒスイがわめくと男はやや自慢げにいった。
「同じ真似はお前にできんだろーが!」
「やってたまるか!」
 わめきながらヒスイは正確に急所を突いていく。とびちった本や家具やら不安定な足下を見ることもせず、ヒスイは的確に足場を選んでいた。防護するもののない現在、刃がかすりでもすれば出血を望めるのだが男はギリギリのところでよけるのだ。まずい、とヒスイは早くも焦りはじめていた。この男、本気で強い。左足首が心臓の鼓動に合わせて痛みを主張してくる。動きが自然と鈍くなる。男はそれを見逃さなかった。しまった、と思ったときには褐色の右腕の間合いに入っていた。
(しまった……!)
 避けられない。それは一瞬。獣と対峙しているような、感情の冷えた真紅の目がヒスイを見ていた。太い右腕が伸ばされる。ヒスイの首ではなく、その手は剣を握りしめたヒスイの右手首を捕まえた。そのまま全体重をかけてぶつかってこられる。ヒスイは背中から壁にたたきつけられ、男の体に挟まれる形になった。背中からおそう衝撃は内臓に反動がくる。しかしその反動は押さえつけられた男の体で相殺した。
 男の食いしばった歯のすきまから獣のうなるような声が漏れた。
「こ、の……」
 万力のような力で手首が締め上げられる。右手で相手の右手を捕まえているのだから、ちょうど手が交差して男に不利な体勢になっていたが、彼はさらにヒスイの手首を握りつぶさんばかりに力を込めてきた。
 痛みに身をよじりながら、それでも必死にヒスイは無事だった左手で男の指をはがそうと爪を立ててみる。ねんざした左足首がさらに痛みを主張していた。無理をしたのがたたったのか、おそらく腫れ上がっているだろう。それよりも厳しい痛みがヒスイの剣を握った右手首に集中していた。
 それでもヒスイは剣を放さなかった。離れそうになる指を意志の力で必死になってつなぎ止める。これは最後の牙。目の前の男に抵抗できる唯一の力なのに。
「いい加減、放しやがれッ!!」
 ぶん、と掴まれた手を振られた。ぎりぎりでつなぎ止めていた刃は、慣性の法則に従って無情にもヒスイの手から滑り落ちた。乾いた音を立てて最後の牙はヒスイから離れ、床とキスをする。目の前で落下した銀色の光をヒスイは嘆きと己への呪詛と同時に見送った。
 許さない。
 弱い自分は嫌いだ。この男、絶対に許さない。
 残った力をすべて眼光にこめてヒスイは男に向き合った。真紅の瞳もまたヒスイの翠の瞳をにらみつけている。万全の体調で対峙しても勝てるかどうか分からない相手なのに、まして今の状態では敗北は必至だった。分かっている。それでも。
 にらみ合ったまま両者はしばらく動かなかった。先に動いたのは、彼。赤い目がすうっと細められる。
「気に入った」
 唇がゆがんだ。そして男はそのままヒスイに覆い被さってくる。何が、と思う間もない。右腕一本で完全にヒスイの抵抗を抑えきって、彼はヒスイに口づけた。
「……!!」
 ふさがれた唇の奥でヒスイは毒づいた。
 殺してやるリスト上位入賞入り、決定。

 第三者の声が割り込んできたのはそのときだ。
「……って、何さらしてやがる、おんどれはッ!!」
 男の後頭部めがけて枕か何かの物体が投げつけられたことを、ヒスイは口内の感触から知った。ふさがれた口がやっと離れる。
「痛ぇな、テメエ!」
「お黙りッ、アタシの家で不埒な真似しくさってんじゃないわよッ」
 最初に聞こえた声は確かに男性の声だったと思うのだが、二度目に聞こえた声はややハスキーな女性の声だった。二人いるのかとヒスイは入り口を見る。入り口はちょうど男の体の向こう側にあったので、そのたくましい肩越しにのぞいて人物を確かめた。そこにいるのは女性だけである。派手な色彩をした女性が仁王立ちになっていた。
「女、脅して何やってるのよ、あんたは。目ぇさめてよかったわね、あなた」
