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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第三節第一項(100)

 希求

 その島は空と海に抱きすくめられていた。
 周囲を抜けるような青が支配する。空はどこまでも濃い青、海はそれを写して更に明るく深い色を醸し出していた。その中間に挟まれた島は太陽の恵みを受けてどこまでも鮮明な緑に輝いている。これで広がる白い砂浜があれば完璧だった。
 空の上には南のぎらついた太陽が照りつけている。
 ――ヒスイが現れたのはその島のはるか沖合いだった。

 1.

 転移した直後、呼吸する仕草で思いっきり吸い込んでしまったのは空気ではなく水だった。それも濃い塩水だ。
(……!?)
 ちょっと水を飲むというレベルではない。思いっきり飲み込んでしまった。
 体にまとわりつくのは空気ではなくて水。青くゆらめく視界に映るのは珊瑚礁。現状を認識するのに時間はかからなかった。
(しまった……!)
 老人の言葉をいまさらながらに思い出す。
 転移の際は気を付けろ、と。場所を少し間違えれば死んでもおかしくないぞと脅されたがヒスイは注意していなかった。
 よりによって海のまっただなかに転移してしまったらしい。おそらくちゃんと「水に入る」と認識して飛び込めば気持ちのいい海なのだろうが、今はそんな余裕などまったくなかった。
 ヒスイの体を取り巻いていた北国の空気は暖かな南の海ですべて泡となって上昇する。その泡の真ん中でヒスイはもがき続けるしかなかった。体は自分の思ったように動かない。水が入ってきて鼻と耳が痛い。なにより肺の中にたっぷり空気をたくわえることなく水の中に移動したのだから呼吸ができなかった。おぼれる、と、頭で考えるより先に体が動いて手足をばたつかせる。必死になって水をかいていた。泳げるはずなのに、肝心なときに体がうまく動かない。ヒスイの体はちょうど大陸棚の中ほどにあった。海底に足がつかない。水面が遠い。突如のようにあがくしかなかった。
 かすむ視界の中、なんとか体は泡と共に海面近くまで浮かび上がる。
「……!」
 思いっきり息を吐きながら水から顔を出した。だが新鮮な空気を捕らえきれないうちに、すぐ波をかぶって再び水の中に押し込まれてしまう。水の入った耳は音をうまくとらえることが出来ず鼓膜の奥で耳鳴りがしていたし、鼻からはまた水が容赦なく入ってきた。肺の中にまで水が入り込み、むせて満足に呼吸することさえままならない。
 苦しい。
 痛い。
 なにより、体が思うようにならない憤り。
 目の前は照りつける太陽でなぜか赤く見えた。
 どれくらいそれを繰り返しただろう。
 必死にかき続ける手はやっとその先に水以外の確かなものをかすめた。
 何かの貝類がびっしりと貼り付いた大きな岩だと分かる。波に砕かれた貝類の殻は鋭く、触れただけで血がにじんだ。が、手に傷ができることもかまわずヒスイは必死でそれにしがみつく。すでに意識は遠くなっていた。
「だれが、こんなところで……」
 死んでたまるものか。
 ただよっていた体をしっかりとつなぎ止め、荒い息を吐きながら息の代わりに水を吐く。視界がぐらぐらする。
 意識がさらに遠くなる。まずい、とヒスイは手に出来るだけ力を込めた。何がなんでも、ここで岩から手を離すわけにはいかない。ここで手を放してしまえば、誰も助けにこない海でおぼれ死ぬかもしれない。手に出来た浅い傷に海水が染み込む痛みがかろうじてヒスイの自我を支えてくれた。
 しかし、小さすぎる傷の痛みに慣れるのは、すぐ。ヒスイはいつしか気を失っていた。

 満ちていた潮はそのうち、月に呼ばれて彼方へと引いていく。
 広大な海に比べてヒスイの体は小さい。意識を失った手は岩を離れ、戻ろうとする海に引っ張られていった。

   ***

 この島を楽園と島の人間は呼んだ。
 海に恵まれ、空に愛され、青に抱かれた緑の島。この島にいる人間の中でそれを快く思わないのは、ある一人の男だけだろう。その男は黒髪に褐色の肌と、島の人間の特徴を備えていながら決してここの「楽園」の雰囲気に馴染もうとはしない何かがあった。

