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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第三節第二項(101)

 2.

 波の音がする。寄せては返す音。それに合わせるような心臓の鼓動。
 子守歌のようだ、と、その音に耳を傾けてヒスイは寝入っていた。昔から人の心音と呼吸音を耳にしながら眠るのは好きだった。側にそれがあることでさらに体から余分な力が抜ける。
 自分がどこにいるのか分からなかった。知ろうともしなかった。ただ幸福な夢見て、記憶の海をたゆたっていた。

   *

 ヒスイはまた闇の中を歩いていた。
 また時空を飛ぶのかと最初は思ったが、今度はきちんと靴を履いていた。ヒスイが着ているものも寝間着ではなく襟の高い着慣れた旅装束である。頭の上には満天の星が輝いていた。これも今までとは違う。
「……夢を、見ている?」
 つぶやいて自分の体を抱きしめた。最近、色んな不思議なことがありすぎてどれが夢でどれが現実なのか判別が付けづらい。これまでは『予言の星』といわれてはいても具体的に自分になにができるのかなんて分からなかった。それが、父の死をきっかけに一気に吹き出したものだから感覚がまだ現状に着いてきていないらしい。
 夢を見ているとはっきり知覚して夢をみたのはトーラに会ったとき以来だ。たしかすすり泣く声が聞こえて、それから幼いあの子を見つけた……。