 女性は前半の台詞を男に、後半の台詞をヒスイに向けた。たっぷりと波打った髪は檸檬色。高い位置に結い上げ、極端に垂れ下がった瞳は左右、色を違えていた。群青と焦茶の色石をそれぞれはめたような輝きがヒスイを見る。この暑いのに首と肩と二の腕をきっちり隠した上衣を着込み、下はいかにも南国風味な布を巻き付けてスカートにしていた。
「ごめんなさいね。この馬鹿が失礼を」
「馬鹿は余計だ」
 隻腕の男の抗議をさらりと無視して女はにこにこと愛想笑いをしている。
「この馬鹿はコゥイ、アタシはレイガ。あなたが南の岩場でおぼれていたところをコゥイが助けてくれたのよ」
 にこにこと如際ない笑みを浮かべつつ隻腕の男を指さす。助けた、の一語にヒスイはやや警戒しながらコゥイと呼ばれた男を見やった。
「あなた、運がいいわぁ。コゥイは船乗りなの。緊急の対処は心得てるし、すぐに水を吐かせて、海水でだめになったあなたの服を脱がせて、あなたの体を温めてくれたのよ。それでも意識が戻らないんですもの。アタシ本当に心配しちゃった」
 ………。
 水を吐かせて。胸を押して、服を脱がせて、隣に寝ていたのはそのため。ヒスイの頭の中でやっと事態が納得できる形に整う。それではこの男はヒスイの恩人ではないか。
「紛らわしい言い方をするな!」
 思わずコゥイに向かって怒鳴っていた。つまりヒスイは、恩人に刃を向けてしまったわけである。無礼なのはこっちの方だ。しかしそれをきちんと説明してくれなかった彼も彼だ。しかして、コゥイも負けてはいなかった。
「だから抜くなといっただろーが! 勝手に勘違いして殴りかかってきたのはお前のほうが先だぞ!」
「説明が悪かったのが悪い! た、たしかに、私が悪かったわけだがっ。それもさっきのキスで全部ちゃらだ!」
「あれだけで済まそうってのか!?」
「あれ以上するつもりだったのか!!」
 近距離での怒鳴り合いにレイガがしっかり耳を塞いでいた。慣れているのか顔はあきれ顔である。
「コゥイ。ともかく、その右手を放してあげなさいよ。あんたの力で締め上げてるもんだから、絶対あざになるわ、それ」
 レイガの指がしなやかな動作で捕らえられたヒスイの右腕を指さした。
「俺は殺されかけたんだぞ」
 コゥイの声はぶっきらぼうだった。ヒスイの肩がややこわばる。やっぱりこういう手合いは一度敵だと認めたら忘れてはくれないらしい。その反応を見てとったかレイガの甘ったるい顔がほんの少し厳しくなった。眉根を寄せて、赤い唇が非難の声をつぶやく。
「……聞き分けのないことをいつまでもいってるんじゃねーぞ。あんまりごちゃごちゃ抜かすと、おれ様も切り札だすかんな……?」
 と。
 まがう事なき男性の声がその柔和な「女性」から紡ぎだされた。
 ヒスイは思わず目を点にする。もっと如実に反応したのはコゥイの方だ。しっかりと掴んでいたヒスイの細い手首から手を放す。その全身に鳥肌が立っていた。
「お前、警告する前に切り札使ってるじゃねーかッ」
「あら、おほほ。女の格好してるときに男の声で話しかけられるの、コゥイったら嫌いだものねェ?」
 レイガは口元に手を寄せ、見てはっきりと分かるほどに、しなを作った。
 固まっているヒスイを見てそのレイガはにっこりと……付け加えるなら女性にしか見えない柔らかな笑顔を浮かべて。
「改めまして、お嬢さん。アタシはレイガ。正真正銘のオ・ト・コ。でも女性に興味はないから安心してね? 趣味は研究と女装、好きなものは綺麗なものと、コゥイよん」
「やめんか、変態ッッッ」
 そのコゥイは本気で鳥肌を立ててレイガから距離を置いている。

 ヒスイはしばらく固まってしまった。自分が全裸のまま突っ立っていることも忘れてしまうほどに、急激な環境の変化についていけなかった。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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