「今日はやけに鳥たちがさわぐな」
 みゃうみゃうと、猫のように鳴く白い鳥が青い空に円を描いている。その鳥の鳴き声に誘われるように男は木々をかき分け歩を進めていた。
 普段島民が近寄らない南の岩場で土左衛門を見つけなければ、男はそのまま通り過ぎていただろう。
 男は駆け寄った。海では人間すべて平等だ。例えそれが善人でも悪人でも海は差別しない。おぼれた人間を、無事な人間は助ける義務がある。いや、助ける権利があるといったほうがいいかもしれない。男は荒れた岩場を軽々と駆け下りる。左肩にかけた赤い布の肩掛けがひるがえった。
 この島を取り巻く潮流の関係で、ほとんどの漂流物は北側の海岸に集まる。この岩場に流れ着くこと自体何かおかしいのだと、頭では知っていたが思い出している暇はなかった。
「おい、生きてるか!」
 若い女だった。一目でここらの人間ではないとわかる象牙色の肌。岩のひとつに貼り付くようにして倒れていた。首筋に指をあて、軽く押さえる。脈はあった。意識は失っているらしいが息はある。
 顔立ちのきれいな女だ。細い手足、まっすぐな黒髪。女の髪をつかむようにして、うつぶせに倒れていたのを乱暴にひっくり返した。首を横向け、女の胸に目をやる。男は眉宇をよせた。
「……薄い胸だな。つまらん」
 本人が聞いたら怒りそうなことを、男は平然と口にした。濡れた服地がぴったり貼り付いて、素のままで見るよりもくっきりと体の線をあらわにしている。たとえ少々胸が薄くてもその光景はそれなりに扇情的だった。
 男は彼女の左の胸に手をやる。
 傍目から見る者があれば男の行動はただの好色にしか見えなかったかもしれないが、その行動にはちゃんと理由があった。
 彼は右手の指に力を加えて、女の胸のその下、肋骨をさぐった。
「このあたりか?」
 押さえた右手のその上に、左手をそえる代わりに男は自分の膝をいれる。力をこめて胸を押すと音を立てて女が口から水を吐いた。
 そうやって何度か水を吐かせると男は自分の左肩から肩掛けをはぎとった。黒ずくめの服の中でやけに目立つ赤い色である。初めて会った人間ならすぐそこに目がいくくらいに。
 あらわになった男の左肩は、ひじより先がなかった。
 彼は隻腕だったのだ。
 風で飛んでしまわないように肩掛けをしっかりと足で踏む。男は残った腕一本と肩をうまく使い、右腕一本で女を右肩の上に担ぎ上げた。彼にはそうするのが一番丁寧な扱い方だった。
 彼は女を担ぎ上げ、濡れた体を隠すようにしてその上に赤い肩掛けをかぶせるとその場を後にした。

 岩場を抜け、広がる熱帯の森をさらに抜けると村があった。
 彼の目的の家はその中でも村のはずれだ。そこなら、おぼれた女を運び込んだことを他の人間に見られることはないだろうと男は考える。
「おい、いるか」
 家の前でドンドンと扉を叩く。足でだ。だから響くのは扉の下の方でだった。
「おい!」
 ドン、とついには扉を蹴破った。
 男の強い力によって蹴り破られ、扉はむなしい音を立てて男に室内に入ることを許した。
 薄暗い室内には独特の匂いが広がっていた。薄暗いのは室内の暗さに男の目が慣れていないせいもあるが、それ以前にこの家の窓はほとんど閉め切られているからである。入り口付近には目立つところに干からびた蛙やイモリがぶら下がっていた。匂いの元はこれらである。男はそれを不気味そうによけて室内を見渡した。
 そのとき、奥から声がした。
「……扉を蹴破るなと、何度いったらわかるんだ、てめーは」
 くぐもった声だ。女を担いだまま、男は「いたのか」とほっとした声をあげた。
「手伝ってくれ、レイガ。ちょっと珍しい拾い物をしたんでな」
「あん?」
 とぼけた声が奥から響いた。あやしげなものばかり置かれた棚の奥から、ひょこりと家の主が顔を出す。この薄暗い部屋の中で、レイガと呼ばれた男はさらに頭からすっぽり頭巾をかぶっていた。
「あんだよ。何を拾ってきたって?」
 レイガは男にそう聞きながら、男の前を素通りしてそのまま入り口の扉に近寄ってぱたんと閉めた。蹴破られたあとから燦々と外の光が入ってくる。レイガは頭巾の下で小さくため息をついた。
「……たく。今度という今度は修理代よこせよ」
「あー、そのうちな」
 払う気はない、と明言している声で男はいった。意図は伝わったようでレイガはがっくりと肩を落とす。それからようやく、彼は男が担いだ「それ」を見た。
「……女?」
 ずっと室内にいたレイガはすぐに男の肩に担がれたそれが何であるか分かったらしい。暗闇に目が慣れていない人間ならただの荷物の固まりに見えてもおかしくはなかった。
「ああ。南の岩場に引っかかってた」
「そりゃ、ちと妙だな」
 そらとぼけた声を出して、けれど、レイガは寝台に近寄るとばたばたと寝具を払って空気を含ませた。
「ほれ、ここに寝かせろ」
「このままでいいのか? こいつ、海にいたから濡れ鼠だぜ?」
「ああ……しゃあねぇ。ちょっと待ってろ」
 そういうと、レイガは怪しげな棚の裏に入ると手にむしろを持って舞い戻ってきた。地べたに直接それを広げる。
「この上に寝かせてやれ。ったく、コゥイはおれ様んところに面倒しか持ってきやがらん」
 レイガの愚痴を、男――コゥイはふてぶてしい笑みを返すことで応じた。
 出来るだけゆっくりとコゥイは腰を落とす。担いだものを荷物のようにどさりとおろせるなら簡単なのだが、まさか女の体をそう扱うわけにはいかない。よっておろすときの方がはるかに神経を使うのだが、ここにいる間はレイガが手伝ってくれる。濡れ鼠になった女は丁寧にむしろの上に寝かせられた。
「塩水に浸かったんじゃ服はすぐ駄目になるな。これ全部脱がして捨てろ。片腕で出来るか?」
「まかせろ。女を脱がすのは得意だ」
「待たんかい。頼むからおれ様ん家で素人の女に手ぇ出すなよ……?」
 ため息混じりにレイガはコゥイを軽くにらんだ。
「今、お湯わかすからな。だいたい、なんでおれ様んところに連れてきた? 馴染みの女のところにでも行けばよかったんじゃないか? うちは野郎の一人暮らしだってのに」
 とレイガがいったが、コゥイはけろりとして答える。
「俺の馴染みったら商売女しかいないからな。この女をそういうところに連れて行きたくなかったんだよ。かといって船乗り仲間んところに連れていったら、俺の知らないところで食われている可能性が高いからな。俺の知り合いで女に興味のない変態なんてのは、お前しかいなかったって寸法だ。あきらめろ」
 深いため息がレイガから漏れたがきれいさっぱり無視した。
 頭巾を頭から被り顔を隠したこの男は一種の世捨て人だった。人間の三大欲求のうち食欲と性欲はどこかに捨ててきたかと思うほど興味を示さない。こういう厄介を持ち込んでも女の無事を保証できる人間は、コゥイには彼しか思い当たらなかった。
 そのレイガはというと、部屋中につるしてある何かを適当に手に取るとそれを奥に持っていった。それらは直接強い光をあてないほうがいい材料なのだという。一通りを回収し終わると片っ端から扉の窓をあけていった。
 南国の強烈な日の光が外から入ってくる。内に籠もるのが好きなレイガと違ってコゥイは外の空気が好きだった。明るい光がはいってくるのにほっとする。