 思い出に浸っていると、どこからか聞き慣れた声がした。
「ヒスイ?」
 少女の声だ。ヒスイの知る聞き慣れた少女の声といえばひとりしかいない。
「……トーラ?」
 振り向く。まさか、と思いながら。はたして、そこには鏡のように同じ格好をして突っ立っていた少女がいた。ゆるく波打つ蜂蜜色の髪、大きな藤色の瞳。ヒスイの魂の双子。ヒスイが動くより先に、目の前のトーラが駆けだしてきた。
「ヒスイ!」
 大粒の紫の瞳には涙の膜が薄く張っていた。ヒスイももう一度、双子の義妹の名を呼ぶ。なんだか随分長い間会っていなかった。両手を広げてトーラが飛びついてくる。こちらもまた大きく手を広げてそれを抱きしめた。ふわふわの猫を抱き留めたような気分だ。
「ヒスイ! ねえ、本当に? 私、自分がそうあって欲しい夢を見ているみたい!」
「こっちこそ。お前、本当にトーラなんだな。これは私の夢のはずだろう?」
 トーラは顔を上げ、くるんと甘い色の瞳をヒスイに向けてくる。
「ヒスイの夢ってばよっぽど私の星見と相性がいいのね。ここは私の星見の空間よ?」
 にこっと笑った。
 星見の空間。そういえば最初にトーラと出会ったのもそこだった。
「みんなあなたを捜しているのよ。嬉しいわ。私が最初にヒスイを見つけたのよね。会いたかった! どうして一人でいっちゃったの!」
 トーラの手がしっかりと抱きしめてくる。その仕草が愛おしくて、そしていつまでも小さな子供のままのようで、ヒスイはその背中をなでてやった。目の前にいるトーラはヒスイより少し背が低いだけの少女なのに。
「……心配かけて、ごめん。私も早くお前達のところに戻りたい」
 迷子になったんだ、と苦笑してみせた。
 やっと落ち着いたらしいトーラは、まだヒスイにしがみついたまま顔だけあげる。ヒスイの顔を凝視した。
 そして、なぜか妙に大人びた表情をしてため息をついたのだ。その仕草と来たら、「これみよがしに」という表現がぴったりくるような大仰なものだった。
「……ト、トーラ?」
「あのねぇ。私が、……私たちが何年あなたを待ったと思ってる? ヒスイはきっと、本来もっと未来に現れてそこの時間軸で固定しちゃうんだわ」
 トーラはやっとしがみついていた手を離した。やれやれ、と首を振るトーラの様子に、なんだか自分がとても厄介をかけてしまったように思えたのは気のせいなのだろうか。トーラがなぜヒスイの能力を理解しているのか、それさえヒスイは考えが及ばなかった。
 まっすぐな藤色の視線がヒスイを射抜く。ヒスイが一呼吸つけて落ち着いたのをみると、その愛らしい口を開いた。
「落ち着いてよく聞いてね。『今』はね、あなたが消えてから最低十年は経過してる。いい? 『最低』よ? 間違いなくそれ以上経過してるけれど、数えるのが面倒くさくて途中でやめちゃった。セイとアイシャは今どこにいるのか居場所が分からない。イスカだけはかろうじて分かってるけれど、今は地竜の里にいるから妖魔である私は直接おもむけないわ」
 責める口調ではなかった。いつもの、星見の結果を告げるように淡々とした口調。
 だがヒスイを驚かせるには十分だった。
「……は!?」
「セイはあなたを探すために真っ先に旅立っていったの。途中までは一緒だったんだけれど……あのセイが私が追いつくのを待ってくれるはずがないのよね。そのうち追いつけなくなって、それでおしまい。イスカはしばらくアイシャと一緒にいたはずなんだけれど、私が戻ったときには二人ともあの小さな家にはいなかった」
「……ど、どこに……」
「さぁ? 詳しい事情は分からないわ。星見でも探してみたのだけれど。ねぇ、ヒスイが何かしたんじゃないの?」
「私?」
 まさか、というニュアンスを含ませていったのだが真正面からトーラは切り込んでくる。
「だって! そこだけ、どう目をこらしても見えないんだもの! 星の光をくらませて歴史を改変できる力の持ち主なんて、ヒスイしかいないでしょう!」
 歴史の改変。
 随分大きなことをいわれてヒスイは固まった。
 時間軸を無視して自在に動けるということはたしかにそういうことだ。大人になったヒスイは、赤ん坊をかかえた頃の若いサラに出会ってひとつ知り得るはずのなかった未来を教えてしまった。もしかしたらアイシャの旦那さんに出会ったときも何か間違ったことをしでかしたのかもしれない。
「待ってくれ……私……」
 めまいを覚えた。もしかしたらひとつ時間移動するたびに、歴史が書き変わっているのかもしれないと思う。しかしトーラは、それで待ってくれるような性格はしていないのだ。じっとヒスイの翠の瞳をのぞき込み続け、視線を逸らさない。
「……ヒスイ。もしかして、今、魂だけこの時間にいるの……?」
「は?」
 考え事から完全に思想の方向がずれた。トーラの物言いは昔からなぞめいている。彼女独自の言い回しをするからだ。本人はそれで納得しているのだが、それを人に分かってもらおうという努力を……少なくとも星見のときは懸命に説明するのだが……まず、やらない。彼女の言葉の意味をくみ取るのは聞き手の仕事となる。
 そのトーラは、なぜか目一杯怒っていた。
「何、考えてるの? 体と魂を別の時間軸にとばすなんて! 人間は魂が体に戻れなくなったらその時点で死んじゃうのに!」
 そんな不用意なことしないで、とトーラは怒鳴った。
 きんきんとよく響く声はヒスイの鼓膜を直撃する。せめてもう少し小さな声で、あるいは低い声で叫んでくれればましだったのだが、トーラにそれを期待するのは酷な話だ。ヒスイは耳を押さえて、そしてもう一度トーラの言葉を反芻(はんすう)した。
 魂と体が別の時間軸に。
 今、ここにいるのは魂だけということらしい。その「今」とは。目の前にいるトーラは「現在」をヒスイが消えてから最低十年は経過しているといった。
(……では、自分の体は、どの時間にいる?)
 そこまで思考がまとまったときに、またトーラの甲高い声が響いた。
「ヒスイ、ここに来る前には何をしていたの!?」
「え……ええと……」
 考えた。苦しかったような気がする。そう、たしか、おぼれていたはず。
 それを聞くと納得したようにトーラは頷いた。
「おぼれたときの精神的な衝撃で一時的に幽体離脱したのね? でも魂だけ今の私の星見に引かれてくるなんて、どういうこと?」
 そんなことはこっちが聞きたい。
「ええと……トーラ」
「なぁに?」
「私の……魂は今、ここにいるのだな? では……お前から見て、私の体は『いつ』の時代にある……?」
 それが問題だ。先ほどトーラがいったように、体と魂が時間を隔てて離れてしまったのだとしたら早く戻らないと生死に関わる。
 ヒスイはトーラの言葉を待った。星見の少女はじっとヒスイを……その魂を見透かしていたかと思うと首をゆっくりとひねる。分からないのだろうか。体はここにないはずなのに心臓がどきどきと早い鼓動を打っている気がした。
「ヒスイ」
 思わず、はい、と返事をした。教師に叱られる生徒の気分だ。
「あなたの体、いまから数えてうんと未来にあるわ。そう……今、生まれた人間の子供が大人になって、また子供をこさえているくらいには」
 軽い衝撃。一瞬、何年後だろうと計算しかけた自分がおかしかった。
 立ちつくすヒスイの目の前でトーラはなぜか、軽く両手を捧げる真似をした。見えない聖杯でもそこにあるかのようだった。そのトーラの両手の中に、数枚の札が中空から生まれて落ちる。細く優美な指先がそれをつまんでいった。
「……トーラ……?」
「占いよ。星見ではっきり見えないことでも、これなら命中率が落ちるかわりにもっと広いことが見えるの」
 すいと細められた藤色の瞳には、もう子供子供した光は映っていない。
 白い指が中空から生まれる札を拾い、めくる。占いの札を読んでいく。
「いいこと、ヒスイ? 迷子の鉄則は『動くな』よ。過去や異世界に現れたんじゃなければ、私たちの誰かがあなたを必ず迎えに行くわ。……ただし寿命の関係があるから全員がそろっていることは期待しないで」
 はらり、とトーラの手から読み終わった札がこぼれる。床に落ちるかと思われたそれは現れたときと同じように、足下に落ちる前に闇に吸い込まれて消えてゆく。
「……困難が待ちうけているみたい」
 占い師にこういわれて動揺するなという方が無理である。ヒスイは居住まいを正した。またひらりとトーラの手から札がこぼれ、そのときにはもう次の札をめくっている。ヒスイが初めてみるトーラの顔だった。
「行く手には新しい道。道は途中で二つに分かれている。どちらも選べないのに、どちらかを選ばないとならない状況」
 次々と札が落ちて、闇に吸い込まれた。最後の札をとったとき、トーラは盛大に顔をしかめた。
「トーラ……!」
 思わず祈るような声が出た。
 星見の少女本人はやっと顔を上げ、最後の札を手から放す。ひらひらと札は踊るようにして闇に消えた。
「最後の札はね、混戦模様。何を意味しているかなんて聞かないで。私にも分かってないんだから。ただ、どうやら私も巻き込まれるらしいってことは判明したわ」
 目だけで「何だと?」と問いかける。それ以上は本当にお手上げらしく、トーラは目を閉じて首を振った。
 そして、トーラは前触れもなくもう一度抱きついてきた。
「でも! それってつまり、私の運命はまたヒスイと重なるってことよね。私、必ず未来でもあなたの体を捕まえるわ」
「……トーラ?」
 柔らかな感触が腕の中にある。こんなにしっかりと分かるのに、今の自分が魂だけの存在だというのが信じられなかった。
「やっと気づいた。私は時間を移動するあなたの道しるべなの。私という存在を、夜空に輝く北極星のようにあなたが目印にできるよう。あなたがどこにいっても私だけは見つけられるように。そのための『星見』で、あなたの魂の双子なんだわ」
 トーラは微笑んだ。その微笑みをヒスイはかなり新鮮な目でみつめる。
 しばらくみないうちに少女は少し大人びたかもしれない。
「ヒスイ。もう行って。そして目覚めて。私の知らないところであなたが死んでるなんていやよ?」
「トーラ……お前は?」
 これからどうするのかと言外に問うと、やっとヒスイの知っているトーラらしい、幼さののぞく微笑みが返ってきた。
「そうね。しばらく眠ることにするわ。一人でそんなに長い時間を待っているの、つらいもの」
 トーラの言葉には多少の含みがあった。
 その含みには気づいたものの、何を匂わせているのかまではヒスイは思い至らず、ただ表面上の言葉に頷くだけにとどめる。
「じゃ……また会おうな、トーラ」
「うん」