 湯が沸いた。
 明るくなった室内で女の細い体を拭いてやる。ここはぽつんと離れたところにある一軒家だからだれかに覗かれる心配もない。肩口で切られた黒髪からも水滴をぬぐって、裸のまま女は寝台に寝かされた。
「手足が冷たいのが気になるな。コゥイ、湯たんぽの代わりになる気はないか?」
「他にどんな予定があってもその役目を誰かに譲る気はないな」
 唇をゆがめてコゥイは笑った。
 自分もさっさと服を脱いで寝台にあがり、彼女の隣に横になる。薄い毛布で女の体をくるむと一本きりの右腕を絡ませた。
 彼女の青ざめた顔色はまだ戻らない。
 その白い顔にそっと指をはわせながらコゥイは微笑んだ。
「なぁ……どこの女だろうな? お前と同じか?」
 ここは南に位置する島。島の周囲の人間はみな褐色の肌をしている。それに髪の色も、艶のない縮れた黒髪は多いがこんなにまっすぐな艶々した黒髪はない。長くのばせばさぞ美しかろうにどうしてこんな無惨に切り取っているのか不思議に思う。瞳を開いたらそこには何色が広がっているのだろう。そんなことを思いながら彼女の頬に唇をはわせる。
「……。だからな。あんまりそーいう真似をするなというに」
 レイガは男が脱いだ服を拾いながら、あきれたような声でいう。独り言に近かった。
「コゥイ。そいつな……」
「ん?」
「多分、大陸の東の人間だ。なんでこんなところにいるのかは知らんが」
 レイガは頭巾をあげる。真っ先に黄色い髪の毛がその下からこぼれた。島の人間にこの色はまずあらわれない。続いて、まだ若い細面の白い顔が出てくる。レイガは島の人間ではなかった。くしゃくしゃになった檸檬(レモン)色の髪は櫛を通せば波打つ淡い金髪になるだろう。白い顔、その中央にすっきりと通った鼻筋、小さくつぐまれた口。ただ一カ所を除けば十分美男で通じる顔立ちなのだろうが、その一カ所が問題だった。瞳の形が極度の垂れ目で、そのせいで全体の雰囲気をこれ以上なく間抜けさ漂うものにしていたのである。一度見たならおそらく一生忘れることのない個性的な顔立ち。そのせいでレイガは普段、顔を隠しているのだが。彼が顔を隠すのにはまだ訳があった。
「なぁ、レイガ。この女、目が覚めたらどういう反応をすると思う?」
「あん? なんだよ、随分気に入ってるみたいだな?」
「ん、まぁ」
 曖昧に濁してコゥイは笑った。
「……俺らを見て化け物とののしるかな?」
 さあな、とレイガは答えた。それ以上何か気にするふうでもない。

 化け物、と。
 島の人間にだって最初はそういわれていた。だから、どこにも共通点はないように見える自分たち二人は気が合うのかもしれない。
 二人は普通、人間には現れない瞳の色をしていた。そのことからよく妖魔に間違えられ恐れられたのだが……れっきとした人間である。

 レイガの目は右が群青色、左は焦茶色だった。
 そして、コゥイの両目は人間なら絶対に出ないはずの、鮮やかな赤なのである。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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