 目の前が光に変わる。夢からの目覚め。そしてトーラの作る空間からの離脱。
「トーラ。私の魂の双子。絶対また会えるから!」
 いつかお前から生まれる命が、未来で私を助けてくれたよ。
 ヒスイは言いかけた言葉を飲み込んだ。

   ***

「行っちゃった……」
 トーラは見送るため振っていた手を力無く下ろす。
 微笑みもそれと同時に薄く曇る。
 やっと会えた、懐かしいひと。誰よりも大切な双子の「姉」。妖魔は魂がそのままむき出しになっているような存在だから、魂のつながりは人間でいう血のつながりと同じくらい深くなる。
「魂だけでも会えてよかった。いつヒスイと再会できるか、めどが立ったもの」
 出口の見えない苦難の道はとても苦しい。セイを追いかけて飛び出してから、トーラはずっと孤独だった。
 分かっていたことだけれど、セイが後ろをついてまわるトーラを気にかけたことは一度もなかった。ただ前だけ見据えてヒスイを探し回っていた。狂ったように、というのはああいうことかもしれない。
 トーラは、消えてしまったヒスイの姿を目で追うようにして語りかける。そこにもうヒスイはいないのに。
「ねぇ、ヒスイ? 一人は寂しいわ。私もセイも、一人で待つのにとても疲れてしまった」
 セイと二人で同じ場所に立っていても、心は寄り添うことはなく独りきり。だからトーラは自然と彼とは別の旅路をたどることになった。同じ場所にいようといまいと孤独には違いないのだから。妖魔は元々群れで生きるものではないから孤独が普通なのかもしれないが、それが人間に近い場所で育ったトーラには寂しくて仕方ない。妖魔が人間に惹かれるのは、もしかしたら寄り添いあえる彼らがうらやましいからなのかもしれない。
 トーラは先ほど占いに使った札を一枚、また中空からとりだした。ひとつだけ引っかかる札が出たのだ。
「分かんないのは、これね。あのヒスイから一体どうやったら恋愛の札なんか出てくるわけ?」
 これだけは思わず、意図的に存在を隠してしまった。
 セイのことだ。トーラの精神からヒスイと接触した痕跡を見つけて押し掛けてくるかもしれない。もしそうなってもセイには起こせないくらい深く眠ってしまおう。そうすればこの札の存在を口にせずとも済む。
 トーラでは決してセイを振り向かせることはできない。そんなこと最初から分かっていた。ちくりと痛むものを抱え込んで、そのままトーラは星見の空間に沈んだ。眠る。深く、深く。空に再び予言の星が輝くその日まで。

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